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外科学の芽生え

理髪外科医

図1.理髪外科医の仕事場.左奥は瀉血,右手前は頸部の切開を行なっている.[PD]

ヒポクラテス全集では,約1割が外科疾患の記述に当てられており,骨折,脱臼,痔瘻などの治療法が記載されている.ガレノスは,膨大な著作を残しており,その中にはヒポクラテス全集の外科に関する注釈はあるが,なぜか自らの外科学については記載が残っていない.

中世ヨーロッパの医師は,医学校,大学,あるいは修道院でラテン語で書かれた医学書で医学を学ぶ知識人で,診察して治療法をアドバイスし薬を処方する内科医であり,自ら手を下すことは下等な行為であると考して外科処置は行なわなかった.外科医療は修道院で主に行なわれたが,聖職者は流血を伴う処置を行なうことが禁じられたため,剃髪のために出入りする刃物の扱いに慣れ た理髪師がこれを代行するようになり,12世紀頃には理髪師と外科医を兼ねた「理髪外科医」(床屋外科,barber surgeon)と言われる職人が発生した(図1).

理髪外科医は,医師とは異なり身分の低い職人で,例えば大工や革職人などと同じように親方のもとで徒弟制によって技術を身につけ,読み書きすらできない者もいた.彼らは町に店を構える者の他にも,巡回外科医として馬車に医療器具を積んで各地を巡り,大道芸を披露して客を集めては怪しげな薬を売り,宿屋の店先を借りたりテントを張って手術もするといった風であった.藪医者(quack)も少なくなかったようであるが,中には膀胱の砕石術(→関連事項:膀胱結石の名医チェゼルデン),白内障治療(→関連事項:ヘンデルとバッハを失明させた眼科医)などを専門とする外科医もあり,名医といわれる外科医も登場し,外科学は着実に進歩していった.

16~18世紀の外科学

外科学の父 パレ

図2.パレ(Ambroise Paré, 1517-1590).理髪外科医であったが,外科学の父とされる [PD]

図3.パレの著書の挿図.足に刺さった矢を抜く方法の説明.文章はラテン語ではなくフランス語で書かれている.[PD]

16世紀に活躍した近代外科学の父と言われるフランスのパレ(Ambroise Paré, 1517-1590)(図2)は,外科の歴史を大きく変えることになった.パレも徒弟制で外科を学んだ理髪外科医であったが,パリに出て頭角を表わした.当時はイタリア戦争*の最中で,戦傷者が溢れていた.この戦争では,それまでの騎士による刀や槍での戦いから,銃器が本格的に使われるようになったが,当時の鉄砲は口径20mm以上と大きく,銃創はこれまでになく重症で,化膿は必発であった.

*イタリア戦争:1494-1559年,当時分裂状態にあったイタリアをめぐって,フランス(ヴァロア朝)と,スペインとドイツ(神聖ローマ帝国)を支配するハプスブルク家が争った.フランスがイタリア権益を放棄して終結した.ちょうどルネサンス期に重なり,技術革新を背景として騎士が没落,火砲を駆使する集団戦が主体となり,戦争形態が大きく変化した.

1536年,パレは従軍外科医となり多くの戦傷を治療した.当時,銃創は「火薬毒」で汚染されていると考えられ,これを消すために傷を焼きごてで焼灼したり,煮えたぎる油を傷にかけて治療する焼灼止血法が基本とされた.従って,戦場では戦傷による苦しみ以上に,焼きごてや熱油で治療される兵士の叫び声がうずまいていた.あるときパレは油を切らしてしまい,やむなく卵黄,バラ油,テレピン油を混ぜた膏薬を塗って包帯をしていおいた.数日後,パレが恐る恐る傷口の包帯をはがしてみると,予想に反してほとんどの傷が化膿することなくきれいに治っていた.激痛の恐怖から解放された兵士の評判も上々で,これはそれまでの戦傷治療を一新する画期的なものであった.1545年,パレはこれを「銃創の処置法について」に著した.

パレはこの他にも,四肢切断術の止血に従来の焼却止血法に替えて血管結紮法を導入したり,気管切開,顔面形成術など多くの術式を考案し,義足,義眼なども製作した[1-3].1582年,パレはこれらの知識と経験をまとめた「外科学大全」を著したが,ラテン語を知らないパレの著書はすべて平易なフランス語で書かれていたため,幅広く読まれ,その後の外科学の基本となった.江戸初期の日本にもオランダ語訳が輸入されている.

