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病理学の誕生

モルガーニの病理解剖学

図1. (左)病理解剖学の父といわれるモルガーニ(Giovanni Battista Morgagni, 1682-1771).(右) その著書は18世紀の最も優れた医学書と言われた.

ルネサンス以降,ヴェサリウス,ハーヴェイらの登場により,解剖学や生理学は格段に進歩したが,臨床医学本来の目的である病気の治療という点では全くの力不足であった.その一因は,病気のメカニズムについての研究がまだ不十分であったことが挙げられる.つまり,現在でいう病理学がまだ存在しなかった.

病理学の最も基本的な方法論は病理解剖,すなわち病死した患者を解剖してその原因を肉眼的に確認することにある.イタリアのパドヴァ大学の解剖学教授だったモルガーニ(Giovanni Battista Morgagni, 1682-1771)(図1)は,病理解剖学の父とされる.それ以前も散発的に病死体の解剖が行われていたが,系統だったものではなかった.横隔膜のモルガーニ孔,モルガーニヘルニアにその名が残る解剖学者としても多くの業績があるが,モルガーニはその後半生を病理解剖に捧げた.そして1761年,80歳の時に著した「解剖によって明らかにされた病気の座と原因について」は,600以上の症例を部位別に配列し,その臨床像,剖検所見を詳しくまとめたものである(図1).この本には図版が1枚もないが,平易に読みやすく書かれており,巻末には症状・疾患別,剖検所見別,その他の,3つの詳しい索引が付されている.18世紀の最も優れた医学書とも言われる.

書名が示すように,モルガーニは病理解剖によって,特定の症状,特定の病気では決まった場所に同じ変化があることを明らかにした.片麻痺の病変が対側にあること,劇症肝炎で肝が高度に萎縮することなども初めて記載されている.

組織学の父ビシャ

図3. 組織学の父 ビシャ(Marie François Xavier Bichat, 1771-1802)

モルガーニが確立した病理解剖学は,剖検によって心臓,肺,肝臓などの臓器を肉眼で観察し,その大きさ,色調などを観察する方法,現在でいうマクロ病理学であり,その対象は臓器であった.これをさらに,各臓器を構成する組織のレベルまで推し進めたフランスのビシャ(Marie François Xavier Bichat, 1771-1802)である(図2).ビシャは,600体以上の解剖を行い,「一般解剖学」で21種類の「組織」を分類した.これには神経組織,血管組織,骨組織,線維組織,細胞組織などがあり,病気はこの組織の範囲内に起こる,組織の組み合わせが臓器となると唱えた.まさに組織学の礎石とも言える理論で,ビシャは組織学の父とされる.注目すべきことは,ビシャは顕微鏡を一切使わずに仕事をしたことである.この時代,顕微鏡は既にあったが,まだ広く一般に使われるには至っていなかった.

顕微鏡を使った初めての組織学の教科書を著したのは,腎のヘンレ係蹄に名前がのこるスイスのチューリッヒ大学の解剖学者ヘンレ(Friedrich Gustav Jacob Henle, 1809-85)である.その「一般解剖学」(1841)では,上皮組織の概念が初めて導入されている.現在のような体系的な組織学をつくったのは,ヘンレの弟子でその後任となったケリカー(Rudolf Albert von Kölliker, 1817-1905)*で,その著書《Handbuch der Gewebelehre》(組織学ハンドブック)(1852)は初の本格的な組織学の教科書とされ長く読みつがれた.現在のように上皮を単層/重層,扁平/円柱に分類したのもケリカーであった. 

*ケリカーは,その後ヴュルツブルグ教授となり,1896年1月のヴュルツブルグ医学会でレントゲンがX線発見を初めて報告した際には,デモンストレーションとしてケリカーの手を撮影した.ケリカーはレントゲンの発見を賞賛し,X線をレントゲン線と呼ぶことを提唱している.  

