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科学的医学の胎動

科学革命と医学

図1. サントリオの実験装置.大きな天秤ばかりで食事前後の重量を測定し,不感蒸泄を発見した.

図2.ボレリは人体の動きを物理学的に解析した[Boelli. Motu animalium].

17世紀は科学革命の時代と呼ばれる.ルネサンス,宗教改革を経たヨーロッパは教会の影響が弱まり,ウェストファリア条約(1648年)を経て確立した主権国家間の戦争を通じて科学技術の開発が急務となり,自然科学が発達し,それまでのアリストテレス以来の自然に対する理解が革新的に刷新されためである.具体的には,ガリレイ,ケプラー,デカルト,ニュートンらの名前が挙げられる.このような自然科学の発展は,それまで宗教の関係を断ち切れず,ときに占星術を持ち出し,理論よりも経験に基づいて,漠然とした体液病理学に依存していた医学にも大きな影響を及ぼした.相次ぐ物理学,化学の発見とともに,人体もこのような方法で解明できると考えられるようになったのは自然の成り行きであった.このような流れには,ヨーロッパ南部,特にイタリアを中心とする物理医学派(iatrophysicist))と,ヨーロッパ北部の化学医学派(iatrochemist) があった.

物理医学派

デカルトは,自然現象をすべて古典力学によって説明し,すべてを数学で表現する「機械論」 を唱え,医学にも大きな影響を与えた.その代表が,イタリアのサントリオ(Santorio Santorio, 1561-1636)である.サントリオは,あらゆる生命現象を計測しようと試みまた.例えば大きな天秤を作り,自らを実験台として毎日食事,排泄などに伴う体重変動を記録して,排泄量が摂取量より少ないことから,現在でいう不感蒸泄を発見した(図1).このほか,世界初の体温計,脈拍計を作ったのもサントリオである.サントリオは,医学に客観的な「計量」の概念を持ち込み,「体は数字で支配され時計のように正確に動いている」と述べている.

イタリアのボレリ(Giovanni Alfonso Borelli, 1608-1679)は,ピサ大学の数学の教授で惑星軌道などの研究を行なったが,筋肉や心臓の動きを数学的に解析したり,運動時の重心の移動を明らかにするなど,現在でいうバイオメカニクスを創始した(図2)*

* 米国バイオメカニクス学会(American Society of Biomechanics)は,優秀な研究論文に授与されるボレリ賞(Borelli Award)を設けている.

マルピーギの弟子であったバリヴィ (Giorgio Baglivi, 1668-1707)は,関節をテコ,筋肉や腱をバネに例えるなどして人体生理を機械的に説明したが,この他にもカエルの心臓を摘出しても拍動を続けることから心拍が心筋に内在するものであることを示し,あるいは横紋筋と骨格筋を区別したり,肺水腫の病態を初めて記載するなど多方面に新たな知見をもたらした.

化学医学派

図3. 錬金術師の仕事場(ブリューゲル画)[PD]

化学の源流は,卑金属から貴金属,とくに金を作り出そうとする錬金術に求められる(図3).錬金術は,ヘレニズム時代のアレクサンドリアで生まれ,アラビアで大きな発展を遂げ,西欧に持ち込まれた.もちろん現在の知識からいえば,元素である金の合成は所詮不可能であるが,さまざまな実験を通じて化学を推し進めた点で大きな意義を持つ.

錬金術を最初に医学と結びつけたのは,ドイツの パラケルスス(Paracelsus,1493-1541)である.パラケルススは大学で医学を学んだが,その後ヨーロッパ各地を遍歴して実地に医学を身につけ,独自の科学,医学を構築した.アリストテレス以来の四大元素説(空気,火,水,土),ガレノスの四体液病理学を否定し,錬金術の研究から,万物は水銀,硫黄,塩から成るとする三原質説を唱えた.そして,水銀,鉛,銅,ヒ素など鉱物から得られる化学物質を医学に応用し,さらに錬金術の技術を有機物質にまで拡大して万能薬の合成を目指した.パラケルススの医学は,占星術や神秘思想をとりこみ,アルケウス(archaeus)と名づけた霊気により生理学を説明するなど非科学的な色彩も強い独特なものであったが,医学に化学を持ち込んだという点でその後の医学に大きな影響を与えた.