パレはその力量を買われて,歴代のフランス王の侍医として仕えた*.人間的にも患者思いで,信心厚い高潔な人物であった.「我れ包帯し,神が治し給う」 という有名な言葉はその謙虚さの表れと言えよう.

* パレは身分の低い理髪外科医ながら,アンリ2世,フランシス2世,シャルル9世,アンリ3世の侍医を務めた.アンリ2世は,1559年に余興の馬上槍試合で誤って頭部に受傷し,それがもとで落命したが,このときパレはイタリアのヴェサリウスとともに治療にあたった.1572年,旧教派が新教徒(ユグノー)数万人を殺害したサンバルテルミーの虐殺事件では,新教徒のパレをシャルル9世がクロゼットの中にかくまったというエピソードが残っている[1].

  • 1. Hernigou P. Ambroise Paré's life (1510-1590): part I. Internat Orthopaed 37:543-7,2013
  • 2. Hernigou P. Paré' II: Paré's contributions to amputation and ligature. Internati Orthopaed 37:769-72,2013
  • 3. Hernigou P. Paré' IV: The early history of artificial limbs (from robotics to prosthesis). Internat Orthopaed 37:1195-97,2013

膀胱結石の名医 チェゼルデン

図4.チェセルデン(William Cheselden, 1688-1752)

[2]

図5.チェセルデンの著書Osteographia.全身骨の正常像,異常像が精緻なスケッチで収められている.脛骨・腓骨骨折の例. [2]

理髪外科医が行う外科手術の大部分は,現在でいう「小外科」で,表在創の治療,膿瘍の穿刺排膿,皮膚表在腫瘍の切除,あるいは抜歯や瀉血などであった.さらに大がかりな手術,例えば膀胱結石,鼠径ヘルニア,白内障などは,それれぞれ得意とする専門の理髪外科医がおり,後世に名前を残す名医も登場した.

例えばイギリスのチェゼルデン(William Cheselden, 1688-1752)(図4)は,膀胱結石の除去術で知られ,現在でいう外側会陰切開法を発明し,それまで30分以上かかっていた手術を数分で行ない,死亡率80例中6例という当時としては画期的な成績を収めた.この時代,酒,飲料などの質が悪かったためか,尿路結石,特に膀胱結石に悩む患者は非常に多く,麻酔のなかった当時,素早い手術は重要視された.

1733年には骨解剖の教科書 Osteographia を出版したが(図5),これは暗箱カメラ(カメラオブスクラ)で実際の骨を撮影することにより極めて精緻なスケッチが収められており,正常骨のみならず骨折など病変も含まれ,また鳥や動物の骨も描かれている[1].チェセルデンは1745年の外科医組合(Company of Sugeons)を設立者のひとりであった.

  • 1. Neher A. The truth about our bones: William Cheselden's Osteographia. Med Hist 54:517-28,2010
  • 2. Cheselden W. Osteographia or the anatomy of the bones. London, 1733

 

実験医学の祖 ハンター 

図6.ハンター(John Hunter, 1728-1793)[PD]

パレと並んで近代外科学の祖とされるハンター(John Hunter, 1728-1793)(図6)は,スコットランドのグラスゴウ近郊に,裕福な穀物商の父の10番目の子供として生まれた.二人の兄は優秀だったが,ジョンは学業に身が入らず,13歳で読み書きもままならない状態で学校を退学し,家具職人の見習い工となった.一方,10歳年上の兄のウィリアムはグラスゴウ大学を卒業後,医学の道に進み,ロンドンで外科医,解剖学者として成功していた.兄はジョンを助手として雇い,ジョンは解剖用の屍体の扱いや標本製作を手伝うようになった.その後,当時著明な外科医であったsチェセルデン(William Cheselden),ポッツ(Parcival Potts)のもとで修行を積んだ.1760年,七年戦争(1756-63)に軍医として従軍し,フランス,ポルトガルで負傷者の治療にあたった.この時の経験をまとめた「血液,炎症,銃創について」(A Treatise on blood, inflammation and gunshot wounds)は,死の翌年1794年に出版され創傷治療の古典として長く読みつがれた[1-3].

