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細菌学と消毒法

ゼンメルワイスの消毒法

図1. ゼンメルワイス(Ignaz Semmelweis, 1818-1865).

人類はその長い歴史の中で,ある種の病気が局所的に同時発生したり,人から人へ伝染することを経験的に知っていた.では病気を運ぶものは何か? これに大きく2つのとらえ方,ミアズマ説とコンタギオン説があった.ミアズマ(miasma)は,ガスのようなもので,これが町に拡散して多くの人に病気をもたらすと考えられた.コンタギオン(contagion)は病人との接触や,衣服,寝具を介してうつる正体不明の物質で,傷の化膿もこれが原因と考えられた.コンタギオン=病原微生物と考えれば,当たらずといえども遠からずであるが,19世紀に病原微生物の概念が成立するまで,その本態は不明であった.

コンタギオン説を一歩進めて,感染予防の手段を初めて講じたのは,オーストリアの産科医ゼンメルワイス(Ignaz Semmelweis, 1818-1865)である(図1).当時,母体の産後死亡率は平均13%,最大30%とされ,その多くが産褥熱であった.現在の知識では,産褥熱は分娩後子宮の細菌感染であるが,この時代,原因は全く不明であった.しかしゼンメルワイスはある事実に気づいた.彼が勤めるウィーン総合病院の産褥熱死亡率は,第一病棟では13%で,時に50%にまで上昇するのに,隣の第二病棟では2〜3%以下であった.第一病棟は主に医学生,第二病棟は助産婦の教育に使われていた.さらに彼は,第一病棟の産婦死亡率が,患者の病理解剖を医学生が行う教育システムが導入されて以降,急上昇していることを知り,病理解剖と産褥熱に何らかの関連があると推測した.折しも,同僚の病理学者が,病理解剖の際に指に負傷しその直後に高熱を出して死亡するという事件が発生した.ゼンメルワイスは,その症状と解剖所見が,産褥熱の女性と全く同じであることに気づいた.

図2.ウィーン総合病院の産褥熱死亡率の変化.ゼンメルワイスが消毒法を導入してから(矢印),死亡率が激減している.[1]

第一病棟では,素手で病理解剖を行った医学生がそのまま分娩を介助していた.ゼンメルワイスは,屍体粒子(Kadaverteile) が屍体から医学生の手に付着して産婦に移行し,産褥熱を起こすと推測した.そこで1847年,彼は医学生が病理解剖後に分娩室に入る時は,当時解剖台の消臭剤として使用されていた次亜塩素酸カルシウムとブラシで手を洗うというルールを作った.すると,第一病棟の産婦死亡率は3%にまで低下した(図2).これは驚くべき成果であり,高く評価されるべきところであったが,ゼンメルワイスは周囲の医師の冷たい視線を浴び,結局ウィーンを追われる結果となった*1.その理由はいろいろあったが,医療行為が産褥熱の原因であるということを当時の医師が認めようとしなかったことに加え,ハンガリー語を母国語とするゼンメルワイスがドイツ語で論文を発表しなかったことや,ウィーン三月革命(1848)の最中にあって革命を支持するゼンメルワイスが周囲に疎まれたことも一因とされる.故郷ハンガリーに戻ったゼンメルワイスは,ブダペスト大学教授となってここでも産褥熱の低減に貢献したが,結局精神に変調を来たし,収容された精神病院の看護人から暴行を受け,非業の死を遂げた*2.そして,この画期的な消毒法も忘れ去られてしまった.

*1 ゼンメルワイスは,ハンガリー帰国後もウィーン医学界を批判し続け,それが受入れられないために憤死したとも言われるが,最近の研究ではアルツハイマー病であったと推測されている[2]. ゼンメルワイスは20世紀後半になってようやく再評価され,1969年には創立200周年を迎えた首都ブタペストのペスト大学医学部がその功績を讃えてゼンメルワイス医科大学と改称された.またその生家は,ゼンメルワイス医学史博物館となっている.

