医学の歴史 > トピックス> 看護の歴史

前項目  目次  次項目

看護の歴史 

中世・近代の看護

中世ヨーロッパにおいて,医療の重要な担い手は,キリスト教修道院であった.各地の修道院には,医療施設宿泊施設が設けられ,病気の修道士のみならず,近隣の村人,巡礼に向かう旅行者に医療を提供した.11世紀末,十字軍が開始されると,騎士修道会(騎士団)が次々と組織され,聖地や巡礼者の保護にあたった.しかし,1517年に始まる宗教改革で誕生したプロテスタントは修道院を否定し,さらに1545年のトリエント公会議(1545年)で俗人信徒による看護が禁じられた.特にイギリスでは1540年,ヘンリー8世が修道院の財産を没収するに至って,教会の医療施設がほとんど閉鎖され,キリスト教に依存する医療は後退した.以後19世紀前半まで約200年にわたる「看護の暗黒時代」 が続いた.

図1.ヴァンサン・ド・ポール(Vincet de Paul, 1581-1660).献身的な慈善活動で知られ,慈善淑女団を組織した.

図2. フリードナー(Theodor Fliedner, 1800-1864).カイゼルスヴェルト・ディーコネス学校を創立し,近代看護の先駆者となった.

しかしそのような中にあっても,フランスのカトリック司祭ヴァンサン・ド・ポール(Vincent de Paul, 1581-1660)(図1)は,腐敗した教会に頼らず人道主義に訴えて上流社会の女性を促して病者の看病,孤児の救済を行い,さらに市井の若い女性に教育を施し,慈善淑女団(Sisters of Charity)を組織して看護にあたった.折しもパリに起こったフロンドの乱(1648-53)では民衆の保護に尽力,後に列聖された.この他にもイギリスで監獄の劣悪な衛生環境の改革に尽力したハワード(John Howard, 1726-90),フライ(Elizabeth Fry, 1780-1845),ドイツでコレラ患者の看護に献身したジーヴェキング(Amalie Sieveking, 1794-1859)らの活躍が知られるが,組織だったものではなかった.

近代看護学の先駆として重要な役割を果たしたのが,ドイツの牧師フリードナー(Theodor Fliedner, 1800-1864)(図2)である.ルター派の牧師であったフリードナーは,デュッセルドルフ近郊,ライン河畔にある自らのカイゼルスヴェルト教区の人々が,当時地場産業の製糸工業の低迷により貧困に喘いでいるのを目にして,救済資金を求めてヨーロッパ各地を行脚したが,その途上オランダで信者の女性が看護に従事するディーコネス制度*を見聞し,またイギリスでは刑務所の環境改善に献身するフライ(Elizabeth Fry)に接したことを機に,帰国後に社会福祉事業を創始した.まず劣悪だった刑務所の女性囚の待遇改善行ない,自宅を開放して出所した女性囚の更生教育を行なった.そして1836年にカイゼルスヴェルト・ディーコネス学校(Kaiserswerther Diakonie)を設立して,ここで良家の若い女性(ディーコネス)にキリスト教育に立脚した看護教育を行なった.その後,ドルトムント,ベルリンなどドイツ国内のみならず,ヨーロッパ各地,さらにはアメリカにもディーコネス教育施設「母の家」(Mutterhaus)が設立された.前述のイギリスのフライも1840年にカイゼルスヴェルトを訪れ,帰国後イギリスでディーコネス教育を組織している.フリートナーが世を去った1864年には30ヶ所にのぼる施設が設けられ,ここを巣立ったディーコネスたちは近代看護の礎となった[1,2].

* ディーコネス(Deaconess).キリスト教会の一分には,洗礼など宗教儀式を補助する女性助祭(男性はDeacon)の制度がある(宗派により執事,輔祭ともいう).その起源はローマ時代に遡り,時代と宗派により制度や業務は様々であるが,宗教儀式の補助に加えて,信者の教育,貧者,病者,老人の看護などの奉仕活動を行なった.

