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古代文明の医学

先史時代

図1.古代の遺跡からしばしば発見される穿頭痕のある頭蓋骨.悪霊や妖気を追い 払うためと推測される [CC BY-SA 3.0]

先史時代,まだ文字による記録のない時代の医学については,当然のことながら知ることが難しい.しかし比較的最近まで文明との接触を持たず,古来の風習を温存していた未開部族 の医術から,ある程度の推測が可能である.例えば16世紀の大航海時代にはアメリカ大陸先住民に西欧文明が接触し,あるいは19世紀後半には列強各国のアフリカ大陸分割支配に伴いアフリカ先住民族の風習が西欧人の知るところとなった.このような部族では,宗教と医術は渾然一体となっていて,霊界,超自然界と交信する能力を持つとされる呪術師呪医(shaman, medicine man)が存在する.病気の原因は,超自然的なもので,例えば悪霊が取り憑いたり,あるいは魂が抜き取られたりして起こると考えられた.呪術師は,歌,踊りなどの儀式で霊界と交信し,この原因を取り除く.すなわち呪術師は医師でもあり,呪術と医術,宗教と医学は渾然一体である.先史時代にもおそらくこのような医術が行われていたのであろう.

例外的に,この時代の医術の物証として知られるのが,頭蓋骨に見られる穿頭痕である(図1).明らかに人為的な操作が加えられた頭蓋が,各地の石器時代の遺跡で発見されている[1] .このような穿頭術は,その後中世ヨーロッパ,南米のインカ文明などでも行われており,病者から悪霊や妖気を追い出すことができると考えられていた.人類史上初の手術がいきなり穿頭術だったというのは,なんとも過激であるが,このような穿頭術はその後ヒポクラテス,ガレノスも記載しており,脳疾患,精神疾患の治療法として中世まで行われていた[2].

  • 1. Andrushko VA, Verano JW. Prehistoric trepanation in the Cuzco region of Peru: a view into an ancient andean practice. Am J Phys Anthrop 137:4–13,2008
  • 2. Hernigou P, Hernigou J, Scarlat M. The Dark Age of medieval surgery in France in the first part of MiddleAge (500–1000): royal touch, wound suckers, bizarre medievalsurgery, monk surgeons, Saint Healers, but foundation of the oldestworldwide still-operating hospital. Internat Orthopaed 45:1633–44,202

メソポタミア文明

図2.粘土板に楔型文字で書かれた処方集 [2]

大河流域に興った古代三大文明の中でも最も古いのが,チグリス川・ユーフラテス川流域のメソポタミア文明である.前3500年頃に,シュメール人の集落が形成され,やがてウル,ウルクなどの都市国家を造り,神の代理人たる王が神権政治を行った.都市の中心には神殿があった.シュメール人は,世界初の文字とされる楔型文字を使って粘土板に記録を残しており,医学的な記録も数多く残っている.

この記録によると,シュメールには  アース(asu )呼ばれる医師と,祈祷によって治療する アーシプ( asipu )がいた.アース 神殿に併設された学校で学んで臨床経験を積んだ.主な治療法は薬草であったが,骨折や眼科の手術も行われていた[1].

前19世紀頃バビロン王朝が成立し,前18世紀のハンムラビ王の時代に最盛期を迎えた.「目には目を」で有名なハンムラビ法典にも医師の役割に関する記述があり,手術の報酬や,失敗した時の罰則などがこと細かに書かれている.例えば手術で患者が死亡したら,手を切り取るなどと書かれている(→参考資料).

  • 1. Teall EK. Medicine and doctoring in ancient mesopotamia. Grand Valley Journal of History 3:1-8,2014
  • 2. https://www.ancientpages.com/2017/11/20/long-history-records-of-medicine-in-mesopotamia-and-sumer/

エジプト文明

図3.医学パピルスのひとつ,エドウィン・スミス・パピルス(Edwin-Smith papyrus) [PD]

図4.イムホテプ(前2700?-2610?).名医とされその後神格化された.  [PD]

前3000年頃,ナイル川河口にあった数多くの都市国家が一つまとまってエジプト王国が成立し,以後前30年まで,3000年にわたって30以上の王朝が交代した.エジプトの医学は,主に19世紀に様々な経路で発見された一連の医学パピルス(medical papyrus)と呼ばれる文書の解読により研究が進んだ.医学パピルスは約10編が知られており,それぞれ発見者の名前が付されているが,最も古いものは前1800年頃(第12王朝)に主に婦人科疾患について書かれたカフーン・パピルス(Kahun Papyrus)である.前1600年頃(第16-17王朝)に書かれたエドウィン・スミス・パピルス(Edwin Smith Papyrus)(図3)は外科疾患48例の症例集で,前1550年頃(第18王朝)書かれた.これと同時期に書かれ,全長21mに及ぶ最も長いエーベルス・パピルス(Ebers Papyrus)は,薬剤による内科治療,呪術治療などが記載されている(→参考資料)

