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日本の脚気史

伝染病説と栄養障害説

ビタミンB1欠乏症である脚気は,白米の偏食に起因するため,東南アジア,特に日本に多く,パン食,肉食主体の欧米には稀であった.このため,脚気の研究史は,日本の医学史の中で重要な意味をもつ.

脚気と思われる症状は源氏物語にも記載があるが,特に江戸時代に急増した.「江戸わずらい」 とも呼ばれるように,特に江戸,大阪など都会に多発した.これは特に都会の富裕層の間に玄米にかわって白米摂取の習慣が広まったためである.明治になると,庶民も白米をとるようになりさらに患者は増加し,結核とならぶ国民病と言われた.脚気は集団発生することから,感染症,伝染病とする考えは根強く,明治初期のお雇い外国人医師ベルツも伝染病説を主張した.その一方で,食事中の栄養素に関連すると考える栄養障害説もあった.

* 脚気(beriberi)はビタミンB1欠乏症で,ビタミンB1は解糖系の最終産物ピルビン酸をアセチルCoAに変換する際に必要なため,欠乏するとTCA回路に進むことができず乳酸が蓄積し,ATP産生が障害される.このため特に末梢および中枢神経障害,心筋障害(うっ血性心不全)が前景に立ち,全身倦怠感,歩行障害,浮腫などが見られるが,重症心不全(脚気衝心)は死因となりうる.

陸海軍の脚気問題

図1. 高木兼寛 (1849-1920).海軍軍医.疫学的研究により食事と脚気の関係を解明した.

特に脚気が大きな問題となったのは帝国海軍で,長距離航海中に脚気に倒れる将兵が続出した.たとえば1882年,練習艦「龍驤」(りゅうじょう)は,東京,ニュージーランド,チリ,ハワイを経て帰国する10ヵ月の航海で,乗員376名中169名が脚気に罹患,25名が死亡した.遠洋航海艦上の給食には,将兵の栄養への配慮から白米が支給されていた.海軍の軍医で,イギリスに医学を学んだ高木兼寛(図1)は疫学的調査を行ない,ほとんど米食のみの下士官や兵にくらべて肉など食事内容が豊富な士官に脚気が少ないことから,食事中の炭水化物/蛋白質比が高いほど脚気が多いことをつきとめ,蛋白質に富む洋食や,米よりも蛋白質を多く含む麦飯を推奨した.これを実証すべく,1884年,練習艦「筑波」は高木の指導する食事による実験航海を行ない,10ヵ月の航海中,乗員333名中罹患14名,死者は皆無であった.以後,麦飯やパン食を導入した海軍の脚気罹患率は激減した.しかし,高木の後任医務局長に東京帝国大学出身者がついたことなどから,1910年代以降脚気は再び増加に転じ,毎年1,000人以上の発生をみた.

陸軍でも,軍医の堀内利国が,監獄の囚人食を麦飯に変更して以後脚気が消失したことから,陸軍病院食を麦飯にすることにより脚気を激減させた.以後陸軍は麦飯を採用して,いったん脚気は影をひそめた.しかし,1894年,日清戦争が勃発すると,特別食として白米食を採用したため再燃し,罹患者4万人以上,死者4,000人以上にのぼり,さらに1904年の日露戦争では25万人以上が罹患した.この海軍を遙かに上回る陸軍兵士脚気患者の大量発生は,後に陸軍脚気惨害と称された[1,2].

オランダの脚気研究

図2.エイクマン (Christiaan Eijkman, 1858-1930).玄米の脚気予防に有効であることを発見し,ビタミン研究の端緒を開いた.

欧米に脚気はなかったが,オランダでは,19世紀後半,植民地インドネシアのバタヴィア(現ジャカルタ)に脚気が流行し,現地での研究が進んだ.1880年,病理学者のペーケルハーリング (Cornelius Adrianus Pekelharing) が脚気の原因菌を発見したと報告したが,ドイツ留学中の北里柴三郎がこれに反論したため*,その後意見を撤回した.コッホの門下のひとり,エイクマン (Christiaan Eijkman, 1858-1930)(図2)も脚気菌を求めて研究していたが,ある時偶然,白米を餌とするニワトリは脚気になるが,玄米を餌とすると罹患しないことに気づき,1896年にこれを発表した.