ナイチンゲールの看護改革

図3. ナイチンゲール (Florence Nightingale, 1820-1910) [PD]

図4. スクタリの病院で看護にあたるナイチンゲール.その様子は「灯火の淑女」と証された. [4]

イギリスの裕福な地主の家庭に生まれた ナイチンゲール (Florence Nightingale, 1820-1910)(図3)は,16歳の時「神の声」を聞いて看護の道を志した.看護職にあるのは専ら下層階級の女性や修道女であった当時,周囲の猛反対にあったが,理解者である父の援助を得て,1849年からドイツ,フランスなどヨーロッパ各地の病院を訪問した.1849年,1850年に,いずれも短期間であったがフリートナーのカイゼルスベルト・ディーコネス学校を訪れ訓練を受ける機会を得た.その後,パリ,アイルランドなどの慈善施設や病院を見学し,1853年にロンドンで女性を対象とした看護施設を開設した.おりしもクリミア戦争*が勃発し,スクタリ(現ユスキュダル)のイギリス軍野戦病院に搬送される傷病兵の看護が劣悪であることが報道されると,その改善を要求する激しい世論がまきおこった.1854年,これに対応すべく政府が組織した調査団長に志願したナイチンゲールは,38名の看護団を率いてスクタリに向かった(図4).そこでナイチンゲールが見たのは,汚物が溢れ,感染症が蔓延する著しく不衛生な病院であった.死者の大部分は,戦死ではなく赤痢,コレラ,チフスなど伝染病による病死であった.そこで病室の清掃,消毒,寝具や衣類の定期的な交換,排水設備,換気,照明の改善,看護者の手洗いの励行など,衛生学の基本を徹底し,患者の食事の栄養にも配慮した.この結果,その約2年間の滞在期間中,病院の死亡率は42%から2%にまで激減した[1-3].

*クリミア戦争:南下政策をとるロシアとオスマン帝国の戦い.1853年,ロシア皇帝ニコライ1世がオスマン帝国に宣戦,イギリス,フランス,サルディニアがオスマン帝国を支援して列強間の戦争となった.オスマン帝国領のクリミア半島(現ウクライナ領)のセヴァストポリを中心として激戦となったが,1856年にロシアの敗北に終わった.

図5.ナイチンゲール看護学校.全寮生活を送りながら看護教育を受けた  [5].

ナイチンゲールの本領は,戦争が終結し,帰国した後に発揮された.戦場での経験から看護が宗教的な信仰心や熱だけで実行できるものでないことを身をもって知ったナイチンゲールは,看護教育の重要性を説き,1860年にロンドンの聖トーマス病院にナイチンゲール看護学校(Nightingale Training School)を創設した.若い女性は1年間,無償で看護教育を受けることができた.これは「ナイチンゲール方式」 と称される見習い制度で,指導的立場にある看護総責任者(メイトロン,matron)の管理下に,全寮制で規律正しい生活を送りながら,病院付属の病棟で見習い看護婦*として理論とともに実践的な知識,技術を学ぶ方法であった(図5).この方式はまずイギリス国内,その後世界中に普及して,以後長年にわたって看護教育の基本となった.

ナイチンゲールは150編におよぶ著作を残しているが,中でも1859年刊「看護覚え書」(Notes on nursing - What it is and what it is not) は各国語に翻訳され,その後長らく看護学の基本書とされた.近代看護学の祖とされるナイチンゲールの最大の功績は,中世以来宗教,信仰を背景とした奉仕の精神に支えられてきた看護を,科学に立脚した専門職として確立したことといえよう.

* 現在,看護専門職の正式名称は「看護師」であるが,本稿では歴史的経緯を考慮して「看護婦」と記載している.歴史的には,修道院の看護人,戦時救護にあたる看護人には男性も多かったが,特にナイチンゲールの看護改革以降,圧倒的に女性が多くなった.日本でも,戦時救護を念頭においた日本赤十字社は当初は男性看護人(救護人)を養成したが,1920年代には看護婦養成のみとなった.1915年の「看護婦規則」により「看護婦」が正式名称となり,1948年に制定された保健婦助産婦看護婦法では,「男子である看護人については,看護婦に関する規定を準用する」とされ一般的にも男性は「看護人」と呼ばれたが,1968年の改正で男性には「看護士」の名称が正式に採用された.2001年に法律の名称が「保健師助産師看護師法」 と改正され,男女の別なく「看護師」が正式名称となった.ちなみに英語のnurseに男女の別はないが,とくに性別を表わす場合はmale nurse / female nurse とされる.文法的性別がある言語,たとえば独語ではKrakenpfleger(男性) / Krakenschwester(女性),仏語では infirmier (男性) / infirmière (女性)のような区別があるが,男性形はしばしば両者共通に使われる.