*2 ウィーン大学の中で,近代皮膚科学の父とされるヘブラ(Ferdinand von Hebra, 1816-80)だけが,ゼンメルワイスの方法論をを擁護した

  • 1. Stang A, Standl F, Poole C. A twenty‑first century perspective on concepts of modern epidemiology in Ignaz Philipp Semmelweis’ work on puerperal sepsis. Eur J Epidmiol 37-437-45,2022
  • 2. 佐藤裕. ハンガリー医学史瞥見. 日本医史学雑誌 53:94-5,2007

パスツールの微生物病原説

ゼンメルワイスは消毒法を発明したが,産褥熱を引き起こす原因,「死体粒子」の本態は依然として謎であった.現在の知識から言えばもちろん細菌であるが,この時代,微生物の存在は知られていたものの,そこに疾病の原因を求める発想はなかった.自然科学の最先端をゆくのはドイツであったが,とくに急速な化学の発展を背景とする当時のドイツ医学は,疾病の原因もすべて生体の化学反応に求める風潮にあった.微生物が病気を引き起こすという現在では当たり前の知識を確立したのは,フランスの化学者パスツール(Louis Pasteur,1822-1895)であった.

ワインの発酵を研究していたパスツールは,発酵現象が微生物によるものであることを発見し,ワインの腐敗もまた微生物によるものであることをつきとめて,これを防ぐ方法として低温殺菌法(pasteurization)を発明した.また当時養蚕農家で問題となっていた蚕の病気を研究し,これが微生物によることを発見したことから,人間の病気も微生物によるものではないかと考えた.すなわち「微生物病原説」(germ theory)である.1860年~70年代にさまざまな実験を通して確立されたこの考え方は,現在ではあまりに当然の考え方であるが,当時の化学偏重の医学界にあっては画期的な説であった.

関連事項

微生物自然発生説の否定

図3.パスツールの実験.フラスコに煮沸した肉汁を入れ,上の2つは密封,左下は開放した白鳥の首型のガラス管.右下は首を折った状態.右下のみ細菌が増殖している

パスツールは,病気が微生物によることを示したが,では微生物はどこから来るのか? 当時,微生物は有機物から自然発生すると考えられていた.この微生物自然発生説を支持する有力な証拠は,肉汁を煮沸しても放置しておくと,やがて微生物が発生して腐敗する現象で,これは肉汁に含まれる有機物質から微生物が生れるためであると考えられた.しかしパスツールは,これは空気中の微生物が肉汁中に自然落下して増殖するものであると主張し,1861年にこれを有名な白鳥の首型フラスコの実験によって証明した(図3).

すなわち,フラスコの中に煮沸した肉汁を入れておいても,上部のガラス管を密封したり,あるいは開放しても細長く弯曲した状態では細菌が増殖しないが,ガラス管の首を折って直接空気に触れるようにすると細菌が増殖することから,肉汁に増殖する細菌は空気中から落下したものであることを示し,これによって,微生物自然発生説は否定された

 

リスターの無菌手術

図4.リスター(Joseph Lister, 1827-1912).石炭酸による世界初の無菌手術に成功した.

図5. リスターが使った石炭酸噴霧器.

パスツールの病原微生物説を知ったイギリスの外科医リスター(Joseph Lister, 1827-1912)(図4)は,傷の化膿も水や空気中の微生物によるものではないかと考えた.リスターが勤務するグラスゴー大学では,術後の敗血症による死亡率が40%にも達していた.パスツールは肉汁を煮沸すると微生物による腐敗を防げることを証明していたが,リスターはいろいろ試した結果,従来さまざまな皮膚疾患や創傷の治療薬として,あるいは汚水の消臭剤として利用されていた石炭酸(フェノール)が有効な消毒薬であることを見いだした.

1865年8月12日,奇しくもゼンメルワイスの死の前日,世界初の無菌手術を行った.患者は馬車に轢かれて脛骨複雑骨折を負った11歳の少年で,石炭酸に浸したガーゼで創部を覆って固定することにより少年の傷は化膿することなく,単純骨折と変わらない経過で治癒した(→原著論文).当時,複雑骨折は放置すれば化膿することから切断術が原則であり,下肢切断術の死亡率は40〜50%であった.リスターはさらに症例を積み重ね,1870年代には創部だけでなく手術室に石炭酸を噴霧する方法を考案した(図5).リスターの無菌手術法は,全身麻酔の導入とともに外科手術に大変革をもたらした.

