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輸血の歴史

輸血前史

血液が生命の源であるととらえ,動物あるいはヒトの血液を飲むことによって,その活力を獲得し,あるいは治療につなげるという考えは古代からあった.古代ローマでは,剣闘士を闘わせて見物する興行が市民の娯楽として栄えたが,傷ついた剣闘士の血を飲むことが流行し,とくにてんかん発作の治療に有効とされた[1].同時代の医師ガレヌスは,狂犬病の治療法としてイヌの血液を飲むことを挙げている.当時の医学はヒポクラテス以来の四体液説に基づいており,四体液のひとつ血液は,健康や性格に重要な役割を果たすと考えられていた.この他にも世界各地の文明で,ヒトや動物の血液を飲んだり体に塗ったりする儀式や民間伝承は広く知られており,ヨーロッパの吸血鬼伝承もそのひとつである.1490年,病に伏したときのローマ教皇イノケント8世を救うべく,侍医が3人の若者から血液を抜き取って教皇に飲ませたものの,供血者3人,教皇ともに死亡し,侍医は処刑を恐れて姿をくらましたと伝えられる.

1628年,イギリスのハーヴェイが 血液循環の理論 を確立すると,血液内に薬物を注入して全身疾患を治療するという発想が必然的に生まれた.1656年イギリスのレン(Christopher Wren, 1632-1723)*は鳥の羽軸を注射針としてイヌにアルコールを注射し,イヌが酔っ払ったり死んだりしたことを記録している.1663年,物理学者のボイルもイヌにビールやワインを注射する実験を行なっている.

  • 1. Moog FM, Karenberg A. Between horror and hope: Gradiator's blood as a cure for epileptics in ancient medicine. J Hist Neurosci 12:137-43,2003

動物からヒトへ

図1. ロワーがイヌの輸血に使用した銀製の連結管[PD]

図2. 動物からヒトへの輸血.てんかんの治療を目的として仔羊とヒトの血管を連結して輸血している.1684年頃(Matthäus Purmann) [PD]

1665年,初めて血液を動物の血管に注入したのは,レンの友人でもあったイギリスの医師ロワー(Richard Lower, 1631-91)で,1頭のイヌが動かなくなるまで頸静脈から脱血した後,別のイヌの頸動脈と最初のイヌの静脈を鳥の羽軸でつないで血液を注入した(図1).供血犬が死亡した後両者を切り離したが,受血犬はまもなく回復した.

フランスでも同様の実験が行なわれていたが,1667年6月15日に,初のヒトへの輸血を行なったとされるのは,フランスの医師でルイ14世の侍医でもった医師ドニ(Jean-Baptiste-Denis,1640?-1704)とされる.患者は全身倦怠と発熱のある15歳の少年で,ドニはまず少年から3~5オンスの血液を瀉血し,仔羊の頸動脈と少年の肘静脈をチューブでつなぎ,瀉血量の約3倍の血液を輸血した.その夜,少年は完全に回復し,史上初の人間への輸血は大成功に終わった.ヒトからではなく動物からヒトへの輸血(図2)が考えられた背景には,病気の原因を体液,血液の汚濁に求め,穢れのない動物の血液によって人間の体内を浄化できる,狂暴な人間に仔羊の血液を輸血することにより仔羊のようなおとなしい性格にできる,といった考え方があった.この時期の輸血には現在のような失血を補うという発想はなく,血液を浄化することが目的とされたことは興味深い.

ドニの輸血2例目は,粗暴な性格の45歳男性で,ヒツジの血液で性格を改善できるか実験するためにドニが金を払って輸血した.合併症はなかったが,被検者の性格は変わらず,輸血が終わった途端,彼は羊を殺して毛皮を持ち去ったという.3例目は,パリ訪問中に重病に陥ったスウェーデンの貴族ボンド男爵であった.ドニ評判を伝え聞いた家族の望みに応じて,ヒツジから輸血したが死亡した.輸血による世界初の死亡例であるが,黒い尿が出たという記録があり,異型輸血による溶血,腎不全と思われる.