関連事項

ナイチンゲールと統計学

戦場のナイチンゲールは,皆が寝静まった深夜の病棟を,ただ一人ランプを手にして回診し,患者の容態を見守るその姿は,「ともしびの淑女」 (Lady with the Lamp)と呼ばれた(図4)*.宗教心厚い「白衣の天使」のイメージが強いナイチンゲールであるがこれは虚像であり,実際には看護は信仰や奉仕によって成り立つものではないことを知る冷徹な科学者,実務家であった.

図6. ナイチンゲールが報告書に使ったグラフ.赴任前(右)とくらべて赴任後(左)は感染症死(青)が減少していることを示している.ピンクは戦傷死,黒はその他の死亡 [PD]

ナイチンゲールは,戦場で収集した膨大なデータを整理し,軍と政府に医療の改善策を提案した.しかし,なかなか腰を上げない政府を見かね,統計グラフを駆使して戦場の惨状を訴えた.ナイチンゲールは,若い頃受けた教育のおかげで数学の素養も豊かであった.それを生かし,戦場における死因を,医学に素人の軍人,政治家にも一目瞭然に分かるグラフに表わし,病院の衛生環境の改善が死亡率の低下と大きく関連することを説明したのである.このグラフはその特徴的な形状から "bats wing" (コウモリの翼)と呼ばれることがあるが,現在でいうレーダーチャートのような円グラフであった(図6).統計による分析は現在では当たり前の手法であるが,当時社会現象に統計学を応用することは一般的ではなかった.このため,ナイチンゲールは統計学の祖ともされている[1].

*灯火(ともしび)の淑女」 の表現は, クリミア戦争中の1855年2月8日付け The Times紙に掲載された現地特派員報告記事「彼女はこの病院のまさしく《救いの天使》である.そのほっそりした姿が静かな廊下を滑るように歩いてゆくと,その姿を目にした憐れな患者は誰しも顔を和ませる.医療者がすべて姿を消した夜,静粛と闇が延々と横たわる患者を訪れる時,灯火を手にひとり回診する彼女の姿があった」に端を発し,さらに1857年アメリカの詩人ロングフェロー(Henry Wadsworth Longfellow)がその詩「聖フィロメナ」(Santa Filomena)でナイチンゲールを讃えて,「見よ憐れなる者の家を/我れ灯火の淑女を目にす/仄かなる光明の中/部屋から部屋と軽やかに動く姿を」と謳ったことに由来する.

  • 1. Friendly M, Andrews RJ. The radiant diagrams of Florence Nightingale. SORT 45:1-18,2021
  •  

国際赤十字社

図7. デュナン(Henri Dunant, 1828-1910).赤十字社の創立者.

図8. ナイチンゲール記章.灯火を手にするナイチンゲールが描かれている..

1859年,スイス人実業家デュナン(Henri Dunant, 1828-1910)(図7)は,仕事で訪れたイタリアで,イタリア統一戦争の激戦地ソルフェリーノで戦傷者の惨状を目にした.6年前のクリミア戦争におけるナイチンゲールの活躍にも触発され,敵味方に関わらず戦傷者を保護する人道主義に基づく国際的組織の設立を発案し,それを「ソルフェリーノの思い出」として出版した.1863年にジュネーブでデュナンを筆頭に軍人,法律家,医師など5人の立案者からなる国際戦傷軍人救護委員会(通称五人委員会)を発足させ,16ヶ国の支持を得て翌1864年に国際赤十字条約(ジュネーブ条約)が締結されて,ジュネーブに本部を置く国際赤十字が成立した*1

国際赤十字の活動は当初,戦時の救護活動を目的としたものであったが,1870年に赤十字社の一員として普仏戦争に従軍したアメリカの資産家バートン(Clara Barton, 1821-1912)は,帰国後にアメリカ赤十字社を設立し,平時の天災や飢饉における救護活動の必要性を説き,1888年にフロリダ州の黄熱病流行に際して初めて平時の救護活動を展開した.1921年には,ロンドンで世界初の献血による輸血用血液の供給サービスを開始し,以後血液事業は赤十字社の基幹業務のひとつとなった.現在では,200ヶ国近い国々の医療,保健衛生を担う国際的な組織である.優れた看護業績を挙げた人に赤十字社が授与するフローレンス・ナイチンゲール記章*2(図8)は,看護領域で最も名誉ある賞として知られている.

