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中世の医学

ビザンツからアラビア医学へ

図1.検尿容器(matula)を手にするテオフィロス)  [PD]

ビザンツの医学

395年,ローマ帝国は東西に分裂,476年に西ローマ帝国は北方からのゲルマン人の侵入により滅亡した.しかし,東ローマ帝国,すなわちビザンツ帝国はゲルマン人の影響が少なく命脈を保った.

ビザンツ帝国の医師には,ガレノスを初めとする古代ギリシア・ローマの著作の抜粋「医学集成」(Collectiones medicae)を著したオリバシウス(Oribasius, 320-403),ガレノスやオリバシウスの著作をまとめたアエティウス(Aetius of Amida, 530-560)らが知られる.修道士テオフィロス(Theophilus Protospatharius, 7世紀)はそれまでの尿診断に関する知見をまとめた「尿について」(De urinis)を著し(図1),さらにアクチュアリウス(Joannes Actuarius, 1275-1328?)がこれに独自の知見を加えた「尿について」(De Urinis,全7巻)はその後19世紀にいたるまで尿診断の基本とされた.

神学者イシドロス (Isidorus Hispalensis, 560-636)の「語源」(Etimologia,全20巻)は,アリストテレス以来の知識を集成した中世初の百科事典著作であったが,この中の医学を扱った章ではヒポクラテスの四体液説を説いている.10世紀に結合体双生児の分離手術が初めて試みられたことも記録されている.ビザンツ帝国はイスラーム帝国に侵食されながらも存続し,ここでギリシア・ローマの医学はそれなりに温存されたが,しかしその一方でキリスト教では,病は神の意志であり,ときにそれは罰であったり悪魔の仕業とされ, ヒポクラテス,ガレノス以来の病気は神,宗教とは無縁の自然現象であるとする考え方を異教として排斥する底流は根強く,しばしば迫害の対象となり,ビザンツ医学の主流は東漸してイスラーム世界に逃れた

アラビアの医学

この背景には当時のキリストは神か人間か,という教義上の大論争があった.結果として,三位一体を唱えキリストは特別な存在とするアタナシウス派が正統とされ,キリストの神性を否定するその他の立場は異端とされた.この異端の一つネストリウス派は,ビザンツ帝国からシリア,アラビアに逃れ,当時隆盛をきわめていたササン朝ペルシアにキリスト教ヘレニズム文化を伝えるとともに,ビザンツのギリシア医学を移植する役割を担った.特にホスロー1世(531-79)の保護の下,ペルシアのジュンディシャープールでは医学校,病院が造られ,ギリシア人医師,インド人医師らが集まって,ヒポクラテス,ガレノス,アリストテレスらの著作がシリア語に翻訳された.当時のジュンディシャープールは,かつてのアレクサンドリアと同じように,世界の知の集積所であった*. 

*シャンディシャープールで医学研究が盛んに行なわれたという事実については史料が乏しく,これは当時の支配階級による虚構であるという説が最近唱えられている [1] .

図2.バクダードの大図書館「知恵の館」にはギリシア語文献が集められ,アラビア語に翻訳された [PD]

図3. イブン=シーナ (980-1037)  [PD]

7世紀,ムハンマドがイスラーム教を創始すると,イスラーム帝国はまたたくまに拡大し,651年にはササン朝ペルシアを征服したが,イスラームの支配者(カリフ)はネストリウス派教会を保護し,首都バクダードにはジュンディシャープールから侍医も招かれた.8~9世紀には多くのギリシア語の自然科学書,医学書がアラビア語に翻訳されたが,とくにアッバース朝最盛期のハールーン・アッラシードの治世下(在位786-809)には科学,芸術が発達し,ギリシア語文献を集めた図書館「知恵の館」(バイト=アルヒクマ)がバクダードに建設され,アラビア語への翻訳,研究が国力を挙げて進められた.ネストリウス派キリスト教徒であったイブン・イスハーク(Huayn ibn Ishaq, 808-73)は,この翻訳活動をカリフに委任され,ヒポクラテス,ガレノス,プトレマイオス,アリストテレスらの著作を翻訳した.

 このような活動を背景に,単なる翻訳にとどまらず,イスラーム世界に独自の医学者,科学者も出現した.例えばアル・ラージ(Zakariya al-Razi,865-925)バクダードの病院長をつとめ,ギリシア,アラビア,インドの医学をまとめて独自の観察を加えた「包含の書」,特定の疾患を扱った書物としては初とされる「痘瘡および麻疹について」などを著した. 中でも,11世紀に活躍したイブン・シーナ(Ibn Sina, 980-1037)は有名で,幼い頃からイスラーム,ギリシア,インドの哲学,医学,自然科学を学び,若くして名医として知られた.第二のアリストテレスと言われるほど,哲学,自然科学を含む広範な領域に業績を残し,『医学典範』(全5巻)はその代表的な著作で,ヒポクラテス,ガレノスの医学をもとにインド医学も取り入れた体系的なものであった.その後ラテン語に翻訳され,ヨーロッパ各地で17世紀まで教科書として使用された. 

