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西洋医学の伝来 

南蛮医学と紅毛医学

図1. 西洋医学を伝えたポルトガルのアルメイダ(中央).西洋医術発祥記念像(大分県大分市) [PD]

1543年,種子島にポルトガル人が漂着して鉄砲が伝来し,1549年にはザビエルが来日,その後も「南蛮人」が渡来するようになった.「南蛮」 はもともと東南アジアを表す言葉であったが,戦国時代以降東南アジアの植民地から渡来するポルトガル人,スペイン人が「南蛮人」 と呼ばれた.彼らの目的はキリスト教の布教と貿易であったが,その手段の一つとして貧者に医療を提供し,これは南蛮医学と呼ばれた.1557年,ポルトガル人のアルメイダ(Luís Almeida,1525-1583)が豊後国(現大分県)に西洋式の病院を建て,貧民,癩病の治療にあたったのが日本における本格的な西洋医学の嚆矢とされる(図1).アルメイダは外科を得意としたが,日本では外科学が未発達であった当時,南蛮人医師の下には多くの患者が押し寄せたという.

*種子島にポルトガル人が漂着した1543年は,ちょうどヴェサリウスが「ファブリカ」を出版した年で,ヨーロッパではルネサンス期の医学がようやくガレノス医学の呪縛から解き放たれようとする時期である.従って,日本に伝わった医学はまだヒポクラテスの四体液説とそれを引き継ぐガレノスの医学であった.

図2. カスパル(Caspar Schamberger, 1623-1706).オランダ商館医として西洋医学を伝えた [PD]

織田信長はキリスト教を保護したが,続く豊臣秀吉は1587年にバテレン追放令を出し,徳川幕府も禁教令を発布,以後キリスト教伝道者による医学の導入は途絶えたが,1600年にオランダ船リーフデ号の漂着を機に,1609年に長崎にオランダ商館が設けられ,特に1639年3代将軍家光が鎖国して以後は,駐在する商館付き医師が西洋医学への窓口となった.駐在医師はオランダ人とは限らず,ドイツ人,スウェーデン人などもいたが,彼らは「紅毛人」と呼ばれ,やがて広く西欧人を指す言葉となり,その医学は「紅毛医学」と呼ばれた.

オランダ商館医は江戸時代を通じて100人以上が来日したが,初期の医師として特に有名なのがカスパル(Caspar Schamberger, 1623-1706)(図2)で,その2年間の滞在中(1649-51)に彼が指導した医学はカスパル流外科として後世に伝わった.とくに幕府の要請で江戸に参内して行なった医療の記録「阿蘭陀外科医方秘伝」(1650)は長く読みつがれた.熊本の伊良子道牛(1671-1734)は,カスパル帰国後であるが長崎でカスパル流外科を学び,漢方医学を巧みに組合わせた伊良子流外科を創始して名声を得た.華岡青洲が学んだ外科も伊良子流外科であった.しかし商館医の多くは一部の例外を除いて正式な医師ではない者が多く,また短期間の任期で帰国するため教育に熱意を持つ者は少なかったため,伝来する医学は不完全なものであった.また教わる側のオランダ語通詞の語学力も限られたもので,難解な医学を正確に伝えるには不十分であった.

蘭学と解体新書

図3. 杉田玄白(1733-1817).「解体新書」を著した. [PD]

8代将軍徳川吉宗(1684-1751)は,殖産興業を奨励し海外の物産,技術に強い関心を示した.1720年には1630年以来の禁書令を緩和してキリスト教関連以外の蘭書を許可し,青木昆陽,野呂元丈らにオランダ語を学ばせ,蘭書の翻訳を命じた.ここに蘭学が始まったが,特に実用性の高い医学書の導入が進んだ.中でも1774年,杉田玄白(すぎたげんぱく, 1733-1817)(図3)と前野良沢(まえのりょうたく,1723-1803)が翻訳した解剖学書「解体新書」の刊行は画期的であった.「解体新書」は,単に解剖学の知識を前進させたことにとどまらなかった.それまでのオランダ語は,幕府の役人で,世襲制のオランダ通詞が口承するのみで文字による学問に立脚するものではなかった.解体新書を機に,通詞以外の学者がオランダ語を学び,翻訳に取り組むようになり,医学以外にも博物学,物理学,化学,地理学など多くの蘭書が翻訳され,あるいはその知識をもとに新たな著作が出版されるようになって,蘭学が急速に発展することとなった.

