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ワクチンと血清療法 

二度なし現象

一度病気にかかるとその病気には二度とかからない……免疫学の原点とも言えるこの「二度なし現象*1 は古くから知られていた.ギリシアの歴史家ツキディデスは,前430年,ペロポネソス戦争のアテネの疫病に際して,疫病から回復した者は「2度は罹らない,あるいは罹っても軽症なので」他の病者の看護にあたったと記載している*2ユスティニアヌスの疫病でも,プロコピオスは,回復した患者は2度罹りにくいないとしている[1].

この原理を応用して,少量の毒素,あるいは弱毒化,不活化した病原体を事前に投与して病気の発症を防いだり治療するのがワクチン血清療法である.ローマ時代の小アジア,ポントス王国のミトリダテス6世(前120~63)は,周囲が自分を毒殺しようとしていることを事前に察知し,いろいろな毒物を少量ずつ飲んで抵抗力を養ったため,いざ自殺しようとした時になかなか死ねず,兵士に刀で殺すよう依頼したという言い伝えがある.事実なら世界初のワクチンといえる*3

*1 二度なし現象:パスツールによる "non-récidive" (無再発)に「二度なし」の訳語を与えたのは,細菌学者の川喜田愛郎らしい[2].

*2 ツキディデスの「戦記」の引用として「ペロポネソス戦争末期,ギリシアのカルタゴ軍はシラクサを攻撃したが,両軍ともに疫病が発生し,カルタゴ軍はやむなく撤退した.その8年後,カルタゴ軍は再びシラクサに攻め入ったが,またも疫病が発生した.しかし,前回の戦いに参加した古兵を中心とするシラクサ軍はほとんど病気にならず,その一方,新たに兵士を募ったカルタゴ軍は軒並み病に倒れてまたもや撤退する結果となった」という,二度なし現象を示唆するエピソードを紹介している文献が散見されるが[3,4],ツキディデスの原典にそのような記載は見当らず,出処不明である

*3  このミトリダテス6世の処方は,その後ローマを経てアラビアに伝わり,万能薬テリアカとなった.

  • 1. Cruse JM. Atlas of immunology. (CRC Press, 2010)
  • 2. 川喜田愛郎. 免疫学100年史. 順天堂医学 28:545-65,1982
  • 3. 菅野雅元. 人類が認識した「免疫」の歴史. 広大フォーラム. 346,1998
  • 4. 熊本大学医学部.免疫学講座-免疫のむかし話

種痘

二度なし現象の知識を初めて臨床に応用したのが種痘,すなわち天然痘ワクチンである.天然痘は,現在の知識で言えば天然痘ウイルスの感染症であるが,感染すると高熱,激しい頭痛に引き続いて,全身の皮膚に無数の小さな水疱が発生する.死亡率は30%と高く,治っても醜い「あばた」が残り失明する場合もある.飛沫感のみならず,水疱が乾燥した痂皮にも感染力があるため,寝具などを介して急速に拡大する.18世紀のロンドンでは人口の1/3が罹患,失明者の2/3は天然痘が原因だったと言われる.

図1.下男のフィップス少年に種痘を接種するジェンナー[PD]

図2. フィップス少年に善感した種痘[1]

天然痘に二度なし現象が存在することは,既に知られていた.当時ロンドンの召使いの求人広告には「既に天然痘にかかったことがある者」という一行が加えられていたという.召使いが突然病に倒れる危険を避けるための知恵であった.またイスラーム世界ではそれ以前から,腕に傷をつけて患者の水疱液を擦り込んで予防する方法が実際に行われていた.この「アラブ式種痘」 はヨーロッパでも一部で行なわれたが,病原体そのものを皮膚に擦り込むため,高率に天然痘を発症し,死亡率は12%もあった.

イギリスの医師ジェンナー(Edward Jenner,1749-1823)は,あるとき患者の乳搾りの農婦から,牛痘にかかると天然痘にはかからないという話を聞いた.牛痘は天然痘に似たウシの病気で,ヒトにもうつって天然痘と同じような水疱を作るが重症化しない.1796年,ジェンナーはこの知識をもとに,牛痘を下男の子供フィップス少年に接種し,天然痘の予防に成功した(図1, 2)*1.現在で言う生ワクチンの一種*2である.ジェンナーは,1798年にとしてこれを公表し[1],種痘法はヨーロッパ各国に広く普及し,1849年には日本でも 除痘館 が設けられた.しかしその後約1世紀,新たなワクチンは登場しなかった.

*1 1796年,ジェンナーが初めて種痘を行ったのは,下男の子供,8歳のジェームズ・フィップス(James Phipps)少年であった.日本で出版されているジェンナーの伝記には,危険を顧みず最愛の我が子で最初に試みたという「美談」が語られているものがあるが,これは誤りである.ジェンナーは,フィップス少年で成功した後に,自分の子供にも接種しているが,これは生着せず失敗している.この美談は明治期の修身の教科書に載ったもので,その出処はイギリスの医師でもある啓蒙著述家サミュエル・スマイルズ(Samuel Smiles,1812-1904)の著作『自助論』の訳書「西国立志編」である.ここには「まず己が子に牛痘を種へ試み」とあるが,原文には「まず」の記載はない.これが単なるミスなのか,訳者の意図的なものなのかは不明である.そして,さらにこれを引用した「種痘法発明者善那氏種痘頌徳之記」は,フィップス少年を無理やりジェンナーの息子に仕立て上げて,美談が創作されている.