アラビアの医学は,特に薬物学が発展し,薬剤師という職業が生まれたのもこの時期である.特に毒物学,解毒薬の研究が盛んで,中でも医学典範にも登場する万能解毒薬「テリアカ」はよく知られる(→関連事項).

1. Savage-Smith E, Pormann P. Medieval islamic medicine. Edinburgh University Press, 2007


関連事項

万能薬「テリアカ」

図4.テリアカの処方書(12世紀).

テリアカ」 は,ローマ時代に小アジアにあった小国ポントス王国のミトリダテス6世が,自らの暗殺を恐れて編み出したといわれる解毒薬の処方が,ローマに伝わり,皇帝ネロの侍医アンドロマコスが66種類の薬物を調合してガレノスも改良したといわれるが,とくにアラビアで大きな発展をみた.さらに唐代の中国に「底也伽」として伝わり,日本でも10世紀末の日本最古の医書「医心方」にその名前が見える.

元来は蛇毒に対する解毒薬であったが,その後広く解毒薬あるいはさまざまな病気に効く万能薬とされた.その処方はきわめて複雑で,それだけで1冊の本になっているもある(図4).その成分は文献によって様々だが,「毒蛇の肉」 が重要で,これに数十種もの薬草を加え,糖蜜でこねて錠剤とし1年以上熟成させて使う.アヘンが含まれており,これが主たる薬効成分であった可能性が指摘されている[1].

  • 1. 中村輝子,遠藤次郎. テリアカの再検討. 日本医史学雑誌 43:238-9,1999
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修道院の医学

図5.修道院の病室  [PD]

6世紀,ローマの貴族だったベネディクトゥスが,ナポリ近郊のモンテ・カッシーノに初のキリスト教修道院を開いた*.修道士はベネディクトゥスの戒律(純潔,清貧,服従)を守り「祈り,働け」をモットーとする厳しい自給自足の生活を送ると同時に,学芸が奨励された.医学も修道士の教程の一つで,修道士の聖務には祈祷,労働のほか病者の看護が含まれ,病者には「キリスト自身に対するのと同じように奉仕する」ことが定められていた.

* 教会が一般の人々にキリスト教を伝える場であるのに対し,修道院は聖職者が共同生活を送りつつ神の教えを学び,実践する場である.10世紀には,クリュニー修道院が聖職売買などを行い腐敗していた教会の改革運動をすすめ,13世紀にはフランチェスコ修道会,ドミニコ修道会が教会の世俗化を批判するなど,教会に対する批判的存在として重要な役割を果たした.女子修道院も多く設けられ,ビンゲンのヒルデガルト(Hildegard von Bingen)のような修道女の活躍も知られる.

キリスト教の世界では,病は神の意志であり,己の犯した罪に対する罰であったり悪魔の仕業とされ,ギリシア・ローマの異教徒の医学を実践することは異端と見なされた.しかしその一方で,ベネディクトゥスの戒律にもある慈善の精神に基づく病者,貧者の救済は,修道士の行動規範でもあった.修道士の医療技術は原始的なものであり,医療の水準は低く,神への祈りが主体であったが,修道院の畑では食料自給の作物とともに薬草が栽培され,図書室には神学書とともに医学書が備えられ,ギリシア語で書かれたギリシア,ローマの医学書(ローマの医学書はギリシア語で書かれていた)をラテン語に翻訳,書写して医療技術,処方を学び,医術を専門とする修道士も現れた.このような形で,ギリシア・ローマの医学はここでも温存されることになった.

7世紀以降,修道院はヨーロッパ各地に設けられたが,多くの場合宿泊施設が備えられ,旅行者,巡礼者に宿泊施設を提供すると同時に,旅行者,近隣の貧者のための治療施設,また病気や怪我をした修道士のための治療施設ともなった.こうした施設は,修道院内において,宗教的な修行の場とは衛生上の問題もあって区画され,ここに施療院としての性格を持つようになり,後の病院の原型となるものであった(図5)

10世紀,ヨーロッパ各地から聖地エルサレムへの巡礼が盛んになったが,その道中,病やけがに倒れる者のために,各地に救護所が設けられた.その多くは王候貴族の寄進によるものであったが,教会,修道院によるものもあった.中でも有名なものにイタリアのアマルフィの商人が出資して建てたエルサレム救護所があり,修道士や騎士により運営された.