ウィルヒョウの細胞病理学

図4. (左)ウィルヒョウ(Rudolf Virchow,1821-1902).(右)著書「細胞病理学」の付図.様々な細胞が描かれている.

臓器,組織と精度を高めてきた病理学をさらに進化,深化させ,病気を細胞レベルで分析したのがドイツのウィルヒョウ(Rudolf Virchow,1821-1902)である(図4).ウィルヒョウは,四体液論に支配された従来の病理学を徹底的に批判し,生命の主座は細胞にあり,その細胞機能が変調を来す結果,その集合体である組織,臓器に病変が発生すると考えた.これはまさに現在の病理学の基本となる考え方である.1858年に出版された「細胞病理学」(Cellularpathologie*)は,その20回にわたる連続講義を収めたもので,各国で翻訳されて長らく病理学のバイブルとなった.ウィルヒョウはこの中で,「すべての細胞は細胞より出ずる」として,細胞説を確立した(→関連事項:細胞説).

ウィルヒョウはその生涯に2,000編を超える論文を著しており,その業績は極めて多岐にわたる.例えば,腫瘍病理学という分野を築いたのもウィルヒョウである.従来の体液論では,癌は全身的な体液の異常によるものとされていたが,ウィルヒョウは「腫瘍は細胞の突然変異により発生し,無限に増殖して宿主を死に至らしめるもの」と定義した.このほか,血栓症が血液凝固異常によるものであることを発見し,血栓症,塞栓症という言葉を作ったのもウィルヒョウである.

*正式な表題は 「生理的ならびに病的組織学に基づく細胞病理学 - 1858年2月,3月,4月にベルリン病理学研究所で行なわれた20講」(Cellularpathologie in ihrer Begründung auf physiologische und pathologische Gewebelehre, zwanzig Vorlesungen gehalten während der Monate Februar, März und April 1858 im pathologischen Institut zu Berlin).

関連事項

細胞説 - すべての細胞は細胞から

生命の最小単位は細胞であり,すべての生物は細胞から成るとする説を細胞説(cell theory)という.現在では生物学の基本であるが,これが明らかになったのは19世紀のことであった.

小部屋を意味する cell (細胞)という言葉を生物に対して初めて使用したのは,顕微鏡で様々な動植物を観察してアトラス「ミクログラフィア」を著したイギリスの科学者ロバート・フック(Robert Hooke, 1635-1702)で,コルクの表面に見える微小構造を cell と呼んだ.その後も植物で同様の構造が観察されたが,篩管など植物組織の一部を構成するものと捉えられていた.動物では,細胞という言葉は現在のような細胞とは異なる様々な意味で使われ,例えば前述のビシャも組織のひとつに細胞組織を挙げているが,これは現在の結合組織をさすものであった.

図5. シュワンの著書の付図.様々な組織の細胞が描かれている.

細胞を初めて現在のような意味に捉え,細胞説の創始者とされるのは,ドイツの植物学者シュライデン(Matthias Jakob Schleiden, 1804-81)と,神経細胞のシュワン細胞にその名前が残る動物学者のシュワン(Theodor Schwann, 1810-82)である.シュライデンは1838年に植物組織で,シュワンはその翌年1839年に動物組織で細胞説を唱えた*1 (図5).しかし,細胞の由来についてはいずれも大きく誤っていた.すなわちシュライデンは,細胞内で核小体の周囲に物質が凝集して「細胞芽」(cytoblast)が形成され,それが成長して細胞になると考えた.シュワンもシュライデンの説を継承し,さらに細胞外の間質でも「細胞芽質」(Blastema*2) が凝集して細胞が生まれるとした.

ウィルヒョウは,その細胞病理学(1858)で,「すべての細胞は細胞から」(ominis cellula e cellula)と唱え,細胞は分裂することにより自己複製して増殖することを初めて明らかにした.やや遅れて,1861年にフランスのパスツールも《自然発生説の検討》で微生物自然発生説を否定している.当時既に細胞分裂は様々な細胞で個別に観察されていたが,その意義は必ずしも明らかではなかった.こうしてウィルヒョウは,細胞説を完成させた.

