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黒死病

ミアズマとコンタギオン

図1.ミアズマをイメージした絵画.コレラの蔓延を描いたもの(Robert Seymore,1831) [PD]

ある種の病気が局所的に同時発生する,いわゆる流行病(はやりやまい)は古代から知られていたが,神罰とされたり,気象条件に流行の原因が求められた.ヒポクラテスは,「悪い空気」を吸うと体液のバランスが崩れて病気の原因となるとして,空気を汚染する目にみえない気体のようなものをミアズマ(miasma,瘴気,妖気)と呼んだ[1](図1).ガレノスも天然痘と思われる疫病を経験しているが(→アントニヌスの疫病),その理解はミアズマを超えるものではなかった.ミアズマの概念は,中世を通じて近代まで長く持ち越され,例えば17世紀を代表する内科医 シデナム(Thomas Sydenham)は病気をその経過で分類したが,天然痘,赤痢,ペストなどはミアズマが原因とし,またミアズマは地球内部から発生するとしている.19世紀に活躍した看護学の祖 ナイチンゲール は,看護病院の環境改善に尽力したが,やはり空気中のミアズマが病気の原因であるとして特に病室の換気を重視した.

中世になると占星術の影響から,天体の運行,配列が疫病の原因とされることもあった.例えばインフルエンザ(流行性感冒)はその周期性から天体の作用がが想定され,「影響」 を意味するイタリア語 influenza (英:influence)に由来する.

図2.フラカストロ(Girolamo Fracastoro, 1478-1553 ).疫病の原因がコンタギオン(伝染)であるとした [ PD]

しかし梅毒,天然痘,ペストなどが流行し,これらが単に局所的に発生するのみならず人の移動とともに拡大することから,ミアズマや天体の影響では説明できない,なにか接触によって疾患を伝播する物質が想定されるようになった.これを初めて明示したのは,16世紀,イタリアの医師フラカストロ(Girolamo Fracastoro, 1478-1553)で(図2),その著書で,コンタギオン (contagion,伝染)の概念を掲げ,感知できない粒子(particula insensibilis)が伝染の種子(seminaria)であると述べている[2].そしてこの粒子,種子が伝染するメカニズムとして,接触(患者の直接接触による),媒介(衣服などを介する),遠隔(空中に発散する)を区別した.病原微生物の存在はまだ知られていなかったが,この粒子,種子を細菌やウイルスに置き換えて考えれば的を射た理解といえよう.

  • 1. Curtis VA. Dirt, disgust and disease. A natural history of hygiene. J Epidmiol Comm Health 61:660-4,2007
  • 2. Fracastoro G. De contagione et contangiosis et eorum curatione, 1546

黒死病

歴史に残る流行病,伝染病の中でも最も大規模なものが,14世紀半ば,ヨーロッパを襲った「黒死病」である.その本態はペストであった.歴史上ペストの流行は度々記録されており,エジプトのミイラからもその痕跡が発見されているが,とくに三大流行とされるものは,6世紀にビザンツ帝国全域で発生して10万人以上が死亡,首都コンスタンチノープルの皇帝ユスティニアヌス1世も罹患したとされる「ユスティニアヌスのペスト」(plague of Justinian),14世紀のヨーロッパ大陸を襲った「黒死病」(Black death) ,そして19世紀(1855~)に中国雲南省を起源として拡がり,香港を経て太平洋地域,米国西岸まで拡大し,日本にも及んだ大流行である.

図3.黒死病の拡大.1347年(橙)に東方からシチリアに上陸し,38年(緑),39年(黄)にはヨーロッパ全土,北アフリカに拡大し,40年(紫),41年(赤)には北欧まで達した [PD]

図5.ロンドン市内で黒死病の死者を処分する人々(1665) [PD]

中でも犠牲者が格段に多かったのが14世紀の黒死病*であった.この起源については長らく議論があったが,最近のDNA研究から中央アジアの天山山脈の周辺(現キルギス~中国北西部,当時はモンゴル三汗国)であることが明らかとなった[1].ここからシルクロードや海路による東方貿易の人流,物流によって1347年にイタリアのシチリアに上陸し,約2年でヨーロッパのほぼ全土,北アフリカに急速にした(図3).

* 黒死病:14世紀の疫病流行当時,黒死病(Black Death)という名称は使用されていなかった.これ以前にも,ラテン語 atra mors (英:black death)という表現はあったが疫病一般を指す言葉で,特定の疾患を指すものではなかった.特に14世紀の大流行を指したこの表現の初出は1603年,デンマーク語 sorte dødとされ,以後各国語でこれに相当する表現が使用されるようになったものと考えられる.この場合,Blackはおそらく皮下出血のため黒変した患者の皮膚の様子に由来するものである [OED].

