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全身麻酔 

近代以前の麻酔

図1. ロンドンの病院に据え付けられた Operation Bell.手術に先立って患者を抑えつける人手を集めるために使われた[3]

麻酔,鎮痛に相当する医術は古代から記録されている.既に前4000年以上前のシュメール文明でも,ケシを含む薬草を燻して発生する煙に,鎮痛作用があることが記録されている.前2300年頃のメソポタミアの粘土板には楔形文字で,虫歯の治療にヒヨス*が使用されたことが記録されている.古代エジプトの医学パピルスにも,アヘン,大麻,ベラドンナ,マンドレイクなどが痛みに対する処方として記載されている.

*ヒヨス(Hyoscyamus niger)はナス科の植物で,名前に由来するヒヨスチアミンのほか,スコポラミン,その他のアルカロイドを含み,後述の同じくナス科のチョウセンアサガオと同様,向精神作用をもつ.

古代中国の名医扁鵲は,薬草や酒を鎮痛薬として使用しており,華佗は様々な薬草を調合した麻酔薬「麻沸散」を編み出して数々の手術を行なったとされる(→関連事項:華岡青洲と通仙散).ギリシアのヒポクラテスはとりたてて麻酔薬に言及していないが,ギリシア,ローマ時代には負傷兵の四肢切断術前にマンドレイクやブドウ酒を使用したことが知られている.アラビアの名医,イブン=シーナ(アヴィケンナ)は鎮痛麻酔薬について多くの処方を残しているが,その内容はやはりアヘン,マンドレイクなどが主体である.このような薬草を利用した麻酔のほかに,エジプトやアッシリアでは,割礼手術の前に頸部の血管を圧迫して失神させる,迷走神経反射(バルサルバ反射)を利用した方法が記載されている[1,2]..

ただこのような方法では,その麻酔,鎮痛効果にはいずれにせよ限界があった.古代,中世を通じて様々な外科手術が行われたが,その多くは無麻酔であった.外来の小外科はもちろんのこと,会陰切開による膀胱結石摘出術,戦場での四肢切断術なども無麻酔で,わめき叫ぶ患者を何人もの助手が押さえつけながら手術していた.1791年,ロンドンのWhitechapel病院に,Operation Bell (手術の鐘)が据え付けられた(図1).これは手術の開始を知らせ,患者を抑えつける人手を集めるためのものであったという[3].

世界初の全身麻酔 

図2. 笑気を吸ってはしゃぎ回る笑気パーティ.負傷しても痛みを訴えない参加者がいることが,麻酔への応用のヒントとなった[PD]

近代麻酔の父とされるのは,アメリカの開業医 ロング (Crawford Long,1815-1878)である.当時のアメリカでは,笑気(亜酸化窒素)を吸って気分を高揚させてはしゃぎ回る「笑気パーティ」の興行が盛んだった(図2).1841年12月,ジョージアで行なわれたこのような興行を経験した友人がロングに笑気を作ってくれと依頼した.ロングは笑気は作れないがが,エーテルに同じような効果があるとすすめた.エーテルは笑気にくらべて容易に入手でき液体なので持ち運びも便利なことから好評を博し,「エーテルパーティ」はジョージアから周辺に広まった.ロングは,自らの体験とパーティ参加者の観察から,エーテルを吸引して高揚している間に転倒したり打撲したりしても,痛みを感じないことに気づき,エーテルが手術時の除痛に使えるのではないかと考えた [1,2].

1842年3月30日,ロングは患者ヴェナブル(James M. Venable)の顔にエーテルに浸したタオルを押しあてて麻酔し,頸部嚢胞を摘出した.患者は全く痛みを訴えず,手術のことを憶えておらず手術は大成功であった.さらにその1ヵ月後,同じ患者のもう1つの腫瘍切除にも成功した.7月には火傷を負った奴隷の足趾切断術もおこない,計8人にエーテル麻酔下の手術を行なった.1845年には自らの妻の出産にエーテルを使用しており, これは世界初の産科麻酔であった.しかし,当時周囲からはエーテルの使用を危険だとする批判も強く,ロングはエーテルを使わなくなり,その成果を公表したのは1849年のことであった(→原著論文).