* 禁書令:当時,中国(明朝)でイタリア人宣教師マテオ・リッチが精力的にキリスト教布教活動を行ない,ヨーロッパの文化や科学技術を紹介する書籍の漢訳書を出版しており,これが日本にも輸入されていた.1630年,幕府はこのような西欧書籍の漢訳書にキリスト教関連のものがあることから,その内容にかかわらず禁書とした.

これらの活動の拠点となったのは蘭学塾で,杉田玄白が開いた天真楼(江戸),佐藤泰然の和田塾(江戸),順天堂(現千葉県佐倉市),緒方洪庵の適塾(大阪)などはその代表で,ここに学んだ門下生は西洋医学のみならず文明開化の担い手となった.例えば適塾出身者には,慶應義塾を開いた福澤諭吉,明治政府の軍制を指導した大村益次郎,明治政府の衛生行政を指導し衛生という言葉をつくった長与専斎,アドレナリンを発見した高峰譲吉,日本赤十字社の創立者佐野常民らの名前が並ぶ.

関連事項

解体新書とターヘル・アナトミア

図4. 解体新書.(左) 表紙,(右) 消化管の解剖図. [PD]

図5. 解体新書のオランダ語原書.通称ターフェルアナトミア.(左) 表紙,(右) 消化管の解剖図(図4と同じ頁). [PD. 慶應義塾メディアセンター]

1771年,中津藩医の前野良沢(1723-1803),小浜藩医の杉田玄白(1733-1817)は,それぞれ同じドイツの解剖学者クルムスの解剖学書を手にして,江戸の小塚原刑場での腑分けを見聞した.従来の五臓六腑とは全く異なるこの解剖学書が非常に正確であることに驚き,早速翌日から前野良沢の家に集まって翻訳にとりかかった.中津藩医の前野良沢は,蘭学者青木昆陽らに蘭学を学んでいたが,オランダ語の単語は数百語を知るのみであったという.小浜藩医の杉田玄白は,オランダ外科を学んでいたがオランダ語の知識は皆無であった.それでも良沢の乏しい知識を頼りに翻訳を進め,苦心の末1774年に「解体新書」 全5巻が完成した(図4).前野,杉田以外にも,小浜藩医中川淳庵が翻訳に加わり,奥医師の桂川甫三らも協力している.「解体新書」は単なる翻訳ではなく,クルムス以外にも数冊の解剖書を参考としつつ挿図も複数の本から取られており,前野,杉田らの独自の解釈も含まれている.解体新書の著者名は杉田玄白ひとりで,前野良沢の名前がないことの理由は不明であるが,良沢が名誉を望まなかったためとも,翻訳の出来に不満があったためとも言われる.

解体新書に誤訳が多いことは杉田玄白も充分承知しており,1826年,大槻玄沢(おおつきげんたく,1757-1827)は玄白の遺志を継いで1826年に再翻訳を行ない,さらに玄沢独自の知見も加えた「重訂解体新書」全13巻を刊行した.大槻玄沢はこの他にも自らオランダ語入門書「蘭学階梯」を著し,江戸に蘭学塾「芝蘭堂」を開いて多くの後進を育てた.そのひとり,宇田川玄髄(うだがわげんずい,1756-98)は,ゴルテル(Johannes de Gorter)の内科学書を翻訳して,日本初の内科学書「西説内科撰要」全18巻を著した.

解体新書の原書は「ターヘル・アナトミア」 とされる.これは後に杉田玄白が「蘭学事始」の中でそのように記しているためであるが,ドイツ語の原書は Anatomische Tabellen (解剖学図の意),杉田らが翻訳した蘭訳書 Ontleedkundige Tafelen (図5) で,いずれも異なる.理由は不明であるが,蘭学者の間の通称であったと推測されている.玄白らは,原書はドイツ語でこれが訳書であることを知らなかったらしい.


シーボルトの功績

図5. シーボルト(Philipp Franz von Siebold, 1796-1866)

1823年,ドイツ人のシーボルト(Philipp Franz von Siebold, 1796-1866)(図5)はオランダ商館付の医師として来日,1828年まで6年にわたって滞在したが,この間にどの外国人医師よりも大きな影響を日本に与えた.長崎に西洋医学を教える鳴滝塾を開いて,実際の患者を前に臨床講義を行ない,手術を供覧した.日本の医師が,それまで書物でしか知ることのできなかった西洋医学に実際に触れた初めての機会であった.