1763年に除隊後は,ロンドンで開業し,翌1764年に解剖学校を開き,ここで多くの後進を育成するとともに多彩な研究を行なった.その後のハンターの医学的業績はきわめて多岐にわたる.当初は歯科医と共同で開業していたことから,歯牙,顎骨の解剖学,病理学の研究に大きな功績があり,1771年,78年に出版された「人の歯の自然史」(The natural history of the human teeth)は初の歯科学文献とされる.切歯,犬歯,臼歯という現在の解剖学的区分もハンターによるものである.1776年には,尿道下裂の男性の精液を妻の膣内に注入することにより初の人工授精に成功した.当時猛威を奮っていた性病の研究でも知られるが,淋病患者の膿を自らの外陰部に塗布したところ,淋病の症状に続いて梅毒の症状が現われ,両者は同一疾患であるという誤った結論に達している*1.1774年の著書「妊娠子宮の解剖図譜」 (The anatomy of the gravid uterus exhibited in figures)では,胎児循環系が母体と独立であることを初めて記した.リンパ管の解剖と生理を詳細に研究し,乳糜が消化管に由来することを示した.1785年には,当時馬車の御者に多発していた膝窩動脈瘤の新しい治療法を開発し*2,血管外科の祖ともされる.大腿内転筋管(Hunter’s canal)にもその名前が残る*3これらの研究は,すべて綿密な動物実験を基礎としており,ハンターは実験医学の父 とされる.種痘法の発明者ジェンナー(Edward Jenner, )はハンターの下に住み込んで修行したが,牛痘について訊ねたところ「考えるより実験してみろ」(Do not think, but try)とアドバイスされたという[1].

1790年に軍医総監(Surgeon General)となり,1793年に心臓発作で没するまでこの地位にあり,イギリス軍の軍医登用制度の改革に尽力した.折しも在任期間中にナポレオン戦争が始まり,イギリス軍の医療はハンターの責にあった.

ハンターは医学標本の収集で特に知られており,様々な疾患の全身標本,臓器標本のみならず,動植物,鉱物,化石まで収集し,自宅の一角に展示した.標本を集めるためには手段を選ばなかったという*4.このコレクションは現在ハンター博物館(Hunterian Museum)として公開されており,1万点を超える標本が収蔵されている.

 *1 この実験が自己人体実験という説もあるが,原著にはその記載がなく不詳である.淋病,梅毒を併発した理由は,同時感染であったと思われる.これが誤りであることは,1838年にフランスの医師Philippe Recordの研究で初めて明らかになった.

*2 馬車の御者には,長い乗馬靴の縁が膝下を圧迫することによる膝窩動脈瘤が好発した.当時の治療法は,下肢切断術あるいは動脈瘤直上での動脈結紮術で,いずれも死亡率が高かった.ハンターは,動物実験により動脈を結紮しても側副血行路が発達して機能障害に陥らないことを確認した上で,動脈瘤近位側高位での血管結紮術を考案し,公開手術をおこなった.手術時間はわずか5分で,動脈瘤は縮小し患者は歩行可能となった.

図7.巨人症患者のチャールズ・バーン. 死後ハンターが遺体を手に入れて骨格標本にした [2]

*3 Hunter's ligament (子宮広靱帯)は,兄の William Hunterにちなむ.

*4 ハンターの自宅診療室の裏手は解剖室につながっており,「ジキル博士とハイド氏」の家のモデルになったと言われている.当時,共同墓地に埋葬された遺体を掘り起して解剖学者に売る "resurrectionist" という闇商売が横行しており,ハンターもこれを利用していたと思われる.当時,アイルランドにチャールズ・バーン(Charles Byrne, 1761-83)という 巨人症 の男がいた(図7).身長約250cm,10代後半でロンドンに出た当初は "Irish Giant" として見世物小屋の人気者であったが,やがて世間の関心も薄れ,困窮してアルコール中毒になり,肺結核も患っていた.バーンは自らの短命を予知していたが,外科医や解剖学者が自分の体を標本にしようと目を付けていることを知り,遺体が切り刻まれることを恐れて,死後は遺体を海に沈めて欲しいと周囲に依頼していた.1783年6月1日,バーンが死亡すると,案の定遺体を求めて大勢の外科医が家に押しかけた.彼の友人たちはなんとか遺体を守ろうと努力したが,ハンターは葬式業者に500ポンドを握らせて遺体を手に入れ,煮沸して骨格標本を作り,自らのレクションに加えた.この時代,巨人症と下垂体の関係はまだ知られておらず,ハンターはトルコ鞍についても何も記載していないが,120年以上を経た1909年,アメリカの 脳外科医 クッシング (Harvey Cushing)が,ハンター博物館を訪れ,バーンの標本の頭蓋を開けるよう求め,トルコ鞍が拡大していることを確認した[4,5].