*1 この直後,デュナンは銀行の倒産スキャンダルに巻込まれて破産し,以後ヨーロッパ各地を転々とする極貧生活を送った.1901年に第1回ノーベル平和賞を受賞したが,1910年の病死に際して,ほとんど手つかずの賞金は遺言によりスイスとノルウェーの赤十字社に寄贈された

*2 メダルには灯火を手にするナイチンゲールが描かれている.このためもあってナイチンゲールが赤十字社創設に関わったように誤解されることがあるが,この賞はナイチンゲール生誕100年を記念して1920年に制定されたものである.ナイチンゲールは,看護は正規の教育を受けた専門職として実践するべきと考え,篤志家の寄付とボランティアに依存する赤十字社の活動には必ずしも賛同していなかったが,イギリス赤十字社の設立に際してはこれに協力している.

アメリカの看護学

図9. リチャーズ (Linda Richards, 1841-1930).アメリカ初の有資格看護婦.後年日本にも看護指導に訪れた[PD]

ナイチンゲールが近代看護学の礎を築いた後,19世紀後半から20世紀前半にかけての看護学はイギリスを中心に発展,普及したが,20世紀の看護学は次第にアメリカ主導に移行した.1873年,アメリカではマサチューセッツ総合病院(ボストン)を初めとする3ヶ所に看護学校が新設され,ナイチンゲール方式による看護教育が開始された.さらにこの年には,後年に日本の看護教育にも尽力したリンダ・リチャーズ(Linda Richards, 1841-1930)がアメリカ初の有資格看護婦となり,後進の指導にあたった.1881年にはアメリカ赤十字社が創立され,看護事業を開始した.

第一次世界大戦後の1923年,ロックフェラー財団の援助によりエール大学公衆衛生学のウィンスロー(Charles Edward Winslow, 1877-1957)の指導の下,ゴールドマーク(Josephine Goldmark)が行なった看護,看護教育に関するゴールドマーク報告( Nursing and Nursing Education in the United States)は,前近代的な病院レベルの徒弟制度,病院への労働力提供に重点を置いた従来の教育方法をあらため,大学との密接な連携のもとに効率的,集中的な看護教育を行なうことなど10項目にわたる勧告を行ない,これを機にロックフェラー財団の多額の予算によって看護教育施設の審査制度が設けられ,教育の質の向上がはかられた.

第二次世界大戦後,1948年に社会人類学者のブラウン(Esther Lucile Brown)がまとめたブラウン報告(Nursing for the future)は,さらに専門職としての看護職を確立するため,看護教育を医学部における医師の教育と同列に大学の学部教育として行なうこと,看護教育カリキュラムの標準化などを提案した.これを機に1952年に全米看護連盟(National League for Nursing)が発足し,米国内のみならず国際的にも世界の看護医療をリードしている [1].

日本の看護学

図10.  日本発の看護学校,有志共立東京病院看護婦教育所の卒業生.中央は指導者のメアリー・リード [PD]

明治時代以前の日本には,看護専門職は存在しなかった.1868年の戊辰戦争に際して,横浜軍陣病院が設けられ,イギリスの医師ウィリス(William Willis)が傷病兵の治療に活躍したが,この時に「嫁したる婦人」を使用したという記述があり[大病院日誌一],専属の女性看護者が起用された最初期の記録のひとつである.初の正式な看護教育が行なわれたのは1885年,医師の高木兼寛*1が設立した有志共立東京病院看護婦教育所(現 慈恵看護専門学校)であった(図10).高木は1875年から5年間,ナイチンゲールが世界初の看護学校を設けたイギリスの聖トーマス病院医学校に学んでおり,その看護教育にも通じていた.実際の教育にあたったのは,ナイチンゲール方式の看護教育を受けたアメリカ人看護婦リード(Mary Reade)であった.修業期間は2年間で,1888年に5名が修了した.1886年には,同志社の創立者新島襄が京都看病婦人学校を開き,日本で2番目の看護学校となった.アメリカ初の有資格看護婦リチャーズ(Linda Reichards, 1841-1930)がやはりナイチンゲール方式の指導を行ない,1888年に4名が修了した.この他,1876年創立の櫻井女学校(後の女子学院)では,1886年に櫻井女学校看護婦養成所が設けられ,イギリスのヴェッチ(Agne Vetch)の指導のもと,1888年に6名が修了した.1889年には,東京帝国大学(後の東京大学)附属病院にも看病法講習科が設置された.

