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ローマの医学

アスクレピアデス

図1.アスクレピアデス (前130?~40?) [PD]

ローマはもともとイタリアの地方都市国家に過ぎず,そこで行われていた医学も呪術,宗教に基づく原始的なものであった.共和政ローマは次第に領土を拡大し,先進国ギリシアの医学に触れるようになったが,外来の医師,医学の導入には消極的であった.

ギリシアの医学を初めてローマに本格的に持ち込んだのは,アスクレピアデス(Asclepiades, 前130?~40?)であった.アスクレピアデスはギリシア人で,ヒポクラテスの体液病理説をとらず,固体病理説を唱えた.これは生体は微小な粒子(原子)からなり,健康状態ではこれが整然と流れているが,流れが滞ると病気になるというもので,水浴,マッサージなど物理的方法でこの流れを促すのが治療の主体であった.この他にも,ルフス,ソラヌス,アレタイオスらの活躍が知られているが,基本的にはヒポクラテスの四体液説に基づく医学であった. ローマの医学はこの後も基本的にギリシアの医学を継承しており,医学書もギリシア語で書かれた(ラテン語に翻訳されるのは中世以降である → 中世の医学).

ケルスス

図2.ケルスス (前25?~50?)  [PD]

ケルスス(Aulus Cornelius Celsus, 前25?~50?)(図2)は,紀元前後にわたってローマで活躍した博学な百科事典編纂者で,その生涯については不詳の点が多い.医学史上非常に価値の高い「医学について」 (De Medicina)の著者として知られるが,自身は医師ではなかったとする説が有力である.これは百科事典の一部の医学編で,このほかに農学,軍事学,修辞学,哲学,法学のセクションがあったと考えられるが,ほとんどが失われている.

ギリシアの医学はアレクサンドリアを経てローマに伝わったが,アレクサンドリア時代の医学書は残っておらず,ローマ初期の医書により知ることができるのみであるが,本書はそれを最もよく伝える著作とされ,ラテン語で書かれた医学書として最古である.長らく原本は失われていたが,1443年にミラノの教会の図書館で発見され,1478年に初めて印刷された.全8巻から成りその構成は,1巻=医学史,2巻=疾患の経過と治療総論,3巻=症状別疾患各論,4巻=器官別疾患各論,5巻=薬学,6巻=部位別治療法,7巻=外科学,8巻=整形外科学となっている.ヒポクラテス以来,ギリシアの医師は外科治療にはあまり積極的ではなかったが,この第7巻では,体表の小外科に加えて 膀胱結石の手術 についても記述されている点は注目される.また発熱とその意義に関して詳しく論じており,ここでいわゆる炎症の4徴,発赤(rubr),腫脹(tumor),発熱(calor),疼痛(dolor)が初めて登場する.またヒポクラテスは乳癌の記載の中で,周囲に浸潤する病変の性状をカニに例えてギリシア語 karkinos (καρκινος)と表現したが,これをラテン語に訳して cancer としたのもケルススである.

ガレノス

図3.ガレノス(129?〜200?)  [PD]

ヘレニズム国家を含む地中海を統一し,広大な領土を得たローマは,前1世紀末から2世紀末にかけて約200年間にわたる「ローマの平和」(pax romana)を享受した.ここに登場したのがガレノスである.ガレノス(Galenos,129?〜200?)(図3)はギリシア人として小アジアのペルガモンに生まれ,その後アレクサンドリアで医学を学んだ.ローマで名医として名声を博し,五賢帝の一人マルクス・アウレリウス帝の侍医も務めた.この間180篇に及ぶ膨大な著作を遺しているが,当時の文書としては例外的にその多くが現在に伝わっている.その内容は解剖学,生理学から,診断学,治療学,薬学など医学全般にわたり,その後現在に至る医学の基礎となった. 

ガレノスの解剖学・生理学

ガレノスは,ギリシア,ローマの古い医学文献を収集して研究し,自ら解剖や実験を行って新しい知見を加えて独自の構築した.その解剖学,生理学の基本となっているのが「人体の各部分の用途について」(De usu partium corporis humani) 全17巻である.この一見奇妙な題名は,人体臓器はそれぞれその機能と密接な関係があるという,現在でいう機能解剖学的な解剖論を意図したものである.その内容は上肢(1, 2巻),下肢(3巻),腹部(4,5巻),胸部(6,7巻),頭部(8-11巻),頸部と脊柱(12,13巻),骨盤臓器(14,15巻),神経・血管(16巻),総括(17巻)と全身を網羅している.