シーボルトが日本にもたらした医術に,強心剤のジギタリス,水銀製剤による梅毒の治療,種痘法などがある.シーボルトの門下からは,後にお玉が池種痘所を設け奥医師として幕府の西洋医学取締となった伊東玄朴,植物学にも大きな功績を残した伊藤圭介,眼科医となった高良斎ら,多く蘭学者が輩出した.

1827年に芸妓の楠本滝との間にもうけた娘,楠本イネは,その後シーボルト門下の医師やポンペ,その後任のボードウィンらから医学,特に産科学を学び,日本初の女性医師となった.

漢蘭折衷派と華岡青洲

図6. 華岡青洲(1760-1835) .漢蘭医学折衷派.通仙散による全身麻酔に成功した.

蘭方医学が興隆したとはいえ,江戸時代の医学の中心はやはり日本古来の漢方医学であった.しかし,実証精神に溢れる古方派の医学者たちは,西洋医学の優れた点に気づいていた.漢方医学は,特に外科の知識に欠けていた.そこで両者の長所をうまく組み合わせようとする試みは当然のことながら行われ,これを漢蘭折衷派という.

古医方を大成した山脇東洋もその一人であるが,中でも大きな足跡を残したのが,華岡青洲(1760-1835)(図6)である.華岡青洲は,紀伊国(現在の和歌山県)に医家の長男として生まれ,23歳にして京都に遊学,古医方派の祖,吉益東洞の次男吉益南涯から古医方を,カスパル外科を学んだ伊良子道牛の直弟子大和見水から伊良子流外科を学び,経口麻酔薬「通仙散」を編み出して,世界初の全身麻酔下乳癌切除術に成功した.

関連事項

漢方医学

漢方」という名称は,江戸時代にオランダ医学「蘭方」に対して使用されるようになった.ここで漢方は日本古来の伝統医学をさすが,その源流は飛鳥時代,奈良時代に随,唐から伝来した医学であり,直近では田代三喜が中国に学んだ医学で,その後古方派が台頭した結果,現代行なわれている漢方医学は傷寒論の流れを汲んでいる.その意味で,純粋な日本の医学というものは学問的には発展しなかったが,それでも日本古来の民間に伝わる医療は存在し,これは「和方」と呼ばれる.江戸中期になると,国学の影響もあり蘭方,漢方を批判する和方医学が一時盛んになった.その原典としては奈良時代に編まれた「大同類聚法」が重用された.しかし,その後の西洋医学の台頭により,和方医学の興隆をみることはなかった.

本家本元の中国でも,黄帝内経に発する中国の伝統医学は,現代まで脈々と伝えられている.第二次世界大戦後,中国国民党政府は伝統医学を廃止しようとしたが,共産党政権下で復興が図られ,これは「中医学」と称されて現在の中国では「中医師」の国家資格が定められている.日本の漢方医学,中国の中医学は,それぞれに独自の発展を遂げ,診断,治療の論理も全く異なる似て非なるものである.英語も中医学 Chinese traditional medicine に対して,漢方医学は Kampo medicine と訳される.

漢方医学の基本は,漢方薬の内服治療であるが,広義(=東洋医学)には鍼灸など理学療法を含めてこのように呼ばれることがある.漢方薬の原料は生薬(植物,動物の皮など)なのでそのまま使用することはできず,材料を切ったり,すりつぶしたりして加工し,さらに煮出して成分を抽出する,すなわち「煎じる」必要がある.また原則として複数の生薬を組み合わせるため調剤には時間と手間がかかる.現在広く使われ保険収載もされている漢方薬は,漢方エキス剤として煎じた生薬を乾燥,顆粒状にして各種成分を組み合わせたもので,通常の薬剤と同じように簡易に扱うことができる.日本で漢方薬が現在の隆盛をみた背景には,製薬メーカーによる漢方エキス剤の開発が大きく貢献している.


種痘所と西洋医学所

図7. 楢林壮健著「牛痘小考」(1849).牛痘の方法が書かれている.種痘針による接種方法が書かれている.   [CC0]

図8. 大阪除痘館の宣伝ちらし.町人に牛痘の有効性を説明し,接種を促す目的で配られた.牛にまたがった童子が,種痘針になぞらえた槍で鬼の姿をした疫病を退治している様子を描く.  [CC0]

ジェンナー が初めて種痘を行ったのは1796年であるが,1823年に来日した シーボルト がまず試みたのも種痘であった.これは長い船旅で痘苗が劣化してため不成功に終わったが,その指導を得た佐賀藩医の楢林宗建(ならばやしそうけん,1802-1852)(図8)が,1849年7月に自らの三男で成功させたのが我が国における本格的な種痘の嚆矢とされ,この後全国に急速に広がった.同年10月には京都に「除痘館」が設けられ,11月には大坂(現大阪市)でも緒方洪庵が「除痘館」を開設した.楢林壮健が同年出版した「牛痘小考」(図7)は,わずか24頁の小冊子であるが,具体的な方法,効能が詳述されている.