前5世紀に書かれたヘロドトスの「 歴史」によれば,エジプトの医師は頭部,腹部,肛門科,歯科,眼科など専門分野が分れていた.医師の他にも,さまざまな神々を祀る神殿の神官が治療者として魔術,呪術による治療を行った.中でも第3王朝に仕えた宰相イムホテプ(図)は,医師,天文学者,建築家でもあり,後に名医としてギリシアの医神アスクレピオスと同一視されて医神*とされた.

* 医神.古代文明における伝説的な治療者.エジプトのイムホテプ,インドのアートレイヤ,中国の神農,黄帝,ギリシアの アスクレピオス,その娘 ヒュギエイアなどが知られる.その多くは神話の世界の人物であるが,イムホテプは実在の神官で後に神格化された.日本で医神に相当するのは,大国主命(おおくにぬしのみこと),少彦名命(すくなひこなのみこと)である.大国主命は,古事記所収の神話「因幡の白兎」 に登場する神様で,フカに皮を剝かれて赤裸になった白兎に,傷口を水で洗って蒲の穂の花粉を塗るように言って傷を癒やしたとされる.少彦名命は,医薬,温泉,酒造などの神で,古来薬とされた酒造りの技術を広めたとされる.この他,中国の神農も,早くから日本に伝わり医師,薬師の守護神として祀られた.

 

インド文明

図5.チャラカ (2世紀頃) [CC BY 3.0]

図6.チャラカ・サンヒター.アーユルヴェーダの最も重要な書物のひとつ. サンスクリット語で書かれている [CC BY 4.0]

図7.三体液説(トリドーシャ説).3つのドーシャ(中央)がすてべの生理機能を司ると考える.

図8.スシュルタ・サンヒターの手術器具 (英訳書の説明図)[PD]

前2300~前1800年,インダス川流域にインド最古の都市文明,インダス文明が栄えた.中流域のハラッパー,下流域のモヘンジョ=ダーロが有名であるが,この時期の医学については不詳である.インダス文明は気候変動や河川の移動のため急速に衰退し,前1500年頃からインド・ヨーロッパ語族の大移動の一環として,西方からアーリヤ人がカイバル峠を越えて侵入し,ドラヴィダ系先住民を追い出してガンジス川流域に都市を造り,以後インドの支配者となった.

このアーリヤ人の社会は,ヴァルナ制*1という階級制度の最高位に位置する聖職者バラモンが司るバラモン教による祭政一致が行われた.その教典「ヴェーダ」は様々な文書からなる膨大なものであるが,そのひとつ,アーユルヴェーダは医学知識の集成で,現在ではインド伝統医学の呼称ともなっている.アーユルヴェーダには多くの書物があるが,「チャラカ・サンヒター」「スシュルタ・サンヒター」は二大古典医書とされる.

チャラカ・サンヒター」(全8巻120章)は2世紀のカニシカ王の侍医チャラカ(図5) がまとめたとされる内科書である(図6).これは伝説の医神アートレイヤが弟子に教えを説くという形で書かれているが,ここに説かれるアーユルヴェーダ医学の基本は,三体液説(トリドーシャ説)で,5つの元素(土,水,火,風,空)の組合わせからなる3つのドーシャ,すなわちヴァータ(風),ピッタ(粘液),カパ(胆汁)がすべての生理機能を司り,このバランスが崩れると病気になるとする(図7).治療法は食事,生薬でドーシャのバランスを回復させる方法,瀉血,浣腸,マッサージなどで余剰なドーシャを排除する方法がある.ギリシア医学の四体液説は,これがペルシア経由で伝わったものと考えられている.「スシュルタ・サンヒター」は主に外科治療を扱い,ダンバンタリ王が弟子のスシュルタに教授する形式で書かれている.スシュルタ自身の編纂になるとされるが,古代インドの外科学の父とされるスシュルタの活躍年代については紀元前10世紀から紀元後2世紀まで諸説あり不詳である.スシュルタは100を超える手術器具を駆使して脳外科,整形外科,砕石術なども行なったという(図8).

