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北里柴三郎

北里柴三郎 (1853-1931) [PD]

生い立ち

1853年,肥後国阿蘇郡(現 熊本県小国町)に,庄屋の家に四男五女の長男として生れた.1871年,両親のすすめで細川藩の西洋医学所に学び,その後1875年に東京医学校 (その後東京大学医学部と改称)に入学,1883年に卒業した.卒業に8年を要したのは,教授陣に議論を吹きかけて煙たがられ,留年したためだという.

ドイツ留学

1885年,ドイツのベルリン大学に留学し,コッホのもとに学んだ.当初はコレラ菌の化学耐性に関する地道な研究で大きな成果を挙げ,続いて1889年,それまで分離培養不可能とされていた破傷風菌の純粋培養に成功した.破傷風菌は嫌気性菌であるため通常の方法では培養できず,また共存する他の細菌を排除することが難しかった.北里は嫌気培養装置を工夫し,さらに破傷風菌が耐熱性であることを利用して熱により雑菌を殺菌することにより見事に成功した.1890年には,ベーリングとの共同研究で,液性免疫の基本である抗毒素の存在を動物実験で証明し,これはその後の血清療法の基礎となると同時に,免疫学の歴史における記念碑的な研究となった.

原著論文

《1889 破傷風菌分離培養》
破傷風菌について
Ueber den Tetanusbacillus
Kitasato S. Zeitschrift für Hygiene. 7:225-34,1889

図1. 嫌気性培養に使用したガラス容器 (亀の子シャーレ).

図2. 分離培養した破傷風菌の鏡検像.フクシン染色,1000×.

【要旨・解説】破傷風患者の傷口の膿汁を培養し,ここから破傷風菌を分離培養したとする論文である.破傷風菌は,この4年前にNicolaierが発見しており嫌気性菌であることも知られていたが,常に他の細菌と共存しており純粋分離培養は行なわれていなかった.北里は独自の培養容器を用いて,これに成功した.この培養容器は,本稿では「扁平なガラス容器」と書かれているが,俗に「北里の亀の子シャーレ」と呼ばれるもので(図1),これに水素を流して嫌気性培養を行ない,さらに破傷風菌が耐熱性であることを利用し,加温して混在する他の細菌を殺菌して純粋培養に成功した.

こうして得られた破傷風菌 は,無芽胞状態では糸状,芽胞状態では菌体の一端に頭芽胞を有する紡錘状桿菌で(図2),アニリンに良く染まり,80℃1時間の加熱に耐え,石炭酸,クロロフォルムなど化学物質に対する耐性も強い.これをマウス,ラット,ウサギなどにに接種すると24時間で発症し,2-3日で死亡する.

この論文の記述でもうひとつで重要な点は,動物の剖検で接種部位や全身臓器に破傷風菌が全く検出されなかったことを述べている点で,破傷風菌の病原性が産生毒素によるものである可能性に言及していることで,毒素型感染症の概念を提起した論文としても重要である.

原文 和訳

伝染病研究所

1892年5月に帰国したが,母校東京大学には席がなかった.これはドイツ滞在中に,母校東京大学医学部の研究者が主張する脚気の「脚気菌説」に反論したために不興を買ったことがことが原因であった*1.特に,東京大学の脚気菌研究の中心人物が,北里が留学前に直接指導を受けた緒方正規であったこともあって,これに真っ向から反論した北里は忘恩不逞の輩と目されたのである.

北里の窮状を目にした内務省衛生局の長与専斎は,適塾時代の同窓生で無二の親友でもある慶應義塾の福澤諭吉に相談をもちかけた.福澤は,北里独自の研究所を新設できるよう,自らは土地を提供し,当時実業界の大立て者で懇意の森村市左衛門*2に資金提供を依頼した.この結果,1ヵ月の突貫工事の末,1892年11月芝公園に,2階建,6室,十余坪の「伝染病研究所」が開所し,北里は所長として研究にあたった.すぐに所員が増え手狭になったため,1894年には芝区愛宕町(現 港区愛宕)に拡張移転した.この年,香港でペストが流行し,北里は政府の命を受けて現地で調査を行ない,ペスト菌を発見,分離培養に成功した(→).1898年,志賀潔 が赤痢菌を発見したのも,この伝染病研究所であった.

図3. 白金台に新設された北里研究所 [5]

1899年,伝染病研究所は政府の支援を受けて白金台に移転し,内務省管轄の国立伝染病研究所となった.しかし1914年,大隈重信内閣は北里に事前の相談なく,伝染病研究所を文部省管轄として東京大学の傘下に収めることを決定した*3.この背景には,北里帰国以来積年の東京大学医学部との確執があった.憤慨した北里は所長を辞任,所員も全員が退所,北里は私財を投じて同じ白金台に,総面積772m2の「北里研究所」(図3) を新設した.

伝染病研究所,北里研究所は,志賀潔,秦佐八郎,野口英世,北島多一,小林六造を初めとする,その後日本の伝染病学,細菌学を主導する医学者のほとんどを輩出した.北里柴三郎はまさに日本の細菌学の父,日本のコッホであった[3,4].

このほか北里は,1911年に明治天皇による生活困窮者の医療救済を目的とする下賜金をもとに創設された済生会の初代医務主幹に就任,1915年には済生会芝病院(現 東京済生会中央病院)院長をつとめた.また.1916年には大日本医師会(現 日本医師会)を設立して初代会長をつとめ,1921年には初の国産体温計を製造した赤線検温器株式会社(現 テルモ)の創立発起人にも名前を連ねている.

*1 1888年,オランダの病理学者ペーケルハーリング(Cornelius Adrianus Pekelharing)が脚気の原因菌,脚気菌を発見したと報告し,北里はこれに反論した.これと同時に,同じく脚気菌説を主唱する東京大学の研究にも反論した.その後ペーケルハーリングは,脚気菌説の過ちを認め,これを指摘した北里に直接謝意をのべたという.

*2 森村市左衛門(1839-1919). 戊辰戦争で官軍に軍需品を納めて財をなし,1876年,慶應義塾に学んだ弟の森村豊とともに,森村組(現 森村商事)を創業した.現在の森村グループは,ノリタケカンパニーリミテッド,日本ガイシ,TOTO,INAX,大倉陶園などを擁する世界最大のセラミックス企業グループとなっている.

*3 国立伝染病研究所は,東京大学附置伝染病研究所(1916年)を経て,東京大学医科学研究所(1967年)となった.

慶應義塾大学医学部長

1917年,慶應義塾が医学科を創設するにあたり,北里は福澤諭吉の懇請を受けて医学科長に就任,1920年,大学令によって慶應義塾大学医学部が創立されるとその初代医学部長,病院をつとめた.北里の医学界での声望によって,初代教授陣には各分野の第一線の俊英が参集した.とくに病理細菌学教室では,伝染病研究所出身の志賀潔,秦佐八郎,高野六郎,草間滋らが就任した.

1925年,医学部の運営が軌道にのったことを見届けた北里は辞意を表明したが,その人望,学識を頼んで留任を懇願する学生大会が開催され,学生代表が直談判に及ぶにいたって北里は辞意を撤回,さらに3年間医学部長として指導にあたった.1928年に慶應義塾を辞任,1931年病没[1-2].