*2 種痘は,天然痘ウイルスに類似した弱毒ウイルスである牛痘ウイルスが存在するという偶然かつ特殊な状況を利用したワクチンといえる.現在の生ワクチンは,一般に長期継代培養により病原性の低い突然変異を選択する弱毒化(attenuation) の操作を行なって製造される


パスツールのワクチン

図3.炭疽菌ワクチンの野外公開実験.ワクチンの効果を報道陣初め大勢に披露した[3]

炭疽病ワクチン

フランスのパスツール(Louis Pasteur,1822-1895)は,1878年,家禽コレラ*1の病原菌(pasteurella multocida)の培養に成功した.さらに翌1879年,たまたま長期休暇で放置されていた培地が劣化して細菌が病原性を失ったが,これを接種したニワトリに高病原性の細菌を接種しても発症しないこと,すなわち感染防御が成立することを発見した.初の家畜用ワクチンであった[1].        

さらに1881年,パスツールは,1874年にコッホが同定した家畜の炭疽病の病原菌である炭疽菌(bacillus antracis)を弱毒化し,これを投与することにより感染を防御できることを発見した.そして野外公開実験を行なった(図3).1881年5月5日,パリ近郊のプイエルフォール(Pouilly-le-Fort)で,ヒツジ24頭,ヤギ1頭,ウシ6頭にワクチン(弱毒培養液)を接種し,5月31日にワクチンを接種した動物と対照群に強毒培養液を投与した.6月3日には,対照群はすべて死亡したが,ワクチン接種群は発症しないことが,報道陣を含む大勢の観衆に披露された.1882年には85,000頭,1894年には340万頭の牛にワクチン*3が使用され,フランス国内の炭疽病による家畜死亡率は0.3%に減少した[2].

図4. メイステル少年の狂犬病ワクチン接種.後ろで見守るのがパスツール[PD]

狂犬病ワクチン

1885年には,狂犬病ワクチンを開発した.これは狂犬病に感染させたウサギの脊髄を乾燥させたものであった.同年7月6日,9歳の少年ジョゼフ・メイステル(Joseph Meister, 1876-1940)が全身を狂犬に噛まれるという事件が起こった.狂犬病致死率は,発症すれば現在でもほぼ100%である.まだ実験段階のため使用をためらうパスツールであったが,主治医に説得されてワクチン投与を決意し,60時間後から12回にわたってワクチンを投与した(図4).少年は発症せず,まもなく傷口も癒えて全快した*4.さらに10月には,15歳の羊飼いの少年が狂犬に噛まれ,やはりパスツールのワクチンで事無きを得た.1886年10月,フランスでは2,490名が狂犬病ワクチンを接種し,狂犬病の致死率は0.5%に低下した[2].

*1 家禽コレラ(fowl cholera):家畜法定伝染病のひとつ.パスツレラ属 (pasteurella multocida)の感染症で,ニワトリ,アヒルなどの家禽に急性敗血症を来たし,致死率70%とされる.日本国内では1953年以降発症がない.ヒトへの感染は稀である.

*2 炭疽病(anthrax):家畜法定伝染病のひとつ.炭疽菌(bacillus anthracis)の感染症で,ヒツジ,ヤギなどに感染するが,人畜共通感染症でヒトにも感染する.皮膚炭疽症では皮膚の発疹,潰瘍,肺炭疽症では重症肺炎を来たし,未治療の場合は致死率90%とされる.

*3 ジェンナーが牛痘(cowpox)を variola vaccina (ラテン語 vacca=牛)と命名して以来,ワクチン (vaccine, vaccination) という言葉は専ら種痘をさして用いられていたが,1881年の第7回国際医学会でパスツールが家禽コレラや炭疽病に対する研究成果を報告した際,ジェンナーを讃えてこの方法を一般的に vaccination と呼ぶことを提案した.

*4 メイステルは,後年パスツール研究所の守衛となった.第二次世界大戦でパリにドイツ軍が侵攻した際,メイステルは研究所内に祀られているパスツールの遺体を身を呈して守り銃弾に倒れたとする美談があるがこれは真実とは異なり,実際にはドイツ軍の侵攻に際して家族を避難させて自らは研究所に戻ったが,家族がナチに捕われたと誤解し,良心の呵責からガス自殺した.しかし家族は無事であったという[4].

