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幕末・明治維新の医学 

ポンペの来日

図1. ポンペ(前列右) とその門下生たち [PD]

黒船来航の翌年,1854年に日米和親条約が成立,鎖国体制が終焉を迎えた.幕府は長崎に海軍伝習所を開き,軍医養成にはオランダ商館の医師ファン・デン・ブルック (Jan Karel van den Broek) があたったが,1857年,その後任としてポンペ (Johannes Pompe van Meerdervoort, 1829-1908)(図1)  が来日し,医学伝習所を作って本格的な西洋医学教育が開始された.ポンペの教育法は,それまでの漢蘭折衷医学や翻訳書をもとにした中途半端な蘭方医学とは全く異なるもので,5年間かけて,物理学,化学などの基礎科学,解剖学,生理学など基礎医学を学んだ上で,内科学,外科学,眼科学,産科学など臨床医学を学んだ.

ポンペは,幕府に実習病院設立の必要性を説いて,(長崎)養生所を1861年に建設したが,これは124床,手術室4室を備える本邦初の近代病院であった.医学伝習所も同じ場所に移転して(長崎)医学所*となった.医学所では医学教育,養生所では診療が行なわれ,日本初の近代的な教育診療態勢が整った.

*その後,養生所,医学所は統合されて精得館と改称され,長崎府医学校を経て現在の長崎大学医学部の前身となった

ポンペは5年間の滞在期間中に,130人以上の日本人蘭方医を指導し,14,000人の患者を診察した.門下には,佐倉順天堂の創始者佐藤泰然*の息子で後の帝国陸軍軍医総監となる松本良順*,適塾の緒方洪庵により派遣されその後の日本の医学制度を定め,衛生学の草分けとなった長与専斎,大学東校病院(現東京大学病院)長を務め,後に杏雲堂病院を創始した佐々木東洋らがいた.

1862年に離日したポンペの後任には,同じくユトレヒト軍医大学出身のボードウィン(Anthonius Franciscus Bauduin)が赴任して1866年まで長崎で教鞭をとった.ボードウィンは特に眼科に優れ,日本にはじめて検眼鏡を紹介した.さらにその後任にはやはり同大出身のマンスフェルト(Constant George van Mansveldt)が赴任した.マンスフェルトは配下の長与専斎とともに医学教育制度の確立をはかり,その後現在にいたる「予科」で数学など基礎自然科学をまず学び「本科」で医学を学ぶ方式は,ここに端を発する.また北里柴三郎はこの時期に長崎に学び,その指導を受けている.

* 佐藤泰然(1804-1872).武蔵野国川崎(現 神奈川県川崎市)に生まれた.高野長英に蘭学の手ほどきを受けた後,1835年に長崎に留学,オランダ商館長ニーマンらから蘭方医学を学んだ.1838年,江戸の薬研堀に「和田塾」(和田は母方の姓)を開いた.1843年,佐倉藩の招きで江戸から佐倉(現 千葉県佐倉市)に移住し,蘭医学塾「佐倉順天堂」を開き,病院も併設して診療を行った.1862年,養子の佐藤尚中(1827-82)に家督を譲って引退した.佐藤尚中は,その後長崎のポンペのもとに学び,大学東校(後に東京帝国大学医学部)初代校長,明治天皇の侍医長を務め,1873年に下谷練兵町に「順天堂医院」を開設した(1875年に湯島に移転,1946年順天堂医科大学).次男の松本良順(1832-1907)は,蘭方医松本良甫の養子となり,幕府に出仕していたが,1857年に長崎海軍伝習所に派遣され,ポンペの下で医学を学び,幕府の奥医師となった.戊辰戦争では幕府の軍医として活躍,維新後は帝国陸軍軍医総監をつとめた.

幕末・明治維新の医療施設

ポンペが設立した長崎養生所を皮切りに,開国後は日本各地に西洋式病院が相次いで建設された.これには主に2つあり,ひとつは欧米諸国が自国の居留民のために設けた病院で,函館のロシア海軍病院(後の市立函館病院),横浜のオランダ海軍病院,イギリス海軍病院,Yokohama Public Hospital(1863年開院,現国際親善病院)などがこれにあたる.特に横浜のような貿易港では,海外から持ち込まれる天然痘に加え,コレラ,赤痢が頻発し,医療整備が強く求められた.もうひとつは主に西日本で,諸藩が開設した病院である.このような藩病院の多くは維新後の廃藩置県で廃止されたが,医学校となって現在に至る病院もある.福岡藩の賛生館附属病院(1867年,後の九州大学病院),熊本藩治療所(1870年,後の熊本大学病院),名古屋藩仮病院(1871年,後の名古屋大学病院)などはその例である.

