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疫学の歴史 

中世の疫学

疫学(epidemiology)は,人間集団内の病気の頻度や分布を統計学的に調べることにより,その病気の原因を明らかにする学問である.その名前からわかるように,歴史的には主たる対象は伝染病であったが,この手法は生活習慣病,職業病,悪性腫瘍,薬害などについても広く適用される.また現在では,必ずしも病気に限らず,どのようにすれば健康になれるかという問題を考える上でも,不可欠な学問である.疫学の父と言われるのは,19世紀のイギリス,ロンドンで,コレラの大流行の原因が飲料水の汚染であることをつきとめたスノウ(John Snow, 1813-58)とされるが,これ以前にも疫学的なアプローチにより病因が明らかとなった事例は多く存在する.

最も古いところでは,ヒポクラテスが病気を知る上では,その土地の水の状態,住居の環境を知る必要があると述べており,これも環境と病気の関わりという点では疫学の萌芽といえる.

図1. ラマツィーニ(Bernardino Ramazzini, 1633-1714).多くの職業病を記載し,産業医学の父とされる.右:その著書の表紙[1]

しかし特定の疾患の原因を特異的な環境と結びつけた最初の例は,16世紀にイタリアのフラカストロ(Girolamo Fracstro, 1484-1553)が,梅毒が性交によることを示したものであろう.1700年には,同じくイタリアのラマツィーニ(Bernardino Ramazzini, 1633-1714)が,「職業人の病気」 と題する著書のなかで,50以上の職業にみられる疾患を記載した.例えば,石工や金属加工職人の肺疾患,屎尿処理業者の眼疾患(硫化水素眼炎)のほか,事務員の腰痛にもおよび,尼僧に乳癌が多いことはその禁欲的生活関係があるとしている.ラマツィーニは産業医学の父とされる (図1)[1].

1747年,イギリス海軍の軍医リンド(James Lind, 1716-1794)は,壊血病と食事の関係を発見した.ビタミンC欠乏症である壊血病は既に11世紀の十字軍兵士にも知られているが,特に15世紀末,大航海時代になっ長期の遠距離航海に出る船乗りに多発した.リンドはこれが柑橘類の不足によることを発見し,1795年以降イギリス海軍は兵食にレモンを必須として壊血病は激減した.19世紀にイギリスが7つの海を制覇できたのはこのためとも言われる.

図2. ポット(Percivall Pott, 1714-88).煙突掃除夫に陰嚢癌が多発することを発見した.右:18世紀ロンドンの煙突掃除夫.少年が多かった[2]

1775年,イギリスのポット(Percivall Pott, 1714-88)* は,ロンドンの煙突掃除夫に陰嚢癌(chimney-sweeper's cancer)が多発することに気づいた.複雑に枝分かれした細い煙突掃除には多くの少年が雇われ,全身に浴びた煤が体を覆っていた.Pottの義息James Earleは,陰嚢の襞の間にたまった煤(すす)が癌の原因であるとした(図2).これは化学物質が発癌の因果関係が知られた初めての例となった[2].これに伴い,1788年,世界初の少年労働法である「煙突掃除夫法」(Chimney sweepers act) が制定され,年少者の雇用年齢が8歳(1834年に14歳)に定められた[3].

*ポットは,Pott's disease (結核性脊椎炎),Pott's abscess (結核性脊椎膿瘍), Pott's fracture (腓骨,脛骨遠位骨折)などにその名前が残る.

1847年,ウィーン総合病院の産科医ゼンメルワイス(Ignaz Semmelweis, 1818-1865)は,産科病棟における産褥熱の発生が,病理解剖を行なった医学生の分娩介助と因果関係があることをつきとめ,消毒薬による手洗いを励行することにより産褥熱を激減させた.

  • 1. Franco G. Bernardino Ramazzini’s De Morbis Artificum Diatriba on Workers’ Health—the Birth of a New Discipline. J UOEH 43:341-8,2021
  • 2. Kipling MD, Waldron, HA. Percivall Pott and cancer scroti. Br J Idust Med. 32:244-50,1975
  • 3. Walusinski O, Poirier J. Percivall Pott (1713-1788) on the curvature of the spine and the French contribution. Rev Neurol 178:635-43,2022
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疫学の父 ジョン・スノウ

図3. スノウ(John Snow, 1813-58).ロンドンのコレラ大流行の原因をつきとめ,疫学の父とされる.

ここに挙げた例は,いずれも未知の病因を様々な方法でつきとめたという意味では疫学的手法といえるものではあるが,その多くは偶然発見されたものであり,科学的な分析に基づくものではなかった.現在のように,仮説に基づいて統計学的手法を駆使して推論を進める,本来の意味での疫学を初めて実践したのは,イギリスのスノウであるとされる.

歴史上,コレラが初めて記録されたのは1817年,インドのカルカッタにおける大流行で,その後アジア全域,アフリカに拡大し,鎖国下の日本にも及んだ*.1823年までに収束したが,その後1827年にインドで再燃,さらにヨーロッパ,南北アメリカ大陸にまで及んだ.第3回の流行は1840年に始まり世界各地で多くの死者を出したが,イギリスのロンドンでは1854年に大発生した.