  • 1. Anaya-Prado R, Schadegg-Peña D. Crawford Williamson Long: The true pioneer of surgical anesthesia. J Invest Surg. 28:181-7, 2015
  • 2. McCardie WJ. Crawford Williamson Long (1815-1879): the Pioneer of anaesthesia and the first to suggest and employ ether inhalation during surgical operations. Proc Royal Soc Medicine 5:19-45,1912
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麻酔の発明者は誰か

1844年,ロングのエーテル手術の2年後,コネチカット州ハートフォードの歯科開業医ウェルズ(Horace Wells,1815-1848)は,興行師コルトン(Gardner Quincy Colton)の笑気の興行を見物し,やはり怪我をしても痛みを訴えない客を目にして,これが抜歯に使えると思いついた.早速その翌日,コルトンの協力を仰ぎ,自ら笑気を吸って同僚の歯科医に親知らずを抜歯させてみたところ,全く痛みを感じなかった.さらに15人の患者でその効果を確認して自信を深めたウェルズは,マサチューセッツ総合病院の旧知の歯科医モートン(William Morton,1819-1868)に相談を持ちかけ,公開実験を計画した.しかし1845年1月,医学部の臨床講堂で行われたボランティア医学生の抜歯デモンストレーションでは,抜歯の瞬間被検者が叫び声を上げてしまい,観衆から「インチキ!」の罵声を浴びて失敗に終わった.失敗の原因は,患者が肥満しており笑気の量が不十分であったとされている.ウェルズは失意のうちに故郷にもどらざるを得なかった*1[1,2].

図3.モートンによるエーテル麻酔の公開実験.1846年10月16日.マサチューセッツ総合病院 の臨床講堂.Robert C. Hinckley画(1891-94)   [5]

図4.麻酔の発明をめぐって争った4人.(a) ロング.世界初のエーテル麻酔による手術に成功.(b)ウェルズ.初めて笑気による歯科麻酔を行なったが,公開実験は失敗.(c)モートン.エーテル麻酔の公開実験に成功. (d)ジャクソン.モートンにエーテルの使用を指導.

ウェルズの失敗を目にしたモートンは,学生時代に化学の指導を受けた医学者ジャクソン(Charles Jackson, 1805-1880)のアドバイスを得て,笑気をエーテルに変えて公開実験に再挑戦した.1846年10月16日,ボストン中の外科医が臨床講堂に集まった(図3).執刀医はマサチューセッツ総合病院の創設者でもある高名な外科医ウォレン(John Collins Warren, 1778-1856),患者は顎下腫瘍の若い男性であった.モートンが患者にエーテルを吸わせ,意識を失ったところで,ウォレンがメスを入れたが患者は微動だにせず,公開手術は大成功であった.ウォレンは聴衆に向かって「諸君,これはイカサマではありませんよ」と高らかに麻酔手術の成功を宣言した.全身麻酔成功の報はただちに世界中に伝わり驚嘆をもって迎えられた*2.当初,モートンはこの麻酔薬を「レセオン」(Letheon)と称してその組成を明かさず周囲の批判を浴びたが,まもなくこれがエーテルであることが明らかとなった[3].

しかしその後,モートン*2 *3ジャクソン*4ウェルズがそれぞれエーテル麻酔発明の優先権を主張した.彼らに先立ってエーテル麻酔に成功したロングも,1846年にモートンの麻酔のことを論文で知り,1849年にはその成果を論文に著した.この問題は学会での議論にとどまらず,米国議会にまでもつれこみ,議会は1849年から1863年まで6回にわたってこの問題をとりあげ,1853年には,エーテル麻酔の発明者であると証明できたものには10万ドルを提供すると発表した.しかし長期にわたる審議にもかかわらず,最終的な結論は得られなかった(図4).

1879年,ロングの死去の1年後,米国電気医学会(National Electric Medical Association)は,ロングがエーテル麻酔の発明者であると認定した.

ロング,モートンにやや遅れて,イギリスでも1846年に初のエーテル麻酔が行なわれ,その後ヨーロッパではクロロホルム (→関連事項:クロロホルムの歴史) が多く使われるようになった.リスターによる無菌手術の導入,ロングによる麻酔の発明を経て,安全,確実な外科手術への道が開かれた.

*1 失意のウェルズは,まもなく歯科医院を廃業した.その後もエーテルやクロロホルムの研究を続けたが,クロロホルム中毒に陥り,1848年,33歳の誕生日に娼婦に硫酸をかけて逮捕されたが,その直後クロロホルムを嗅ぎながら大腿動脈を切断して自殺した.