リスターはゼンメルワイスの業績を知らなかったが,その消毒法は本質的にゼンメルワイスと同じである.時代の徒花と消えたゼンメルワイスと異なり,リスターは消毒法の父として医学史にその名をとどめ,その功績を称えてナイトに叙せられている.ゼンメルワイスはひとえに不運であったと言えよう.


原著論文

《1867 初の無菌手術成功》
複雑骨折,膿瘍などの新しい治療法,特に化膿の条件について. 第1部 複雑骨折
New method of treating compound fracture, abscess, etc. with observations on the conditions of suppuration. Part I. On compound fracture
Lister J. Lancet 89:326-9,1867

【要旨・解説】 無菌手術を実現して外科手術に大変革をもたらしたリスターによる,石炭酸の臨床応用の初報である.本稿はLancet 1867年3月16日号に掲載されたもので,症例1~4の報告であるが,これに続いて7月27日まで計5回にわたって初期の複雑骨折11症例が紹介されている*.症例1は,1865年8月12日に行われた世界初の無菌手術成功例として有名な,11歳男児の下肢脛骨の複雑骨折例で,創部に石炭酸に浸したガーゼをあて,副子で固定したところ化膿することなく,6週後に治癒した.当時,複雑骨折は化膿する前に四肢切断することが原則で,四肢切断術の成功率は低かったことから,この症例のように複雑骨折を単純骨折に転換して治療できることは画期的であった.2例目も脛骨骨折で,一時的に回復したものの,リスターが不在にしている間に壊疽により死亡した.初期の11例については,この他症例6が,骨片による動脈損傷で死亡したが,その他は大きな感染徴候を示すことなく治癒している.石炭酸を局所に使用すると,一時的に化膿が見られるが,これは石炭酸による刺激のためで,放置して良いとしており,最終的に創傷は肉芽を形成して治癒し,複雑骨折も単純骨折と同様に扱うことができるとしている.

この時点では,石炭酸の使用は創局所にとどまっているが,リスターはその後実験を重ねてさらに術野,手術室内にも石炭酸を噴霧する方法を提案,実践しており(図5),これは1868年に発表している[1,2].しかし,

* 本稿のタイトルには「第1部 複雑骨折」 とあるが,続報に「第2部」の記載はない.

  • 1. Lister J. An address on the Antiseptic system of treatment in surgery. Brit Med J 2(394):53-56, 2(396):101-102, 2(409):461-463,2(411):515-517,1868
  • 2. Lister J. On a case illustating the present aspect of the antiseptic system of treatment in surgery. Brit Med J. 1(524):30-32,1871

原文 和訳


細菌学の父コッホ

パスツールの病原微生物説をさらに推し進めたのが,細菌学の父と称されるドイツの医師コッホ(Robert Koch, 1843-1910)である.コッホは田舎の開業医として患者の診療にあたる傍ら,診療所の片隅の研究室で炭疽病の研究をしていた.炭疽病は,農民の貴重な財産である牛や羊の皮膚や内臓を侵す致命的な感染症で,人間にも伝染して命を奪うことから,その当時大きな問題となっていた.1873年,コッホはついに炭疽病の原因と考えられる細菌,炭疽菌を発見した.しかし,権威主義に固まった当時のドイツの医学界にあって,一介の開業医の研究など首都ベルリンの医学者に相手にされないことを十分に承知していたコッホは,念には念を入れ,自ら発見した細菌が炭疽病の病原であることを一分の隙もなく証明した.すなわち,(1)患部には必ずその病原体が存在すること,(2)それ以外の部位には病原体が存在しないこと,(3)病原体を他の動物に注射すると同じ病気が起こること,(4)その動物から,同じ病原体が分離できることを徹底的に示した.これは現在,コッホの四原則とされるもので,その後現在に至るまで病原微生物学の基本である.緻密な論理に支えられたコッホの論文は,ベルリンのみならず世界の医学者の認めるところとなった.炭疽菌の発見は,微生物が病気の原因となり得るという,現在は当たり前の事実を初めて実証したという点で,医学史上きわめて大きな意義を持つ.