* 1822年,日本初のコレラは,長崎から大阪,京都に拡がった.江戸には及ばなかったが,死者十数万人とされる(文政のコレラ).「三日ころり」と呼ばれた.日本の2回目の流行は世界的な第3波の波及による1858年の「安政のコレラ」で,この時は江戸,函館にまで及んだ. 長崎に入港したアメリカ船が感染源となったため,開国に反対する攘夷運動の刺激ともなった.その後明治時代には,日本各地で流行を繰返した.

図4. スノウは,ブロードストリート(黄色)にある井戸()の周辺に患者(■)が集中していることに気づいた.他の井戸() の周囲には患者は少ない.井戸の水を飲まないビール工場(緑)には患者が発生していない[1].

図5. スノウは,テームズ川の上流から取水している水道会社の給水地区(緑)はコレラが少なく,下流から取水している会社の給水地区(赤)にはコレラが多発していることに気づいた[1]

このとき,イギリス初の麻酔科医 としても知られるスノウ(John Snow, 1813-58)(図3)は,自宅近くのソーホー地区に13ヶ所ある公共の井戸のうち,ブロードストリートのある1つの井戸を使用している住民にコレラが多発していることをつきとめた*(図4).またその近くにビール工場があったが,ここの従業員は罹患率が低かった.従業員はビールがいつでも飲めるので井戸の水は飲んでいないことがわかった.そこでこの井戸の水を顕微鏡で調べたところ白いもやもやした物質があることから,これがコレラの原因と推測し,懐疑的な地元当局の反対を押し切って井戸の把手を取り外して使えないようにしたところコレラは減少した.この井戸の水源には生活排水が混入しており,コレラに罹患した赤ん坊のおしめを洗った水で汚染されていたことが判明した.

また低所得層はこのような公共の井戸を利用していたが,裕福な家庭には,水道会社からテームズ川から取水した上水道が供給されていた.このような家にもコレラは発生したが,スノウは,水道会社によってコレラ死亡率が5倍以上も異なること,発生率が高い水道会社はテームズ川下流から取水していることをつきとめ,これも排水混入による汚染が原因と考えられた(図5).

* スノウはコレラの分布地図(いわゆるスポットマップ)を作製,問題の井戸をつきとめて,井戸の使用を中止することによりコレラを減少させたとされており,その地図がしばしば引用される.しかし,実際にこの地図が製作されたのはその後の学会発表のためであった.またこの地図を描いたのはスノウ自身ではなく別人に依頼したものであった.さらに井戸の把手をはずして使用を止めた時期は,既に流行が消退期にあり,コレラ減少との因果関係は不明であった.このように疫学の父スノウの業績は少なからず神話化されている嫌いがあるが,スノウがその後著した「コレラの伝播様式について」[1]は,疫学的なものの考え方を明確に示す指針としてその後の疫学の発展を導いたことは確かであり,疫学の父と呼ばれる所以である.

当時コレラの原因は,ミアズマ(瘴気)とされていた.ミアズマは,水や土壌から発生して空気中に漂う目に見えない気体のようなものである.悪臭漂うロンドンの街中では発生するコレラがミアズマによると考えることは無理からぬところであったが,汚染された水が原因とする指摘は,このミアズマ説を否定するものであった.パスツールの微生物病原説はまだ発表されていなかった時代であったが,飲料水になにか原因があることが強く疑わせる結果であった*

* ロンドンでコレラが大流行した1854年,イタリアのフィレンツェでも大流行があり,イタリアの解剖学者パッチーニはコレラ菌を発見していた.しかし,ミアズマ説有力な中でその論文は注目されることなく,30年後の1884年,コッホによるコレラ菌分離培養の成功をもってコレラ菌の「発見」とされる.

高木兼寛の脚気研究

ビタミンB1欠乏症である脚気は,白米の偏食に起因するため,東南アジア,特に日本に多く,パン食,肉食主体の欧米には発生しなかった.日本では古来から存在したと思われるが,江戸時代に急増し,「江戸わずらい」 とも呼ばれるように,特に江戸,大阪など都会で白米を多く摂取する富裕層に多発した.明治になると,庶民も白米をとるようになりさらに患者は増加し,結核とならぶ国民病であった.明治天皇も罹患している.

現在の知識では,玄米を精米して白米を製造する過程で廃棄される米糠部分にビタミンB1が含まれており,白米にはビタミンB1含有量が少ない.肉,魚など副食を充分とれば問題ないはずであるが,白米自体が「ご馳走」と考える日本人は,白米を偏食して脚気になりやすかった.中でも脚気の多発が問題となったのは,帝国陸海軍の将兵であった.これは,帝国軍人に対する「温情」で,特に前線の将兵に当時としては贅沢品であった白米が優先的に配給されたためであった.

図6. 高木兼寛(1849-1920). 疫学的研究により脚気の原因が食事にあることを示した.

しかし,脚気は集団発生することから,感染症,伝染病とする細菌感染説が根強かった.1880年,オランダの病理学者ペーケルハーリング (Cornelius Adrianus Pekelharing) が,植民地インドネシアのバタヴィア(現ジャカルタ)で脚気菌発見を報告,1885年には帝国大学(現東京大学)衛生学教授の緒方正規も「脚気病菌」を報告した.