* このとき北里柴三郎は,東京大学医学部の緒方正規が唱える脚気菌説にも反論したため母校の不興を買い,帰朝後不遇にあったところに福澤諭吉が支援の手をさしのべて伝染病研究所を開設した.

このように国内外で白米食と脚気の因果関係を示唆するデータが蓄積しながらも,陸海軍ともに白米食にこだわって脚気が多発した背景には,白米が贅沢品であった当時,将兵に白米を配給しようとする軍の矜恃と「温情」 があった.また,東京大学医学部の研究者の間では伝染病説が根強かった.栄養障害説についても,玄米食や高蛋白食が有効である根拠に欠けていた.

1908年,陸軍省は原因を究明すべく森林太郎(森鷗外)を長とする「臨時脚気病調査会」を設け,陸海軍,民間の研究者らが集った.メンバーのひとり,陸軍軍医の都築甚之助はエイクマンの実験を追試して動物実験の結果,米糠の有効性を確認し,1911年に米糠抽出物「アンチベリベリン」 を製品化した.

 

オリザニンとビタミン

図3. 鈴木梅太郎(1874-1943). 米糠から脚気予防の有効成分オリザニンを発見した.

図4. フンク(Casimir Funk, 1884-1967). 脚気予防因子を発見し,ビタミンと命名した.

栄養障害説を完成に導いたのは,帝国大学農科(現 東京大学農学部)の化学者,鈴木梅太郎(1874-1943)(図3)であった.1911年,鈴木は米糠の有効成分を結晶として抽出し,これを当初はアベリ酸,その後オリザニン(orizanin)と命名した.1年後,ポーランドのフンク(Casimir Funk, 1884-1967)(図4)は,エイクマンの実験にヒントを得て,やはり米糠から有効物質を抽出し,これをビタミン (vitamine)と名づけた (→関連事項:ビタミンの歴史).鈴木のオリザニン,フンクのビタミンは結局同じもので,現在でいうビタミンB1 (thiamine)である*

* 鈴木は1911年1月に「東京化学会誌」に論文を発表し,同年に8月にドイツ語誌に抄訳が掲載されたが,この物質が新しい栄養素である旨の記載が欠落していたため,注目されなかった.フンクが,ビタミン発見の英語論文を発表したのは同年12月,鈴木のドイツ語論文があらためて発表されたのは,翌1912年7月であった.このため,ビタミンB1発見の優先権は鈴木梅太郎に認められているが,オリザニンの名称が普及することはなかった[3].

しかし,この期に及んでも,なお東京大学の研究者を中心に伝染病説は根強く,例えば軍医総監 森林太郎 は鈴木梅太郎の研究を「日本の伝統食を糧食とする日本海軍への侮蔑的発言」であると批判し,「百姓学者のマユツバ研究」としてオリザニン説を退けた.1920年代にいたってようやく栄養素欠乏説が定着し,1924年,臨時脚気病調査会は廃止された.その後基礎,臨床研究が重ねられ,1931年にはオリザニンの純粋結晶が単離されてその有効性が示された.しかしオリザニン(チアミン)は高価かつ消化管吸収が不良であることから,汎用的な治療薬に開発には至らなかった.

1952年,京都大学の薬学者 藤原元典がチアミンとニンニクの成分アリシン(allicin)を反応させることにより,消化管吸収が良好な物質アリチアミン(allithiamine)が生成することを発見,武田薬品からアリナミンの商品名で発売され,ようやく脚気は予防,治療可能な疾患となった.

 

関連事項

ビタミンの歴史

生体の維持には四大栄養素(炭水化物,蛋白質,脂質,無機質)の他に,ある種の微量物質,現在でいうビタミンが必須であることが明らかとなったのは,19世紀末のことであった[4,5].