関連事項

ヘンデルとバッハを失明させた眼科医

図8.手術しているテイラーを描いた当時の風刺画(Thomas Patch)[PD]

中には評判の芳しくない外科医もいた.チェセルデンの弟子であったイギリスの眼科医テイラー(John Taylor, 1703-72)は,白内障手術を得意とし,視交叉の解剖を初めて記載するなど優れた業績もあるが,その手術成績は悲惨なものであったらしい.当時の白内障手術は,現在のようにレンズ摘出術ではなく,白濁したレンズを硝子体の中に落とし込んで光路から外す水晶体墜下法であった.

テイラーは各地の貴族や有力者に言葉巧みに自分の技術を売り込んで高額の治療費を取って手術したが,失明者が続出した(図8).手術後,5日間は包帯を取らないように指示したが,患者が包帯をほどいて失明に気づいたときにはもうその土地を離れていた.右利きのため手術しやすい左眼しか手術しなかったとも言われている.音楽家のヘンデルはテイラーの手術を受けて失明,同じくバッハも失明,その4ヶ月後に死亡した[1].

  • 1. Zegers RH. The eyes of Johann Sebastian Bach. Arch Ophthalmol 123:1427-30,2011

外科医の地位向上

初期は低い社会的地位に甘んじた理髪外科医であったが,技術の蓄積とともに次第にその地位は向上していった.彼らは前述のパレのようにラテン語ではなく英語,フランス語など日常の言葉で実際的な技術を記録し,著書を出版したことから,外科学の知識や技術が広く普及する助けともなった.

図9.ロンドン市内に設けられた理髪師外科医組合のホール(1830) [CC-BY-4.0]

やがて外科を専門にする職人も現れ,イギリスのロンドンでは1435年に外科を専門とする職人の外科医ギルド(Guild of Surgeons)が生まれ,既存の理髪師ギルドはこれと争って1462年には理髪師ギルドが外科手術を行える勅許を得た(図9).1540年には理髪外科医組合(The Company of Barbers and Surgeons of London)が認可され,外科医と理髪師はそれぞれの業務に専念することが定められたが,抜歯のみいずれにも許可された.その後も両者の間には長く確執が続いたが,1745年には外科医が独立して外科医組合(Company of Sugeons)を組織し,さらに1800年にロンドン王立外科医師会(RCS, Royal College of Surgeons in London)が設立され,1843年にイングランド王立外科医師会 The Royal College of Surgeons of England)と改名して現在に至っている[1].

フランスでは,1687年,時のルイ14世(太陽王)の肛門周囲膿瘍の手術を外科医フェリックス(Charles-Francois Felix)が見事成功させ,外科医は一目置かれるようになった.1731年にはフランス外科学会が設立され,1743年にはルイ15世が外科医と理髪師の分離を定め,その後徒弟制が廃止されて外科医も学問として医学を学ぶようになった.

このように中世に理髪外科に始った外科は,理髪師と外科医のすみ分けを巡って紆余曲折を経ながらも次第に近代外科に向けて発展し,内科と対等の地位を築いていった.しかし,その内容はまだ表在の小外科にとどまるもので,現在のような本格的な外科手術が安全,確実に行えるようになるには,なお二つの壁,すなわち消毒法と麻酔法の確立を待つ必要があった.

  • 1. The Barber's Company (https://barberscompany.org/history-of-the-company/)

関連事項

イギリスの外科医の呼称 Mr.