ポリオワクチン

図5.病棟にならぶ人工呼吸器「鉄の肺」.ポリオによる呼吸筋麻痺の治療に使われた [PD]

ポリオ(急性灰白脊髄炎 poliomyelitis)は,エンテロウイルスの1つであるポリオウイルス(poliovirus)の経口感染が引き起こす疾患で,特に脊髄前角細胞,延髄神経核を侵して,四肢,呼吸筋麻痺を起こす.小児に好発することから小児麻痺ともいわれるが,成人にも発症する.紀元前から知られていたが,1909年に,血液型の発見者として知られるラントシュタイナー(Karl Landsteiner)がポリオウイルスの分離に成功し,その経口感染による疾患であることが明らかとなった.欧米では1900年頃より急増,毎年夏期に流行を繰返していたが,特に1916年にはニューヨーク市で9,000人が罹患,うち2,300人が死亡するという大流行がおこり,米国内で一気に社会問題化した.患者は1~3歳の小児が大多数を占め,数日にして片麻痺,高度な場合は四肢麻痺に到り,最悪の場合,呼吸筋をおかされて人工呼吸器「鉄の肺」(図5)が必要となる.感染者の家族や外国移民が白眼視されるなど,社会はパニック状態に陥った.1921年にはローズヴェルト米国大統領も罹患した.日本でも戦前,戦後期に何度かの流行をみている.

《生ワクチンと不活化ワクチン》

図6. (左)不活化ワクチンを注射するソーク.(右) 弱毒ワクチンを経口投与するセービン [PD]

早期からワクチンが研究されたが,開発は難航をきわめた*1.当時知られていたワクチンは,弱毒ワクチン(生ワクチン),すなわち原因微生物の弱毒株を接種して免疫能を賦与する方法であった.米国シンシナティ大学のウイルス学者セービン(Albert Sabin, 1906-93)(図7)は,弱毒ワクチンの経口投与により最も確実に免疫能を獲得できると考えて開発を進めていた.弱毒ワクチンは,天然痘ワクチン(種痘)やパスツールが発明した狂犬病ワクチン以来の方法で,実績もあり,免疫能の賦与は確実でしあったが,ワクチン投与による発病の危険性を常にはらんでおり,病原性の制御が課題であった.

一方,ピッツバーグ大学のソーク(Jonas Salk, 1914-95)(図6)は,薬品で処理したウイルスにより,病原性のない不活化ワクチンを実現することができると考え,独自に開発を進めていた.ソークは以前にミシガン大学でインフルエンザの不活化ワクチンを開発した経験があった.しかし,セービンら正統派ウイルス学者の多くは不活化ワクチンの効果は不充分で持続性に欠けると考えていた.

《ソークワクチンの成功》

ウイルス開発が進まなかった最大の理由は,ポリオウイルスの培養に生きたサルの脳を必要とすることにあった.特にソークが目指す不活化ワクチンの開発には大量のウイルスが必要であった.しかし1948年,バーバード大学のウイルス学者エンダース(John Enders1897-1985)が組織培養法を発明し,ポリオウイルスを試験管内で増殖させることが可能となった(1954年ノーベル生理学医学賞受賞).ソークは,ただちにこの方法を採用するとともに,当時知られていた様々な手法を組み合わせてワクチン開発を一気に推し進め,1950年台初めにはほぼ臨床応用可能な製剤を手にした.

ポリオワクチン研究開発の資金は,主に全米小児麻痺財団(National Foundation of Infantile Paralysis)*2が提供しており,セービン,ソークともにその支援を受けていたが,1951年,財団はソークワクチンの大規模臨床試験に踏み切った.セービン陣営は,実績に乏しい不活化ワクチンの臨床応用を強く批判したが,社会的にもワクチン供給は急務であった.1954年,米国内の小児を対象に,接種群44万人,偽薬投与群21万人,非接種対照群118万人という,現在にいたるまで医学史上最大規模の臨床試験で行なわれた.結果は大成功で,有効率90%,安全性に問題がないことが確認され,ソークワクチンの実力は見事に証明された.

図7. 米国内のポリオ患者数(青)と死者数(赤)の推移.左の矢印は1916年の大流行.右の矢印は1955年ソークワクチン接種開始 [Our World in Data]  

1955年4月12日,500人の医学者,16のテレビ局,150社の新聞報道陣を前に,臨床試験結果の発表が行われた.席上,ソークはスーパースターであった.ソークはセービン陣営の批判を予想して自重したものの,マスコミは彼をヒーローに祭りあげた.このためもあって,ソークは医学界の総スカンをくらい,自らは何も発明せずエンダースをはじめとする他人の業績を寄せ集めて栄誉を追い求めるエゴイストというレッテルを貼られてしまい,このレッテルは,生涯はがれることはなかった.しかし,ただちに複数の製薬会社がソークワクチンの量産を開始し,その翌年からポリオは激減した(図7).世界の子供たちにとって,ソークがヒーローであることには違いなかった.

《セービンワクチンの普及》

セービンの弱毒ワクチンは開発が遅れたため,完成時に米国内では既にソークワクチンが使用されており,大規模臨床試験が実施できなかった.そこで1957年にソビエト連邦の協力をえて臨床試験に成功し,1961年にアメリカ政府はセービンワクチンを認可した.この時点で,既にソークワクチンの効果が行きわたっており,同年の米国内の発症は激減していた.しかし,セービンワクチンは,ソークに比較して安価であった.また,ソークワクチンが複数回の接種が必要であるのに対して原則1回の接種でよい,経口投与できる,効果が長期間持続する,また接種者から排泄された弱毒ウイルスが別の個体に経口摂取されてワクチン効果を生む,という特長を備えていた.そしてこれらは,特に開発途上国での使用を考えると大きな利点であった.このため,感染の危険が残されているものの,米国をふくめ世界的にもセービンワクチンが標準ワクチンとして急速に普及した*3

《再びソークワクチンへ》

ソークは,セービンの弱毒ワクチンの危険性を指摘し続けた.事実,米国内では毎年10~20人程度,セービンワクチンによると考えられる患者が発生した.セービンは,これをポリオに似た別の感染症であると主張したが,ソークは「世界中でただ1人を除いて,これが弱毒ワクチンの副作用であると信じており,なおかつもっと安全な方法がある現状で,このような犠牲を強いることは信じがたい」と公言して憚らなかった.結局,1999年,米国政府はセービンワクチンを廃止,ソークワクチン(改良版)を正式なワクチンとしてあらためて採用した.日本でも,2012年に生ワクチン接種は中止され,現在は四種混合ワクチンとして不活化ワクチンが使用されている.

