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血液循環の確立

血液循環の発見

図1. ハーヴェイ(William Harvey, 1578-1657)[PD]

前述のようにガレノスは,肝臓で作られた血液が,静脈により全身に栄養を運ぶと同時に,心臓に行って生命のプネウマを与えられて動脈血となり,全身に生命力を運ぶという理論を構築した.

1300年にわたって信じられてきたこの常識を根底から覆したのは,イギリスの医師ハーヴェイ(William Harvey, 1578-1657)である(図1).ハーヴェイは,ケンブリッジ大学を卒業後,イタリアのパドヴァ大学で研究を続けていたが,パドヴァ大学ではその約60年前にヴェサリウスが教授を務めており,当時はガリレイが数学を講じていた.ハーヴェイは数々の動物実験と推論から,次のように考えた[1,2].

 

図2.怒張した静脈を末梢にむけて駆血すると,静脈弁が逆流を阻止するため虚脱したままになることを示す実験.  

 

(1) 静脈は末梢から心臓へ血液を還流する
ハーヴェイが師事したのは,解剖学,外科学に多くの業績を残したファブリキウス(Hieronymus Fabridius,1560-1634)であった.ファブリキウスの重要な業績の一つに,静脈弁の発見がある.ハーヴェイは,静脈弁がすべて心臓の方向に向かって並んでいることから,静脈は心臓へ血液を還流していると考え,上肢の静脈を末梢に向けて駆血すると,静脈が虚脱することを示した有名な実験で,静脈流が末梢から中枢に向かっていることを証明した(図2).ガレノス以来の解剖生理学では,静脈は肝臓で作られた血液を末梢に運ぶとされており,これは全く逆の考え方であった.

(2) 心臓はポンプである
ガレノスも心臓が自動的に拍動していることは知っていたが,動脈もそれに内在する力によって拍動すると考えられていた.ハーヴェイは,心臓が収縮,拡張すると,それに伴って血液が心臓に出入りし,脈拍はこれに連動することを示した.つまり心臓はポンプの役割を果たしていることを示した.また心臓の動きが,心房に始って心室に伝わることも正しく記載している.

(3) 右心室の血液は肺を通って左心室に達する
右心室の血液が肺動脈により肺に送り出されることはガレノスの時代から知られていたが,それは肺を栄養するためであると考えられていた.右心室の血液が左心室に達するメカニズムは,中隔に目に見えない微小孔があり,血液が左心室ににじみ出るとされていた.既にヴェサリウスは,心室中隔にそのような構造が存在しないことを明らかにしていたが,その流れの経路は不明であった.ハーヴェイも心室中隔は厚い組織で,小孔は存在しないことを確認した上で,右心室から送り出される大量の血液が肺を栄養するためとは考えにくく,この血液は肺から左心室に送り込まれると考えた.このような考えはそれ以前にもあったが(→関連事項:肺循環の発見),ハーヴェイは屍体の肺動脈に水を入れ,これが左心室に流出することから,肺循環の存在を証明した[1].

図3.ハーヴェイの著書「動物の心臓と血液の運動に関する解剖学的研究」の表紙  [PD]

(4) 一定量の血液が循環している
ガレノス以来の考え方では,肝臓で作られた血液は末梢で消滅するとされていた.ハーヴェイは,心臓の容積と心拍数から計算すると,体内を流れる血液量は1日あたり数千リットルにものぼり,これがすべて末梢で消滅するということは非現実的であり,これを合理的に説明するには,一定量の血液が保存されて常に体内を循環していると考えるのが妥当であると考えた.

ハーヴェイはこれらの推論を総合した結果,「動物では,血液は環状の経路を循環し,一定の循環運動を行なう不断の運動状態にある.これは心臓の働きによる拍動によって行なわれる.心臓の運動が,血液循環の唯一の原因である」という結論に達した.すなわち,血液は心臓から動脈に送り出され,体内を循環して静脈を経て再び心臓に戻るという,現在は常識とされる事実を発見したことになる.