イギリス,アイルランドでは,外科医はMr./Ms.~ ,それ他の診療科の医師はDr.~と呼称される.この理由も,この当時の外科医誕生の歴史に由来する[1]. 

図10.瀉血を行なっている surgeon apothecary.外科医の多くはこのような小外科を行なう開業医で,Dr. の呼称で呼ばれた [PD]

イギリスでは,他のヨーロッパと同じく,医師といえば大学医学部で教育を受けた内科医(physician)であり,学位(M.D., Medicinae Doctor)を有し Dr. と呼ばれた .外科医は理髪外科医(barber surgeon)以来,徒弟制で実地訓練を受けて医学を身につけ学位などもたず,Mr. の呼称で呼ばれた.外科医は,社会的にも学問的にも低い位置に甘んじていた.しかし18世紀になると,大学から独立した病院が多く設けられて外科医の活躍の場が拡大し,前述のハンターのような優れた外科医が登場するようになり,このような上下関係は失われていった.

前述のように1800年に Royal College of Surgeons of London (RCS)が設立され,試験によりその入会資格を得た外科医は,名前のあとに MRCS (Member of RCS)を添えるようになり,Dr. と呼ばれるようになった.

これに加えて,当時のイギリスの開業医は,中世以来存在した薬種商(apothecary)*を外科医が兼ねる surgeon apothecary(その後 general practitionerと呼ばれた)として小外科,産科,投薬などを行なう者がほとんどであった(図10).1815年,イギリス初の医療職規定法とされる薬種商法(Aptothecaries Act)が制定され,薬種商にも資格試験が課せられるようになり,薬種商協会免許(LCS, Licence of the Society of Apothecaries)が生まれたが,surgeon practionerの多くはMRCSでもあり,名前の後ろには MRCS, LCSと書くようになった.

このような状況下,大病院で本格的な外科医療に携る純粋な外科医は,理髪外科医(MRCS)や薬種商(LCS)と同列に扱われることが不服であった.当時のロンドンで,約8,000人のMRCSに対して,本来の外科医は200人程度であったという.そこで,1843年,RCSが Royal College of Surgeons of Englandに改組されたおり,純粋な外科医にのみ与えられる新たな資格 FRCS (Fellow of RCS)が設けられた.そこで,FRCSを持つ外科医は,その誇りの証(a badge of honor and distinction)としてMr. を名乗るようになった.

現在のイギリスでは,MRCPとFRCPは,日本でいえば一部の学会に定められている認定医と専門医のような関係で,MRCS資格取得後にFRCSを取得する.医学部卒業後,研修期間中はDr. と呼称されるが,FRCS取得時点で,Mr. を名乗ることを選択できる.

* 薬種商(Apothecary):中世以来,イギリスの医療職には,医学専門職である医師(内科医, physician),商人である薬種商(apothecary),職人である理髪外科医(barber surgeon)が存在した.薬種商は本来はいわゆる薬屋であり当初は食料品組合の一員であったが,1617年に薬種商協会(Soceity of Apothecaries)が設立されて食料品組合から独立した.薬種商は内科医の監督の下に置かれたが,顧客に医学的助言を与えることが認められ,次第に独立した医業を行うようになったことから,内科医との間に職域を巡る争いが絶えなかった.しかし一般庶民にとっては最も身近な存在であり,17世紀のペストの流行時に本来の医師が街を逃げ出した後,病者の診療にあたったのも薬種商であった.街のいわゆる開業医の多くは外科医と薬種商を兼ねる surgeon apothecaryで,一般にはDr.と呼ばれていた.1815年の薬種商法(Apothecaries Act)により免許性となり,長年の念願がかなって薬種商の医療行為が正式に認められた.1840年の時点で,イギリスの内科医は274名,外科医は2,800面,薬種商は9,000名以上であったという.しかし1853年,医師法(Medical Act)が施行され,医師の地位が確立するとともに,薬種商の医業は医師の手に,薬業は薬局(chemist)の手にわたり,薬種商は衰退した[2].

  • 1. Loudon I. Why are (male) surgeons still addressed as Mr? Br Med J 321:1589-91,2000
  • 2. 多田羅浩三. 医と社会-イギリス薬種商の歴史から学ぶもの. 社会保障研究. 20:144-7,1984