図11. 日本赤十字病院での看護実習 [2]

1887年創立の日本赤十字社病院*2は,看護婦養成に力を入れ,1890年に1期生が入学し,その後ここから多くの看護婦(日本赤十字社では救護員と称した)が誕生した(図11).赤十字社の看護教育は戦時救護を主な目的としたもので,国家的庇護のもとに行なわれ,日清戦争(1894),北清事変(1900),日露戦争(1904)における病院船や内地での戦時医療,あるいは濃尾地震(1891),関東大震災(1923)など平時の災害医療に活躍した.

*1 高木兼寛は,これに先立つ1881年に医学校「成医会講習所」 ,1882年に施療病院「有志共立東京病院」 を創立,それぞれ後の東京慈恵会医科大学,東京慈恵会病院となった.

*2 日本赤十字社は1886年,佐野常民により創立された.佐野は緒方洪庵の適塾で医学を学び,1867年にパリ万博で国際赤十字社の活動を知った.1877年,西南戦争で政府軍,薩摩軍双方に多くの戦傷者が発生するのを目にして,国際赤十字社に倣って「博愛社」を設立し,両軍分け隔てなく救護を行なった.さらに1886年に博愛社病院を設立,同年日本も国際赤十字条約(ジュネーブ条約)に加入し,翌1887年博愛社は日本赤十字社,博愛社病院は日本赤十字病院(現日本赤十字医療センター)と改称された.

その後も各地に看護教育施設が生まれ,このような初期の施設は,日本の看護医療の立ち上げに重要な役割を果たしたが,入学資格,修了条件に確たる定めもなく教育内容も様々で,その水準は決して高いものとは言えなかった.看護婦の多くは高等小学校程度の学歴で,全寮制の施設で厳しい徒弟制の教育を受け,しばしば授業料や食費が免除されたこともあって貧しい農漁村の出身者が少なくなかった.このため奉仕の精神に基づく「白衣の天使」像が生まれたが,これは専門職としての看護職を追求するナイチンゲールに端を発する欧米の看護職像とは異なるものであった.また看護婦の活躍の場は病院よりも派出看護婦として,全国に多数設けられた看護婦会から患家に派遣されて自宅看護に当たる者が多かった.

図12. 聖路加国際病院附属高等看護学校. 1920年より日本初の本格的な看護教育を開始した[3]

そのような中にあって,より高度な看護教育を志す施設も生まれた.1900年,聖公会のアメリカ人医師トイスラー(Rudolf B. Teusler)が東京に聖路加病院(現 聖路加国際病院)を創立し,1904年に女学校卒を入学資格とする看護婦学校を併設し,1920年に聖路加国際病院附属高等看護学校(図12)となって入学資格も高等女学校卒となり,初の本格的な看護婦養成学校となった(その後専門学校を経て,現聖路加看護大学).日本赤十字社も病院附属の救護員養成部における看護教育を経て,1946年に日本赤十字女子専門学校を設立,その後短期大学を経て1986年に日本赤十字看護大学となり,聖路加看護大学とともに日本の看護研究教育をリードする施設となっている.

看護婦の公的資格は,1900年に東京府看護婦規則が定められたのが初で,以後都道府県毎に同様の制度が広まったが,1915年に定められた全国レベルの「看護婦規則」 で18歳以上,看護婦試験合格あるいは所定の学校を卒業することが要件とされた.看護資格が国家資格となったのは,1948年「保健婦助産婦看護婦法」公布以後である[1].

関連事項

派出看護婦会

図13. 大關和.派出看護婦の啓蒙に尽力した[3].

図14. 大關和著「実地看護法」より.便器の使い方の解説図[4].

日本の看護史では,派出看護婦会が大きな役割を果たした.初期の看護学校の修了生の中には,患家の求めに応じて富裕な家庭に派遣される者も多かった.1891年,櫻井附属看護婦養成所1期生,帝国大学(現東京大学)附属病院の婦長であった鈴木まさは「慈善看護婦会」を創始し(その後,東京看護婦会),看護婦派出事業に乗り出した.その後各地に派出看護婦会が生まれ,特に日清戦争(1894年)以後中産階級の増加に伴い,看護婦派遣を求める患者が増加したこともあり,看護婦会は急増した.