1628年,ハーヴェイはこの説を「動物の心臓と血液の運動に関する解剖学的研究」( Exercitatio anatomica de motu cordis et sanguinis in animalibus)に著した(図3)*1 .わずか72頁の小著であるが,その内容はそれまで1000年以上にわたって信じられてきた知識を根本的に覆すものであった.この時ハーヴェイは50歳,血液循環の着想から20年を経ている.発表までに長時間かかったのは,単に慎重に解剖や実験を繰り返したためばかりではなく,その発表が医学界に与える影響,そして自らに向けられる批判を思いやったためであった.事実,本書の冒頭で「以下に述べることは前代未聞のことであることから,私自身に危害が及ぶこと,人類が私の敵となることを恐れる」と述べている*2

一部の激しい批判はあったものの,ハーヴェイの血液循環説はその合理性から多くの医学者に受け入れられるようになり,その後20年のうちにはヨーロッパの医学部の多くで彼の説が教授されるようになった.

*1 1628年の初版は広く読まれたが,多くの誤記,誤植があり,意味不明のところもあった.1646年に編集者による改訂版,1653年にはHarvey自身による英訳が出版された.

*2 この記述は,当時の社会状況を考えると決して的外れとは言えない.ちょうどその頃,イタリアの哲学者ブルーノ(Giordano Bruno,1548-1600)は,宇宙は無限であると唱えた罪で火あぶりになっており,ガリレイも地動説を支持した罪で幽閉されている.

  • 1. West JB. Ibn al-Nafis, the pulmonary circulation, and the Islamic Golden Age

関連事項

肺循環の発見

図4.イブン・アル・ナフィス (Ibn al-Nafis, 1213-88) [1]

図5.セルヴェトゥス(Michael Servetus, 1511-53) [PD]

図6.コロンバス(Matthaeus Realdus Columbus, 1515-59)  [Encyclopedia Britanica]

肺循環(小循環),すなわち右心室-肺動脈-肺静脈-左心室の血行路の存在を初めて記載したのは,13世紀のアラビアの医師,イブン・アル・ナフィス (Ibn al-Nafis, 1213-88)とされる(図4).ナフィスは,アッバース朝のダマスカスに生れ,第二のアヴィケンナ(イブン・シーナ)とも言われた名医であった.ナフィスには多くの著作があるが,「アヴィケンナの医学典範の解剖学に関する注釈」の中で,心臓の中隔には小孔はなく,左右の心腔の交通は肺を介するもので,肺動脈と肺静脈の間には細い交通があるとしている[1-3].肺動脈と肺静脈の間の交通は,当時知られていなかった毛細血管網であると考えれば,この考え方は正しいといえる.しかしこの記述は,その後長らく顧みられなかった.

西欧の医学にこの考え方が登場するのは,ナフィス後300年を経た1553年,スペインの神学者であり医師でもあるセルヴェトゥス(Michael Servetus, 1511-53)(図5)の著書「キリスト教の復興」(Christianismi Restitutio)である.セルヴェトゥスは,キリスト教の三位一体の教義を否定し,旧教のみならず宗教改革の旗手のひとりカルヴァンとも激しく対立した.本書はその宗教上の主張を展開したものであるが,その中に旧来のガレノスの医学に対する批判が付随的に含まれており,ここに肺循環に関する記載がある.ガレンは,肺動脈は肺を栄養するためとしたが,セルヴェトゥスは肺動脈が非常に太いことから栄養のためではなく,肺に送られた血液が肺に取り込まれた空気と作用してプネウマを獲得して左心室に達すると考えた.セルヴェトゥスは,異端としてカルヴァンの手により火刑に処せられた.

これとほぼ同時期の1559年,イタリアの解剖学者,外科医のコロンバス(Matthaeus Realdus Columbus, 1515-59)(図6)は,その著書「解剖学」(De re anatomica)(全15巻)で小循環について述べており,生きた動物の肺静脈が完全に血液で充たされていることから,右心室の血液が肺動脈,肺静脈を介して左心室に達するとしている.1541年,コロンバスはパドゥア大学で,ファブリカの出版を監督するためにスイスに赴いて不在にしていたヴェサリウスの後任教授の地位についた.