*2 1860年,幕府が米国に派遣した使節団の中に3人の医師がおり,彼らがジェファーソン医科大学でグロス(Samuel David Gross)教授の膀胱結石の手術を見学した際,エーテル麻酔を担当していたのはモートンであったという[4].

*3 モートンは,南北戦争(1861~)に軍医ボランティアとして参加し,多くの戦傷兵の手術にエーテル麻酔を行なった.1868年に脳卒中で死亡した.

*4 ジャクソンは,ハーヴァード大学医学部在学中,地質学も学び米国内の鉱脈開発にも従事した.生涯を通じて,他人の発明,発見に対して自らの優先権を主張する言動を重ね,モートンのエーテル麻酔のほかにも,綿火薬の発明,電信の発明,銅鉱脈の発見などを巡って訴訟を起こしている.1873年に精神疾患の発作を起こし,その後精神病院で生涯を送った.

  • 1. Tanchyk AP. Horace Wells as a classic tragic hero or Horace Wells. Reconciliation with a tragic hero. J Anesth Hist 7:27-31,2021
  • 2. Haridas RP. Horace Wells’ demonstration of nitrous oxide in Boston. Anestheology 119:1014-22.2013
  • 3. Gould AB. Charles T. Jackson's claim to the discovery of etherization. In:Rupreht J ed. Anaesthesia : Essays on its history (1985).
  • 4. 松木明知. ウイリアム・T.G. モートンのエーテル麻酔を見た幕末の日本人医師たち. 麻酔 54:202-8,2005
  • 5. Russel Museum of Medical History and Innovataion. https://www.russellmuseum.org/ether-day-1846/
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原著論文

《1849 ロングによるエーテル麻酔発明の優先権の主張》
外科手術麻酔としての硫酸エーテル吸入の初使用について
An account of the fi rst use of sulphuric ether by inhalation as an anaesthetic in surgical operations
Long CW. South Med Surg J. 5:705-13,1849

【要旨・解説】後に全身麻酔の発明者と認定されるロング(Crawford Long)が世界初のエーテル麻酔下の無痛手術に成功したのは1842年3月のことであったが,これを論文として発表しなかった.その後,ボストンでジャクソン,モートン,ウェルズらが麻酔下手術に成功し,麻酔の発明者としての優先権争いが起こった.ロングは田舎(ジョージア州ジェファーソン)の開業医であったことから,このような動きには疎かったが,医学雑誌の記事でそのような状況を知り,友人のすすめもあり,自分が彼らに先駆けてエーテルによる無痛手術に成功したことを報告したのが本稿である.

当時流行していた遊興目的の笑気パーティにヒントを得て,硫酸エーテルを使用したところ,怪我をしても痛みがないことからこれを麻酔に応用したという動機を述べ,次いで最初の2例の症例報告が記載されている.1例目は頸部嚢胞性腫瘤の液出術,2例目は足趾切断術である.なぜか年齢の記載がないが,1例目は学生とのことで若年男性と思われ,2例は黒人の少年であった.本稿の目的は,この事実を証明することにあり,2名の関係者の証言が「証書」として記載されている.1名は最初の患者ジェームズ・M・ヴェナブル本人で,もう1名はヴェナブルの学校の友人で,その経験を聞いたという内容である.この他にも,掲載はされていないが複数の関係者の証書が手元にあることを述べている.編集部のコメントには,このようなことは医学雑誌の性格に馴染まないので編集部に送られてきた証書をすべて掲載することはできないが,2つだけ掲載する旨記載されている.

最後に,これまで報告しなかったのはさらに症例を重ねてエーテルの効果を確認したかったためでが,自分の怠慢でもあり,この期に及んでこのような報告をすることの批判はあると思うが,本稿をもって自分の優先権が認められるか否かについては中央医学界の判断に任せると結んでいる.

ロングがエーテル麻酔について著わした論文はこの1篇のみであるが,結局この後紆余曲折を経て,麻酔の発明者はロングと認定されることになる.

原文 和訳

関連事項

笑気とエーテルの歴史

亜酸化窒素 (N2O) は,イギリスの科学者プリーストリー(Joseph Priestley, 1733-1804)により発見された.プリーストリーは一酸化窒素,塩化水素,アンモニアなどを発見し,中でも酸素に相当するものを発見してそれまでのフロギストン説*を否定したことで知られるが,1772年には亜酸化窒素を発見した.

