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神経学の歴史 

神経系の発見

古代ギリシアでは,アリストテレス以来,精神活動の中枢は心臓と考えられ,脳は心臓の熱を冷却する役割をもつとされていた.しかしヒポクラテスは,脳が意識,知性を司る器官であるとし,動物の解剖から脳が2つに分れていること,一方が損傷すると対側に麻痺が起こることも記載している.またそれまで「神聖病」と呼ばれ,神の怒りや悪霊の仕業とされていたてんかんを,他の病気と同列に扱ったことはヒポクラテス大きな功績である.ギリシア時代の末期,アレクサンドリアで活躍した ヘロフィロス は豊富な人体解剖をもとに,神経系の中枢が脳であることを明らかとし,運動神経と知覚神経を区別した.4つの脳室を記載したのもヘロフィロスである.しかし,神経と腱を混同しており*,神経の内部は中空と考えていた.

* 神経を表わすギリシア語 νεϋρον,ラテン語 nervus はもともと腱を意味する言葉であった.現代英語でも "strain every nerve" (全力を尽す)のような表現に原意が残っている.

図1.ヴェサリウスの脳神経解剖図.神経の中を流れるのはプネウマと考えていた[PD].

ローマの ガレノス は,心臓で作られた「生命のプネウマ」を含む血液に,脳底部の奇網で鼻から吸い込まれた空気と混じって「精神のプネウマ」が加わり,神経液となって脳室に蓄えられ,神経により全身に運ばれて運動と感覚を司るとした(→).この理論の下では,意識は脳室に存在すると考えられ,「精神のプネウマ」の異常が病気の原因とされた.このガレノスの神経学は,その後16世紀までほとんどそのまま継承され,中世の解剖学では,脳室が非常に大きな意義を持つものと考えられていた.確かに,脳を解剖してみると,その中心部にいかにも意味ありげな空間があるので,これが重要な役割を果たしていると推測したことは首肯しうる.例えばレオナルド・ダ・ヴィンチはウシの解剖をもとに3つの脳室を描き,前部脳室(側脳室に相当)が知覚の中枢で,中部脳室(第3脳室に相当)でそれを判断し,後部脳室は記憶の座としている.

16世紀,近代解剖学の原点となったイタリアの ヴェサリウス (Andreas Vesalius 1514-1564)の「ファブリカ」第4巻は神経系にあてられており,その冒頭で神経は中空ではないと明言しつつも,やはりその中を流れるのはプネウマと説明している(図1).

近代的な神経解剖の基礎を築き,脳の機能が脳室ではなく,脳実質にあることを初めて主張したのは,脳底動脈輪(Circle of Willis)に名前が残るイギリスの医学者ウィリス(Thomas Willis, 1621-1675)である.ウィリスは,灰白質と白質を区別し,線条体,内包,内側毛帯を初めとする様々な神経伝導路を記載した.また末梢神経を顕微鏡で観察し,神経が中空ではないことを確認した.Neurology (神経学)*という用語を初めて使ったのもウィリスである.

*日本では,学問としての神経学(Neurology)に対応する標榜診療科名として「神経内科」が用いられてきた.Neurology を直訳すれば「神経科」であるが,この名称は以前から「精神科」「精神神経科」と同意に扱われていたため,これと区別する意味で1975年以来正式な診療科名として採用された経緯がある.しかし,それでもなお扱う疾患の範囲がわかりにくいという懸念から,2017年に日本神経学会は標榜診療科名を「脳神経内科」に変更した.

関連事項

神経と電気

図2. ガルバーニの実験.カエルの筋肉標本に金属を触れると収縮することから,「動物電気」が存在すると考えた[PD].

神経の中を流れるのは気体でも液体でもなく,実は電気である,という知識のきっかけをつくったのが,イタリアのガルバーニ(Luigi Galvani,1737-1798)である.ガルバーニは,カエルから摘出した筋肉で実験しているとき,そばに置いてあった実験装置の静電気の火花放電によって,筋肉が収縮することを偶然発見した.そして,1791年「筋肉の運動における電気の力について」を著し,筋肉には「動物電気」 が内在し,脳で作られた電気が神経を通じて筋肉に蓄積し,これが筋肉を収縮させると考えた(図2).しかし電池の発明者として知られる物理学者ボルタ(Alessandro Volta, 1745-1827)が,筋肉は単に外部からの電気に反応しただけで,生体が電気を蓄積しているわけではないと反論し,大論争の末,結局はボルタが正しいことが証明された.しかしこの議論から,神経と電気に密接な関係があることが明らかとなった. 

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ニューロン説

図3. ゴルジの網状仮説.神経の本態は,連続した網目状の構造であると考えた.