前述のように当時はまだ伝染病(コンタギオン)の概念が確立しておらず,ちょうど1345年に土星,木星,火星の三重合(地球からみて太陽と同じ位置にある状態)があったことから,これによるミアズマの発生が原因とされたり,あるいは天罰と考えられた.また,ユダヤ教徒に黒死病の犠牲者が少ない傾向があったため,「ユダヤ人の呪い」「ユダヤ人が毒をまいている」といった誹謗中傷が起こり,ユダヤ人への迫害がますます強くなるといった悲劇も生んだ(ユダヤ人の犠牲者が少なかった理由については諸説あるが,宗教儀式の際に手や体を洗うなど,個人衛生状態が良好であったことが挙げられている).

現在の知識では,ペストはペスト菌の感染症であり(→関連事項),齧歯類(ネズミ)が保菌宿主で,主に節足動物(ノミ)を介してヒトに感染する.病原菌侵入部位の所属リンパ節が腫大,壊死して疼痛を来たすと同時に,高熱を伴う全身症状を来たす(腺ペスト).ペスト菌が局所リンパ節にとどまらず血液を介して全身に播種すると,ショック症状を呈して高率に死亡する(敗血症型ペスト).さらに肺に感染すると重篤な出血性壊死性肺炎を来たし,24時間以内に死亡すると同時に,気道分泌物から飛沫感染源となるため公衆衛生上,重大な脅威となる(肺ペスト).アジア,北アフリカをふくめ1億人以上が死亡,ヨーロッパの死者は人口の1/3,2500万人とされる(図4).この結果,ヨーロッパの荘園制を支えていた農奴が不足し,荘園制が崩壊して小作農が誕生するなど,社会構造の変化を引き起こした.

ヴェネツィアでは貿易船が病気を持ち込まないように,入港した船の乗組員を一定期間隔離して検査する制度が定められた.この期間が40日(quaranta)だったため,ここから四十日隔離,現在で言う検疫(quarantine)という言葉が生まれた.史上初の公衆衛生政策と言える.

ペストは,この後もヨーロッパ各地で何度も流行を繰り返した.特に1664~5年の「ロンドンの大疫病」,1720年の「マルセイユの大疫病」は規模が比較的大きく,それぞれ7万人,10万人が死亡した(図5).

  • 1. Spyrou MA, Musralina L, Ruscone GAG, et al. The source of the Black Death in fourteenth-century central Eurasia. Nature 606:718-24,2022

関連事項

ペスト菌の発見

図6.イェルサン(Alexandre Yersin, 1863-1943).北里柴三郎とほぼ同時にペスト菌を発見,その学名に名前が残る [PD]

ペスト菌(Yersinia pestis)は,19世紀の中国での大流行の際に発見された.1894年,北里柴三郎 は明治政府の命によってペストが流行している香港へ渡り,患者の血液からペスト菌の発見を報告した.しかしちょうどこの時,フランス政府から派遣されたパスツール研究所の細菌学者イェルサン(Alexandre Yersin, 1863-1943)も現地で調査しており,北里のおよそ1週間後にペスト菌発見を報告した.両者が発見した菌の異同については議論があり,イェルサンがグラム陰性桿菌と報告したのに対して,北里は当初グラム陽性球菌と報告して後に訂正するなど混乱があったが,結局両者は同じものであることが確認された.

当初はキタサト・イェルサン菌と通称され,学名は既に知られていたPasteurella属の近縁と考えられたことからPasteurella pestisとされた.その後分類の見直しがあり,イェルサンの名前に因むYersinia pestisとされたため,北里の影はいっそう薄くなった感があった.しかし1976年,アメリカの研究者が当時の経緯を子細に検討した論文を著し,北里が発見者であることを再確認している[1].なお,日本では,1896年に横浜に入港した中国人船客から発見されたのが初例であったが,北里柴三郎の指導の下,政府は拡大防止に全力を尽し,例えば東京市はネズミ1匹を5銭で買い取るなどの予防策をとった.このため国内での発生は小規模に抑えられた(1926年までの感染例は約2,900例,その後国内発生はない).

  • 1. Bibel DJ, Chen TH. Diagnosis of plaque: an analysis of the Yersin-Kitasato controversy. Bact Rev. 40:633-651,1976

 

歴史を動かした疫病

《アテネの疫病 (Plague* of Athens)》

疫病は,ときに歴史を大きく左右してきた.最も古い記録は前5世紀の,歴史家トゥキディデスが書き残したもので,ギリシアのアテネとスパルタの戦い,ペロポネソス戦争(前431-404)で,ペリクレス率いるアテネ軍は籠城して有利に戦いを進めていたが,城内に疫病が発生して人口の1/3が失われ,このために敗北した.この疫病は発疹チフスであったと推測されている.

* 現在では狭義にペストを意味するplague, pestilenceという言葉は,正確な病名が不明であった時代から広く疫病全体を指して使われていた.日本語ではこれを「ペスト」と訳して,例えば「アテネのペスト」などの表現もあるが,その本態はペストとは限らず天然痘,チフスなども含まれ,「疫病」 と解するのが適当である.