セービンは,WHOを含む多くの組織,学会の重鎮として活躍した.一方,ソークは医学界では最後まで冷遇され,主立った役職につくことはなかった.しかし,ソークはソーク研究所を設立して癌,自己免疫疾患など難病の研究を精力的に進め,自らも死去直前までAIDSワクチンの開発に力を注いだ.最近は,ソークをの評価を見直す声も高まっているが,ソークもセービンも,世界中の子供たちをポリオの恐怖から救ったという点で,等しく偉大な医学者であったといえよう[1,2].

*1 1910年にポリオワクチンを発見したラントシュタイナー(Karl Landsteiner)もその後ワクチン作製を試みたが,不成功に終わった.1934年,米国テンプル大学のコルマー(John Albert Kolmer)は,感染サル脳組織をリシノール酸ソーダで処理した弱毒ワクチンを作製して動物実験に成功したが,1935年に大規模な臨床試験では多くの子供がポリオに罹患し,9名が死亡した.1934年,ニューヨーク大学のブロディー(Maurice Brodie) とパーク(William H. Park)は,ホルムアルデヒド処理した不活化ワクチンを作製し,少数例で安全性を確認後,翌年3,000名に接種したが,予防効果は認められず,多くが自己免疫性脳炎を思われる副作用症状を呈し,1名が死亡した[3].

*2 全米小児麻痺財団(National Foundation of Infantile Paralysis)は,1938年に自らも罹患したローズヴェルト米大統領が創設した基金で,ポリオワクチン開発の重要な資金源となった.この組織は当初から March of Dimes と呼ばれた.これは当時人気のニュース番組 March of Time をもじったもので,直訳すれば「10セント貨(ダイム)の行進」であるが,少額の寄付をもとにした財団の活動を表わす愛称であった.その後正式名称となり,ポリオワクチン成功後は様々な新生児疾患,母子保健の研究教育を支援するボランティア非営利団体として活動している.

*3 ソークワクチンの製造開始直後,カリフォルニア州のカッター社(Cutter Laboratories)が製造したワクチンを接種した子供がポリオを発症するという事件が発生した(Cutter incident).これは,同社の製造過程における不活化処理の不備によるものであったが,結局4万名が発症,内200例に麻痺が残り,10例が死亡した.この事件は,ソークや不活化ワクチンに責はなく,またその後同様の事故はなかったが,実績の乏しい不活化ワクチンに対する不安感をあおって,その後のセービンワクチンへの移行を助長する一因となり,実際にはより危険なワクチンの普及を促進するという皮肉な結果となった[2].

血清療法

図8.北里柴三郎(1853-1931) .破傷風菌の培養に成功し,血清療法を開発した.

図9. ベーリング (Emil A. von Behring, 1854-1917).ジフテリア血清療法を開発した.

1888年,コッホ研究所に加わったドイツの細菌学者ベーリング(Emil A. von Behring, 1854-1917)(図9)は,ジフテリアの研究を行っていた.ワクチンも抗生物質のなかった当時,ジフテリアの罹患率,致死率は高く(→関連事項:ジフテリアの歴史),重要な研究課題であった.ベーリングは,ジフテリア感染動物の血清濾過液を動物に注射することでジフテリアの治療,予防が可能であることを発見し,血清療法の基礎を創始した.血清療法は,動物に微量の毒素を注射して抗毒素を産生させ,その血清を治療薬として用いる方法である.

ちょうどこの頃(1885-90),日本の細菌学者,北里柴三郎 (1853-1931)(図9)がコッホのもとに留学しており,1889年にそれまで培養不可能とされていた破傷風菌の培養に成功(→関連事項:破傷風の菌培養),これを使ってベーリングがジフテリア菌で開発した血清療法を破傷風菌に応用した.1890年,ベーリングと北里は連名で,破傷風の血清療法に関する論文を発表(→原著論文),その1週間後,ベーリングはジフテリアの血清療法の論文を単著で発表した.ベーリングらは,破傷風菌やジフテリア菌の毒素を中和する何らかの物質が体内に産生されるためと推測し,これを抗毒素(antitoxin)と名づけたが,これは現在の知識で言えばまさに抗体であり,免疫学の根幹である抗体を発見したことになる.

