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江戸時代の医学 

後世派と古方派

図1. 山脇東洋(1706-1762). 古方派の医師[PD]

図2.山脇東洋の著書「蔵志」.日本初の解剖学書 [PD]

江戸初期の医学は,曲直瀬道三に端を発する道三流医学であった.これは「黄帝内経」 以来の陰陽五行説,五臓六腑説に立脚するものであったが,理論を重視するあまり思弁的でともすれば机上の空論に走りがちであるという批判から,江戸時代中期には,隋唐あるいはそれ以前の中国医学,特に張仲景の「傷寒論」を重視する一派が台頭した.これは「古方派」(こほうは)と呼ばれ,対する道三流医学を奉ずる学派を「後世派」(ごせいは)と言う.古方派の台頭は,当時中国(清朝)で,後世の加筆を排した古来の姿の傷寒論を復活しようとする一派の影響を受けたものでもあった.

古方派の祖は,名古屋玄医(なごやげんい,1628-1696)で,その後後藤艮山 (ごとうこんざん, 1659-1733),山脇東洋(やまわきとうよう,1706-1762)(図1),吉益東洞(よしますとうどう,1702-1773)らがこれを完成させた.古方派は単に古い文献を再興するだけでなく,実証精神に溢れていた.特に山脇東洋は,五臓六腑説の真偽を確認すべく解剖を志したが,当時はまだ解剖が禁じられていたためまずカワウソを解剖して,五臓六腑説は実際と大きく異なることを知った.しかしそれに飽き足らず,京都の刑場で解剖を試み,1759年その結果を解剖学書「蔵志」(図2)に著した.日本人の手になる初の解剖学書で,解体新書に10年以上先立つ業績である.吉益東洞は,万病の原因は毒であり、薬も毒であるから毒をもって毒を制すれば病気は治るという万病一毒論を唱え,その著書「類聚方」は1万部を超えるベストセラーとなった.

江戸時代後半は古方派が優勢となり,これは現代の 漢方医学 に直接つながるものである.古方派の医学は,陰陽五行説などを意識的に排除し,病因に立ち入ることなく「証」といわれる症状をもとに「傷寒論」を基本とする漢方薬を処方する.現在も売薬として良く知られる葛根湯,小柴胡湯などもこの古方派の処方である.しかしともすれば偏屈の誹りを免れない古方派,後世派の争いを超えて,古今の医書を比較検討してそれぞれの利点を組合わせようとする医師もあった.これは考証派あるいは折衷派と呼ばれ,多紀元簡,多紀元堅,和田東郭らが知られる.

関連事項

貝原益軒と養生訓

図3. 貝原益軒(1630-1714). 養生訓を初め多くの教育書,啓蒙書を著した  [PD]

「養生訓」で知られる貝原益軒(1630-1714)(図3)もこの時代の儒学者,医師である.医学的な観点から日常生活の注意,一般向けに健康法を説く養生書はこれ以前にも数多く書かれており,古いところでは曲直瀬玄朔も1599年に「延寿撮要」を著している.ここに書かれているのは中国の養生法で,言行篇,飲食篇,房事篇にわけて,規則正しい生活,食事,性交渉の節制などが説かれている.江戸時代にも多くの養生書が出版されている.古方派の祖とされる名古屋玄医にも「養生主論」の著があるが,基本的に古方派は後世派の養生論には批判的であった.

貝原益軒は,福岡藩医であったが,京都に7年間遊学して朱子学,本草学を学び,その後藩内で風土記,伝記の編集,儒学の講義などに携り,研究者,教育者として活躍した.

 

図4. 貝原益軒の「養生訓」.漢文ではなく漢字仮名混じり文で書かれている.当時のベストセラー,ロングセラーであった [PD]

図5. 貝原益軒の 「大和本草」 [PD]

1713年,最晩年82歳の時の著作「養生訓」が特に有名であるが,それ以前から,後に「益軒十訓」と総称された「家訓」「君子訓」「大和俗訓」「楽訓」「和俗童子訓」「五常訓」「家道訓」「文武訓」「初学訓」「養生訓」という一連の教育書,啓蒙書を著しており,日常生活の上での心構え,交際法,倫理道徳,教育法,健康法などを説いている.この他に,健康法に関する著作としては,52歳の時に出版した中国の養生法をまとめた「頤生輯要」(いせいしゅうよう)があるが,これにその後の経験も踏まえて,自らの言葉で書き綴ったのが「養生訓」である(図4).