 

 

図4. カハールのニューロン仮説.個々の神経細胞(ニューロン)は独立しており,互いに接触していないとした.

個々の神経の解剖が進歩し,その内部を電気が伝わることもわかったが,神経系の本態はなにか,細長い神経が互いにどのように連結しているのか,という点については依然として不明であった.1846年,ドイツでカール・ツァイス社が販売を開始した本格的な光学顕微鏡によって組織を研究することができるようになったが,組織を観察するには染色が必要で,当時知られていたいかなる染色法をもってしても神経細胞を染めることはできず,神経組織の研究は遅れをとっていた.初めて神経系を顕微鏡の下に観察することに成功したのは,細胞内小器官ゴルジ体に名前が残るイタリアの解剖学者ゴルジ(Camillo Golgi,1843-1926)]であった.1873年,ゴルジは硝酸銀を使って脳を染色すると,神経組織の中に真っ黒な網目状の構造が明瞭に浮かび上がることを発見した.いわゆるゴルジ染色(鍍銀染色)である.ゴルジはこの方法でさまざまな神経組織を観察した結果,この黒い網目構造の連続的なネットワークこそが神経系の本態であると考えた.これが,神経構造の網状仮説(reticular theory)である(図3).神経系の構造解明に向けての大きな一歩であったが,この複雑な網目の中を,電気刺激がどのように,どちら向きに伝わるのかは,依然として謎のままであった.

スペインの解剖学者カハール(Santiago Ramón y Cajal, 1852-1943)は,ゴルジ染色にさらに工夫を加え,試行錯誤の末,胎児や幼若動物の脳を使うと,より一層鮮明な神経組織像が得られることを発見した.胎児脳はまだ髄鞘形成が乏しいため,神経線維がより明瞭に染色される.そして1888年,カハールは,神経系はゴルジの唱えるような連続的な網目構造ではなく,一つ一つ独立した神経細胞からなることを発見した.カハールの発見した神経細胞は,現在ではニューロン(neuron)*1と呼ばれているもので,カハールの学説をニューロン仮説(neuronal theory)と言う(図4).またカハールは,個々の神経細胞の間には間隙(シナプス*2)があって互いに接触していないこと,神経刺激は細胞体から軸索,樹状突起へ一方向性に伝わることを示し,神経伝導路としての神経構造の研究に明瞭な道筋を示した.その後,ゴルジの網状仮説,カハールのニューロン仮説は学界を二分し,徐々にニューロン仮説が受け入れられるようになったが,それが正しいことが証明されるには,電子顕微鏡の登場を待つ必要があった*3

*1 ニューロン(neuron)という名称を初めて使ったのは,ドイツの解剖学者ワルダイエル(Heinrich G. von Waldeyer, 1836-1921)である.ワルダイエルは,1891年の論文でカハールの業績を紹介,要約し,そこで個々の独立した神経細胞を表す名称として「ニューロン」を提唱した.ワルダイエルは,悪性リンパ腫の咽頭のワルダイエル輪に名前が残るように,さまざまな研究をしているが,神経解剖についてはほとんど業績がない.にもかかわらず,ニューロン説がしばしば誤ってワルダイエルのものとされることを,生前のカハールも快く思っていなかったという.

*2 シナプス (synapse)という言葉を初めて提案したのは,イギリスの生理学者シェリントン(Charles Scott Scherrington, 1857-1952)で,1897年に神経筋接合部の間隙に使用した.これ以前,1873年にイギリスの生理学者シャーピー=シェーファー(Edward Albert Sharpey-Shafer)は,クラゲの神経に神経間隙があることを記載している.

*3 1906年,カハールとゴルジは,第6回ノーベル生理学・医学賞を共同受賞した.ともに神経組織の構造を明らかにした業績に対する受賞であったが,この時点ではそのいずれが正しいか不明で,全く対立する見解をもつ複数研究者の同時受賞は,その後も例がない.受賞会場で,二人は全く言葉を交わすことがなかったという.当時既にカハールのニューロン説が大勢を占めつつあったにもかかわらず,ゴルジは受賞記念講演の冒頭で「最近は衰微しつつあるニューロン説」と前置きしてニューロン説を徹底的に攻撃した.後にカハールは自伝の中で「ここまで性格の異なる二人が,シャム双生児のように同席しなくてはならないことは大きな皮肉だった」「これほど自説に固執し,変わりゆく周囲の状況に耳を閉ざすゴルジを理解しかねる」と述べている.ちなみに,小脳皮質の分子層にはカハール細胞,その深部の顆粒層にはゴルジ細胞があって,互いに連絡している.