図2. 本郷の東京医学校. 東京大学医学部の前身 [PD]

1858年に設けられた江戸の お玉が池種痘所 は,1860年に後幕府直轄となり,翌年には「西洋医学所」,1863年には「医学所」と改称された.1868年の江戸開城にあたって,同じく幕府直轄の教育機関であった昌平坂学問所(儒教),開成所(洋学)とともにいったん接収され,それぞれ昌平学校,開成学校,医学校と改称された.1869(明治2)年に統合されて「大学校」さらに「大学」となり,3つの学校はそれぞれ,大学(本校),大学南校(なんこう),大学東校(とうこう)となった*.西洋医学教育は大学東校が担当した.校長には,佐藤泰然の和田塾で蘭学を学んでその養子となった佐藤尚中が招かれた.「大学東校」 は,1871(明治4)年に「東校」,1872(明治5)年に「第一大学区医学校」と毎年改称され,1874(明治7)年に「東京医学校」(図2) となり,1877(明治10)年に大学南校の後身東京開成学校と統合されて「東京大学医学部」 となった.さらに1886(明治19)年 帝国大学令により「帝国大学医科大学」 ,1897(明治30)年に京都帝国大学創設に伴い「東京帝国大学医学部」 ,1947(昭和22)年 国立総合大学令によりあらためて「東京大学医学部」 と改称されて現在に至る[1,2].

*大学東校: 本校は湯島にあり,医学校は下谷御徒町,開成学校神田一ツ橋にあって,それぞれ本校の東,南に位置したためこのように呼ばれた.その後,東校は神田和泉町(現三井記念病院)に移転し,さらに上野に購入した土地に移転する予定であった.しかしちょうどその頃,次項に述べるようにドイツから東校に2名の軍医ミュラー,ホフマンが教師として,1870(明治3)年に赴任する予定であったが,折しも普仏戦争が勃発し着任が1年遅れた.止むを得ず岩佐純と相良知安は,ポンペの後任として1862年に長崎出島の養生所に来日し,当時大阪仮病院(後の大阪大学医学部)で教えていたオランダ人ボードウィン(Anthonius Franciscus Bauduin)に臨時の応援を依頼した.このため,ボードウィンは短期間東京に滞在したが,その折りに東校の上野移転計画を知ったボードウィンはこれに反対し,上野の自然を保存して公園とするよう進言した.このため上野移転計画は却下され,1876(明治9)年に本郷(加賀藩上屋敷跡地)に移転し,現在の東京大学本郷キャンパスとなった.上野の土地はボードウィンの進言通り保存されて上野公園となった.本郷移転に際して新築された東京医学校は,小石川植物園内に移築され,総合研究博物館小石川分館となっている.

  • 1. 東京大学百年史編集委員会.東京大学百年史.通史1 (東京大学, 1984)
  • 2. 東京大学百年史編集委員会.東京大学百年史.部局史2 (東京大学, 1987)
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ドイツ医学の選択

この時期は,ちょうど明治政府が旧来のオランダ医学から新しい教育制度への転換を模索している時期であった.すなわち,病院を重視する臨床指向のイギリス医学,研究室を重視する理論派のドイツ医学という2つの選択肢があった.医学所,大学東校では,イギリス公使館のウィリス(William Willis, 1837-94)が教育に当たっていた.ウィリスは戊辰戦争でも活躍し,高く評価されていた.このような背景から,それまでのオランダ医学を転換して新しい医学教育制度を整えるにあたり,明治政府はイギリス医学の採用をほぼ決定していた(→関連事項:日本のイギリス医学).