そのような中にあって,軍人の脚気問題に疫学的に取り組んだのが帝国海軍の軍医,後に慈恵会医科大学を創設する高木兼寛(1849-1920)であった(図6).高木は薩摩藩士で,1869年に帝国大学医学部の前身「開成所」 で洋楽,西洋医学を学んだ後,鹿児島医学校でイギリス人医師の校長ウィリアム・ウィリスに師事し,1872年に軍医となった.1875年から5年間,ロンドンの聖トーマス病院医学校(St Thomas's Hospital Medical School)に留学し,イギリスの実践的な医学とともに,疫学的な手法も心得ていた.高木は,監獄では脚気の発生が少ないことに着目した.そして海軍の糧食と比較した結果,蛋白質と炭水化物の比が異なることを発見し,脚気の原因は蛋白質の不足にあると推測した.そして肉などの蛋白質が豊富な洋食を導入することにより脚気を予防できると考え,疫学的実験を計画した.

図7.帝国海軍の 練習艦「筑波」 .蛋白質豊富な食事を供する実験航海により,脚気の栄養不足説を証明した.

1882年,練習艦「龍驤」はニュージーランド,チリ,ホノルルを経て帰国する270日の航海を行ない,ホノルル入港までに乗員376名中169名が脚気に罹患,25名が死亡した.1884年,練習艦「筑波」(図7)はほぼ同様の日程,行程の航海を行なったが,高木の指導により,従来の白米食に代えて,牛肉,大豆,大麦など蛋白質が豊富な食事を供し,パン食も採用した.さらに従来,士官と兵員の食事には大きな格差があったが,これを廃して兵員食にも肉類をとりいれた.その結果,乗員333名中,罹患者14名,死者はなかった.これは本邦初の介入型疫学実験で,高木兼寛は「日本の疫学の父」とされる.

これにより食事により脚気を予防できることが証明され,以後海軍は麦飯やパン食を導入して脚気は激減した.しかしそれでも,高木説には医学的根拠がないとする批判は強かった.確かに蛋白質の不足に原因を求める高木の考え方は現在の知識から言えば誤ったものであり,ビタミンが発見されていない当時としてはこれを理論的に説明することはできなかった.脚気菌説もなお根強く,1894年に日清戦争が勃発すると,海軍は再び特別食として白米を供給したため再燃し.日清戦争では死者1,000人に対して脚気による死者3,900人,日露戦争(1904-5)では戦死者46,000人,脚気による死者28,000人を記録した.脚気の真の原因が解明されるには,1911年,鈴木梅太郎によるオリザニンの発見を待つ必要があった[1].

  • 1. 山下政三. 明治期における脚気の歴史 (東京大学出版会, 1988)
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薬害と疫学

サリドマイド禍

図8. サリドマイド.グルタルイミド誘導体で,非バルビタール系鎮静剤として登場した.

図9. 睡眠薬「イソミン」,胃腸薬「プロバンM」の新聞広告.安全な薬として一般の薬局で市販された(上:朝日新聞1961年7月12日夕刊,下:同5月28日夕刊)

図10. あざらし肢症児のX線写真.前腕骨,下腿骨の顕著な低形成.上腕骨も短い[1].

20世紀にはいり,疫学は薬害の解明にも活躍している.最初期の例として,サリドマイド禍があげられる. サリドマイド(化学名 α-phthalimidoglutarimide) は,1957年に西ドイツのグリュネンタール社から睡眠薬,鎮静薬 (商品名 Contergan)として発売された(図8).日本では,1958年に大日本製薬(現 住友ファーマ)が催眠鎮静薬「イソミン」として発売し,翌年には胃腸薬「プロバンM」に臭化プロパンテリン(抗コリン性鎮痙薬)とともに配合され,つわりの消化器症状に対して妊婦が多く服用した(図9).

1959年より欧米,日本で,四肢長管骨が著しく短いphocomelia (あざらし肢症)の新生児が散見されるようになった*1 (図10).1961年11月,ドイツのハンブルク大学の小児科医レンツ(Widukind Lenz, 1919-95)は,奇形児20例中17例で妊娠期間中の母体によるサリドマイド服用歴があることを学会で報告し,ドイツを初めヨーロッパではではそのわずか1週間後に販売中止を決定した(アメリカでは,胎児への影響に関するデータの不足を理由に認可されていなかった*2).その後レンツはさらに症例を集め,奇形児112例中90例に服用歴があり,同時期の正常児群では188例中服用者は2例のみであることを明らかとした*3.

日本では厚生省が翌1962年1月に製薬会社の担当者が渡欧してレンツと面談したが,レンツの警告に科学的根拠がないとして販売は継続された.同年7月に北海道大学の梶井正がLancet誌に日本初の症例を報告し,9月に販売停止,回収が行なわれた.サリドマイド奇形児は国内で309例(死産を除く),世界で約5,000例が報告されている.

*1 サリドマイドによる一連の異常はサリドマイド症候群,サリドマイド胎芽病 (thalidomide embryopathy) と総称される.(1)四肢長管骨の異常:発生学的なSclerotome(硬節) に従って尾側から進行する.このため上肢では,重症度に応じて拇指から小指へ,橈骨から尺骨へ進み,最重症では上腕骨も欠損して典型的なあざらし肢症を呈する.一般に下肢は上肢よりも軽度であるが,同じ順序で障害される.拇指球筋の低形成,多趾症も特徴的である.(2)聴器異常:耳介の形成異常,外耳狭窄,顔面神経が高率に認められる.(3)その他:心奇形,腎奇形,消化管奇形,鼻中隔形成異常.サリドマイドの催奇形性機序はながらく不詳であったが,最近特定の蛋白質分解酵素に結合し,複数の蛋白質の分解を誘導して多彩な薬理作用を来たすことが示された[2].

