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遺伝子の発見 

メンデルの法則と染色体

図1.メンデル(Gregor Johann Mendel, 1822-84)

図2.フレミングが細胞核に発見したクロマチン(黒い桿状構造) [1] .その後,染色体と呼ばれるようになった.

髪や目の色など,生物の性質が次の世代に遺伝することは古くから知られていたが,そこに一定の法則があることを見出したのが,メンデル(Gregor Johann Mendel, 1822-84)である(図1).メンデルはオーストリアの修道士であったが,1865年,小学校の理科の教科書にも登場する,エンドウマメの交配実験から「メンデルの法則」 を導き出した.当時はほとんど注目されなかったが,1890年代末,ドイツの3人の生物学者ド・フリース(Hugo Marie de Vries),コレンス(Carl Erich Correns), チェルマク(Erich von Tschermak)が,いずれもメンデルの論文を知らずに独自に同じ結論に達し,1900年に同じ雑誌に報告した,これは「メンデルの法則の再発見」 と言われ,これを機にメンデルの業績が広く知られるようになった.

メンデルの法則から,遺伝情報を担う遺伝物質の存在が推測されたが,その局在は不明であった.現在の知識でいえば,遺伝物質は細胞核内の染色体に存在する.染色体は,1882年にドイツの細胞学者フレミング(Walther Flemming, 1843-1905)により発見された(図2).フレミングは当時新たに発見されたアニリン色素による細胞染織法を研究していたが,これによって細胞核内に濃染する構造をクロマチン(chromatin, 染色質)と名づけ,これが細胞分裂時に糸状になって分裂することも記載し,これを有糸分裂(mitosis)と呼んだ.同時に減数分裂(meiosis)についても記載している.染色体(chromosome)という名称は,1888年にワルダイエル(Heinrich Wilhelm Waldayer, 1836-1921)*が初めて使用した

* ワルダイエルは,神経細胞の基本単位としてニューロンという言葉を初めて使用し,ニューロン説を唱えたことでも知られる.ワルダイエル咽頭輪に名前が残る.

メンデルの法則と染色体を結びつけたのが,アメリカの生物学者サットン(Walter Stanborough Sutton, 1877-1916)である[2].1902年,サットンはバッタの減数分裂を観察し,この時の染色体の挙動がメンデルの法則に従うことを発見し,遺伝物質が染色体上にあることを示唆した.さらにアメリカの生物学者モーガン(Thomas Hunt Morgan, 1866-1945)が,主に1910年代に行なったショウジョウバエを使った一連の実験で,突然変異,連鎖,組換えなど様々な遺伝現象を発見し,ここから染色体が遺伝物質の担体であることを実証した[3].また,モーガンは遺伝子*が,染色体の中にばらばらに分布するのではなく,直線状に配列していることを理論的に予測した.しかし遺伝物質の本態は不明であった.

* 遺伝子(gene)という呼称は,1909年にデンマークの植物学者ヨハンセン(Wilhelm Ludvig Johannsen, 1857-1927)が初めて提唱した.表現型(phenotype),遺伝子型(genotype)という表現を使ったのもヨハンセンである.

核酸

図3. 核酸.塩基(この例はアデニン,赤い部分)と五炭糖,リン酸からなる.

現在の知識でいえば遺伝物質は核酸である.核酸の歴史は,1869年にスイスの生化学者ミーシェル(Friedrich Miescher)が白血球の細胞核から,リンと窒素を含む物質を抽出し,これをヌクレイン(nuclein)と名づけたことに始まる.1889年,ドイツのアルトマン(Richard Altmann)はヌクレインをさらに分析し,蛋白質を除去したものを核酸(nucleic acid)と命名し,DNA(デオキシリボ核酸),RNA(リボ核酸)を区別した.さらにドイツの医学者コッセル(Albrecht Kossel, 1853-1927)は,1885年から1894年にかけて,4つの核酸塩基グアニン(G),アデニン(A),チミン(T),シトシン(C)を次々と同定した(1910年 ノーベル生理学・医学賞受賞)(図3).しかし,遺伝物質が蛋白質か,核酸かという疑問に対する答えはなく,どちらかといえば蛋白質であるとする考えが優勢であった.

1928年,イギリスの細菌学者グリフィス(Frederick Griffith, 1879-1941)は,肺炎球菌に病原性のS型と,病原性のないR型があることを利用し,S型の病原性をR型に移動できることを示して,これを形質転換因子 (transforming princple)と名付けた[1]*1.1944年,アメリカの内科医エイヴリ(Oswald Theodore Avery, 1877-1955)は,蛋白質分解酵素で処理しても形質転換はおこるが,核酸分解酵素で処理するとおこらないことから,形質転換因子は蛋白質ではなく核酸すなわちDNAであると結論した[2].さらに1952年,アメリカの細菌学者ハーシー( Alfred Day Hershey, 1908-97)およびチェイス(Martha Cowles Chase, 1927-2003)は,細菌に感染するウィルスであるバクテリオファージを使った実験で,遺伝子は核酸(DNA)であることを証明した[3]*2

*1 病原性のあるS型菌を加熱して病原性をなくし,非病原性のR型と混ぜてマウスに注射すると肺炎がおこり,そのマウスから生きたS型菌が採取されることから,死んだS型菌からなんらかの物質がR型菌に移行したと考え,こえを形質転換因子と名づけた.