臨床神経学の発展

このような神経解剖学の進歩と並行して,19世紀後半に臨床神経学*が爆発的に開花した.その先鞭となったのが,ドイツのベルリン大学のロンベルク(Moritz Heinrich Romberg, 1795-1893)で,1840年に初の本格的な神経内科学書「人体神経疾患教本」(Lehrbuch der Nervenkrankheiten des Menschen)を出版した.この中でロンベルクは,初めて深部覚について言及し,ロンベルク徴候についてもここに記載されている.神経梅毒の一病型,脊髄癆 tabes dorsalisを独立して命名したのもロンベルクである.

図5. シャルコーの臨床講義.毎週行なわれ,多くの聴衆が集まった[PD]

図6. 筋萎縮性側索硬化症の病巣の説明図.右側の網掛け部が病巣(側索)であることを示している [1]

ほぼ同時期のフランスでは,デュシャン(Guillaume Benjamin Duchenne, 1806-75)が神経学の開祖となった.デュシャンは種々のその名前が残る進行性筋ジストロフィーを初め種々の進行性筋疾患に多くの業績があるが,初期より皮膚表面の電極で筋肉を刺激してその反応を調べる,現在でも利用されている電気生理学的診断法を取り入れた.デュシャンの友人でもあったシャルコー(Jean Martin Charcot, 1825-93)は,その後の神経学を最も大きく発展させた神経学者といえる.シャルコーの活躍の舞台となった サルペトリエール病院 は,もともと一般施療院として精神病患者の収容施設であったが,1862年,シャルコーの赴任後は世界をリードする神経病院となった.毎週1回行なわれる臨床講義には数百人の聴衆が集まったという.シャルコーのアプローチは,綿密な神経学的診察を行ない,これを神経解剖学と対比させる方法であった.これはméthode anatomo-cliniqueと呼ばれたが,現在に至るまで神経学の基本とされる方法である.さらにシャルコーは,経時的変化を追跡して剖検でこれを確認することにより,多くの神経疾患を発見しているが,中でも重要なものが1874年に記載された筋萎縮性側索硬化症で,Charcot病とも呼ばれる(図6).当時混同されていたパーキンソン病と多発性硬化症を区別したのもシャルコーである.

シャルコーの没後,サルペトリエール病院で活躍したその後継者として,レイモンド(Fulgence Raymond, 1844-1910),デジェリーヌ(Joseph Jules Déjerine, 1849-1917),その妻デジェリーヌ・クルンプケ (Augusta Déjerine-Klumpke,1859-1927),マリー(Pierre Marie, 1853-1940)ら,病名に名前が残る名だたる神経学者が挙げられる.

ドイツでも,ロンベルクに続いて,フリードライヒ(Nikolaus Friedreich,1825-82),その門弟のエルプ(Wlihelm Heinrich Erb, 1840-1921),ヴェストファール(Carl Friedrich Otto Westphal, 1833-90),マイネルト(Theodor Meynert, 1833-92),その弟子ウェルニッケ(Carl Wernicke, 1848-1905),オッペンハイム(Hermann Oppenheim, 1858-1919),ホフマン(Johann Hoffmann, 1857-1919)ら,神経学の病名,徴候に名前が残る神経学者を続々と輩出した.

ドイツ,フランスの陰に隠れがちであるが,この時期イギリスでもこの神経学が発展した.イギリスの神経学の祖とされるのは痙攣の研究で知られるジャクソン(John Hughlings Jackson, 1835-1911),筋緊張性ジストロフィーや遠位方ミオパチーを記載したゴワーズ(William Richard Gowers, 1845-1915),その学位論文が病名となったウィルソン(Samuel Alexander Wilson, 1878-1937)らが知られる.

まさに19世紀後半から20世紀初頭は,今日の臨床神経学の基本の大部分が形づくられた黄金期であった.

関連事項

膝蓋腱反射,ババンスキー反射

神経学的検査法の基本手技,深部腱反射を初めて記載したのは,ドイツの神経学者エルプ(Wilhelm Heinrich Erb)とウェストファール(Carl Friedrich Westphal)で,いずれも1875年に膝蓋腱反射をそれぞれ独立に報告した.その後,ほとんど全ての筋肉について腱反射が続々と報告され,1888年,ゴワーズ(Gowers)は脊髄癆の患者でこれが消失することを発見し,これが脊髄を介する反射であることを記載した.両手の指を組合わせて力を入れ膝蓋腱反射を増強する方法(Jendrassik法)も,すでに1885年にハンガリーのイェンドラシク(Ernö Jendrassik, 1858-1921)が報告している.