*2 アメリカではRichardson-Merrell社が販売予定であったが,これを審査したFDAの薬理学者Frances Oldham Kelseyは,胎児への安全性データの不足などを指摘し,上層部からの圧力をはねのけて認可しなかった.この結果,アメリカはヨーロッパ,カナダ,日本とは異なりサリドマイド禍を免れた.1962年,Kelseyはこの功績に対してケネディ大統領からPresident's Award for Distinguished Federal Civilian Service (合衆国市民の顕著な功労に対する大統領賞)を受賞した.しかしそれ以前に,製薬会社が医療機関に試供品として250万錠が提供され,約2万人が服用,17人のサリドマイド奇形児が生れた.

*3   レンツのデータは,サリドマイド服用と胎児奇形の因果関係を疫学的に強く示唆するものであったが,裁判経過中の1969年,大阪大学工学部の杉山博が「いわゆるサリドマイド問題に関する統計的考察」と題する論文で,レンツの統計解釈に疑念を挟んだことから一時迷走した.杉山の主な指摘は,非服用群208例中に奇形22例が含まれていることは奇形性疾患の罹患率から不自然で,統計データ自体が信頼性を欠くというものであった.しかし疫学調査において,疾患と要因の関係を調べる目的でクロス集計分析(四分表分析)を行なう場合は,要因をもつ群,持たない群それぞれを適当数集めて分析するので,無作為性は一方向(列方向)にしか設定されず,もう一方向(行方向)の量関係は意味を持たない.杉山氏の指摘は,要因間の無相関を仮説として母集団から無作為にサンプルを選択してそれぞれの要因に割り当てる一般的なクロス集計分析を念頭においたもので,疫学の立場からは適当なものではなかった.このことは杉山も後に訂正している.

  • 1. Lenz W, Knapp K. Die Thalidomid-Embryopathie. Dtsch Med Wochensch 87:1232-42,1962
  • 2. Yamanaka S, Murai H, Saito D, et al. Thalidomide and its metabolite 5-hydroxythalidomide induce teratogenicity via the cereblon neosubstrate PLZF. EMBO J, 40:e105375,2021

スモン病

サリドマイド禍とほぼ同時期,スモン病(SMON, subacute myelo-optico-neuropathy)が問題となった.スモン病は,当時広く用いられた止瀉薬キノホルム(quinoform)*1に起因する神経疾患で,下肢の痙性麻痺,深部覚異常,知覚異常を主徴とし,20%程度では視力障害を来たして失明する例もある.1957年頃から日本各地で報告されはじめ,初期は一部の地方に偏って報告されたことから風土病とされたが,やがて全国に拡大した.特に1964年以降増加し,年間1,000名を超える年もあった.海外でも200例弱が報告されている.1964年の日本内科学会シンポジウム「非特異性脳脊髄炎症」で823例が検討され,同年東京大学医学部神経内科の椿忠雄,豊倉康夫らがSMONと命名した.

図11. スモン病に特徴的な緑舌.緑尿.この分析が原因解明の手掛かりとなった[2].

当初は原因不明の奇病とされ,ビタミン欠乏症,感染症,重金属中毒などが疑われたが,比較的地域集積性が高いことから感染説が有力で,一時はウイルス説に強く傾いて,患者差別がの問題も発生した.解決の糸口となったのは,一部の患者に見られる特徴的な暗緑色の舌苔や緑便であった(図11).この症状は初期から散発的に報告されていたが,1970年に東京大学の井形らがまとまった報告を行なった.特に1970年5月,患者の尿カテーテルに緑尿が発見されるに至って*2,井形はこの尿の分析を東京大学薬学部の田村善蔵に依頼し,田村はこれをキノホルム三価鉄キレート化合物と同定し,ここで初めてキノホルムの関連が疑われた*3

この結果を受け,新潟大学の椿忠雄らはただちにキノホルムとスモンの関連について疫学調査を実施した.関連する6病院,171名のスモン患者に内服薬調査を行ない,166名がキノホルムを服用,5名は不明であった.さらに服用時期は発症10~40日前で,服用量が多いほど発症期間が短く,服用量と重症度に相関があることも明らかとなった.この結果は1970年9月6日に学会発表されたが,椿らはこれに先立つ8月6日に厚生省に報告し,9月8日にキノホルム製剤の販売停止措置がとられた.その後,スモン調査研究協議会による全国調査があらためて行なわれ,11月13日の学会で,890例中85%にキノホルム服用歴があることが報告され,その後動物実験でもキノホルムによる坐骨神経の軸索変性が証明された*3.1971年4月に椿らがLancet誌に発表後,チバガイギー社の反論,議論が同誌上で繰り広げられ,日本のキノホルム問題は世界的にも知られるようになった.1972年3月,同協議会はスモンとキノホルムの因果関係を結論した.さらに4月には厚生省に特定疾患対策室が新設され,スモンのみならずベーチェット病,重症筋無力症,多発性硬化症などいわゆる難病の調査研究班が設けられた.その意味で,スモン研究は,難病研究の原点とされる[2].