1667年12月,ドニは4人目の患者を治療することになる.患者はモロワ(Antoine Mauroy)という発作的に暴力をふるう33歳の男性であった.おそらく梅毒の神経症状だったといわれている.ドニは彼の妻の依頼により羊からの輸血を2回行なった.2回目の輸血では,大量の発汗につづいて腎部の疼痛,黒色尿があった.精神症状は回復したようにみえたが,数日後に再発し,妻は3回目の輸血を求めた.しかしこの時ドニは,以前から妻が夫に毒物を服用させているという噂を聞きつけ,輸血の依頼はその隠れ蓑であると疑った.結局,3回目の輸血を行なうことに同意したものの,患者が暴れて輸血はできず,患者は翌日死亡した.ドニは剖検を求めたが,妻はこれを拒否してすぐに埋葬してしまった.当時の医学界には輸血に反対する医師が多く,この事件をきっかけにドニを追及する声がパリの医学会にひろがり,ドニを快く思わない医師たちが未亡人をそそのかしてドニは殺人罪で訴えられた.裁判の結果,実際に未亡人が砒素を夫の食べ物に混ぜていたことがわかり,ドニは無罪となった.

しかしこの事件を契機に,輸血は禁じられ,さらに1678年にフランスで違法とされ,イギリスもこれにならい,1679年にはローマ教皇庁もこれを禁ずるにいたって輸血の試みは途絶えた[1,2].

  • 1. Learoyd P. The history of blood transfusion prior to the 20th century - Part 1. Transfusion Med 22:308-14,2012
  • 2. Learoyd P. The history of blood transfusion prior to the 20th century - Part 2. Transfusion Med 22:372-6,2012

ヒトからヒトへ

図3. ブランデルが考案した輸血器具  "Gravitator ,  供血者の動脈から噴出する血液を漏斗状の容器で受け,重力で患者の静脈に輸血する.

 

図4.供血者と患者の血管を直接カニューラで連結する最も原始的なな直接輸血 [5].

図5.アンガー(Lester Unger)が考案した二連式ストップコックによる輸血器具.左側の供血用回路と右側の受血者用回路を2つのコックで交互に切替えて輸血する.一方を使用中に他方が凝血しないようそれぞれの回路に生理的食塩水を灌流する[6].

医学史の舞台に再び輸血が登場するのは約150年後のことであった.イギリスの産科医ブランデル(James Blundell)は,分娩後の弛緩出血による死亡を輸血により救えないかと考え,イヌからイヌに輸血する実験を繰り返していた.初の臨床例は,1818年12月22日,胃癌の患者に,数人の供血者から採血した静脈血を5分間隔で患者の静脈に注入した.世界初のヒトからヒトへの輸血であったが,患者の状態は一時改善したものの2日後に死亡した.ブランデルはその後1829年までの10年間に,産後弛緩出血10例に輸血を行なった.供血者はブランデルの十数人の助手から選ばれ,初成功例は血液8オンスを3時間で輸血した重症産後出血の女性であったが,これを含めて成功例は5例のみであった[1].

ブランデルの後にも,動物からヒトへの輸血はなお少なからず試みられた.しかし1875年にドイツの生理学者ランドイス(Leonard Landois, 1837-1902)が異種間輸血が溶血反応を引き起こすことを報告し[2],動物からの輸血には終止符が打たれた.血液のかわりに動物の乳を血管内に注入する試みもあった.とくに1870年代のアメリカで,ヤギやウシの乳が利用されたが,副作用のため放棄された[6].この時期の輸血の成功例は概ね50%で,半数は死亡ないし重篤な合併症をきたした.

抗凝固剤がなかったこの時期,輸血は供血者の血液をベッドサイドでただちに受血者の血管内に注入する直接輸血が必須であった.一般的な方法としては,供血者の動脈から噴出する血液を容器で受けて,これをカニューラなどを介して患者の静脈に輸血する(図3),あるいは供血者の動脈と患者の静脈をカニューラなどで連結する方法( 図4,図5)があった.このために様々な器具が開発された.1908年,血管外科の父としてしられる カレル(Alexis Carrel, 1873-1944)は供血者と受血者の血管を直接吻合して輸血に成功したが*,これは一般的な手技とはなりえなかった.

*カレルの同僚の外科医ランバート(Aderian van Sinderin Lambert)の生後5日目の娘メアリーが,新生児出血で危篤状態となり,カレルはランバートの求めに応じてランバートの自宅キッチンテーブルの上で,ランバートの左橈骨動脈とメアリーの下肢静脈を端々吻合した.蒼白だったメアリーは見る見るうちに血色を取り戻し,輸血は大成功であった[3].