バラモン教が衰退して仏教*2が興ると,アーユルヴェーダ医学は形を変えながらも仏教医学としてアジア各地に伝わり,日本の鎌倉・室町時代の医学にも影響を与えた.13世紀にインドがイスラーム化されると,ユナニ医学*3が導入されたが,ヒンドゥー教徒の間ではアーユルヴェーダ医学が主に行われた.16世紀になり,まずポルトガル,その後イギリスの植民地となり,西洋医学が主流となったが,20世紀に入ってインド独立運動に伴いユナニ医学*3,アーユルヴェーダ医学など伝統医学を見直す機運が高まり西洋医学の補助的な役割を担うようになった.インド,スリランカなどでは伝統医学として現在も実践されており,インドには国家資格がある.

*1 ヴァルナ制:前1000年頃より,アーリヤ人は肥沃なガンジス川流域に進出,鉄器を使用して農業生産力が高まり,生産に従事しない支配者階級が誕生するとともに,ヴァルナ制と呼ばれる階級制度が生まれた.ヴァルナ制では,バラモン(聖職者),クシャトリア(武人),ヴァイシャ(農民,商人),シュードラ(隷属民)が区別され.その後のカースト制度の原型となった.

*2 仏教:バラモン教は,儀式が著しく複雑化して形式主義に陥り,これに対する批判から前500年頃いくつかの新宗教が登場した.中でも仏教,ジャイナ教が発展した.一方バラモン教は,4世紀のグプタ朝時代に民間信仰と混じり合ってヒンドゥー教として現在にいたる.ヒンドゥー教は,シヴァ神,ヴィシュヌ神などを信仰する多神教で,特定の開祖,聖典を持たない.

*3 ユナニ医学:ギリシア・ローマの医学は,ローマ滅亡後,イスラーム文明の一部,アラビア医学として保存された.これがユナニ医学として伝承され,現在でもインド,パキスタンで広く行われている.ユナニ(Yunani)は,ギリシアの一地方,イオニア(Ionia)の転訛.ユナニ医学,中国医学,アーユルヴェーダ医学は,世界三大伝統医学とされる.

 

中国文明

黄帝内経

図9. 中国の医神とされる神農(左),黄帝(右).

図10.黄帝内経.全18巻.現在も,中国医学の基本書とされる [PD]

図11.陰陽五行説.陰陽および五行の組合わせで全てを説明する.主要臓器である五臓五腑もこれに関連付けられる.

図12.経絡と経穴.ここを刺激することで陰陽五行のバランスを回復させて治療する[1].

図13.張仲景.傷寒論を著した [PD]

中国古代史は,神話世界の三皇五帝に始まる.三皇(伏羲,女媧,神農)は半人半獣の異形の神,五帝(黄帝,顓頊,嚳,堯,舜)は司馬遷の史記の冒頭には実在の皇帝とされているが物証には乏しい.黄河,長江流域に発展した中国古代文明として実在が確認されている最古の王朝は殷*(前16-11世紀)で,亀甲や動物の骨に刻まれた甲骨文字による記録が登場する.ここには医薬に関する記載はないが,呪術師の存在が知られており医療者の役割を兼ねていたものと推測される.この後,周(前11-8世紀),春秋戦国時代を経て秦(前221-),漢(前202-)と続くが,その始祖はいずれも黄帝の末裔とされ,現在も黄帝は漢民族の祖と考えられている.三皇のひとり神農,五帝の初代である黄帝は,いずれも中国の医神とされる(図9).

特に中国医学の祖とされる黄帝は,実際に医療者として活躍した記録はないが,後世の医学書には黄帝の名を冠したものが多い.中でも「黄帝内経」(こうていだいけい)は,全18巻の大著で,現代に至るまで中国医学の根幹をなす資料である(図10).「素問」「霊枢」の2篇からなり,前者は主に陰陽五行説に基づく生理学,病理学を,後者は五臓五腑と経絡による鍼灸の理論,技術を扱っており,黄帝と臣下の問答の形で書かれている.戦国時代(前5世紀)に原形が成立し,素問は紀元前2世紀の前漢時代,霊枢は1~2世紀の後漢時代に編纂されたとされるが,その後も宋代(10-13世紀)まで加筆された.

殷以前に夏(前21~16世紀)王朝の存在が推定されているが,文字資料がなくその実在性には異論がある.

陰陽五行説

ここに書かれている中国医学の理論的基盤は,陰陽説の二元的宇宙観である.自然界のすべては陰陽に二分される.例えば男性/女性,皮膚/内臓,腹部/背部はそれぞれ陽/陰とされる.陰陽と並んで重要なのが五行で,万物は木・火・土・金・水の5つからなるとし,これらの相互作用で世界の営みを説明し,体の臓器や機能もこれに対応して5つに分類される.これが陰陽五行説(図11)で,健康な状態は,陰陽,五行がバランスを維持している状態で,これが崩れると病気になる.解剖学の基本は五臓五腑で,五行説に従い五臓(実質臓器=肝・心・脾・肺・腎)および五腑(管腔臓器=胃・小腸・大腸 ・胆・膀胱を区分する(仮想の臓器,三焦を加えて六腑とすることもある).