図6.パリの施療院(Hotel Dieu) [PD]

さらに11世紀末,イスラーム(セルジューク朝トルコ)に占領されたエルサレム奪回をめざして十字軍が開始されると,聖地エルサレムの防衛と,キリスト教徒巡礼者の保護を目的とする騎士修道会(騎士団)が次々と組織された.エルサレム救護所を背景として生まれた聖ヨハネ騎士団は,病院騎士団(Knights Hospitaller)とも言われ,エルサレムに2000人規模の病院を運営していた.このほかにも三大騎士団として,テンプル騎士団,チュートン騎士団が活躍し,修道士は異教徒と戦い,聖地や巡礼者を保護するという軍事的役割に加えて,医療奉仕に従事し,病院では医師,聖職者が看護にあたった.

その後の中世ヨーロッパでは,このような巡礼救護所,宗教騎士団の病院のほかにも,教会,宗教と無関係な職業団体(ギルド)が運営する施療院/病院もあり,13世紀には1万9千もの病院があったと言われる.世俗の病院は,必ずしも貧しいキリスト教信者の治療施設とは限らず,ギルドのメンバーの医療のために設けられたものもあり,宗教と独立した医療組織,病院へと発展した(図6).しかし,小規模なもの,劣悪な環境も少なくなく,中世の病院は病気治療の場である以上に,病者,貧困者,浮浪者などの収容所であり,金持ちの患者は自宅に名医を招いて治療を受けていた.

16世紀,腐敗したローマカトリック教会に反旗を翻したドイツのルターによる宗教改革(1517)はまたたく間にヨーロッパ中に広がり,人々の精神を解放する役割を果たした.しかしプロテスタントは修道院を否定した.さらにカトリック側がプロテスタントに対抗すべく開いたトリエント公会議(1545)では,俗人信徒による看護が禁じられため,医療活動は大きく後退せざるを得なかった.特にイギリスでは1540年,ヘンリー8世がカトリック教会と袂を分かってイギリス国教会を作り,修道院の財産を没収するに至って教会の医療施設がほとんど閉鎖された.ドイツではイギリスほど壊滅的ではなかったものの,多くの医療施設が教会の手を離れて領主,都市の経営となり,医療,看護の質は大きく後退した.

関連事項

「賢い女」と魔女

医師の治療を受けることができたのは,相応の報酬が払える貴族や商人に限られた.この時代の一般人,貧者の医療を支える仕組みには,修道院を中心とする宗教者が慈善事業として提供する医療と並行して,キリスト教普及以前からヨーロッパの集落には,wise folk (man/woman),cunning folk(man/woman)などと呼ばれると呼ばれる医療者が存在した.助産婦としての役割を求められたことから女性(wise woman, 賢い女))が多かった.彼らは学問として医学を学んだ者ではなかったが,伝承と経験をもとに,呪術を行ない,薬草を調合して村人の病気や怪我を手当てした.最先端の医学知識がごく少数の医学者,医師の専有物であり,修道院の医療も加持祈祷の域をでなかった当時,これら伝統的な女性治療者は,必ずしも村人の治療だけではなく,貴族や聖職者の治療にもあたっていた[1-3].教会はその教義を離れた彼女らの存在を必ずしも快く思わなかったにせよ,教会の医療と民間の医療は,共存してそれぞれに役割を果たしていた.

しかし15世紀になると,この関係は大きく崩れた.魔女狩りである.魔女とされる理由は様々であったが,教義にはずれる呪術を行なう wise woman「賢い女」はその格好の標的とされて火刑に処された.なぜこの時期に魔女狩りが盛んになったかについては諸説あるが, 14世紀後半に黒死病が流行して以来社会構造が大きく変化して社会不安を招いたこと,1486年に異端審問官クラーメル(Heinrich Kramer)が魔女狩りの手引き書「魔女への槌」(Malleus maleficarum)を出版し,当時グーテンベルクが発明したばかりの印刷技術の力もあって広く読まれたことなどが要因として挙げられている.魔女狩りはこの後200年以上も続いた.

  • 1. Minkowski WL. Women healers of the middle ages: Selected aspects of their history. Am J Pub Health 82:288-95,1992
  • 2. Walker BG. How local wise-women who carried on ancient traditionswere exterminated by Christianity. Church and State, Oct. 2008 (https://churchandstate.org.uk/2012/08)
  • 3. Sliverman L. The history of witches: How christianity and misogyny turned reversed healers into wicked pariahs. October 13, 2020 (https://allthatsinteresting.com/history-of-witches)

医学校・医学部の誕生

前述のようにギリシア・ローマ医学を伝えるギリシア語文献の多くが,イスラーム文化圏に流出したが,その後様々な形でラテン語に重訳されて西洋医学に伝えられた.これには医学校,医学部の発達が大きな役割を果たした.医学校で教科書として使用するラテン語文献の必要性から,ギリシア語,アラビア語からの医学文献翻訳が加速したためである. 