*フロギストン説:物質の燃焼は,物質がフロギストン(phlogiston,燃素)を放出するためであるとする.1697年にドイツの医学者シュタール(Georg Ernst Stahl, 1659-1734)が提唱し,プリーストリー,その後ラヴォアジエにより否定された.

図5. 亜酸化窒素(笑気)の麻酔作用を発見したデーヴィー(Humphry Davy, 1778-1829) [PD]

1798年,イギリスの科学者デーヴィー(Humphry Davy, 1778-1829)が亜酸化窒素の麻酔作用を発見した(図5).デーヴィーは,電気分解によってNa, K, Ca, Mgなどを初めて単離し,化学結合の基本が電気的極性にあることを提唱するなど電気化学の基礎を築いたことで知られるが,21歳のとき,気体の医学応用を研究する目的で設立された Bristol Pneumatics Institute (ブリストル気体研究所)で亜酸化窒素を研究している.当時,亜酸化窒素は有毒と考えられていたため,デーヴィーはこれを結核の治療に利用することを考えたが,自ら吸引してみたところ意識,知覚が失われること,笑い発作がおこることなどを発見し,「近い将来,手術に使われるようになるであろう」と記載した.しかしその後実際に医学応用されることなく,遊興用途にしか用いられなかった.亜酸化窒素(笑気)の医学利用へのきっかけを作ったのは,アメリカのコルトン(Gardner Colton, 1814-98)である.コルトンは医学部を中退し,笑気ガスを使った興行で各地を回っていた.前述のように,そのような興行に居合わせた歯科医のウェルズが,参加者の一人が足に傷を負っても痛がらないのを目にして歯科麻酔への応用を思いついたことから,吸入麻酔薬としての道が開かれた.

図6. エーテルが笑気に似た精神作用をもつことを発見したファラデー(Michael Faraday, 1791-1867)[PD]

エーテル(ジエチルエーテル)*1 を発見したのは,1235年,スペインの修道士で,植物学,数学,錬金術など多方面に業績を残すルルス(Raymundus Lullus,  232-1315) とされる.ルルスは硫酸 (vitriol)とワインを混合して得られた物質を 「甘い硫酸」(oleum vitrioli dulce verum)と名づけた.1514年,この合成法を初めて化学的に記載したのは,ドイツの医師コルドゥス( alerius Cordus,  493-1541)で,硫酸とエタノールからジエチルエーテルを合成した.同年スイスの医師,錬金術師のパラケルススは,これをニワトリに吸わせて催眠作用を発見した.1730年,ドイツの化学者フレニウス(August Siegmund Froenius)が,エーテル (Spiritus Vini AEthereus)という名前を初めて使用した*2

亜酸化窒素の麻酔作用を発見した前述のデーヴィーの弟子のひとり,ファラデー(Michael Faraday, 1791-1867)(図6)は,電磁気学の研究で有名であるが,化学の分野でも数々の業績がある(例えばベンゼンを発見している).1818年,ファラデーはエーテルを吸引すると,笑気と非常に似た精神作用が得られることを報告した[2].笑気は製造するために複雑な実験装置が必要であったが,エーテルは液体として薬局で簡単に入手できた.このため遊興目的にも笑気よりもエーテルが好まれるようになった.ロングが初めてエーテルを麻酔薬として試みたのも,エーテルパーティでの経験がきっかけであった.

*1 エーテルは R-O-R' で表わされる化学物質の総称であるが,麻酔に使われるのはジエチルエーテル(R, R’=C2H5)である.酸を触媒として2分子のアルコールを脱水縮合して合成する (2R-OH + H+ → R-O-R + H2O + H+).

*2 エーテルの名称は,前4世紀,アリストテレスが4元素(土,水,空気,火)に加えて,天空を構成する第5の元素としてエーテルを挙げたことに由来する.デカルトが宇宙空間はエーテルで充たされていると唱えて以来,物理学では空中で光を伝える媒質として エーテルの存在が想定された.フレニウスがなぜこの物質にエーテルの名前を当てたかは定かでない.