1887年,オランダのエイクマン(Christiaan Eijkman, 1858-1930)(図2)は,オランダ領インドネシアのバタヴィアで脚気の研究中,ニワトリを白米で育てると脚気になるが,玄米を与えると罹患しないことを発見し,これが世界的なビタミン研究の端緒となった.1911年,ポーランドのフンク(Casimir Funk, 1884-1967)(図4)はこれを追試して,米糠から有効成分を抽出し,化学的にアミンであることからビタミン (vitamine)と命名した.上述のように明治時代の日本では脚気は国民病とも言われ,海軍,陸軍を中心に研究が進められ,鈴木梅太郎(図3)はオリザニンを発見し,これはフンクのビタミンと同じもの(現在のビタミンB1, thiamine)であることが判明した.

図5. ホプキンズ(Frederick Gowland Hopkins, 1861-1947).全乳に成長促進因子が含まれることを発見した.

1912年,イギリスの生理学者ホプキンズ(Frederick Gowland Hopkins, 1861-1947)(図5) は,ラットの飼育実験で,飼料中の四大栄養素に全乳を加えると発育が改善されることを報告した.これは,フンクの抗脚気物質の発見と並んで,微量必須栄養素の存在を示唆する大きな発見であった.さらに1913年にアメリカのマカラム(Elmer Verner McCollum, 1879-1967)は,バター,卵黄にこのような成長促因子があることを発見し,1914年にこれを抽出した.そしてこれを脂溶性A物質(fat soluble A),先にフンクが発見した物質を水溶性B物質(water soluble B)と呼んで区別した.

1919年,イギリスの生化学者ドラモンド(Jack Cecil Drummond, 1891-1952)は,以前から壊血病予防に著効が知られていた柑橘果汁*1から抗壊血病因子を抽出し,これを水溶性C物質(water soluble C)としたが,フンクの業績を尊重してこれをビタミンと呼ぶこと提唱した.脂溶性A物質をビタミンA, 水溶性B物質,C物質をそれぞれビタミンBビタミン Cとしたが,A (retinol), C (ascorbic acid) は化学的にアミン(amine) ではないことから*2,vitamineではなく "e" のない vitaminとし, vitamin A, B, C とよぶことが学会で認められた.

*1 壊血病は11世紀の十字軍兵士も多く罹患したが,特に15世紀末,大航海時代になって数ヶ月にもおよぶ遠距離航海に出る船乗りに多発し,洋上に出て2ヵ月もすると歯肉の腫脹,出血,四肢の浮腫などがみられ,目的地に着くころには乗員が半減することも稀ではなかった.1747年,イギリス海軍の軍医リンド(James Lind, 1716-94)は,レモン,オレンジの有効性を発見し,1795年以降イギリス海軍は兵食にレモンを必須として壊血病は激減した.19世紀にイギリスが7つの海を制覇できたのはこのためとも言われる[6].

1922年,マカラムは,脂溶性A物質が,ラットの成長促進因子のほかに,くる病,角膜乾燥症に有効な成分を含むことを発見し,A, B, Cに続いてビタミンD (calciferol)と命名,1924年にはアメリカのエヴァンス(Herbert McLean Evans, 1882-1971)が,ネズミを脱脂粉乳で飼育すると不妊になることから,脂溶性の抗不妊因子を発見し,ビタミンE(tocoferol)と命名した.

1926年,アメリカのシャーマン(Henry Clapp Sherman, 1875-1955)が,ビタミンBの中に熱に安定な成分,不安定な成分を区別して,それぞれビタミンF,Gと呼んだが,その後ビタミンB1, B2とされた.その後,ビタミンB2はさらに複数の化合物からなることがわかり,B3~B12が報告されたが,その多くは既知の物質あるいはビタミンではないことが判明して,現在ではB1 (thiamine), B2 (riboflavin), B6 (pyridoxin), B12 (cobalamine) のみが残っている[7].

1929年,デンマークのダム(Carl Peter Henrik Dam, 1895-1976)が,脂肪を含まない飼料で飼育したニワトリのヒナに出血傾向があることから,脂溶性物資の中に血液凝固に関連する因子があると考え,これをドイツ語の凝固 (Koagulation) からビタミンKと命名した.アルファベット順ではなく命名された唯一のビタミンである.この年,ニワトリの脚気の研究でビタミン発見の端緒を開いたエイクマンと,脂溶性ビタミンの存在を示唆したホプキンズは,ノーベル生理学医学賞を受賞した.