図7.サレルノ医学校で講ずるコンスタンティヌス・アフリカヌス [PD]

9世紀頃,南イタリアに最古の医学校,サレルノ医学校が登場した*[1].その成立の経緯は不詳であるが,サレルノは地中海貿易により経済的に繁栄し,ギリシア,ローマ時代からの伝統に加えて,当時イスラーム支配下にあったシチリアに近く,ユダヤ人も多い国際的な都市で,学者,医師も多かった.このような中で医学校が自然発生的に発生したものと思われる. 

* サレルノ医学校では女性も教育を受け,医師として活躍した.その多くは医師の妻や娘であったが,医学の世界に再び女性が,それも苦難の末に登場するのは20世紀も後半であることを考えると,一過性の現象とはいえ,サレルノの自由な空気をうかがわせるものである. 

やがて,サレルノ近郊のモンテ・カシーノ修道院にコンスタンティヌス・アフリカヌス(1010-?)という医師が現れた(図7).経歴については諸説あるが,北アフリカのカルタゴに生まれ,アラビア,インドまで30余年にわたって東西の学問を究めてイタリアに至り,イスラーム教徒からキリスト教に改宗して修道院に定住したとされる.コンスタンティヌスは自ら病に伏したとき,イタリアの医学が遅れていることを知り,カルタゴに戻ってアラビア語の医学書を大量に集めてサレルノ医学校に持ち込んでラテン語に翻訳した.その中には,イスラームの医学書に加えて,ヒポクラテス,ガレノスをはじめとするギリシア・ローマの医学書の重訳も多くあった.サレルノ医学校はこの豊富な医学書を背景として,最先端の医学教育の場となった.その基本は,ギリシア・ローマの伝統的な四体液理論に基づく医学であったが,独自の医学も発信した. 中でも有名なのが,『サレルノ養生訓』である.これは詩文体で書かれた一般人向けの健康手引き書であるが,各国語に翻訳され非常に広く読まれた(→参考資料). 

図8.11世紀以降各地に医学校・医学部が生まれた().トレドとパレルモは医学書のラテン語訳の中心地であった(

13世紀に入ると,サレルノ医学校は衰退したが,代わって栄えたのが南フランスのモンペリエ医学校である.モンペリエは,8世紀以来イスラーム支配下にあったイベリア半島に近く,イスラーム文化の影響が色濃い土地柄であった.またイベリア半島の中ほどにある,1085年にキリスト教徒が奪還したトレドは,アラビア語文献のラテン語への翻訳が盛んに行われ,いわゆる12世紀ルネサンスの中心地であった.このような背景のもとに,モンペリエ医学校では,アラビア医学の強い影響を受けた医学が行われた.  

これらのイスラーム文化,ギリシア・ヘレニズム文化の流入に刺激され,12世紀以降イタリアを初めとして中世ヨーロッパ各地に大学が誕生した(図8).最古の大学は,ガリレイ,コペルニクスらが学んだ北イタリアのボローニャ大学(1158-)である.その後,前述のモンペリエ医学校を前身として開設されたモンペリエ大学は,ヨーロッパ最古の医学部となった.1222年,ボローニャ大学の教授と学生の一部が,より自由な空気を求めて開いたパドヴァ大学は宗教色が薄く,これに続くルネサンス期の医学の改革に大きな役割を果たした.パリ大学では,サレルノ医学校で学んだ医師が医学を講じ,特に外科学に優れていた.  さらに1450年,グーテンベルクが印刷技術を発明し,それまで手写に頼っていた医学書の普及に大きく貢献した.これにより,ヒポクラテス,ガレノスの著作のラテン語訳のほか,当時の医学者による独自の医学書,解説書も出版されるようになった.

* 12世紀ルネサンス:かつてエジプトのアレクサンドリアに集積されていたギリシア・ヘレニズム文明が,ローマ帝国末期に国教キリスト教にとって異教の文化であるとして破壊され,あるいはローマ衰退とともに失われる中,ササン朝ペルシアに亡命した学者が伝えた学問が,ペルシアを征服したイスラームに保存され,西欧世界とイスラーム文明の接触により,再びこれを(イスラーム固有の文明とともに)西欧が獲得した過程.具体的には,イスラームに奪われたイベリア半島を取り戻す領土回復運動(レコンキスタ,718-1492)の中で,1085年に奪還されたトレドのトレド大聖堂図書館で,イスラームがもちこんだアラビア語,ギリシア語文献の翻訳が精力的に進められた.この中には,アリストテレス,プトレマイオス,ガレノスらの著作,イブン=シーナの「医学典範」 などがあった.このようなラテン語への自然科学書,医学書の翻訳は,11世紀から14世紀まで,トレドの他にもシチリアのパレルモでも行われ,その後ラテン語による新たな医学書著作の素地となった.