図3. (左)岩佐純,(右)相良知安.ドイツ医学の採用を積極的に推進した.[PD]

しかし,医学取調御用掛として政策決定の任にあったのは,若くして佐倉順天堂,長崎精得館で蘭方を学んだ岩佐純 (いわさじゅん, 1835-1912)と 相良知安 (さがらともやす, 1836-1906)*であった(図3).彼らはドイツ医学への転換を強引に推し進めた.その理由として,それまで日本人が学んできたオランダの医書のほとんどがドイツ語の翻訳であったことに加え,かつてのシーボルトの影響もあった.岩佐らは,大学南校で教鞭をとっていたオランダ出身のアメリカ人宣教師フルベッキ(Guido Verbeck)の意見を求めたところ,フルベッキはドイツ医学が最も優れていると述べ,その主張を書面にとりつけた.岩佐,相良はこれを手にして新政府の要人を説得してまわり,かくして1869(明治2)年,明治政府はドイツ医学を選択した.以後,日本の医学はアメリカ医学が優勢となる戦後まで,1世紀近くドイツに範を求めることになる.

図4. (左)ベルツ(Erwin von Bälz), (右)スクリバ(Julius Karl Scriba).ドイツから招かれ,20年以上にわたり東京大学で医学教育に携わった.[PD]

1871(明治4)年,ドイツから軍医のホフマン(Theodor Hoffmann),ミュラー(Leopold Müller)が東校に着任し,それぞれ内科系,外科系を担当して日本のドイツ医学教育が開始された.その後さらに十数名のドイツ人講師が招かれたが,中でも1876(明治9年に赴任した内科のベルツ(Erwin von Bälz, 1849-1913)は29年間,1881(明治14)年に赴任した外科のスクリバ(Julius Karl Scriba, 1848-1905)は24年間にわたって日本の医学教育に携り,その後の日本の医学に大きな影響を与えた(図4).カリキュラムは,教養科目を学ぶ予科2年,医学を学ぶ本科5年で,本科はドイツ人教員がドイツ語で講義を行ない,教科書もドイツ語あるいは英語であった.これとは別に4年間で医学を学ぶ別課が設けられ,日本人教員による講義で,教科書も日本語であった.

* 相良知安は,既に政府がほぼ決定していたイギリス医学の導入をドイツ医学に転換させることに成功したが,その強引なやり方は薩摩藩,土佐藩の恨みを買い,1870年に部下の公金処理の不正を理由に投獄された.無罪釈放後は,(大学東校改称後の)第一大学区医学校の校長,医務局長などを歴任したが罷免され,文部省内の閑職を経て1885年に官界を去った.人と和することが苦手で狷介な性格が災いして世間に受け入れられず,晩年は郷里佐賀の貧民街の長屋に愛人と同棲し,街頭易者として生計を立てていた.1906年に病死した際,明治天皇の勅使が「祭粢料」を届けに長屋を訪れ,近隣の人々はそのかつての経歴を知って驚いたという.

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関連事項

日本のイギリス医学

図5. ウィリス(William Willis ).そのイギリス医学は高く評価された.

図6. 高木兼寛.ウィリスに医学を学び,イギリス医学を実践する成医会講習所を創設した.

戊辰戦争は,鳥羽伏見の戦いに始まり函館五稜郭の戦いに終わる討幕軍(官軍)と旧幕軍との戦いで,1868(明治1)年1月から翌年5月まで続いた.上野の彰義隊,会津若松の白虎隊の戦いもその一つある.このとき,1862年に英国公使館の医官として来日したイギリス公使館の医師ウィリス(William Willis, 1837-94)(図5)は,討幕軍(薩摩軍)の傭医として他のイギリス人医師と協力して京都で戦傷者の治療にあたったが,敵味方の区別なく治療にあたり,その後越後,会津若松でも活躍して,臨床に即したイギリス医学の実力を証明した.これに好印象をもった明治政府は,イギリス医学の導入に強く傾斜し,ほぼその採用を決定していた.ウィリスは東京医学校の教授にもなっていたが,1869(明治2)年,前述のごとく政府のドイツ医学採用の決定により退職,西郷隆盛の招きで鹿児島にわたり,同年鹿児島医学校(現鹿児島大学医学部)を設けて医学と英語の指導にあたった*1.ここに学んだ高木兼寛(1849-1920)(図6)が後に創設した慈恵会医科大学は以来,理論中心のドイツ医学が優勢な日本の医学界にあって,臨床を重視するイギリス医学の拠点となった.