看護婦会に所属する看護婦は,共同宿舎に寝泊まりし,要請に応じて患家,あるいは入院患者の病室に派遣され,看護にあたった.明治,大正時代の病院では,病棟看護婦はおらず,入院患者には家族が付き添ったり,あるいは患者が付き添い看護婦を雇うのが普通であった.夏目漱石の著作にも,このような付き添い看護婦がしばしば登場する.派出看護婦の報酬は他の女性の職業に比べれば高水準で*,貧しい農村の子女の自立には良い職場であった.しかし,小学校卒業程度の学歴の子女を看護婦会や開業医が丁稚奉公のような形で見習い看護婦として育てる方法には限界があり,看護の質は低かった.また中にはいかがわしい商売を行なう看護婦会も出現した.

*1926年(大正15年)の派出看護婦の給料は40円,一般事務員は25円前後,女中は12~17円であったという[現代婦人職業案内(主婦の友社, 1926)]

これを受けて櫻井女学校看護婦養成所で鈴木まさの同期生であった大關和(おおぜき ちか)(1858-1932) (図13)は,鈴木まさの後任として東京看護婦会会頭となり,啓蒙,教育活動に奔走し,基準作りに向けたその運動は,1900年,初の看護関連規則である東京府看護婦規則の制定につながった.また大關の著書「派出看護婦心得」(1899)(→関連文献),「実地看護法」(1908) は派出看護婦の必読書であった(図14).1909年には自ら大關看護婦会を設立した.

派出看護婦会の制度は大正期にとくに拡大し,1923年(大正12年)には東京府に約300の看護婦会があり,府内の看護婦約4,000人の8割が看護婦会の所属であったという.しかし,この頃をピークに次第に減少し,病院の増加,病院医療の質的向上とともに看護婦の主な職場は病院に移ってゆくことになった.派出看護婦会は第二次世界大戦後まで存続したが,1950年に厚生省が,患者が付き添いを手配する必要がない完全看護(後の基準看護)を導入するに至って,派出看護婦制度は終焉を迎えた[1,2].

  • 1. 遠藤恵美子. 大正期の派出看護についてー看護婦会を中心にして. 医学史研究 47:137-44,1976
  • 2. 松田誠. 慈恵病院派遣看護婦考. 慈恵医大誌 111:109-22,1996
  • 3. 大關和. 派出看護婦心得 (東京看護婦会,1899)
  • 4. 大關和 実地看護法 (東京看護婦会, 1908)

関連文献

《1919  派遣看護婦の必読書》
派出看護婦心得
大關 和. 大關派遣看護婦会, 1919

図15.  大關 和..派出看護婦心得の表紙.

櫻井女学校看護婦養成所1期生の大關和(おおぜき ちか)(1858-1932) は,東京派出看護婦会会頭として,派出看護制度の普及に尽力したが,同時に著作を通じて,看護の質的向上に大きく貢献した.本書はその代表的なもので当時の派出看護婦の必読書であった.1899(明治32)年の初版以来版を重ね,本書は1919(大正8)年刊の第6版である(図15).

冒頭で,看護婦は「仁慈,敬愛,温和,忍耐,謙遜,挙動静粛,品行方正,言語を慎み,医師に対しては,能く其命を守り,患者に対しては貴賤上下の別なく一様に信愛を以て其本分を尽くす」ことを求めている.これに続く各節では,患家に赴いた際の行動,手順を具体的に明示している.特に,食事,投薬などについて,時間厳守することが強調されている.

医師に対しては,「常に尊敬の意を表し,投薬治療上の事に至りては,決 して口を容るるべからず.唯命ぜらるる處を堅く守り,言語を慎み仮 にも不敬,不遜の挙動あるべからず」と絶対服従を求めている点は,時代を感じさせるところである.二人あるいは三人で看護する場合について,ローテーションの時間割が詳細に論じられている点は,現在の病棟看護に連なるもので興味深い.

付録には,消毒薬の調製法,病室や器具の消毒法,流動食の作り方などが詳述されている.

原文 清書版(抄)