*2 バクテリオファージは,大腸菌に感染して菌内で増殖するウィルスで,蛋白質と核酸から成る.ハーシーらは,蛋白質の硫黄原子(S),核酸のリン原子(P)をそれぞれ放射性同位元素で標識したファージを大腸菌に感染させ,大腸菌内にはリンだけが検出されることから,ファージの遺伝情報が核酸にあることを示した.

  • 1. Griffith F. The Significance of Pneumococcal Types. J Hygiene 27:113–159,1928
  • 2. Avery OT, MacLeod CM, McCartyM. Studies on the chemical nature of the substance inducing transformation of pneumococcal types: Induction of transformation by a deoxyribonucleic acid fraction isolated from pneumococcus type III. J Exp Med 79:137-58.
  • 3. Heshey AD, Chase M. Independent functions of viral protein and nucleic acid in growth of bacteriophage. J. Gen. Physiol. 36:39-56,1952
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二重らせんモデル

図4. 分子模型を前にするワトソン(James Watson, 1928-)(左)とクリック(Francis Crick, 1916-2004)(右) [PD]

こうして,遺伝子が細胞核の染色体に存在するDNAであるところまで分かったが,遺伝情報がどのようにDNAに反映されているかは依然として不明で,1950年代には多くの研究者がこの謎に取り組んでいた.ロンドンのケンブリッジ大学の科学者ウィルキンス(Maurice Wilkins, 1916-2004)もそのひとりで,当時の最新技術,X線回折法がDNAの構造解析に有望と考え,X線回折法の専門家フランクリン(Rosalind Franklin, 1920-1958)と共同で研究を進めていた.

一方,同じケンブリッジ大学のキャベンディッシュ研究所では,ウィルキンスの友人でもある物理学者のクリック(Francis Crick 1916-2004)とアメリカの生物学者ワトソン(James Watson, 1928-)も,DNAの構造を研究していた.彼らの方法は,金属板の立体分子模型を組み立て幾何学的に最適な構造を求めて試行錯誤するもので,本来の化学研究からいえば邪道ともいえる方法であったが,もともと化学者ではなかった二人は,既存の方法にとらわれることなく直截な研究法を採用していた.ワトソンとクリックは,DNAの構造が分子のらせん構造であると推測したが,最終的な詰めを欠いていた.しかしある時,ウィルキンスが,フランクリンが撮影したX線回折像を二人に見せたことから,二重らせんであることを確信した*1

図5. ワトソン,クリックが論文中に示したDNAの二重らせんモデル [1]

1956年,ワトソン,クリックはこれを論文に発表した(図5).わずか1頁,900語の論文であるが,医学史上最も重要な論文といわれている.ウィルキンスとフランクリンの論文は,同じ雑誌に同時に掲載されており,X線回折のデータはワトソン,クリックの結論を裏付けるものであるとしている.

明らかになったDNAの基本構造は,化学的に反平行な2本のらせん構造で,それぞれ外側にリン酸五炭糖,内側に塩基(A, T, C, G)があり,塩基はそれぞれAとT,CとGが水素結合で結ばれて一対一に対応する塩基対を形成する,というものである*2.塩基対の組合わせが固定しているため,細胞分裂に際して1本のDNA鎖からこれを鋳型として新たなDNA鎖を正確に複製することができ,これにより遺伝情報が伝わる自己複製仕組みを説明できる.さらに1958年,クリックはDNAの塩基配列情報が,RNAを介してアミノ酸の配列に翻訳され,蛋白質を合成するという「セントラグドグマ」(cetral dogma) を明らかとした.これにより分子生物学,分子遺伝学の基礎が築かれ,以後基礎医学はもちろん,臨床医学も遺伝子ぬきに語ることはできなくなった.

*1 DNAの二重らせん構造発見を巡っては,ウィルキンスとその共同研究者フランクリンは不仲で難しい関係にあり,またワトソンークリック組と,ウィルキンスーフランクリン組の関わりについても複雑な事情があった.これについては後年,ワトソンがその著書 Double Helix [2]で研究の内幕を赤裸々に描いて反響を呼んだ.フランクリンは論文発表の2年後,1958年に卵巣癌で亡くなり,1962年のノーベル生理学・医学賞は,ワトソン,クリック,ウィルキンスが受賞した.

*2 1950年,すでにアメリカの生化学者シャーガフ (Erwin Charfgaff, 1905-2002)が,DNA中のAとT,CとGの量がそれぞれ等しいことを発見していた(シャーガフの法則).当時,その理由は不明であったが,この塩基対構造から説明できる.

  • 1. Watson JD, Crick FHC. Molecular structure of nucleic acids - A structure for deoxyribose nucleic acid. Nature 171:737-8,1953
  • 2. Watson JD. The double helix. (Atheneum Press, 1968)