生理学の基本は,気・血・水・精である.「」 は全身をめぐる目に見えない生命エネルギー,「血」 は赤い色をした血液,「水」 は消化液,リンパ液など透明な液体,「精」 は父母から受け継ぐ基本物質とされる.気にはいくつか種類があり,中でも「元気」は生命活動の基となる重要な気である.五臓を結ぶ「気」の通り道が経絡である(図12).主な経絡は,十二経脈,奇経八脈といわれる20本で,経絡上には経穴(けいけつ),すなわち「ツボ」が365ヶ所あり,体の状態の変化がここに現われると同時に,ここを鍼や灸で刺激することにより,五臓五腑の状態や,気・血・水・精の流れを変化させ,陰陽五行のバランスを回復させることにより病気を治療する.この考え方は,その後の中医学,さらに日本の漢方医学にも脈々と伝わっている 

傷寒論と神農本草経

後漢の張仲景(ちょうちゅうけい, 150〜220頃?)(図13)は,ある時疫病が発生して身内を多く失ったことを契機に,当時のさまざまな医書を徹底的に研究し,急性熱性疾患(傷寒)とその他の慢性病(雑病)の治療法をまとめた「傷寒雑病論」 を著した.その後,西晋時代の医学者王叔和の編集を経て「傷寒論」(しょうかんろん)と「金匱要略」(きんきようりゃく)として後世に伝わる.傷寒とは急性熱性疾患のことで,傷寒論では6つの病期に分け,それぞれに応じた診断法,治療法が記されている.「黄帝内経」が主に北方の黄河文化圏の鍼灸を主体とする理論書であるのに対し,「傷寒論」「金匱要略」は南方の長江文化圏の生薬を中心とする臨床医学書で,日本の漢方医学にも大きな影響を与えた (→ 江戸時代の医学).

神農本草経」(しんのうほんぞうきょう)も,後漢時代に編まれた生薬の解説書で,365種類の薬物(植物252種,動物67種,鉱物46種)が記載されており,これを無毒で長期服用して不老長寿作用のある上品(養命薬),体力を養うが毒にもなりうる中品(養性薬),毒性が強く病気の治療にのみ使用する下品(治療薬)に分類している.黄帝とならぶ伝説の医神 神農の名前が冠せられているがもちろん著者ではなく,編者は不明である.

医学理論を説く黄帝内経,臨床に則した治療法を解説する傷寒論と神農本草経は,中国医学の三大古典として,現代に至るまでその根幹を成している.

  • 1. 張介賓. 類経図翼. http://aeam.umin.ac.jp/acupoints/keiketuzuhan/keiketuzuhan.htm
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関連事項

古代中国の伝説の名医

実際の記録はないが,中国医学史に必ず登場する古代中国の伝説的名医として扁鵲,華佗が知られる.

・扁鵲(へんじゃく)

図14.扁鵲.中国のヒポクラテスと言われる [PD]

戦国時代後期(前500頃)の人とされる.中国では名医の代名詞とされ,中国のヒポクラテスと言われることがあるが,時代的にもほぼ同じである.司馬遷の「史記」にもその伝が記されている.ある時扁鵲は,見知らぬ隠者から,服むと30日後に名医になれるという薬をもらった.その通り30日経つと,人体を透視して内臓の状態が見えるようになり,どんな病気も診断できるようになった.しかし中傷を恐れてこれを明かさず,脈をみて診断したということにし,脈診の名医として知られた.鍼治療の祖とも言われる.

・華佗(かだ)

図15.華佗.麻酔薬麻沸散を発明した [PD]

後漢末期(200年頃).麻酔薬「麻沸散」を発明,世界初の全身麻酔下の開腹手術を行ったとされる.百歳まで生きたとも言われるが,晩年,武帝からの侍医としての招請を断り,その怒りを買って投獄された.死刑の直前,秘伝の医術を記した本を牢番に託したが,罰を恐れた牢番がそれを燃やしてしまったため,その医術は永遠に失われてしまった.日本の江戸時代,華岡青洲はこの幻の麻沸散の処方を求めて試行錯誤の結果,「通仙散」を編み出し,世界初の全身麻酔手術に成功した.動物(虎,鹿,熊,猿,鳥)の動作を真似る体操「五禽戯」の創案者ともされる.