貝原益軒の医学は,後世派,古方派,いずれとも分類し難いが,古方派を肯定しつつも,陰陽五行説もとり入れている.養生訓は全8巻から成り,食事,睡眠,運動の効用,喫煙の害を説き,欲望を抑え,心穏やかな生活を送ることが病気の予防に大切とするその教えは,時代を超えて通用するものであり,現在もしばしば引用される. 養生訓は当時のベストセラー,ロングセラーであったが,その具体的で誰もが実践できる内容が好評を博しただけでなく,本書が当時として珍しく,漢文ではなく漢字仮名混じり文で書かれたことも理由のひとつである.

益軒の数ある著作の中でこの他に医学を扱った重要な書として,1708年刊の「大和本草」 がある(図5).これは,李時珍の「本草綱目」をもとにこれを独自の観点から再分類し,自ら収集した日本の本草も追加して,その特徴,産地,薬効などを解説しており,やはり和文で書かれており,単なる本草書の域を超えた博物学書であった.

 

医学館

図6. 医学館.青:講堂(75畳),赤:病室(50余畳),橙:診察室,緑:寄宿舎.右および下の黄色部分は薬草園 [1].

江戸時代の医者には,将軍家に仕える官医である奥医師,各地の大名のお抱え医師である藩医,市井にあって庶民の治療にあたる町医者があった.奥医師は事実上世襲で,本道(内科)は多紀氏*,外科は桂川氏がとくに権勢を誇った.1765年,奥医師多紀元孝は江戸に医学教育の場として,私邸の一部に躋寿館(せいじゅかん)を開いた.医学校も免許制度もなかったも当時,医師を目指す者は師のもとに寄宿して徒弟制で医学を学ぶほかなく,技量の保証はなかった.多紀はこのような現状を憂いて医師の集団教育の場を提供すべく幕府に願い出て許可を得たものであった.1791年に医学館(図6)と改称されて幕府直轄の医師養成所となった.

医学館では,奥医師の子弟,藩医のみならず,町医者まで希望者は誰でも学ぶことができた.開講時期は毎年2月から5月までの100日間で,「本草」「霊枢」「素問」「難行」「傷寒論」「金匱要略」の6科目を学んだ.実地教育も行なわれ,講堂に接した病室で患者の診療を行ない,治療は無料であった.寄宿,通学,いずれも可能で,授業料は無料.生活費は自腹であるが,貧窮者には食事が支給され,書物,夜具も貸与された.江戸だけでなく,地方の藩でも医学校が設けられ藩医の育成に努めた.医学館は,当時勢いを増しつつあった西洋医学に対抗する和漢医学の拠点でもあり,ともすれば偏屈の誹りを免れない古方派,後世派の争いを超えて,古今の医書を比較検討する多紀元簡,和田東郭ら,考証派,折衷派の医師が集い,日本の漢方を完成に近づけた.多紀氏は医学館の運営を通じて,江戸幕府の医療政策にも大きな影響力を持つようになった

* 多紀氏は,平安時代に「医心方」 を編纂した丹波康頼の子孫. 丹波康頼の子孫は代々,典薬寮の長官である典薬頭(てんやくのかみ)を世襲し,室町,鎌倉時代を通じて将軍の侍医を多く輩出した.その後姓を全保とあらため,全保元康は2代将軍徳川秀忠に仕え,1752年,第9代徳川家重の時代に多岐と改姓して奥医師となり,江戸時代を通じてその地位を世襲した.

関連事項

小石川養生所

図7. 明治時代の小石川植物園内の小石川療養所 [2].

当時の江戸には,官立の診療所として,幕府直轄の医学館の他に,町奉行所が管轄する小石川養生所があった.江戸中期,貧民の増加が社会問題となり,8代将軍吉宗の時代,庶民の医療改革を訴える町医者の小川笙船(おがわしょうせん, 1672-1760)の目安箱への投書がきっかけとなって,1722年,もともと幕府が薬草園として管理していた小石川の御薬園を拡張してその一部に診療施設が新設された(現 東京大学小石川植物園内)(図7) . 当初は施薬院という名称であったが,当時既に良く知られていた貝原益軒の「養生訓」でも馴染みのある「養生所」に改称された.

医師は本道(内科)2名,外科2名,眼科1名が配され,100人以上の入院患者がいた.治療は無料,食事や衣類も支給された.山本周五郎著「赤ひげ診療譚」はこの小川笙船をモデルとした小説で,テレビドラマともなって人気を博した.ここでは仁医が活躍する理想的な医療が描かれているが,実際には劣悪な環境で不正が横行する組織で,必ずしも所期の目的を達するものではなかったらしい[1].町奉行所による再三の改革努力も虚しく,医療の質は改善しなかった.明治維新後も小石川貧病院として継続されたが,漢方医の廃止とともに閉鎖された.

  • 1. 安藤優一郎. 江戸の療養所 (PHP研究所, 2005)
  • 2. 福濱嘉宏. 小石川療養所の絵図面を中心とした建築的史料の検討と復元的考察.東京大学史紀要 33:1-37,2015