図6. コッホの著書の挿図.青い桿状の構造が結核菌.

1882年,コッホはさらに結核菌を発見した(図6).結核は古くから知られていたが,特に18世紀末から19世紀初頭にかけてヨーロッパ各地で産業革命が進んだことが引き金となり,大きな社会問題となった.各地から都会に集められた労働者が,狭い工場に押し込められ,劣悪な環境の下に置かれた結果,都市を中心に大量の患者が発生,さらに汽車,汽船など交通手段の発達でこれが各地に拡大したためである.徐々に全身がむしばまれて衰弱,吐血,死に至る不治の病で,次第に青白くなっていく患者の様子から「白いペスト」とも言われて恐れられ,死因の第1位,7人に1人がかかり,罹患すればその1/3が死亡するという恐怖の病であった.従って,その原因究明の報は,医学界のみならず社会全般に大いなる賞賛と治療法開発への期待をもって迎えられた.しかし,結核の治療法が確立するにはなお数十年を要した(→関連事項:ツベルクリン事件).1884年にはエジプト,インドに赴いて現地で診療にあたり,コレラ菌を発見した(→関連事項: コレラ菌の再発見).

コッホの研究を皮切りに,以後19世紀後半には淋菌(1879年,Albert Neisser),チフス菌(1880年,William Budd),マラリア原虫(1880年,Charles Laveran),ジフテリア菌(1884年,Edwin Klebs, Friedrich Löffler),破傷風菌(1884年,Arthur Nicolaier),ペスト菌(1894年,北里柴三郎,Alexandre Yersin),赤痢菌(1897年,志賀潔)など,病原微生物が次々と発見された.1905年,結核に関する研究に対して,第5回ノーベル生理学医学賞を受賞した.

関連事項

ツベルクリン事件

図6.大衆紙に掲載された,聖ジョージの竜退治になぞらえて結核に立ち向かうコッホを揶揄した漫画.

1890年,コッホは結核菌の発育を抑える物質を発見したと発表した.このニュースは,ただちに世界中を駆けめぐり,結核菌発見をさらに上回る大反響を呼び起こした.コッホのもとに世界中から患者が押しかけ,ベルリン市内はホテル不足に陥るほどであったという.このとき,この物質にはまだ名前がなかったが,その後ツベルクリン(tuberculin)と名付けられた.ツベルクリンは破砕結核菌のグリセリン浮遊液で,「ツベルクリン反応」として現在も結核の診断法のひとつとして利用されているが,治療効果はない.コッホの発表は誤りであった.実際にその後約1年間,2,000人以上がツベルクリンの治療を受けたが,無効なばかりか悪化する患者が続出した.賞賛と期待は一気に誹謗と失望に転じた(図6). 

なぜコッホが,このような過ちを犯したのかについては諸説ある.5年前の1855年,フランスのライバル,パスツールが狂犬病ワクチンを開発し,また1890年には自らの弟子であるベーリングがジフテリア血清療法に成功するなど,自らの業績の翳りへの焦りがあったとか,結婚生活の破綻などが理由として挙げられているが,いずれにせよ大学者コッホ,痛恨の大失策であった[1]. 

  • 1. Ligon BL. Semin Pediatr Infect Dis 13:289-9,2002. Robert Koch: Nobel  laureate and controversial figure in Tuberculin research.

コレラ菌の「再発見」

図7. コレラ菌を初めて記載したパチーニ(Filippo pacini, 1812-83)

コレラ菌の発見者はコッホとされることが多いが,正確にいうとコッホはコレラ菌を「再発見」した.コレラ菌を初めて記載したのは,イタリアの解剖学者で,神経終末のパチーニ小体に名前が残るパチーニ(Filippo pacini, 1812-83)である(図7).1854年,フィレンツェでコレラが大流行した際,パチーニは死亡した入院患者と病院の洗濯婦の解剖を行ない,腸粘膜の組織から桿菌を発見し,これをvibrio choleraと命名した.さらにコレラの病態は,この病原体の腸粘膜に対する作用に起因する大量の水と電解質の喪失であることを的確に指摘し,食塩水の経静脈性投与を推奨している.しかし当時,コレラの原因は瘴気(ミアズマ)説が優勢で,まだ細菌が疾患の原因となることが一般に認められていなかったため,この業績は注目されないままに放置された.