痘苗は江戸にも送られたが,江戸の事情は多少異なった.江戸の医学は,幕府の奥医師の支配下にある医学館を中心とする漢方医が牛耳っていた.蘭方医学の台頭に危機感をおぼえた幕府は,京都,大阪に除痘館が設けられた1849年に蘭方禁止令を出し,オランダ医学の研究は禁止され,漢方医らは種痘の普及にも反対した.しかし1858年,13代将軍家定が病に伏し,奥医師の治療が功を奏さなかったときに,シーボルト門下の蘭方医伊東玄朴(いとうげんぼく,1801-71),戸塚静海(とつかせいかい,1799-1876)が蘭方医として初の奥医師に任じられたことをきっかけに蘭方禁止令が解かれ,同年伊東玄朴を筆頭に蘭方医有志82人の醵金によって,神田お玉が池に「種痘所」が設けられた.こうして江戸の種痘所開設は遅れたが,種痘の効果は幕府も認めざるを得ず,お玉が池の種痘所も1860年には官立となった.

当初は痘苗が牛からとられたものであると聞いて「種痘をすると牛になる」などと噂されて二の足を踏む者も多かったが,除痘館は種痘接種を呼びかける宣伝活動を行ない,一般町民の間にも広く普及した(図8). 

各地の種痘所は,いずれも種痘にとどまらず西洋医学の研讃の場,発信地として発展した.例えば江戸の種痘所はその後西洋医学所(1861),さらに医学所(1863)と改称され,帝国大学(現東京大学)医学部の前身となった.大坂の除痘館は大阪大学医学部へと発展した.このように一般人の目にも明らかな効果のある種痘は西洋医学の実力を世に知らしめ,伝統的な漢方医学が凋落し,西洋医学が急速に台頭するきっかけの一つとなった.日本の種痘の歴史は,近代西洋医学導入の歴史でもあった.

* 東京大学医学部の同窓会「鉄門倶楽部」の名称は,江戸種痘所の門扉が鉄であったことに由来するという.


関連事項

日本初の種痘

図9. 楢林宗建(1802-1852).日本初の種痘を成功させた[PD]

日本初の種痘は,上述のように1849年,佐賀藩医楢林宗健 (図9)によるものとされるが,実はその25年前,蝦夷の地で種痘に成功した日本人がいた.1807年,北海道松前藩(現函館)の役人中川五郎治(なかがわごろうじ,1768-1848)は,択捉島で執務中にロシア軍に襲われてシベリアに連行された.辛酸をなめた後の帰国途上,オホーツクでロシア人から種痘の技術を学び,手引き書と痘苗を持ち帰った.シーボルトが来日して種痘を試みた翌年の1824年,藩内の田中イクという11歳の少女への接種に成功,本邦初の種痘成功例であった.しかし,その後も近隣の人々に施術して評判を得る中で,その報酬に味を占めた中川は技術を秘匿したため,その没世とともに種痘の技術は途絶えた.

楢林宗健の種痘成功に先立つこと3年,1846年に福井藩医笠原良策(かさはらりょうさく,1809-80)は,当時既にヨーロッパから種痘が伝わっていた隣国の中国(清)から痘苗輸入を企てたが,鎖国下の日本には輸入できないため,幕府に例外を認めるよう働きかけたが叶わなかった.一方佐賀藩主鍋島直正は,侍医の伊東玄朴から種痘を知り,長崎に住む藩医楢林宗建を通じてオランダ商館に痘苗の取り寄せを依頼し,これに応じて商館医モーニケ(Otto Mohnike)が1848年に痘漿を持参した(ちなみに,このとき初めて日本にラエネックの聴診器を持ち込んだのもモーニケであった).しかしモーニケの痘漿は劣化していて不成功におわった.そこで,楢林はあらためて痘痂の取寄せを依頼し,翌1849年にバタヴィアから届いた痘痂で接種に成功した.長崎の痘苗は全国に送られ,福井の笠原良策もこれを手に入れて,1850年に藩内に除痘館を設けた.