図12. キノホルム.キノリン核を基本骨格とし,ヨード原子を持つ.強力な殺菌力をもつ.

*1 キノホルム(化学名 clioquinol) (図12)は,キニーネと同じキノリン核を基本骨格とする化学物質で,強力な殺菌力を持つ.1898年にスイスで皮膚殺菌消毒薬として開発され,皮膚外用薬「ヴィオホルム」として販売された.その後1934年に経口腸内防腐薬,止瀉薬として市販され,特に赤痢アメーバに有効な治療薬であった.日本でも経口薬「エンテロヴィオホルム」が輸入された.1935年,アルゼンチンで,キノホルム神経毒性の報告があり,翌1936年に劇薬指定され日本もこれにならった.1938年には日本でも下肢神経症状の報告があった.しかし1939年,日本ではなぜか劇薬指定が取り消された.1940年代には,アメリカでも神経毒性の報告と,投与量,投与期間に対する注意喚起が行なわれている.戦後混乱期で消化管感染症の蔓延する日本では,1948年にキノホルムの生産が再開され,劇薬指定されないままに安全な止瀉薬として広く普及した.1960年当時は170種類もの製剤があり,エンテロヴィオホルムのほか,エマホルム,メキサホルムなど名称で市販され,止瀉薬として,処方薬のみならず市販薬,家庭常備薬として広く普及した.

*2 それ以前にも緑舌苔の分析は行なわれており,ヨードが多いことなどがわかっていたが原因不明であった.あるとき東京の三楽病院の看護師が2名の患者の尿道カテーテルの緑尿に気づいた.この症例はたまたま貧血のため鉄剤が投与されており,尿中の鉄イオンのため緑色尿となったものであった.これを入手した東京大学の井形昭弘が,薬理学の田村善蔵に分析を依頼してキノホルムの錯体を同定した.舌苔も同様の機序と推測された[3,4].

*3 1966年「亜急性非特異的脳脊髄症研究班」が発足した時点で,エンテロヴィオホルム(キノホルムの商品名)の関連を疑う一般臨床医の指摘があり,調査項目の薬剤投与歴に充分な関心が払われた.しかし報告書では「とくにエンテロヴィオホルム,メサフィリン,エマホルム,クロロマイセチン,アイロゾンが散見される.とくにエンテロヴィオホルムとの関連は認められない」とされた.このうちエマホルムは,エンテロヴィオホルムと同じくキノホルム製剤であるが,これが同成分であることに気づかれていなかった[5]

*4 キノホルムの神経障害機序は依然不詳である.キノホルムは鉄,銅,亜鉛など金属イオンと錯体を形成し,これがSOD1(superoxide dismutase)活性低下による細胞内活性酸素増加を招くことが一因とされている[2].

  • 1. 久留聡. スモン原因解明から50年. 臨床神経61:109-14,2021
  • 2. 小長谷正明. スモン-キノホルム薬害と現状. 脳と神経 67:49-62,2015
  • 3. 井形昭弘.原著を探る.SMON. Clinical Neuroscience 23:1328-30,2005
  • 4. 吉岡正則,田村善蔵. SMON患者の緑色色素の本態. 医学のあゆみ 74:320-2,1970
  • 5. 小長谷正明. スモン-薬害の原点. 医療 63:227-31,2009


公害と疫学

第二次世界大戦後,高度経済成長期の日本では,重化学工業の急速な発展を背景に公害が多発した.特に水俣病,新潟水俣病,イタイイタイ病,四日市喘息は四大公害病とされるが,いずれもその病因解明にあたって,疫学が重要な役割を果たした.

水俣病

水俣病は,1956年に初めて報告された,熊本県水俣町(現 水俣市)を中心とする住民が,メチル水銀で汚染された海産物を摂取して発症した疾患である.水俣町で創業する日本窒素肥料(現 チッソ)水俣工場では,酢酸,酢酸エチル,アセトン,酢酸ビニールなどを製造していた.これらの物質はすべてアセトアルデヒドを原料として製造されるが,アセチレンから無機水銀を触媒としてアセトアルデヒド合成する方法は1930年代に同社が初めて開発した先進技術であった.工場排水の中に含まれる有機水銀(メチル水銀*1)が水俣湾に流入し,まずプランクトン内で濃縮され,食物連鎖を介して魚貝,ヒトに蓄積した.

図13. 熊本県水俣市の不知火海沿岸に患者(●)が集積した.は新日窒水俣工場[1].

1956年4月,5歳女児が原因不明の脳症で新日窒水俣工場附属病院に入院した.この工場附属病院は当時の水俣市で最も設備の整った病院であった.母親は近所にも似たような患者がいると言い,その後成人を含めて4名の患者が入院したため,5月1日,細川一院長は伝染病を疑って保健所に報告した.その後も同様の患者が続出したことから水俣市奇病対策委員会が発足した.その調査により,患者が漁村地区に集中し,一家に複数の患者が集積していることが明らかとなった.結局同年末までに54名が確認され,17名が死亡した.8月から熊本大学医学部が協力し,伝染性疾患は否定され,患者に漁師が多いことから汚染魚介類の摂取が疑われ,汚染源として窒素水俣工場の排液に着目した(図13).