セルヴェトゥス,コロンバスが,それぞれ先行する著作を読んでいたか否かについては諸説あるが,それぞれが全く独立の発見であった可能性も充分考えられる.ハーヴェイは,セルヴェトゥス,コロンバスの説を知っていたと思われ,これを実験的に証明するとともにその血液循環の理論を完成した[2-4].

  • 1. Nagamia HF. Ibn al-Nafis. A biographical sketch of the discoverer of pulmonary and coronary circulationl. J Internat Soc Hist Islamic Med 1:22-28,2003
  • 2. Wilson LG. The problem of the discovery of the pulmonary circulation. J Hist Med Allied Sci 16:229-44,1962
  • 3. West JB. Ibn al-Nafis, the pulmonary circulation, and the Islamic Golden Age
  • 4. Young RA. The pulmonary circulation - Before and after Harvey. Brit Med J. :1(4122):1-5,1940

 

毛細血管の発見

図7.マルピーギ(Marcello Malpighi, 1628-1694)

図8.マルピーギの著書の挿図.(上)カエルの肺の外観.肺胞構造がと微小な血管が描かれている.(下)肺胞内の展開図.毛細血管網が描かれている.

こうして,血液が心臓から動脈を介して送り出され,体内を循環して静脈に戻ることが分かったが,ハーヴェイをしても解明することができなかったのは,末梢組織における動脈と静脈の連絡であった.彼は「吻合を介して,あるいは筋肉の小孔構造より,あるいはその両者によって」動脈から静脈に血液が移行すると推測したが,証明はできなかった.現在の知識でいえば,動静脈を連結するのはもちろん毛細血管(capillary)であるが,これを発見したのは,奇しくもハーヴェイの著書が発表された年に生まれたボローニャ大学の解剖学教授であったイタリアのマルピーギ(Marcello Malpighi, 1628-1694)(図7)である[1].

毛細血管は肉眼では見えないため通常の人体解剖では認識されず,その発見には 顕微鏡 が必要であった.顕微鏡を発明したのは,16世紀末,オランダの眼鏡技師,ハンス・ヤンセン,ザカリヤス・ヤンセン父子とされるが,これを生物の観察に応用したのはイギリスの科学者ロバート・フック(Robert Hooke, 1635-1703)であった.フックは,ハエ,ガなどの昆虫,植物の葉や茎,衣類の繊維などを観察し,そのスケッチをまとめたアトラス「ミクログラフィア」を著したが,医学者ではないこともあって解剖学的な視点はなかった.顕微鏡を解剖学の研究に初めて応用し,現在でいう組織学を創始したのは,マルピーギ(Marcello Malpighi, 1628-94)である.

マルピーギは,顕微鏡下に初めて赤血球を観察し,腎糸球体(マルピーギ小体),脾リンパ濾胞(マルピーギ小体),皮膚のマルピーギ層(=基底層+有棘層)など多くの組織学的構造にその名前が残る.1661年,マルピーギはカエル,カメの肺および膀胱組織で,微細な網状血管を観察し,これが動脈と静脈を連結する構造であることを示した.すなわち毛細血管を発見した.この発見は,「肺の解剖所見について」 (De pulmonibus observationes anatomicae)と題する書簡形式の文書に記載されているが(図8),この中にはヒトの肺胞構造についても初めて言及されている[1,2].この毛細血管の発見により,ハーヴェイの血液循環理論はついに完成した.

  • 1. Pearce JMS. Malpighi and the discovery of capillaries. Eur Neurol. 58:253-5,2007
  • 2. Fughelli, P, Stella, A, Sterpetti AV. Marcello Malpighi (1628-1694). The revolution in medicine. Circ Res 124:1430-32,2019