翌1891年12月に,ベーリングは2人のジフテリア感染児に血清を投与したが所期の効果は得られなかった.これは血清の品質,力価の不足と考えられ,ベーリングはコッホに招聘されて研究していたエールリッヒの協力を仰ぎ,1894年初頭に臨床応用に成功した*1.同年8月にヘキスト社が抗ジフテリア血清を発売した.以後血清療法は後広く臨床に供されて多くの患者の命を救い,1901年,ベーリングは第1回生理学医学賞を受賞した*2

現在使われているトキソイドワクチンを開発したのは,フランスの獣医,微生物学者のラモン (Gaston Ramon, 1886-1963)である.第一次世界大戦時,破傷風血清の需要が急増したが,雑菌により汚染される事例が頻発したため,ラモンはフォルムアルデヒドを少量添加,低温加熱してこれを防止する方法を編み出した.その後1920年代にジフテリアが流行し,またも血清汚染の問題が発生したため同じ方法を試みたところ,フォルムアルデヒドを加えるとジフテリア毒素が無毒化されるが,抗原性を保っていることを発見し,これを利用してジフテリアワクチンを開発,さらに破傷風ワクチン製造にも成功した[1].第二次世界大戦中,フランス軍兵士は全員破傷風ワクチンを接種しており発症は皆無であった.なおラモンは,155回もノーベル賞候補にあがったが受賞には至らなかった*3[2].

*1 1891年12月末に行われた初の臨床投与は,正式な論文がなく,様々に伝えられており,正確なところは不詳である.ベーリングの許可なく臨床医が独断で行ったものとされており,「クリスマスの奇跡」とする報道もあったが,実際は奏効しなかったらしい.当時ベーリングがウサギから用意できた血清量はわずかで,治療には不足であったものと思われる [3][4].ベーリングが協力をもとめたエールリッヒは,標準血清による抗毒素の力価定量法を開発し,これをもとにヤギの血液から抗血清を得た.1894年,ベーリングはこれを用いて220名の小児に血清を投与し,168名が回復した.致死率24%で,これは従来の半分であった.ほぼ同時にフランスでは,パスツール研究所のルウがウマから大量の抗毒素血清を用意してやはり臨床応用に成功し,ベーリングもその後はウマ血清を使用するようになった[6].北里は1892年に帰国し,伝染病研究所でジフテリア血清療法をすすめ,1895年から96年に356例を治療している[5].その後,トキソイドワクチン,抗生物質の登場により,血清療法の活躍の場は狭まったが,現在もなお破傷風,ジフテリア,ガス壊疽,ボツリヌス,毒蛇咬傷(マムシ,ハブなど),毒蜘蛛刺傷(セアカゴケグモ)などに,血清療法(抗毒素療法)が行われることがある.破傷風はヒト血清,その他は主にウマ血清が使用されている.

*2 1901年,第1回ノーベル生理学医学賞は,「血清療法-特にジフテリアの治療に新しい道を開き疾病と死に勝利する武器をもたらした功績」に対してベーリングに授与された.ベーリングはその受賞講演で,エールリッヒに謝意を表しているが,北里の業績には全く触れていない.

*3 ジフテリア毒素を発見したフランスのルー(Emile Roux)も,再三ノーベル賞候補になったが受賞しなかった[2].

  • 1. Gaston Ramon, 1886-1963. Arch Environ Health 723-5,1963
  • 2. Butler D. Close but no Nobel: the scientists who never won. Nature News.11 Oct 2016
  • 3. kaufmann SHE. Remembering Emil von Behring: from tetanus treatment to antibody cooperation with phagocytes mBio 8:e00117-17,2017
  • 3. Oedingen C, Staerk JW. First cure for diphtheria by antitoxin as early as 1892. Ann Sci 54:607-10,1997 
  • 4. Klass P. An apocryphal Christmas Miracle - An old tale about a children’s ward in 1891 may be a myth, but the diphtheria antitoxin was a real gift. The New York Times Dec.23,2019
  • 5. 北里英郎.北里柴三郎の血清療法及び現代の血清療法について. 血清療法
  • 6. 高橋功. ヂフテリアに挑んだ人達.公衆衛生 15:32-34,1954 

原著論文

《1890 血清療法の発明》
動物におけるジフテリア免疫,破傷風免疫の成立について
Ueber das Zustandekommen der Diphtherie-Immunität und der Tetanus-Immunität bei Thieren
Behring E, Kitasato S. Deutsch Med Wochenschr 49:1113-4,1890

【要旨・解説】現在でいう液性免疫の原理の初報であり,その後の血清療法の基本となった免疫学における記念碑的論文である.コッホ研究所のベーリングと留学中の北里柴三郎の共著で,ジフテリアはベーリング,破傷風は北里の仕事であることが断られている.これに先だって,北里は破傷風菌の嫌気性培養法(→関連事項)を確立しており,それに続く研究である.本稿発表の1週間後に,ベーリングが単著でジフテリア毒素の免疫に関する論文を著している[1].脚注にもあるように,技術的詳細はこの翌年に北里が発表しており[2],この本稿はどちらかというと概念的,要約的な内容となっている.

まず冒頭に,「ウサギとマウスの破傷風免疫は,血液から細胞を除去した液体成分が,破傷風菌が産生する毒素を無害とする能力に基づく」という命題が掲げられ,これが免疫機序の本態であると宣言している.そしてそれに続いて,これが正しいことを証明する,という構成になっている.