図7. 錐体路障害例のババンスキー反射.母趾背屈 [1]

表在反射の中で特に有名なババンスキー反射は,シャルコーの門弟であるババンスキー(Joseph Félix Babinski, 1859-1932)が1896年に学会で発表したもので,足底の表在刺激により健側では拇指が底屈するが,麻痺側では背屈することを報告した.1898年にあらためて論文化され[1],これが錐体路の異常によることを示し,ヒステリー,筋疾患,末梢神経炎などの麻痺では見られないとした.翌1899年にイギリスの神経学者コリア(James Collier, 1870-1935)が,新生児,正常成人の睡眠中にこれが見られることを含め詳細に報告し[2],広く知られるようになった.

  • 1. Babinski J. Du phenomene des orteils et de sa valeur semiologique. Sem Méd (Paris) 1898; 18: 321-2.
  • 2. Collier J. An investigation upon the plantar reflex, with reference to the significance of its variations under pathological conditions, including enquiry into aetiology of acquired pes cavus. Brain 22:71-99,1899
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脳神経外科学の誕生

先史時代の遺跡から出土する頭蓋に穿頭痕が見られることから,穿頭術はおそらく人類史上最古の手術手技といえるが,これはあくまでも悪霊を取り除くといった呪術的な意義が大きかったと思われる.その後も戦傷における頭蓋損傷の治療などの記録はあるが,頭蓋内病変は外科治療の及ばない領域であった.19世紀に入り,神経系の構造や機能の解明が進んだが,神経疾患の有効な治療法はなかった.消毒法や麻酔の発明により外科学は大きく進歩したが,こと神経系については手つかずの状態であった.初の脳腫瘍手術を行なったのは,1879年,スコットランドの外科医 マキュウィン(William Macewen, 1848-1924)とされる.患者はけいれん発作を起こした14歳の症状で,マキュウィンは神経症状から前頭葉の下部に病変があると診断し,前頭部を開頭して硬膜下の腫瘍(髄膜腫と思われる)を切除した.患者は8年後に死亡したが,剖検で残存腫瘍は認められなった.その後もマキュウィンは24例の脳膿瘍を手術し,23例に成功をおさめた.1887年,イギリスの外科医Victor Horsley (ホーズリー, 1857-1916)は初の脊髄腫瘍切除に成功した.患者は対麻痺の患者で,緊急手術により胸椎切除を加えてアーモンド大の腫瘍を摘出し,患者は回復した.しかし,このような散発的な報告を除けば,脳神経外科領域の手術はほとんど行なわれなかった.

図8. 少女を診察するクッシング[1]

図9. クッシング自筆による開頭術野のスケッチ.右側の黒い部分が皮質下血腫[1]

この状況を一変させたのがアメリカの外科医,クッシング (Harvey Cushing,1869-1939)である(図8).クッシングは,乳腺外科で有名なハルステッド(William Stewart Halsted, 1852–1922)の下で外科を学び,1900年に脳外科医となった.当時,脳外科は専門分野として独立していなかった.開頭手術は一般外科医の片手間に行われており,その手術死亡率は90%以上,すなわちほとんどの患者が死亡していた.

脳外科手術が失敗する最大の理由は,術中の出血であった.他の臓器と異なり柔らかく脆弱な脳組織は,いったん出血するとコントロールが困難であった.事実クッシングもある患者の手術中に大出血を起こし,患者が苦痛を訴えるとメスを置き,「大丈夫,もうすぐ楽になる」と答えたという逸話が残っている.クッシングは,出血を最小限に抑えるために,銀製の止血クリップ,吸引器,電気メスなどを次々と考案した.今となっては手術の基本的備品ばかりであるが,いずれもクッシングが工夫を重ねたものであった.こうして手術死亡率は10%以下にまで低下した.クッシングは,その生涯に2,000例の脳腫瘍摘出術を施行し,脳外科の父と呼ばれる(図9).

Cushingと並んで脳神経外科の発展に大きく貢献したのがダンディ(Walter Dandy, 1886-1946)である.ダンディは1910年にクッシングの研究助手となりみるみる頭角を現したが,クッシングとは性格の違いによりしばしば衝突した.1912年にクッシングがボストンのPeter Bent Brigham病院に異動する際にJohns Hopkins大学の残留組となったが,独自の研究を進め,1922年に初の聴神経腫瘍の手術,1937年には初の脳動脈瘤クリッピング手術に成功している.脳室造影,気脳造影を発明し,脳腫瘍の画像診断に大きく貢献したが,自らの神経診断学に絶大な自信をもつクッシングはこのような補助診断法を最後まで受入れなかった.

  • 1. Thomson EH. Harvey Cushing. Surgeon, Author, Artist. (Neale Watson Academic Publication, 1981)