  • 1. Lebeau R. 125 ans d'anesthésie au protoxyde d'azote. Union Med Can; 98:1338-44,1969
  • 2. Bergman NA. Michael Faraday and his contribution to anesthesia. Anesthesiology 77 :812-6,1992
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クロロホルムの歴史

初期の吸入麻酔薬として,エーテルと並んで広く使用されたクロロホルム(CHCl3, trichloromethane)は,1831年に次亜塩素酸カルシウムとエタノールあるいはアセトンなどを反応させて人工的に作られた化学物質である.1846年12月,アメリカのモートンの公開実験にやや遅れて,イギリスでも歯科医のロビンソン(James Robinson, 1814-62)がエーテル麻酔による抜歯に成功していた.これはイギリス初の全身麻酔であった.翌1847年,スコットランドの産科医シンプソン(James Young Simpson)は世界で初めてクロロホルムを分娩時の産科麻酔として使用した.内科医のスノウ(John Snow, 1813-58)*1は以前からエーテルを研究していたが,シンプソンのクロロホルム麻酔をさらに発展させ,定量的,科学的にに投与,コントロールできる装置を開発し,イギリスの麻酔第一人者としてその12年間に5,000例以上の麻酔を行なっている(図7).

図7.スノウが考案したクロロホルム吸入装置.投与量を定量的にコントロールできる. [2]

1848年1月28日,エジンバラの外科医メジソン(Meggison)は,15歳の少女グリーナー(Hannah Greener)の足の爪の切除術に際して,茶匙1杯のクロロホルムをテーブルクロスにしみ込ませたものを患者の鼻に当てたところ,まもなく痙攣を起こして3分後に死亡した[6].剖検の結果,肺水腫が認められた.これは世界初の麻酔による死亡医事故で,学会誌に発表された.これを見たスノウは,麻酔管理の重要性を強調している*2

当時,クロロホルムによる無痛分娩は,多くの医師が非倫理的であるとして批判的であったが,1853年にヴィクトリア女王が第8子のレオポルド王子の出産にあたってスノウにクロロホルム麻酔を所望し,さらに3年後にもベアトリス王女の出産にも成功したことから広く行なわれるようになった.以後,アメリカでは主にエーテルが,ヨーロッパではクロロホルムが使われた.エーテルは嘔吐をきたしやすく,可燃性,爆発性があった.クロロホルムは,血圧低下,不整脈などの副作用が多かった.

現在のような安全な吸入麻酔薬は,1950年代に登場したハロゲン化麻酔薬ハロセン(halothane)を嚆矢とし,その後イソフルレン,エンフルレンなど安定で使いやすい麻酔薬が開発された.

*1 スノウは,その後1854年,ロンドンのコレラ大流行に際して井戸水が感染源であることを疫学的につきとめ,疫学の父とも言われる.

*2 この患者の死因が,本当にクロロホルムによるものであったかについては議論がある.患者の容態が急変したとき,主治医のメジソンは水とブランデーを口に含ませた.当時その記録を読んだシンプソンは,その誤嚥(ごえん)と喉頭痙攣による肺水腫と推測した.一方,スノウは当初クロロホルムの中枢神経系作用によると考えたが,その後不整脈としている.現在の知識からは,整脈であった可能性が高いとされる[1]

  • 1. Knight PR III, Bacon DR. An unexplained death - Hannah Greener and chloroform. Anesthesiology 96:1250-3,2002
  • 2. Shephard DAE. History of analesthesia. John Snow and research. Can J Anaesth 36:224-41,1989
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華岡青洲と通仙散

図8. 1804年,華岡青洲は通仙散を使用して乳癌の手術に成功した[2]

図9. 通仙散の主成分チョウセンアサガオ(マンダラゲ).右下:日本麻酔学会のシンボルマーク.

紀伊国(現在の和歌山県)に医家の長男として生まれた華岡青洲( 1760-1835)は,京都に遊学して和洋の医学を学んだ.当時「巖」あるいは「岩」と称されていた腫瘍を何とか摘出したいと考えたが,そのような大手術には麻酔薬が必要であった.当時,麻酔の知識としては,古代中国の華佗の事績が知られるのみであった.華佗は「麻沸散」という麻酔薬を用いて開腹手術や開頭手術を成功させたと伝えられていたが,その処方は失われていた.青洲はこの幻の麻酔薬,麻沸散を再現しようと,庭で育てた薬草を調合し工夫に工夫を重ねた末,ついに経口麻酔薬「通仙散*1」を編み出した.そして1804年,60歳女性の乳癌摘出術に成功した*2(図8).