当初より魚介類に蓄積した重金属化合物による中毒が疑われ,工場排水のヘドロ分析などが行なわれ,64種類もの物質が検討されたが,水銀は検索対象から外れていた.その理由として,最初期の分析では水銀が検出されなかったこと,高価な水銀を大量に排出することはないという思いこみもあったという.1957年10月,厚生省研究班報告は,セレン,マンガン,タリウムの可能性を指摘し,以後これら3金属が重点的に調査研究された.

しかし熊本大学病理学教授の武内忠男は,水俣病患者の剖検で小脳顆粒層の変性を見いだし,これが1958年刊の病理学書[2]に記載されたメチル水銀中毒,Hunter-Russel症侯群*2の病理所見に酷似していることから,メチル水銀が原因物質であることを疑った.そこで公衆衛生学教室に魚介類の水銀分析を依頼したところ,高値が確認された.これを機にメチル水銀に集中して研究が進められ,1959年7月,熊本大学は病理学的ならびに臨床的所見から,有機水銀説を発表した.その後,泥土や魚介類の水銀分布が明らかとなり,排水口周辺から高濃度の有機水銀が検出された.窒素社は,無機水銀の有機化機構が未解明で根拠がないとしてこれに反論したが,1962年,熊本大学衛生学教室教授の入鹿山且郎が,同社の酢酸工場の水銀滓と水俣湾のアサリからの塩化メチル水銀検出を発表[4],原因物質の特定に至った*1

*1メチル水銀は(CH3)Hg+X-の形で,陰イオンX-には,Cl-, Br-, OH-などがある.陽イオン部分が硫黄含有アミノ酸の陰イオン(SH基)に強く結合して生体作用を引き起こす.脂溶性であるため,生体にとりこまれやすく,排泄が遅い. 工場で触媒として使われていた無機水銀が有機水銀になる理由は長らく不明であった.特に窒素社はこれを盾に有機水銀説に反論した.工場ではアセチレンから塩化第二水銀を触媒としてポリ塩化ビニールを作る工程と,硫酸水銀を触媒としてアセトアルデヒドを作る工程があった.当初,問題の物質は塩化ビニール製造工程から発生するものと考えられていたが,この工程では有機水銀が発生しないことから,無機水銀が海水中あるいは魚介の体内で有機化されると推測されていた.しかし実際にはアセトアルデヒド製造工程で,アセチレンと無機水銀の反応に際して一定の条件下で有機水銀が副生することが,入鹿山らの研究で明らかとなった[5].当初ポリ塩化ビニール工程が疑われた理由のひとつは,訪日して現地調査を行なったNIH疫学部長Leonard T . Kurlandがこの工程を特に重視したからであったが,なぜKurlandが隣接して操業しているアセトアルデヒド製造工程に着目しなかったのかは不明である.なお,水銀の自然界における有機化は,水俣病の原因ではなかったが,このKurlandの誤認が契機となって研究が進み,その後実際に汚泥中で水銀がメチル化されることが発見され,自然界での水銀有機化は現在は重要な環境問題のひとつとなっている.

*2 Hunter-Russel症侯群:1940年,イギリスのHunterらは,種子工場で発生したメチル水銀中毒4例を報告した.古典的な神経症状として視野障害,運動失調,構音障害が挙げられるが,難聴,知覚障害,精神症状も高頻度である.病理学的には,小脳顆粒層,鳥距野,横回,中心後回に変性が認められる.これ以前にも,1865年にやはりイギリスでメチル水銀の実験中に発生した中毒症状が報告されている[3]

  • 1. 二塚信, 北野隆雄, 若宮純司他. 水俣病の疫学. 公衆衛生 59:303-6,1995
  • 2. Pentschew A. Intoxikationen. In:Schulz W, ed. Handbuch der speziellen pathlogeschen Anatomie und Histologie.Springer Verlag, 1958
  • 3. Hunter D, Bomford RR, Russel D. Poisoning by methylmercury compounds. Quart J Med 9:193-213,1940
  • 4. 入鹿山且朗. 水俣酢酸工場水銀滓中の有機水銀. 日新醫學 49:536-541,1962
  • 5. 入鹿山且朗,田島静子,藤木素士. 水俣湾魚介中の有機水銀とその有毒化機転に関する研究第8報. アセトアルデハイド生産施設内におけるメチル水銀化合物の生成機構に関して.日衛誌22:292-400,1967

新潟水俣病

図14. 新潟県阿賀野川流域に患者が集中した.は昭和電工鹿瀬工場[1].

1965年1月,新潟大学附属病院で有機水銀中毒を疑わせる症状の患者が入院した.阿賀野川河口に住む31歳男性で,父親は漁師であった. 頭髪の水銀濃度検査*1で高値であったことからただちに診断が確定した.その後5月までさらに2例が入院した.新潟大学神経内科教授の椿忠雄*2は直ちに新潟県にこれを報告した.5月には新潟県有機水銀中毒研究本部が設置された.6月12日に新潟大学が,阿賀野川流域における有機水銀中毒発生を発表,翌日の新聞に「新潟に《水俣病》発生」と報道され,以後新潟水俣病の呼称が一般化した(第2水俣病とも言われる)[1,2].

