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志賀 潔

生い立ち

志賀潔 (1871-1957).

志賀潔(1871-1957)は,佐藤直吉として仙台に生まれた.7歳の時,母の実家で代々仙台藩の藩医をつとめた志賀家の養子となり,志賀潔と改名した.1896年に帝国大学医学部を卒業,北里柴三郎による創設間もない伝染病研究所に入所した.与えられたテーマは赤痢の病源体の検索であった.当時,赤痢はアメーバが原因と考えられており,細菌説はむしろ少数派であった.赤痢はほぼ毎年,日本各地で発生していたが*,特に1893年以降激増して年間15万人が罹患,特に1897年に大流行があり,6~12月の半年間で全国の罹患数89,400人,死者22,300人,死亡率24.9%,東京だけでも2,100名の死者を記録している.志賀は伝染病研究所に入所した翌年に,この大流行に遭遇した.

* 古代から中国,エジプトを初め世界各地で赤痢と考えられる疾患の記載が多数みられる.ペストやコレラのような大流行がない変わりに,各地でほぼ毎年のように小流行を繰り返す赤痢は,長い歴史の中でおそらく人類に最も大きな被害をもたらした疫病の1つである.日本もその例外ではなく,赤痢という病名が登場した最も古い記録は861年,平安時代初期の史書「三代実録」が,京の都で多数の死者が出たことを伝えている.

赤痢菌の発見

図1. (上) 赤痢菌の顕微鏡写真. (下) Vidal反応.左:赤痢菌の凝集反応,右:対照 .志賀潔の赤痢菌初報論文より[4]

伝染病研究所に入所した志賀の細菌学の知識は,医学部の講義にとどまり,実際的な知識は皆無であったため,北里柴三郎から培養法,染色法など基本手技を教わったが,その期間はわずか3ヶ月であった.東京の赤痢大流行はその翌年であった.志賀は乏しい知識と持てる技術を駆使して病原体の同定を試みた.あやしい菌が見つかったが,本当にそれが起炎菌であるという決め手に欠けた.そこで志賀は,前年に発表されたばかりのチフス菌の新しい同定方法,Vidal反応(患者血清による細菌凝集反応)を応用することを思いつき,見事に成功した(図1).

志賀は,赤痢患者34名の糞便,および腸の組織を培養して新しい桿菌を分離し,これが赤痢の病源体であることを証明した.そして最後に,加熱して不活化した菌体を自らの皮下に注射して,38℃台の発熱,局所皮下の腫脹,膿瘍形成を認め,病原性を確認した.こうして発見した桿菌をBacillus dysentericusと命名した.1898年にドイツの医学誌に報告すると,まだ日本人による科学的業績など皆無だった当時,かかる少壮学者の偉業は国内外から大きな驚きをもって迎えられた.医学部卒業後わずか1年,弱冠26歳の快挙であった.

ハンブルクで開催された学会の席上,ボン大学教授のクルーゼ(Walther Kruse)が赤痢の起炎菌を発見したと発表した.志賀は既に4年前に自らが発見したと指摘し大激論となった.その後も議論が続いたが,コッホが設けた調査委員会による審議の結果,両者の発見した菌は同一であることがわかり,先に発見した志賀に優先権が与えられた.それでもドイツでは長らく志賀・クルーゼ菌(Shiga-Kruse bacillus)と呼んでいたが,さらにその後の研究で赤痢菌にはいくつかの亜型があること,志賀の発見した菌はその本型菌であることなどがわかり,赤痢菌属の属名として,志賀の名前を冠したShigellaが採用された.志賀が報告した菌は現在のA群赤痢菌,すなわちShigella dysentriaeに相当する.

清貧の晩年

1901年,志賀は北里も留学していたドイツのエールリッヒの下に学んだ.当時エールリッヒは様々な染料物質による化学療法を研究しており,トリパノソーマ感染症治療薬トリパンロート(Trypanrod)を発明したが,この時100種類以上の染料から有効な物質を発見する動物実験を担当したのが志賀であった.帰国後は,慶應義塾大学教授を経て,京城帝国大学(現ソウル大学)医学部の創設に尽力,医学部長,総長を歴任したが,学問的業績という点では目立ったものはない.これについては本人も「派手な仕事は最初だけで,あとは赤痢菌の分類とか疫学とか,地味なことばかり,特に予防ワクチンはついに完成できなかった...」と述懐している.しかし,その理由のひとつは,これも志賀自身が不本意を漏らしていることであるが,学者として油がのった50代に,京城大学での教育や衛生行政に関わらざるをえず,学問に傾注できなかったことにあった.

晩年には文化勲章受章(1944年),日本学士院会員推挙(1948年),文化功労賞受賞(1951年)など数々の栄誉に輝いたが,経済的には恵まれなかった.終戦直前に宮城県の寒村の小さな田舎家に疎開し,87歳で老衰にて没するまでそこに暮したが,こんな話が残っている.ある時,近所の小学校の生徒が先生に連れられて,高名な志賀博士の話を聞きに訪れた.志賀が何か質問はないかと問いかけたところ,ひとりの女子生徒が「先生はどのようにして生活の糧を得ておられますか」と訊ね,これには志賀もしばらく言葉が出なかったという.教科書にも名が出てくるえらい先生が,すこぶる貧相な暮しをしているのを見て社会科の研究材料にでもしようと思ったのだろうと述懐している.志賀は,この逸話を記した「学者と清貧」という小文の中で,いかに清貧の学者といえども最低限の衣食住の保証がなければ赤貧に陥ってしまう,と訴えている.実際のところ,志賀の晩年は清貧よりも赤貧に近かったらしい[1,2].

写真家土門拳の作品,昭和史を彩る人物の肖像写真集「風貌」に,1949年,78歳の志賀潔が収められている[3].田舎家の薄暗い壁面を背景に,絆創膏で補修した眼鏡をかけたその写真に,土門氏のコメントが添えられている.「志賀博士は丸顔の小さなお爺さんだった.村夫子然たるモンペをはいておられたので余計小さく見えた...随分貧しい暮らしのように見受けられた.障子一面に新聞紙が張ってあった...方々の農村も歩いたがこんなひどい障子は初めてだった...志賀博士が明治三十年に赤痢菌を発見して以来,今日までに人類が受けた恩恵は決して少なくない筈である.しかもここに,その発見者は赤貧洗うがごとき生活に余生を細らせているのである.僕たちはひどく矛盾を感じないわけにはいかなかった」

出典