図4.ガレノスが唱えた解剖・生理学の基本 [CC BY 4.0]

その基本は,肝,心,脳を重要な3大臓器として,肝から出る静脈が栄養を,心から出る動脈が生命力を全身に配分し,脳から出る神経が運動,知覚を司るとするもので,ここに目に見えない「プネウマ」が巧みに配されている. これはアレクサンドリアのエラシストラトスの考えを継承しこれをさらに発展させるものであった*1.その概要は以下のように説明される(図4)*2

(1) 胃,腸から食物の栄養素が肝臓に送られる
(2) 肝臓では栄養素に「自然のプネウマ」を加えて静脈血が作られ,静脈によって全身に運ばれ栄養を配分する.
(3) 静脈血は右心室にも送られ,その一部は肺へ,一部は心室中隔に多数ある小孔から滴り出て左心室に入る.
(4) 呼吸で肺に取り込まれた空気から「生命のプネウマ」が作られ,肺の血液とともに左心室の血液に付与されて動脈血となる.
(5)動脈血は動脈によって全身に運ばれ生体に活力を与える.
(6) 脳に達した動脈血には,脳底部の 奇網 で鼻から吸い込まれた空気から作られた「精神のプネウマ」が加わり,神経液となって脳室に蓄えられ,神経により全身に運ばれて運動と感覚を司る

*1 エラシストラトスとの主な違いは,肝臓が作る「自然のプネウマ」を付け加えていること,動脈にはプネウマではなく(プネウマを取り込んだ)血液が流れているとしていることである.

*2 この一連の理論は,ガレノスの複数の著書の各所に散在して書かれており,もちろん付図もない.この図は現代の史家の解釈によるものである.

この説明は現在の知識で言えばもちろん全く間違っているが,腹部の中央に大きく陣取り,血液を大量に含み,様々な種類の脈管が出入りする肝臓を血液生成の場として中心に据え,全身の解剖生理学を組立てたことは首肯しうるところである.

一方で,現在から見てもなかなか正確と考えられる記述も多い.たとえば,「血液の余剰物から尿を作る.尿は尿管を経て膀胱に蓄えられる」「膀胱と直腸の下端には,意に反する排尿,排便を防ぐ筋がある」「喉頭蓋は嚥下に際して倒れて誤嚥を防ぐ」「神経の働きは,感覚器における感覚,運動器における運動,内臓における痛覚にある」などとしている.

ローマでは人体解剖が禁じられていたため,ガレノスの解剖・生理学の知見は,動物,特に猿の解剖を通じて得たもので,それが故の誤認もある.しかし,ガレノスは臓器の機能を動物実験により確認している.例えば,尿管を結紮することにより尿が出なくなることから,尿が膀胱ではなく腎で作られることを示し,また反回神経を切断すると声が出なくなることからこれが声帯を支配することを証明している.

このようにガレノスの解剖学,生理学には数々の間違いもあったが,非常に構築性が高くそれなりの説得力があった.このためこの後1300年以上にわたって西欧医学はガレノスの医学を踏襲することとなり,これが修正されるには,16世紀の解剖学者ヴェサリウスによる解剖学書,17世紀のハーヴェイの血液循環理論の登場を待つ必要があった.

ガレノスの病理学・治療学

ガレノスはヒポクラテス医学を讃美,継承しており,その病態生理学も基本的に四体液説に基づくものであった.すなわち体液のバランスが保れた状態が健康であり,いずれかが過剰になると病気になり,この均衡を回復することが治療である.しかし,ヒポクラテスとガレノスの間には約400年の隔たりがあり,この間,ヘレニズム期のアレクサンドリアで活躍したエラシストラトスはクドニス派の流れを汲み,また紀元前ローマ時代のアスクレピアデスも,ヒポクラテスの体液病理説とは異なり固体病理説の立場をとっており,ガレノスの時代にはむしろこれらが主流であった.コス派を任ずるガレノスはこれをその著書「自然の機能について」(De naturalibus facultatibus)(全3巻)でこのような立場を強く批判している.以後,ヒポクラテスに発してガレノスが唱導した四体液説に基づく病理学は,19世紀にウィルヒョウの細胞病理学が登場するまで連綿と受け継がれることになる.  

ガレノス後の医学

ガレノスの医学は,このあと千数百年にわたって形を変えながらも継承されてゆく.現在我々が学ぶ西洋医学は,このガレノスの医学に端を発すると同時に,何度かの転換点でこれを修正し,時に否定しながら乗り越えてゆくことで形作られたものであるといえる.その意味で,ガレノスの医学は西洋医学の原点である. 

ローマは3世紀以降衰退し,北方からはゲルマン人が侵入して,395年には東西に分裂し,ガレノスの医学も次第に忘れ去られて行った.しかしこれに続く中世の時代,ガレノスが継承,発展させたギリシア,ローマの医学は,2つの経路で保存された.ひとつはキリスト教の修道院,もうひとつがイスラーム世界である.