研究班は,阿賀野川流域の魚介類摂取を禁止した.ただちに疫学調査が開始されると同時に,阿賀野川流域で水銀を使用している3つの工場が調査された. この結果,阿賀野川上流で操業する昭和電工鹿瀬工場に的が絞られた(図14).この工場は第1例が発見される直前の1965年1月までアセトアルデヒドを生産していた*3.1966年3月,研究班は鹿瀬工場排水中のメチル水銀化合物が原因であると報告した. 一方,1964年6月の新潟地震で流出した農薬が原因とする「農薬説」が1966年に発表され,昭和電工は一貫してこれを主張して工場排水説に対抗した.しかし1967年4月,研究班は昭和電工鹿瀬工場から流出したメチル水銀化合物による川魚の汚染が原因であると結論する報告書を提出した.

*1 有機水銀が毛髪に蓄積し,有用な検査法となることは,熊本大学衛生学教授の喜田村正次が1960年に発見したもので,その後水俣病,新潟水俣病の疫学で活躍し,国際的にも広く認められている.

*2 椿忠雄は,東京大学助教授時代に,スモン病とキノホルムの因果関係を解明した.1965年4月に,新潟大学神経内科に教授として赴任する予定であったが,その直前の1月に新潟を訪れたときにたまたま病棟患者の診察を乞われて有機水銀中毒と診断したのが,この第1例であった.以後,椿は新潟水俣病解明に中心的役割を果たした.

*3 鹿瀬工場がアルデヒド製造を終了した1965年1月とほぼ時機を同じくして患者が発生した理由は不詳である.終業間際で装置の整備不良があったとの説もある.

  • 1. 新潟水俣病のあらまし(令和元年度改訂版).新潟県
  • 2. 西澤正豊. 新潟水俣病の50年.新潟医学会雑誌. 130:659-63,2016

イタイイタイ病

イタイイタイ病は,富山県の神通川流域に発生したカドミウム中毒症*1で,その本態は近位尿細管障害による高度の骨軟化症である.イタイイタイ病は,明治時代からその存在が知られていたこと,そしてこれに関心を持ったひとりの開業医の地道な努力により解明されたという点で,ある日突然出現して社会問題となった水俣病その他の公害と経緯が異なる*2

イタイイタイ病の発見者は,地元の開業医,萩野病院院長の萩野昇(1915-90)である.萩野家は代々富山藩前田家の藩医であった.先代院長であった父の萩野茂次郎は,1932年にすでに鉱毒を疑って,村長が内務省に調査を依頼したが立ち消えになっていた.萩野昇は,金沢医科大学(現金沢大学医学部)を卒業後,病理学教室に入り,研究半ばにして応召した.終戦後は帰郷して,富山県婦中町(現 富山市)で戦争中に亡くなった父の萩野病院を継いだ.萩野昇の外来患者の半数以上が四肢の強い痛みを訴え,わずかな外傷で骨折し,「痛い! 痛い!」と叫ぶ患者もいた.萩野病院では,このような症状を呈する患者を,看護婦が「イタイイタイさん」,この病気を「イタイイタイ病」と呼ぶようになった.

萩野はこの奇病を解明すべく研究に向かった.この病気は,萩野病院のある婦中町を含む数km四方の範囲に限られ「風土病」と思われていた(図15).神通川下流の富山市でも知られていなかった.萩野は母校金沢大学の病理学教室に協力を求めた.疾患の本態が,高度の骨粗鬆症であることが分かり,腎尿細管障害があることも明らかとなった.しかし10年に及ぶ共同研究でも原因は不明であった.1955年5月から東京の専門家が中心となって調査が行なわれ,10月に「栄養不良,ビタミンDの不足」との結論が得られたものの,萩野は納得できなかった.この間,8月に萩野を取材した富山新聞が「婦中町熊野地区の奇病-いたいいたい病にメス」という記事を掲載した.これは県内でもその存在を知らない人々のみならず,これをきっかけに全国紙でも報道され,その名前とともに周知されることとなった.

図15. 図15. 患者発生は神通川(水色)中流域のごく狭い範囲(黄色)に集中していた.は神岡鉱山 [1]

萩野は,患家を地図の上にプロットしてみたところ,神通川中流の狭い範囲に集中していることから,この上流にある神岡鉱業所の鉱毒を疑った.1957年12月,萩野は富山県医学会で「鉱毒説」を発表した.神通川を汚染する亜鉛,鉛などにより,ビタミンDが不足して骨粗鬆症を起こすと推定した.これは初の鉱毒説の提唱であったが,具体的な証拠はなかった.萩野は具体的な汚染源の名前こそ挙げなかったが,これが神岡鉱業所であることは誰の目にも明らかで,大企業への挑戦とうけとめられた.このため,萩野の説は医学会からも社会からも無視されただけでなく,激しい中傷を浴びる結果となった.

1958年,農学者の吉岡金市が萩野のもとを訪れた.吉岡は富山県の冷水害調査のために現地を訪れていたが,婦中町の農作物の被害は冷水害ではなく鉱害と考え,萩野と意見を同じくした.吉岡は,イタイイタイ病の患者の分布と農業用水の取水経路の地図を作り,神通川から取水している地区とに患者と農作物の被害が集中していることを示した[1-3].