この命題の意味するところは,血清中に破傷風毒素を中和する物質があるということで,まだその物質に特に名前をつけていないが,現在でいう抗毒素,抗体に相当するものであることは明らかである.これに先立つ約10年間に,フランスのパスツールが家禽コレラ,炭疽病,狂犬病のワクチンを成功させており,いわゆる二度なし免疫の臨床応用は広く知られるところとなったが,そのメカニズムについては不詳であった.当時,ワクチンにより免疫が獲得されるのは,生体が病原菌に「順応する」という考え方が強かったようで,これを否定している.

具体的には,破傷風菌で免役した家兎の血液,血清が破傷風毒素を破壊すること,その血清をマウスに投与してから破傷風毒素をしても発症しないことを述べている.例えば破傷風血清で免役した家兎に,通常では5ccで死亡する破傷風菌培養液を10cc投与しても健常であった.この家兎の血液を,免疫したマウスの腹腔に0.2cc,0.5cc投与しても健常であったが,対照マウスは24時間以内に死亡した.毒素に対する抵抗性が,血液,血清により他の動物に移行できることから,これによる治療が可能と考えられるが,この動物実験の結果をヒトの臨床に敷衍することについては,現時点では言及を控えるとしている.

初の臨床応用は,この1年後,1891年12月のことで,重症ジフテリアに罹患した子供2名にヒツジ血清を投与して治療に成功した[3].なお本稿は,DMW誌1890年12月4日号に掲載されており,日本では12月4日は「血清療法の日」とされている.

原文 和訳

  • 1. Behring E. Untersuchungen über das Zustandekommen der Diphtherie-Immunität bei Thieren. Deutsch Med Wochenschr 16(50):1145-48,1890
  • 2. Kitasato, S. Experimentelle Unterschungen über das Tetanusgift. Zeittschr Hyg Infekt. 10:267–305,1891
  • 3. Oedingen C, Staerk JW. First cure for diphtheria by antitoxin as early as 1891. Ann Sci 54:607-10,1997
  •  

関連事項

ジフテリアの歴史

図.10  ジフテリア患者の咽頭所見.中咽頭の左口蓋弓に特徴的な白色調の偽膜(→)が認められる[PD]

ジフテリア(diphtheria)は,グラム陽性桿菌ジフテリア菌(Corynebacterium diphtheriae)による呼吸器感染症で,ヒトからヒトに飛沫感染する.高熱とともに咽喉頭,鼻腔に厚い偽膜を形成し(図10),喉頭の病変が拡大すると気道閉塞による窒息死の原因となる.遅くとも1600年代から知られていたが,1826年にフランスのブルトノ(Pierre Bretoneau)により diphthérite と命名された(偽膜の外観からギリシア語で皮革を表す διφθέρα (diphthera) に由来する).小児に多いが成人も感染する.1883年にドイツのクレプス(Edwin Klebs)がジフテリア菌を同定,翌1884年にレフラー(Friedrich Löffler)が培養に成功してジフテリアの原因菌であることを証明し,1888年にフランスのルー(Emile Roux),イェルサン(Alexandre Yersin)が,ジフテリア菌が産生するジフテリア毒素が臨床症状の原因となることを示した.ヨーロッパでは産業革命以後,環境衛生の悪化を背景として急増し,19世紀末ヨーロッパのジフテリアによる死亡率は5~20%,特に5歳以下の小児の死亡率は高く,社会的にも問題となっていた.1890年にベーリングと北里が血清療法を開発し,ベーリングは小児の救世主と讃えられ1901年の第1回ノーベル賞受賞につながった.

1923年にフランスのラモン(Gaston Ramon)がトキソイドワクチを開発,1926年にイギリスのグレニー(Alexander Thomas Glenny)がこれを改良して実用化され,ワクチンによる予防が可能となり,その後抗生物質の登場により治療が可能となった.1974年にWHOが発展途上国における3種混合(DPT)ワクチン接種キャンペーンを開始した.現在,日本では乳児への4種混合ワクチン接種が行われており,1999年以降発生を見ていないが,東南アジア,ロシアなど世界的にはなお発症が続いており,ヨーロッパでもワクチン未接種者からの発生が報告されている.


破傷風菌の培養

図11. 嫌気性培養装置を前にする北里柴三郎. 手にしているのが亀の子シャーレ[PD]

破傷風菌は,1884年にドイツの医師ニコライエル(Arthur Nicolaier, 1862-1942)が土壌中に発見し,動物感染実験にも成功したが,嫌気性菌であることがわからず分離培養はできなかった.嫌気性菌の存在はパスツールが既に発見し,培養法も知られていたが不完全なものであった.多くの研究者が培養を試みたが不成功におわり,破傷風菌の発育には他の菌との共生が必要であるとも言われていた.

北里柴三郎は,まず感染したマウスの膿中の様々な菌を加熱し,破傷風菌の芽胞が耐熱性であることを発見した.そこで検体を80℃,30分加熱して非芽胞菌である雑菌を死滅させ,さらに無酸素状態で培養する方法を編みだした.この嫌気性培養装置は,その形状から「亀の子シャーレ」と呼ばれる扁平なシャーレで,キップ装置で発生させた水素を充填しすることにより,1889年,ついに破傷風菌の培養に成功 した(図12).