ちなみに,慶應義塾の福澤諭吉(1835-1901)もイギリス医学派であった.緒方洪庵の適塾で医学も学んだ福澤諭吉は,西洋医学の重要性を充分承知していたが,1858年創立の慶應義塾では医学は講じられていなかった.福澤諭吉は「医学の範をドイツに採るがごときは人の子を毒するもの」と述べており,1873(明治6)年に開設された「慶應義塾医学所*2」では,ウィリスの鹿児島医学校とならんでイギリス医学が講じられた.校長は,蘭方医学を学んだあと慶應義塾の塾生となった松山棟庵(1839-1919)がつとめた.1880(明治13)年,三百余名の卒業生を送り出した後に財政難のため閉鎖された.松山はその後高木兼寛と協力して,イギリス医学を教育,実践する成医会講習所(後の東京慈恵会医科大学),有志共立東京病院(後の東京慈恵会病院)の設立に尽力した.慶應義塾医学部の創立は1920(大正9)年のことであるが,ここで講じられた医学はドイツ医学であった.

*1 ウィリスはその後鹿児島で日本の医学教育にあたり,1877年の西南戦争(西郷隆盛を盟主とする明治政府への反乱)を機にイギリスに帰国,1885年にタイのバンコクに派遣されて同地で病院設立するなど臨床医として活躍したが,1892年に病を得て帰国,1894年に故郷アイルランドで病没した.

*2 塾生の前田政四郞(1855-1922)が,医学志望のためにドイツ語を学習することを理由に退学を願い出た折り,福澤は医学はドイツ語に限らない,慶應義塾でも医学を学べるようにしようと言い,ただちに東京府知事に医科開業願書を提出して慶應義塾医学所を設けたという.前田政四郎は,その後陸軍軍医監となった.


医制とその変遷

医制

図7. 長与専斎.医制の制定につくし,その後も衛生行政の確立に尽力した.

明治初期,医師のほとんどは漢方医であり,西洋医学を行える医師は非常に少なく,医師を増やそうにも教育制度も資格制度もない状態であった.この状況を打開すべく,明治政府の命を受けた 長与専斎 (ながよせんさい, 1838-1902)(図7)は,  岩倉使節団(1871-1873)に加わって各国の医療制度を視察,これをもとに1874(明治7)年に「医制」が公布された.医制は,医育行政,衛生行政の方針を定めたもので*,医師の資格は免許性となった.明治政府は西洋医学への一本化をはかり,医制には西洋医学の資格のみが定められ,これ以後西洋医学の免許を取得しない限り漢方医学の診療もできなくなった(ただし,当時既に医師として開業している者は免許を与えるという救済策があった).当時,西洋医学の開業医は約5千人,漢方医学の開業医は2万人以上で,多数派の漢方医は数々の反対運動を繰り広げたがいずれも失敗に終わった.こうして日本伝統の漢方医学は,医学の表舞台からは姿を消すことになった.

*「医制」 はその後,医師法,医療法,学校教育法など,それぞれの分野の法律が整備されてゆく中で,自然消滅した.

医学を学ぶ場には,帝国大学(東京大学医学部),官立医学校,私立医学校があった.官立医学校は,幕末から明治初期に全国の藩が設けて医学校が,1871(明治4)年の廃藩置県後に各県が引き継いで医学校となったものである.1874(明治7)年に医制が施行され,さらに翌1875(明治8)年には医術開業試験の施行が通達された.すなわち医制下では,帝国大学卒業生は無試験で免許が与えられたが,それ以外は医術開業試験に合格する必要があった(→関連事項:医術開業試験と私立医学校).これを受けて,全国に官立,私立の医学校が急増し,それぞれ20校以上が存在した.1882(明治15)年に,官立医学校はその条件によって甲種,乙種に分けられ,甲種の卒業生は無試験となったが,甲種の運営には莫大な費用がかかることから官立医学校の多くは閉鎖され,1887(明治20)年にはわずか3校となった.

医師法の施行

1903(明治36)年,専門学校令が公布され,帝国大学,高等学校,高等師範学校以外のすべての高等教育機関は,官立私立を問わず専門学校とし,専門学校を名乗るための条件が細かく定められた.これに伴い従来の医学校も医学専門学校となった.1906(明治39)年に医師法が施行され,医師免許を得る条件は,(1)帝国大学医学部あるいは文部大臣の指定する官立・私立医学専門学校の卒業生,(2)前記以外の医学専門学校で4年以上の医学課程を修了して医師試験に合格した者と定められた.これに基づいて,1916(大正5)年に医術開業試験は廃止された.1918(大正7)年,大学令が公布され,帝国大学以外の官立,私立大学が認められることになり,専門学校が大学に昇格する道が開かれ,その後全ての官立医学専門学校,一部の私立医学専門学校が医科大学となった.これに伴い,帝国大学,医学専門学校,医科大学の卒業生は,無試験で医師免許を手にすることができるようになった.