1959年,岡山大学の大原農業研究所の小林純から,萩野のもとに神通川の水質検査の申し出があった.小林は1942年に農林省農事試験場の助手時代に婦中町の稲作被害調査を行い,鉱毒の可能性を指摘した経緯があった(報告は無視された).水質検査はそれまでも何回も行なわれていたが異常な成分は検出されていなかった.しかし小林の研究室には当時最新鋭のスペクトル分析装置が備わっていた.この結果,カドミウムの異常高値が判明した(このほか亜鉛,鉛,ヒ素も高値であったが症状とは合致しなかった).カドミウム中毒についてはほとんど情報がなかったが,ドイツから類似症例の報告があった.小林は,3か月間滞米して,体内カドミウム濃度の分析法を習得し,1960年に患者臓器の分析を行なった.患者臓器には通常の1000倍のカドミウムが検出された.土壌,米,川魚も高濃度であった.

1961年5月,小林と萩野は富山県知事に研究結果を報告したが,富山新聞の記者がこれをスクープして第1面に報道された.萩野は,6月の第34回整形外科学会で初めて正式にこれを報告し,イタイイタイ病の原因は神岡鉱業所によるカドミウム汚染と結論した*3.しかし,その直後から萩野は激しい中傷に曝された.医学界はやっかみもあって市井の開業医の不見識,非科学的研究と批判した.大企業誘致をはかる富山県はもこれに反論した.さらには,風評被害を恐れる住民からも批判された.萩野は失意のどん底につきおとされたが,その後も小林純,吉岡金市の協力を得てデータを積み重ね,外国に報告してNIHの研究費を獲得した.これを機に国内でもカドミウム説の支持者が増加した.長崎県対馬の亜鉛鉱山周辺にも類似の症例があることが発見された.1968年5月8日,厚生省はその正式見解として,イタイイタイ病の本態がカドミウム慢性中毒による腎障害,これに伴う骨軟化症であり,カドミウムは神通川上流の三井金属神岡鉱業所が排出してものであるとした.これをもって,イタイイタイ病とカドミウムの関係が公に認められた[1-4].

図16. 前腕骨 (左),大腿骨(右)の多発骨折.骨軟化症による改変層(Looser's zone)が多発している.尺骨の病変は,仮骨を伴った陳旧性骨折 [5]

*1 現在の知識では,カドミウム中毒症は,後天性Fanconi症侯群と捉えられる.すなわちその本質は,近位尿細管の輸送障害で,アミノ酸,リン,ブドウ糖,電解質などの再吸収障害である.特徴的な骨症状は,低リン血症による骨粗鬆症/骨軟化症で,尿細管におけるビタミンD活性化の低下がさらにこれを増悪する.骨密度の低下による多発骨折が疼痛の原因となり(図16),末期には呼吸による肋骨運動だけでも激痛が走るようになる.イタイイタイ病は圧倒的に女性に多く,特に閉経後,多経産婦に多い.その理由として,閉経後骨粗鬆に共通する内分泌学的背景が想定されているが,詳細は不明である.骨外症状としては,慢性進行性の腎機能低下,貧血,尿細管性アシドーシスなどが認められる.Fanconi症侯群の原因としては,種々の遺伝性疾患,薬剤性,重金属中毒,腫瘍性(多発性骨髄腫)などが知られる.

*2 神通川上流の鉱山開発と鉱害の歴史は古く,戦国時代末期の16世紀末に銀山として採鉱が開始され,江戸時代には銅,銀,鉛などが採掘されたが,すでに農作物や飲料水の被害や鉱害防止令が出された記録がある.明治時代,1889年に三井財閥の経営(三井組神岡鉱山)となり,日露戦争中の1905年,それまでの銀,鉛に加えて亜鉛の採鉱を開始,第一次世界大戦で西欧からの亜鉛輸入停止に伴い亜鉛が増産され,その後の日中戦争,太平洋戦争による軍需でさらに増産された.亜鉛鉱石である閃亜鉛鉱の主成分は硫化亜鉛(ZnS)であるが,必ず少量のカドミウム(Cd),インジウム(In),ゲルマニウム(Ge)を含む.最初の「奇病」患者は1911年に発生したと推定されている.体の強い痛みを訴え,動けなくなる慢性進行性の奇病で,先祖の祟りによる「業病」ともされていた.

*3 神岡鉱山は,イタイイタイ病患者が集中的に発生した地域の約10km上流に位置する.この地域上流は狭い渓谷を走るため農業用水として利用されておらず,これより下流では井田川,熊野川などの河川が合流するため鉱毒は稀釈されていた.神通川は婦中町付近で流れが緩やかになり,川底が農地より高い天井川状態で,この地域の農業用水はすべて神通川から得ていたため,中流域に限って飲料水,農作物が集中的に汚染される結果となった考えられている.

  • 1. 本多重雄. イタイイタイ病の発見から補償まで. 公衆衛生 39:614-21,1975
  • 2. 青島恵子. イタイイタイ病-1970年代の環境疫学研究の成果と教訓,とくに富山県衛生研究所の研究について. 日衛誌72:149-58,2017
  • 3. 石崎有信, 城戸照彦. イタイイタイ病とその後. 公衆衛生 51:523-9,1987
  • 4. 萩野昇. 執念をもたらした患者の苦痛.イタイイタイ病にとりくんだある町医の記録. 暮しと健康. 26:62-6,1971
  • 5. 平松博, 久田欣一, 高島力. イタイイタイ病について. 臨床放射線 15:877-86,1970