図12. 北里柴三郎が考案した嫌気性培養装置.左端のキップ装置で亜鉛と硫酸から水素を発生させ,途中のフラスコで硫化水素などを除去して,右側にある破傷風菌を塗布した寒天培地を入れた2つの扁平なガラス容器「亀の子シャーレ」に水素を充満する.シャーレ両端のガラス管を溶封,切断し,シャーレを恒温槽にいれて培養する[1]

  •  
  • 1. 浅川範彦, 北里柴三郎. 嫌気性細菌培養法.実習細菌学総論 (南江堂 1900)

 

側鎖説

図13 エールリッヒの側鎖説.細胞の表面から側鎖が突出しており,ここに抗原が特異的に結合する[1]

ドイツの細菌学者エールリッヒ(Paul Ehrlich, 1854-1915)は,組織や細菌の染色法の研究を通じて,特定の化学物質が特定の細胞や組織と特異的に結合するという考え方を確立いし,これがその後現在に至る免疫学,化学療法の基本となった.

1890年,コッホの研究室に招かれたエールリッヒは,ベーリングの求めによって,ベーリングが行っていたジフテリア毒素とその血清療法の共同研究を行う中で,抗毒素を作る細胞の表面には,毒素と特異的に結合する化学物質が突出しており,ここに毒素が結合するとこれが増殖してその一部が血中に放出され,毒素が中和されると考え(図13),1897年の論文でこれを側鎖(Seitenkette)と呼び[→原著論文],1900年にはこれを受容体(Receptor)と呼んでいる[1].この考え方,すなわち側鎖説は,その後現在に至る免疫学の基本原理を的確に示したものであると同時に,病原体をこれに特異的に結合する化学物質で死滅させるという点で,エールリッヒがその後創始した化学療法につながるものであった.

  • 1. Ehrlich P, Morgenroht J. Über Hämolysine. Dritte Mittheilung. Berl Klin Wochenschr. 37:453-8,1900
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原著論文

《1897 側鎖説の提唱》
ジフテリア治療血清の定量とその理論的背景(抜粋)
Die Wertbemessung des Diphterieheilserusm und deren teorische Grundlagen
Ehrlihc P. Klin Jahrbuch 6:299-326,1897

【要旨・解説】コッホに招聘されたエールリッヒが,ちょうどこの時期コッホ研究所でジフテリア毒素の血清療法を研究するベーリングに協力を求められて行った仕事のひとつに,ジフテリア毒素定量法の開発がある.この論文はこれを報告したものであるが,その中に理論的裏付けの解説として,ここで初めて 側鎖 (Seitenkette)の概念が登場するので,ここではこの部分を抜粋して示した.

定量的な実験により,反応する毒素と抗毒素は常に一定の比率で結合することから,毒素と抗毒素に特異的に結合する原子団(Atomgruppe)が存在することが示唆されとしている.これに先だって,1890年に有機化学の父とされる化学者フィッシャー(Hermann Emil Fischer)が酵素と基質の関係を「鍵と鍵穴」(Schlüssel-Schloss-Prinzip)とする考え方を提唱しており,毒素と抗毒素についても同様な関係を想定している.

エールリッヒが側鎖という言葉を初めて使ったのは,ここにも書かれているようにこの2年前,1895年に細胞の酸素需要に関する論説の中である.ここでは,酸素要求性の細胞と非要求性の細胞を酸化還元反応で変色する色素によって識別する実験で,酸素を消費する細胞の原形質には機能核(Leistungs-kern,ベンゼン環)に結合する側鎖(Seitenkette,残基)があり,側鎖に酸素が結合してこれが燃焼することによりエネルギーが産生されるとしている.すなわちこの時点では,側鎖はあくまで化学構造式の残基を意味するものであった.

本稿では,この側鎖の概念をさらに拡大している.細胞には側鎖が存在し,ここに破傷風菌毒素が結合するが,大量の毒素が投与されると側鎖が過剰産生されてこれが血中に放出され,血中の毒素と結合することによって抗毒素として作用すると考えることよって,破傷風毒素と抗毒素の関係を容易に説明できることを示した.ここで側鎖の構造については,特定の原子団であるということ以外は触れられていないが,エールリッヒはおそらくベンゼン環の残基のように単純な構造を想定していたのかもしれない;

ここで導入された側鎖の概念は,免疫現象の特異性を説明する道具として近代免疫学の端緒となるものであり,その後の免疫学がこの側鎖の構造,性質を明らかにし,あるいはその多様性の源を求めるものに外ならなかったことを考えると,この論文の免疫学の歴史における意義はきわめて大きい.またこの論文本来の趣旨は,抗毒素の定量評価法を明らかにすることで,さらにこれをもとにエールリッヒが高力価の抗血清をベーリングに提供し,はじめてベーリングの血清療法が実用に至ったことからも,この論文は二重の意味で大きな重要性をもつものである.

原文 和訳

細胞性免疫の発見

図14.ラットの組織で炭疽菌を貪食する食細胞 [1]

免疫系には,このような血清中の抗体による液性免疫とは別に細胞が病原体を取り込んでこれを破壊する細胞性免疫のメカニズムがある.これを発見したのが,ロシアのメチニコフ (Ilya Ilyich Metchnikoff, 1845-1916)である.