血液型の知識がなかったこの時期輸血の成功率は約50%であったが,これは血液型を全く無視した場合の不適合輸血の発生確率(約0.46)にほぼ相当する[4].その意味で輸血の成否は,運を天に任せるほかなかった.また消毒法が確立されていなかった当時,穿刺部の感染や敗血症も少なくなかった.現在のような安全な輸血の確立には,血液型の発見,抗血液凝固薬の登場を待つ必要があった.

  • 1. Blundell J. Observations on transfusion of blood. Lancet 2:3214,1828)
  • 2. Landois L. Die Transfusion des Blutes. (F.C.W Vogel, 1875)
  • 3. Carrel A. La technique opératoire des anastomoses vasculaires et la transplantation des viscres. Lyon Méd 98:859-64,1902
  • 4. Greenwalt TJ. A short history of transfusion medicine. Transfusion 37:550-,1997
  • 5. McLoughlin G. The British contribution to blood transfusion in the nineteenth century. Brit J Anaesth 31:503-16,1953
  • 6. Unger L. A new method of syringe transfusion. J Am Med Assoc 64:582-4,1915
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血液型

図6. ラントシュタイナー(Karl Landsteiner, 1868-1943).血液型を発見した.

1901年,ラントシュタイナー (Karl Landsteiner, 1868-1943)(図6)は,ランドイスが発見した異種間輸血におる溶血反応が同種間でも起こりうることを発見した.具体的には,自分をふくめ研究室のメンバー22人の血液から,血球と血清を分離し,さまざまな組合わせの反応を調べることにより,3種類の血液型A, B, C (後のO型)が存在することを発見した(→原著論文).彼の弟子DecastelloとStürliは,さらに155例でこれを確認すると同時に,AB型を発見した.しかし,ラントシュタイナーの論文は,ウィーンの雑誌にドイツ語で掲載されたため,必ずしも広く周知するには至らなかった.1907年,ポーランドのジャンスキー(Jan Jansky)は,ラントシュタイナーとは独立に4つの血液型Ⅰ, Ⅱ,Ⅲ,Ⅳを発見した.1910年にはアメリカのモス(William Lorenzo Moss)がやはり別個に血液型を発見し,やはりⅠ~Ⅳに分類した.ジャンスキーのⅠ~ⅣはC, A, B, ABに対応し,モスはAB, A, B, Cに対応していたため混乱を招いた[1].現在のABO式に統一されたのは,1928年であった.

1907年,輸血前の交差適合試験(クロスマッチ)の必要性を最初に唱えたのは,アメリカの医師オッテンバーグ(Reuben Ottenberg)であった.同年,アメリカの病理学者ヘクトエン(Ludwig Hektoen)は「供血者の血球が受血者の血清で凝固せず,供血者の血清が受血者の血球を凝固しないこと,すなわち両者が同じ血液型であれば危険を避けることができる」とした.このため,この血液型が一致していれば交差試験は不要とする考えは根強く,必ずしも広く行なわれなかった.不適合の問題がないO型の輸血のみを推奨する意見もあった.1937年の時点でも,血液型が一致していれば例外的な事例を除いて交差試験は不要とする意見が出されたが,逆に1939年には血液型を知る必要はなく,交差試験こそが重要であるという見解も見られる[2].

1939年,ラントシュタイナーの弟子のひとりレヴィン(Philip Levine, 1900-87)は,同じO型の夫の血液を輸血された妻に溶血反応をみた症例を報告し,この女性の血清がABO型適合血液を凝集させることを発見した[3].さらにラントシュタイナーらが行なったアカゲザル(rhesus monkey)を使った動物実験の結果をもとに,Rh型が発見され,交差適合試験の必要性があらためて認識されるようになった.現在ではRh抗体以外にも多くの不規則抗体が知られており,その検出には交差試験が必須である.

原著論文

《1901 血液型の発見》
正常ヒト血液の凝集現象について
Ueber Agglutinationserscheinungen normalen menschlichen Blutes
Landsteiner K. Wien Klin Wochenschr 14:1132-34,1901