戦後の改革

1937(昭和12)年に日中戦争が勃発,その後第二次世界大戦と続く戦中期は,軍医として応召される医師が急増して医師の速成が求められるようになり,帝国大学医学部,官公立医科大学に臨時附属医学専門部が設けられると同時に,戦時統治下の満州,台湾,朝鮮など海外にも医学校が開設されたが,医師の質は低下し粗製乱造の誹りを免れなかった.終戦後,進駐軍(GHQ)による医学衛生行政改革の一環として,戦時中の医学教育の混乱,質の低下を是正すべく,新たに「医師国家試験」が設けられ,受験資格は大学または官公立医学専門学校,文部大臣の指定した私立医学専門学校を卒業し,1年以上の実地修練を経たものとされた.すなわち,無試験で医師免許が得られる時代は終焉を迎えた.1947(昭和22)年に学校教育法が制定され,従来の専門学校は廃止されて新制大学に包括されることになり,医学専門学校の多くは大学医学部に昇格したが,一部は要件をみたさず廃校となった.1948(昭和23)年に医師法,1949(昭和24)年に国立大学設置法が制定され,それまで複数あった医師への道は一本化され,医学部で6年間の課程を修め,医師国家試験に合格することが医師免許を取得する唯一の道となった[1].

関連事項

医術開業試験と私立医学校

医制の下では,帝国医科大学(東京大学医学部),一定の条件を満たす官立の甲種医学校の卒業生は無試験で医師免許が得られた.これらの学校以外の卒業生が医師になるには,医術開業試験に合格する必要があった.

1874(明治7)年に開始された医術開業試験は,当初は物理化学,解剖学,生理学,病理学,薬剤学,内外科学の筆記試験のみでかなり簡単なものであったが,1883(明治16)年に「医術開業試験規則」が制定され,前期試験(基礎科目),後期試験(臨床科目,実技試験)の2段階となり,前期試験は1年半以上医学を修学すること,後期試験は更に1年半以上の修学が求められた.ただし学歴不問で,「修学」についても医師が個人的に証明書を発行するだけで良かったことから,理屈の上では独学でも受験できた.しかし専門的知識を得るにはそれなりの教育が必要であり,これを背景として医術開業試験受験のための予備校としての役割を果たす私立医学校が続々と誕生し,1883(明治16(年当時,東京だけでも20校近い医学校があった[1-3].

図7. 長谷川泰.当時最大規模の私立医学校「済生学舎」を創設した.

このような私立医学校の多くは小規模かつ短命であったが,その中にあって済生学舎(日本医科大学の前身)は最も大きくかつ長期間存続した医学校であった.済生学舎は,岩佐純,相良知安らとともに蘭学塾佐倉順天堂で学んだ長谷川泰(はせがわやすし, 1842-1912) (図7)が1876(明治9)年に創設し,1903(明治36)年に廃校になるまで,最盛期は800人以上の学生を擁して,1万数千人が修了し,医術開業試験合格者の2/3は済生学舎出身であった.野口英世,日本の女性医師の草分け,高橋瑞子吉岡弥生らもここに学んでいる[4].

当時,医術開業試験に備える方法としては,このような私立医学校に学ぶほかに,「医家書生」という方法があった.これは.開業医のもとに書生として住み込み,家事雑用を引き受けながら医学を教わるもので,私立医学校の学費を払うことができない困窮者が多かった.野口英世も,高等小学校卒業後,地元会津若松で3年間の医家書生を経て前期医術開業試験に合格し,その後私立医学校の済生学舎に通って後期試験に合格した[4].

  • 1. 厚生省医務局. 医制百年史 (1976)
  • 2. 坂井建雄, 澤井直, 瀧澤利行 他. 我が国の医学教育・医師資格付与制度の歴史的変遷と医学. 校の発展過程. 医学教育 41:337-46,2010
  • 3. 坂井建雄. 我が国の近代医学教育の源流ー明治初期の公立医学校. 日本医史学雑誌 57:109-12,2011
  • 4. 唐沢信安. 済生学舎と長谷川泰 : 野口英世や吉岡弥生の学んだ私立医学校 (日本醫事新報社, 1996)