メチニコフは,消化管を持たない下等生物で,遊走しながら栄養物質を貪食する細胞を見いだし,これを研究する過程で,1882年,透明なヒトデの幼生が異物を貪食することを観察し,貪食機能が食機能のみならず生体防御にも関わることを発見した(図14).マクロファージを命名したのもメチニコフである.しかし当時は現在でいう液性免疫が主体と考えられていたため,メチニコフの説はあまり注目されなかった.1888年,パスツールはメチニコフを自分の研究室に迎え入れて支援し,その後細胞性免疫は液性免疫と並ぶ,免疫のメカニズムの両輪であることが明らかとなった.

1908年,側鎖説を唱えたエールリッヒとともに,ノーベル生理学・医学賞を受賞した.

  • 1. Metchnikoff E. Lecture on phagocytosis and immunity. Brit J Med 1:213-7,1891
  • 関連事項

    B細胞とファブリキウス嚢

    図15.ニワトリのファブリキウス嚢(B)と胸腺(T).

    リンパ球には抗体を産生するB細胞,これを制御し,細胞性免疫に関与するT細胞がある.Bはファブリキウス嚢(Bursa fabricii),Tは胸腺(Thymus)に由来する(図15).ファブリキウス嚢は鳥類独特の臓器で,肛門の直上にある腸管の盲嚢腔である.1952年,米国オハイオ大学のグリック(Bruce Glick)はその機能を調べるために飼育舎から数羽のニワトリを借り受けてファブリキウス嚢を摘出した.しばらく観察したが何も変化がなく,グリックはあきらめてニワトリを飼育舎に返却した.その2年後,大学院生のチャン(Timothy Chang)は,学部学生の授業で抗体産生実験のデモンストレーションを行うために,飼育舎からニワトリを借り出した.しかし全く抗体ができず,授業は失敗に終わった.このときチャンが使ったニワトリは,たまたまグリックがファブリキウス嚢を摘出したニワトリであった.

    これを知ったグリックは,ファブリキウス嚢が抗体産生に関連すると考え,実験によってファブリキウス嚢が抗体産生細胞の成熟に重要な役割を果たしていることを確認した.さらにこの時,グリックはもう一つ重要な事実に気づいた.すなわちファブリキウス嚢のないニワトリは,抗体を産生しないにもかかわらず免疫反応を示した.すなわち細胞性免疫の重要性があらためて示された[1].ヒトではファブリキウス嚢に相当する器官は骨髄(Bone marrow)であるが,たまたまBで始まるので,B細胞の名前はそのまま使われている.

    • 1. Ligon BL. Semin Pediatr Infect Dis 13:289-9,2002. Robert Koch: Nobel  laureate and controversial figure in Tuberculin research.
    •  

    その後の免疫学

    1956年,ワトソンとクリックによってDNA遺伝子の構造が解明され,分子生物学が発達すると,免疫学は長足の進歩を遂げた.それまで免疫学の最大の謎は抗体多様性 ,すなわち無限とも言える抗原に対して,一対一の関係で抗体が用意されるメカニズムであった.1959年,オーストラリアの免疫学者バーネット(Frank Macfarlane Burnet, 1899-1985)は,生体にはそもそも無数の異なる抗原受容体を持つ能力が備わっており,抗原刺激を受けると特定の細胞のみが選択的に増殖する,というクローン選択説を提唱し,実験によりこれを証明した.しかし,それでもなぜ多くの受容体を作れるのかは不明であった.

    図16.エーデルマンが発見したγグロブリンの4本鎖構造.[1]

    1960年代後半,アメリカの生物学者エーデルマン(Gerald Maurice Edelman, 1929-2014)によって抗体の分子構造が明らかになった.抗体の本態がガンマグロブリンであることは,既に1930年代後半にハイデルベルガー(Michael Heidelberger)により示されていたが,エーデルマンはその分子構造を解明し,H鎖,L鎖からなるY字型の4本鎖構造であることを発見した(図16).さらに.この中に可変領域(V領域)と呼ばれるアミノ酸配列が受容体ごとに異なる部分があり,これが抗体の特異性の本態であることも明らかにした[2].しかし,それにしてもこれを作り出す遺伝子はやはり有限個であり,なぜ無限の可変領域を合成できるのか,依然として説明がつかなかった.

    この謎を解明したのが,日本の利根川進(1939-)である.1978年,利根川は,遺伝子再構成(somatic re­combina­tion)という現象を発見した.それまで遺伝子配列は生まれつき固定的なものと信じられていた.しかし,利根川は抗体の可変領域を作る遺伝子は,必要に応じていくつかの部品を組み合わせて変化することを示した.これは遺伝子としては極めて例外的で,ヒトの場合,リンパ球にしか見られない現象である.これによって,事実上無限の抗体を作ることができるメカニズムがついに明らかとなった[2].

    • 1. Edelman GM, Cunningham BA, Gall WE. et al. The covalent structure of an entire γG immunoglobulin molecule. Proc Nat Acad Sci 63:78-85,1969
    • 2. Cruse JM. Atlas of immunology. (CRC Press, 2010)