《アントニヌスの疫病(Antoinine plague)》

ローマが最も繁栄し「ローマの平和」 を謳歌したのが五賢帝時代(96-180)であるが,最後の五賢帝マルクス・アウレリウス・アントニヌスの治世下,165年にローマに疫病が発生した.この時の様子は,アントニヌスの侍医でもあったガレノスが詳細に書き残しており,天然痘であったと考えられている.死者は1000万人以上と推測され,ローマ軍兵士も大半が罹患して弱体化したところにゲルマン人の攻撃を受け,ローマ衰退の契機となった.皇帝自身の死因もペストとされている. 

《ユスティニアヌスの疫病 (Justinian plague》

542~3年,ユスティニアヌス1世治世下のビザンツ帝国を襲ったペストは,プロコピオス(Procopius)が詳細に記載しているが,ペストであることが確認されているパンデミックとしては恐らく最初のものである.エジプトから輸入した穀物とともにネズミが侵入したのが原因とされる.首都コンスタンチノープルに発生し,死者は1日1万人にのぼり,人口の1/5が失われた.ユスティニアヌス1世も罹患したが,比較的軽症で回復した.帝国内では翌年には収束したが,その後ヨーロッパ各地,エジプト,アラビア半島にまで拡大した.農業生産が激減,穀物価格が高騰し,ひいては軍事能力にも影響がおよんだ.当時,ユスティニアヌス1世は,ローマ帝国の復活をめざして多額の戦費を費やし,ヴァンダル,東ゴート,西ゴートなど周囲のゲルマン諸王国を滅ぼしてビザンツ帝国の最大版図を達成したが,疫病による社会不安,軍事能力の低下により,例えば北イタリアでロンバルド王国が誕生するなど,これを維持することができず,その後急速な版図縮小の一因となった.

《天平の疫病》

日本でも奈良時代の735~7年,各地で天然痘が大流行し,100万人以上,当時の人口の25~35%が死亡した.初発は九州北部の太宰府と考えられており,736年に派遣された遣新羅使船がその往復に太宰府に立ち寄り,随員の一部がその途上に死亡していることから,彼らが平城京に帰還した際に都に持ち込んで全国に広まったと考えられている.朝廷の貴族も多数罹患して政務が停滞し,当時権勢を振っていた藤原四兄弟(藤原四子政権)も全員死亡した.政敵であった橘氏がその地位を奪って以後藤原氏の勢力は失墜し,政局を揺がした.ちなみに四兄弟の父で,大宝律令の制定や平城遷都に中心的役割を果たした藤原不比等(藤原鎌足の息子)も720年に天然痘と思われる病気で急逝している.

《ナポレオン軍と発疹チフス》

フランス革命末期,フランス軍の一将校だったナポレオンは,瞬く間に政権を掌中に収め,1799年に革命政府を樹立,ドイツ,オーストリア,ポーランド,スペインなど周辺各国との戦いに次々と勝利してその支配をヨーロッパ大陸に拡大していった.1812年,ロシア遠征に乗り出し,ポーランドを経由してモスクワを目指したが,5月にパリを出発した約50万人の兵士は,途上次々と疫病に倒れ,9月にモスクワ郊外に達した兵士は1/4以下になっていた.この時の疫病については諸説あったが,最近,埋葬された兵士の組織の検査により発疹チフスであったことが確認された[1].ナポレオン軍はこの後も進軍を続け9月にはモスクワに侵攻したが,結局ロシアの極寒に阻まれ12月までに全軍が敗退した.

《第一次世界大戦とスペイン風邪》

1914年に始った第一次世界大戦は,当初の予想に反して長引き,4年目を迎えた1918年3月にアメリカの陸軍基地で重症の風邪が発生,これが前線に派兵された兵士とともにヨーロッパ大陸に拡大,さらに全世界に広まった.連合国側も同盟国側も多数の兵士が罹患,死亡したものの,戦時中のことで正確な情報は公表されないまま,中立国のスペインからの報道が唯一の情報源となり,このためスペイン風邪と呼ばれたが,その本態は肺出血を来たす重症型インフルエンザであった.同年11月にドイツが降伏して終戦を迎えたが,スペイン風邪は長引く戦争に対する両陣営の厭戦気分をさらに高め,戦争終結の大きな後押しとなった.スペイン風邪の罹患者数は約5億人(当時の世界人口の約1/3),死者数は最も少ない見積でも2000万人,一説には1億人とも言われ,第一次世界大戦による戦死者1000万人を遙かに上回るものであった.

  • 1. Raoult D, Dutour O, Houhamdi L, et al. Evidence for Louse-Transmitted Diseases in Soldiers of Napoleon’s Grand Army in Vilnius. J Infect Dis 193;112-20,2006