1884年,コッホがあらためてコレラ菌の純粋培養成功を報告し,コンマ状であることからこれを comma bacillus と呼んだ.コッホはパッチーニの研究について何も触れていない.同年イタリアの細菌学者Vittore Trevisaはこれがパッチーニの発見した菌と同一であることをただちに指摘して Bacillus choleraeと命名し,Lancet誌でもパッチーニの先行研究が指摘されたが,その後もパッチーニの功績は軽視され続けた.現在の学名 Vibrio cholerae は1896年にドイツの細菌学者Pfeifferが命名したものであるが,1964年,アメリカのRudolph Hughの提案により,正式名称として Vibrio cholerae (Pacini 1854)が採用され,ようやくパッチーニの功績が認められた.なおコッホも,コレラ菌を動物に感染させて発症することには成功しておらず,ことコレラに関してはコッホの四原則が成立していなかった.コレラ菌とコレラの因果関係が最終的に証明されたのは1959年のことで,インドの内科医Sambhu Nath Deが,コレラ菌毒素を健常人に接種してコレラの症状が起こることを示した[1,2].

  • 1. Lippi D, Gotuzzo E. The greatest steps towards the discovery of Vibrio cholerae. Clin Microbiol Inrct 20:191-5,2013
  • 2. Rao MS. Original observations of Filippo Pacini on vibrio cholera. Bullet Ind Inst Hist Med 8:32-8,1978
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パスツールとコッホ

図8.パスツール(Louis Pasteur,1822-1895)

図9.コッホ(Robert Koch, 1843-1910)

フランスのパスツール(図8),ドイツのコッホ(図9)は,ほぼ同時代に活躍し,病原微生物学の創始,発展に重要な役割を果たした二大巨人であるが,医学史におけるそれぞれの位置づけはやや異なる.パスツールは化学者であり,光学異性体の発見者であるが,その過程で酒石酸の光学異性が微生物によって変化することから,アルコール発酵や酢酸発酵が微生物によるものであることを発見した.ここから細菌研究に足を踏み入れたが,パスツールの細菌培養法はフラスコ内の液体培地を利用するものであった.

一方のコッホは,シャーレ内の固形寒天培地による培養法を発明した.寒天培地は現在も細菌学の研究に不可欠なもので,液体培地にくらべて扱いが容易であり,特に個々のコロニーを分離できるという大きな利点がある.コッホはこれを活用して次々と新しい病原菌を発見した.パスツールは,微生物病原説,微生物自然発生説の否定など,微生物学の基本原理の構築に大きく貢献しながらも,実際の細菌同定,発見という面ではコッホに大きく譲ったことは,化学者と医学者という背景の違いに加えて,この培養技術の差が大きく影響している.

なお,両者が犬猿の仲であったことは有名である.その背景には,学問的な問題以上に,普仏戦争(1870-71)後まだ間もないドイツ,フランス両国間の根強い反目感情があった.パスツールは「科学に国境はないが,科学者には祖国がある」と発言している.加えて言葉の問題もあった.パスツールはドイツ語を全く解さず,コッホはフランス語を多少読めたが話せなかった.両者が会した1882年の学会で,パスツールが「ドイツの論文集(recueil allemand)」と発言したのを通訳が「ドイツの傲慢(orgueil allemend)」と聞き違えて訳したために,激昂したコッホは突然席を立ち,パスツールもコッホの無礼な態度にこれまた憤激したというすれ違いの場面もあった.パスツールの反独感情は最後まで解けることなく,ドイツから贈られた名誉学位を返上し,晩年にはドイツ政府の勲章を拒絶している.しかし,この二人の巨人が細菌学を一気に推し進め,20世紀における感染症医学の目覚ましい発展の礎を築いたことは確かである[1].

  • 1. Hal H. Pasteur versus Liebig, Pouchet, and Koch. In: Great feuds in Medicinie (John Wiley & Sons, 2001)