【要旨・解説】血液型の存在を初めて報告した,血液学,輸血学の歴史上画期的な論文である.異なるヒトの血清と血球を混ぜると血球の凝集反応がおこる場合があることに気づき,その原因を論じている.同様の現象は既に報告されていたが,異種動物間の報告であったり,ヒトでも病的な状態でのみ認められるとされていた.しかし健常人の血球と血清の凝集反応に,明らかな固体差があることを見いだした.これをまず,6人の被検者の血球,血清の組み合わせで提示している.被検者については特に説明がないが,「Dr.」と記されておりラントシュタイナー自身の名前も見えることから,同僚研究者から採血したものと思われる.さらに産褥婦6例と,その胎盤血でも同様の実験を行っている.いずれの実験でも,凝集反応の陽性/陰性には3種類のパターンがあることが示され,これをA群,B群,C群とした.そして,少なくとも2種類の凝集素が存在し,A群,B群にそれぞれ1つ,C群にその両者が存在するとしている.これは現在でいう,A型,B型,O型に相当する(ちなみに,ラントシュタイナーの血球と他の被検者の血清の凝集反応はすべて陰性で,O型であったらしい).

このあと,凝集素の由来について論じ,生理的な溶血に伴う赤血球成分に対する自己免疫に由来するという従来の説に疑問を呈しているが,結論には至っていない.最後に,この凝集反応が経時的に変化しないのであれば,法医学的な血液の同定に利用できる可能性があるとしている.輸血との関係については,最後のわずか3行で,「輸血結果の変動を説明できる」と述べるにとどまってる.しかし,輸血結果の変動とはもちろん輸血の成功/不成功を意味するものであり,それまでの運を天に任せる輸血が安全確実な輸血に進化させたのがこの論文であった.

原文 和訳

抗凝固剤

図7. 抗凝固剤クエン酸ナトリウムを利用したロバートソン式採血容器.底部にクエン酸ナトリウム160mLを入れておき(黒い部分),左側のカニューラで供血者から採血し,右側のカニューラで患者に輸血する.容器の容量は900~1000mL [5].

供血者の血液をいったん容器に保存しててから輸血する間接輸血はもちろん,直接輸血でも,供血者から採血した血液がただちに凝固することは大きな障害となる.1835年,ドイツのビショフ (Ludwig Wilhelm Bishoff)は,ガラスビーズで血液を攪拌して凝固させ,凝血塊を物理的に除去して血清部分のみをとりだす線維素除去法(defibrination)を発明したが,煩雑かつ不確実であった[1].1868年,ヒックス(John Braxon Hicks)は,リン酸ナトリウムが抗凝固剤として有効であることを示したが,毒性のため臨床には不適であった.

この他にも様々な塩類が試みられたが,現在抗凝固剤として使われるクエン酸ナトリウムを初めて本格的に導入したのはアメリカのレヴィゾーン(Richard Lewisohn) である[2].これも通常の濃度では毒性があるが,レヴィンソンは1915年にこれを0.2%まで稀釈しても有効で,大量輸血に使用しても毒性がないことを発見した(図7).さらに1916年,ラウス(Rous),ターナー(Turner)は赤血球の解糖代謝エネルギー源としてブドウ糖を添加することにより,4週間以上の保存が可能であることを発見した[3].血液型,抗凝固剤の発見は,ちょうど第一次世界大戦(1914~18)の直前で,輸血は多くの兵士の命を救った[4].クエン酸ナトリウムはカルシウムをキレートすることにより,抗凝固作用を発揮する.腎から速やかに排泄され,耐熱性に優れ,安価であることから現在に至るまで抗凝固薬の主成分であり,ACD(acid-citrate-dextrose)溶液,CPD(citrate-phosphate-dextrose)溶液として使われている.

  • 1. Bischoff TLW. Beitrage zur Lehre von dem Blute und der Transfusion desselben. Arch Anat Physiol 347-77,1835
  • 2. Lewisohn R. A new and greatly simplified method of blood transfusion. Med Rec NY 87:141-2,1915.
  • 3. Rous P, Turner JR. The preservation of living red blood cells in vitro. J Exp Med 21:219-38, 239-48,1916
  • 4. Boulton F, Roberts J. Blood transfusion at the time of the First World War – practice and promise at the birth of transfusion medicine. Transfusion Med 24:325-34,2014
  • 5. Robertson OH. A method of citrated blood transfusion. Brit Med J 1:477-9,1918
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血液銀行

図8. 第二次世界大戦中の英国で,献血を呼びかけるポスター [1]

輸血用の血液を必要時に短時間で用意することには多くの困難が伴う.近親者や知人を集めて採血し,その場で輸血するいわゆる枕元輸血は供血量に限界があり,感染症のチェックもできないという難点がある.供血管理システムを初めて考案したのは,英国赤十字社のオリヴァー(Percy Oliver)であった[1].1921年,オリヴァーは事前に血液型のわかっている多数の供血者を事前に登録しておき,病院からの要請に応じて供血者を呼び出して採血するシステム,英国赤十字社輸血サービス(British Red Cross Blood Transfusion Service)を創設した.登録供血者は当初は20人ほどであったが,1938年には2700人にまで増加した.しかし,電話も普及していない当時,供血者の召集にはしばしば警察が動員された.供血者は基本的にボランティアで,無報酬で供血した.このようなシステムは,その後各国にも広まったが,本質的に枕元輸血と変わるところはなかった.