パラケルススの化学的アプローチを受け継ぎ,化学医学派の代表とされるのが,南ネーデルラント(現ベルギー)の医師ヘルモント(Jan Baptista van Helmont, 1579-1644)である.ヘルモントは,パラケルススの三原質を否定し,万物の基本は水と空気であると考え,生命はすべて「発酵」によるとした.ただし,この発酵という言葉の意味は現在とは異なり,広く化学反応を指す.例えば,栄養素は血液によって筋肉に運ばれ,発酵によって筋肉に同化するとした.これは,血液が漠然と身体を養うと考えた従来の考え方とは異なるものである.またヘルモントは炭酸ガスを発見した.ガス(gas)という言葉を,ギリシア語のカオス(chaos)から造語したのもヘルモントである.

解剖学者として知られるシルヴィウス(Franciscus Sylvius, 1614-72)も,その後ヘルモントの影響で化学に強い関心をもち,生体現象は化学反応で説明できると考えた.たとえば酸とアルカリの関係を医学にもちこみ.酸とアルカリのバランスが崩れた状態をアクリモニア(acrimonia)と名づけ,酸性アクリモニアにはアルカリ性物質,アルカリ性アクリモニアには酸性物質を与えて治療し,食餌療法,嘔吐剤や浣腸によるバランスの回復による治療を提唱している.

臨床医学の見直し

図4. シデナム (Thomas Sydenham, 1624-1689)

図5. ウィリス(Thomas Willis, 1621-1675)

図6. ブールハーフェ(Herman Boerhaave, 1668-1738)

ヴェサリウスにより解剖学の,ハーヴェイにより生理学の基礎が築かれ,さらに物理学,化学に基づく医学が大いに発展したものの,このような新しい理論は臨床の実際にはほとんど反映されなかった.つまり,肝心な病気は治らず,患者は医学の発展を享受できなかった.まだ病理学の裏付けがなかった当時,やむを得ないことではあったが,このような状況を批判し臨床を重視する医師が登場した.

その代表が,イギリスのシデナム (Thomas Sydenham, 1624-1689)である.シデナムは,物理学,化学などに基づく理論よりも患者の症状,経過から学ぶことを重視した.「病気には外因がありそれによって第1の症状が現れる,次いで自然の治癒力がこれを治そうとして反応して第2の症状が現れる,この治癒力を助けるのが医師の役割である」と述べている.従って治療においては,シデナムは患者の持つ自然治癒力を最優先し,薬の使用は最小限とした.その意味でも「イギリスのヒポクラテス」 と称されるのは当を得ているといえよう.

シデナムは,徹底的に疾病の経過を観察して,その自然史を研究した.多くの疾患について詳細な記述を残しているが,疾病は原因が同じなら,誰に起こっても同じような症状が見られ,同じような経過をたどるとして,例えば急性/慢性,散発性/流行性のように疾患を分類した.特にシデナム自身が悩まされた痛風については,それまで混同されていたリウマチをはっきり区別した.またシデナムの名前が残る小舞踏病(Sydenham's chorea)についても詳しく経過を記録している.

シデナムとほぼ同時期,同じく臨床に目を向けたイギリス人医学者としてウィリス(Thomas Willis, 1621-1675)が挙げられる.ウィリスは,脳底動脈輪(Circle of Willis,ウィリス動脈輪)に名前が残るように脳解剖の研究で知られるが,幅広い分野で大きな業績を残した.その著書「医哲学批判2題」(Diatribae duae medicophilosphicae, 1663)で,自然現象は化学的な「発酵」により説明でき,血液中の物質の発酵が熱病の原因であるとしており,医学化学派に分類されることもある.「蜜のように甘い尿を出す患者」を記載し,糖尿病を  diabetes mellitus と記載 したのもウィリスであるが,既にその原因が尿ではなく血液にあることを正しく指摘している,ヒポクラテス以来,子宮に原因するとされていたヒステリーを,神経の病気であると訂正したのもウィリスである.

17世後半から18世紀にかけて最盛期を迎えたオランダのライデンに,前述のシルヴィウスの後継者で,当時ヨーロッパで最も優れた臨床医と言われたブールハーフェ(Herman Boerhaave, 1668-1738)が登場した.ブールハーフェは,物理医学派,科学的医学派の長所を組合わせて臨床に応用した.その著書「医学指針」(Institutiones medicae, 1708)は,人体は固体と液体から成るとして,機械論的に人体生理学を説明したが,ライデン大学の化学の教授でもあり,化学,臨床検査を重視した.また優れた教育者で,シルヴィウスが創始した患者を前にして実際的な教育を行う臨床講義の形を完成させたことでも知られる.