*1 シュライデンとシュワンは互いに交流があり,直接,間接に意見を交換し,それぞれの細胞説を 《Schleiden MJ. Beiträge zur Phytogenesis, 1838》(植物発生学論考),《Schwann T. Mikroskopische Untersuchung über die Übereinstimmung in der Struktur und dem Wachsthum der Thiere und Pflanzen, 1839》(動物および植物の構造と成長の一致に関する顕微鏡的研究)に著した.細胞説(cell theory)という用語を初めて使ったのもシュワンであった.

*2 Blastema(芽体):現在では,臓器の発生源となる原始細胞塊を指して使われるが,歴史的には細胞間質にある非細胞性粘液物質などとされ,種々の細胞や癌細胞の発生母地とされていた[1]. 

  • 1. Hajdu SI. A note from history: Landmarks in history of cancer, Part 3. Cancer 118:1155-68,2012


顕微鏡の発明

図6. フックが作った複式顕微鏡.左下は蝋燭光源 [PD]

近代医学の発展 ,特に病理学,細菌学の発展は,顕微鏡の存在なしには考えられない.凸レンズの拡大効果は,既に11世紀前後のアラビアで知られており,13世紀には眼鏡も作られていた.しかし,接眼レンズと対物レンズを備えた複式顕微鏡を初めて作ったのは16世紀末,オランダの眼鏡技師のヤンセン父子(Hans & Zacharias Jansen)とされる.そしてこれを最初に生物学に応用したのは,バネの法則に名を残すイギリスの科学者フック(Robert Hooke, 1635-1703)であった(図6).フックは,自ら製作した顕微鏡で,昆虫,植物の葉や茎,衣類の繊維などを観察し,図譜「ミクログラフィア」を出版した*

* フックは,顕微鏡でコルクを観察し,微小な隔室構造を cell (小さな部屋の意)と呼んだ.これは後に細胞を表す言葉となった.実際にフックが乾燥したコルクで観察したのは,細胞壁構造であったと思われる.

図7.レーベンフック (Antonie van Leeuwenhoek, 1632-1723) [PD]

図8. レーベンフックの顕微鏡.A: レンズ,B: この先端に試料を置く,C: ピント調節ねじ [PD]

図9. レーベンフックが観察した微生物.

図10.カールツァイス社の顕微鏡 (1857年) [3]

ちょうどその頃,海を隔てたヨーロッパ大陸で,やはり顕微鏡に魅せられていたのがオランダ人,レーベンフック(Antonie van Leeuwenhoek, 1632-1723)である(図7).レーベンフックは,デルフトの裕福な毛織物業者で,科学にはまったくの素人であった.レーベンフックがどのように顕微鏡に関心を持ったのかは定かでないが,仕事の上で織物の糸目を観察するためルーペの扱いは心得ていた.フックの「ミクログラフィア」を目にした可能性もある.レーベンフックは手先が器用で,自らレンズを磨いて顕微鏡を作り上げた.顕微鏡といっても1枚のレンズだけの単式顕微鏡で,今で言うルーペである(図8).しかし,フックの複式顕微鏡よりずっと高性能で,最大倍率266倍でであった.

レーベンフックも初めは昆虫や植物を観察していたが,1675年のある日,屋外の樽に溜まった雨水をのぞいたところ,そこに見たこともない微小な生物が無数にうごめいていることを発見した.これは,人類が初めて目にした微生物であった.彼はこれを微小動物(animalcule)と名づけた(図9).レーベンフックはこの他にも,血管を流れる赤血球,精子の動きなども観察している.歯垢の中に無数の微生物を見出し,歯磨後でも自分の口の中にはオランダの全人口より多くの微生物がいる述べ,歯を磨く方が良いと提案している.学者でなくラテン語の論文も書かないレーベンフックのこれらの発見は忘れ去られるはずのものであったが,オランダの解剖学者,グラーフ卵胞に名前が残るグラーフ(Reinier de Graaf)がたまたまこの事を知り,イギリスのロンドン王立学会(Royal Society of London)に報告した.王立学会は何か新しい発見があれば手紙を書くように奨め,レーベンフックは気が向くとオランダ語で手紙を書き,学会がこれをラテン語に翻訳して学会誌に掲載された.レーベンフックは90歳で没するまで自著は一つもないが,学会に送った190通の手紙がその業績を伝えている.