通仙散の主成分は,マンダラゲ(チョウセンアサガオ)(図8) で,古くから精神作用があることからキチガイナスビとも呼ばれ,スコポラミンを含む.スコポラミンは副交感遮断薬であるが,中枢神経系に対する抑制作用を持つことから,これが麻酔効果を示すものと考えられている.

ロングが世界初の全身麻酔に成功したのは1842年ことで,華岡青洲の手術はこれに先立つこと約40年,その意味では世界初の全身麻酔である.しかし,青洲の通仙散は,近代麻酔学の目指す方向とは異なっている.近代麻酔学は麻酔効果の安全性,再現性,可制御性を目指して発展してきた.すなわち,同じ薬剤を同じように投与すれば,常に同程度の安全,麻酔効果が確実に得られ,かつ麻酔深度を自由に調節できることが基本である.一方,通仙散は植物を煎じた生薬なので成分が一定せず,また経口投与であるため生理動態に即応した制御が難しい.従って,全身麻酔薬として適当なものとは言い難く,近代麻酔学の創始者はやはりロングと言えよう.

日本でエーテルによる吸入麻酔を初めて試みたのは1855年,杉田玄白の孫で「麻酔*3という言葉の生みの親でもある杉田成卿(せいけい)であるが,これは失敗であったらしい.長崎に江戸幕府が設けた海軍伝習所で日本人に本格的な西洋医学を教授したことで知られるオランダ人医師 ポンペは,1861年にクロロホルムを使用した手術を供覧し,同年,その指導を受けた伊東玄朴がクロロホルム麻酔下の下肢切断術に成功したのが,日本における吸入麻酔の初例とされる[1].

日本麻酔科学会は,華岡青洲が初の全身麻酔下乳癌摘出術を成功させた10月13日を「麻酔の日」と定め,チョウセンアサガオをシンボルマークとしている(図9).

*1 青洲が編み出した麻酔薬の名称は一般に「通仙散」とされるが,自著「乳巌治験録」には「麻沸散」とされており,通仙散は後の命名らしい.

*2 華岡青洲と同郷の作家,有吉佐和子氏の小説「華岡青洲の妻」(1966,新潮社)は青洲の通仙散発明をめぐるエピソードを描いたもので,舞台化,テレビドラマ化もされて,青洲の功績が広く一般に知られるようになった.小説では,初めはイヌやネコで実験していた通仙散をいよいよ人間で試す段階になった時,青洲の母・於継(おと),妻・加恵(かえ)が競って実験台となることを願い出て,麻酔は成功したものの妻はこれがもとで視力を失うことになる.しかし実際に母や妻が被検者になったという記録はない.作品の主眼は,青洲をめぐる母と妻の確執に置かれ,作家自身も述べているように医学的内容にはあまり関心が払われていないが,当時の医療事情をうかがい知ることができる.

*3 杉田成卿は,そのオランダ医書の翻訳書「済生備考」(1850年刊)において,エーテル麻酔の解説「亜的耳(エーテル)吸入法試説」で「麻酔」を使用しており,これが日本語「麻酔」の初出とされる[3].ちなみに英語 anaesthesia は,アメリカの内科医でハーバード大学解剖教授をつとめ,詩人,随筆家としても知られたホームズ(Oliver Wendell Holmes, 1809-94)が,1847年にモートンに宛てた書簡の中で提案したのが初出とされる[4].当初,エーテルによる麻酔状態は,insensitivity, etherization などと呼ばれていた.anaesthesiaはそれ以前から症状名として使われていたが,ホームズはこれをモートンのエーテル麻酔を表す言葉として提案し,以後普及した.

  • 1. Saito S, Kikuchi H, Matsuki A. The history of Japanese anesthesia. J Anesth Hist 3:103-6,2017
  • 2. 華岡青洲. 乳巖治験録 (1804)
  • 3. 松木明知. 「麻酔」の語史学的研究. 日本医史学会雑誌 29:304-15,1983
  • 4. Haridas RP. The etymology and use of the word ‘anaesthesia’: Oliver Wendell Holmes’ letter to W. T. G. Morton. Anaesth Intensive Care. 44 Suppl:38-44,2016