1937年,シカゴのクック郡病院(Cook County Hospital)の医師ファンタス(Bernard Fantus, 1874-1940)は,血液をガラス瓶に入れて院内に保存して,必要に応じてこれを使用するシステムを創設した.当時,シカゴの供血源は有償の売血で,価格が高騰し供血量の不足が問題となっていた.ファンタスはこれを「血液銀行」(blood bank)と呼び,この名称はその後広く受入れられた.1939年,第二次世界大戦が勃発し,1940年9月からドイツ軍によるロンドン大空襲が激化すると,民間人にも負傷者が急増して血液が不足し,血液銀行を求める世論が高まった(図8).これを受けて英国各地に血液銀行が設けられ,民間人からの献血を募って製造された保存血が戦地にも空輸された.これに刺激されて米国内でも多くの保存血製造サービスが組織され,戦地に運ばれた保存血により100万回もの輸血が行なわれたという[1].

血液銀行の供血源は,その後売血からボランティアによる献血へと変化し,現在の輸血医療を根幹から支えるシステムとなっている.

  • 1. Giangranide PLF. The history of blood transfusion. Brit J Haematol 110:758-67,2000

関連事項

死体輸血

図9. 死体を頭低位にして採血する[2]

健常者が事故,心筋梗塞などで突然死すると,死後も血液が凝固しないことが知られている.死後20~30分は液体の状態を維持し,その後いったん凝固するが,30~90分後に再び液化する.これは組織から放出されるproactivatorによる線溶系の亢進によるものと考えられる.死体輸血(cadaveric transfusion)はこれを利用する方法で,1928年にソビエト連邦のシャーモフ(Vladimir Nikolaevich Shamov)がイヌの実験でこの方法を確立し,1930年にユーディン( Sergei Sergeievich Yudin)はこれをはじめて臨床応用し,1936年に発表した[1].

採血にあたっては,死体の頸静脈にカニューレを挿入し,頭低位にすることにより重力によりガラスフラスコにこれを収集する方法で,3L以上を採血できた (図9).血液凝固剤は不要で,採血した血液は冷蔵庫にいれて1ヵ月保存できた.1959年の報告では,25年間で27,000件以上の輸血を行なったとされ,1960年代までこの方法が行なわれていたという.日本でもこれを試みて成功した症例報告があるが[3],倫理的な問題もあり欧米に普及することはなかった.

1937年にアメリカで初めて血液銀行を創始したファンタスは,ユーディンらの報告からこの方法を知り,当初はこれを導入することを計画してシカゴ市に死体を利用する許可を得た.しかし,死体安置所の劣悪な環境を目にして倫理的な疑問をいだき,血液銀行のシステムをつくった.

  • 1. Yudin SS. Transfusion of cadaver blood. J Amer Med Assoc 106:997-9,1936
  • 2. Tarasov MM. Cadaveric blood tranfusion. Ann NY Acad Sci 87:512-21,1960
  • 3. 檀上泰, 宮川清彦,石塚玲器他. 死体血輸血. 血液と脈管 3:401-9,1972

日本の輸血医療

日本が明治維新に導入した西洋医学は,輸血の知識を欠いていた.初めて日本に輸血を紹介した東京大学外科の塩田広重は,1914年から2年間,日本赤十字から第一次世界大戦中のフランスに派遣されてパリで軍医として活動し,現地で輸血の実際に触れて器材や血液型判定用試薬を持って帰国した.帰国後の1919年,子宮筋腫による高度貧血の29歳女性の術前に,姪から採血した血液200mLを輸血し,手術に成功したと報告しており,これが日本の輸血第1例である.同年,九州大学外科の後藤七郎も,膿胸の症例への輸血を行なっている[1].