レーベンフックの微生物発見の報は,イギリスの科学者に大きな衝撃をもたらした.彼らも当時の英国で最も優れた複式顕微鏡を使い,様々な方法で雨水を観察したが微生物はみえず,顕微鏡の第一人者フックにも追試を依頼したが,やはりみえなかった.このためレーベンフックはペテン師ではないかとさえ噂されたが,1687年,フックがあらためて追試したところ雨滴中の微生物の観察に成功し,レーベンフックの報告が正しいことが証明された.

レーベンフックの顕微鏡が,広く知られるところとなると,多くの科学者が彼のもとを訪れた.また王侯貴族も外遊の折にデルフトの彼に家に立ち寄り,顕微鏡を覗かせてくれるよう懇願している.記録には,ロシアのピョートル大帝,プロシアのフリードリヒ大王,イギリスのジェームスⅡ世などの名前が見える.訪問者の多くが顕微鏡の提供を所望したが叶わなかった.レーベンフックは,顕微鏡の製作法や観察法を秘匿して,誰にもその方法を明かさず,記録も残さなかった.このため,高精度のレンズをいかに製作できたのか,現在も不詳である.顕微鏡そのものは残っているが,ただ単に鏡検してもレーベンフックの記録にあるような像は見えず,その観察法にも相当な工夫があったことは確実である.現在でいう暗視野法あるいは油浸法のような観察技術を駆使していたものと推測されている.

このレーベンフックの秘密主義のため,その後も長年にわたってこれを超える顕微鏡は製作されず,発見された微生物の知識もそれ以上に発展することはなかった.彼の死後120年を経た1846年,ドイツでカール・ツァイス社が創業し(図10),実用的な光学顕微鏡が市販されるようになって始めて,顕微鏡は医学に広く応用されるようになり,ウィルヒョウの病理組織学,コッホの細菌学が開花することになった.

光学顕微鏡の倍率は,通常の観察方法では400~600倍,特殊な方法を使っても1,500倍が限度である.細菌や細胞は,1~10μm程度なので,顕微鏡下でみると数mm大の構造として観察することができ,その形状はもちろん,内部構造もある程度わかる.しかし,原理的に可視光の波長0.4~0.7μm以下のものは見えない.ウイルスはその更に1/1000の大きさで,これをみるには,可視光より波長が短い電子線を利用する電子顕微鏡が必要である.電子は1898年にトムソンが発見し,1899年にラザフォードがβ線の本態が電子線であることを示した.1927年にドイツのブッシュ(Hans Busch)が磁場による電子レンズを発明し,これを応用して1931年にドイツの物理学者ルスカ(Ernst August Friedrich Ruska, 1906-1988)とクノール(Max Knoll, 1897-1969)が電子顕微鏡を発明した.当初の倍率はわずか17倍であったが,ルスカはこれを改良して12,000倍を得た.1938年,ルスカはタバコモザイクウイルスの観察に成功し,人類は初めてウイルスを目にすることができた.電子顕微鏡は1939年にシーメンス社により製品化され,最新の電子顕微鏡は0.1~1nmの分解能が得られている.

  • 1. Bendiner E. The man who did not invent the microscope. Hospital Practice. August, 139-74, 1984
  • 2. Egerton FN, ed. The select works of Antony van Leeuwenhoek. (Arno Press, 1977)
  • 3. Carl Zeiss社