その後,各地で輸血が試みられたが,まだ一般的なものではなかった.しかし1930年,ときの総理大臣濱口雄幸が東京駅で暴漢に腹部を銃で撃たれたいわゆる濱口雄幸遭難事件で,塩田広重が東京大学からかけつけ,駅長室首相の次男から輸血して出血性ショックの救命治療に成功したことが広く報道され,輸血の効果が広く知られるようになった*1

図10. 1952年,日本初の血液銀行が設立された.

第二次世界大戦では,前述のように欧米では保存血を利用した輸血が国内,戦地を問わず大規模に行なわれたが,日本ではほとんど行なわれなかった.戦後は売血による輸血が再開されたが,売血で生計を立てているような供血者も多く,安全性はまったく確保されていなかった.1948年,東京大学分院で子宮筋腫による貧血に対して術前に4回の輸血を受けた女性が梅毒に感染するという東大輸血梅毒事件が発生し*2,血液銀行の必要性が叫ばれた.1952年,日本初の血液銀行である日本赤十字社東京血液銀行が日赤中央病院内に設けられ,その後各地に民間の血液銀行が数多く開設された(図10).これにより保存血を必要に応じて病院に配送することが可能となった[2].

しかしこの時点ではまだ供血源は売血であった.既にこの5年前1948年に,国際赤十字会議では売血を廃して献血に移行すること,血液銀行の運営は赤十字社が一括することが決議されていたが,日本ではいずれも実現していなかった.しかし1964年,駐日米国大使ライシャワー氏(Edwin Reishauer)が暴漢に刃物で刺されるというライシャワー事件が発生した.大腿部の刺傷から大出血をきたし,虎の門病院で輸血,手術を受け手術は成功し一命を取り留めたもの,輸血後肝炎を発症した(その後肝硬変,肝癌を発症し,27年後に79歳で死亡).これを契機として売血は禁止され,献血に一本化されることになった.

輸血後肝炎の原因は事実上すべて肝炎ウイルスであるが,特にB型肝炎の有病率が高い日本ではこれが大きな問題であった.輸血後肝炎の発症率は1964年以前は50%に達していたが*3,売血から献血に切り替わり,1960年代後半には20%まで低下した.1972年にIES法(電気泳動法)によるB型肝炎ウイルスのスクリーニングが開始され,1981年にはRPHA法が導入されるにいたって発症率は10%となった.1989年,非A非B肝炎の原因としてC型肝炎ウイルスが同定され,抗体測定法が開発されてスクリーニングが行なわれるようになり,ようやく輸血後肝炎はほぼ消失した[3].

*1 輸血により急性期を乗り切った濱口首相は,その後東京大学病院で腸管部分切除術を行ない,一時は政界にも復帰したが,翌年放線菌症による腹膜炎のため死去した.

*2 患者は,医師による供血者の問診が不充分であったとして国(東大病院)を訴えた.国は供血者が梅毒検査陰性の証明書を持っており,「からだは大丈夫か」と問診したことをもって義務を果たしたと主張したが,これは医療者として不充分であるとされ,一審,二審ともに原告が勝訴,国は上告したが,最高裁はこれを棄却した.この事件は輸血医療の重大な転機となったのみならず,最高裁が医師の過失を判断した初の判決として,医療訴訟の原点される.

*3 1954年3月1日,静岡県焼津のマグロ漁船,第五福竜丸が,マーシャル群島ビキニ環礁近海で操業中,アメリカの水爆実験に遭遇,乗組員23名が被曝した (第五福竜丸事件).2週間後に帰国した乗組員は東京大学病院,国立東京第一病院に収容されて治療を受けたが,急性放射線障害の症状に加えて,早期より肝機能障害が多発し,約半年後の9月23日に肝不全で1名が死亡,2004年の時点で6名に肝癌,2名に肝硬変が診断された.放射線被曝による肝障害は考えにくく,肝機能障害の主因は,急性期の骨髄抑制に対して行われた輸血と血液製剤輸液に伴うウイルス性肝炎と考えられている.

  • 1. 遠山博. 輸血法の発展. 血液抗凝固剤の開発.本邦に於ける輸血第一例. 血液フロンティア 10:215-7,2000
  • 2. 遠山博. 第二次世界大戦後の我が国の輸血の発展.売血保存血供給の弊害,献血による血液事業への転換. 血液フロンティア 10:934-6,2000
  • 3. 輸血後肝炎. 霜山龍志, 関口定美. 日本輸血学会雑誌 43:335-42,1997