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眼科学の歴史 

眼科解剖学・生理学の進歩

図1. 外送説. 眼から放出される光のようなエネルギーが放射状の線で描かれている.中世を通じて外送説は内送説より優勢であった.[Johann Zahn. Oculus Artificialis Teledioptricus Sive TelescopiumSystem. 1685]

図2. ヴェサリウスの解剖学書「ファブリカ」(1543)に描かれた眼球の構造.水晶体が中心部に位置している [PD]

図3. ケプラーが紹介したプラテルの眼球解剖(1604).水晶体がはじめて前眼部に描かれている[Kepler J. Astronomiae pars optica, 1604]

図4. シャイナーの解剖学書(1619).硝子体の位置をふくめほぼ正確な眼球解剖が描かれている [Scheiner C. Oculus hoc est, 1619]

図5. (左)コウモリの網膜.桿体細胞のみで錐体を欠く.(右)ハトの網膜.桿体と錐体が存在する [Schulze M. Zur Anatomie und Physiologie der Retina ,1866]

現在の知識からすると奇妙なことであるが,古代ギリシアでは,眼球は自ら粒子あるいは光のようなエネルギーを放出しており,これが外界に反射してそれを視覚となるという外送説(emission theory,眼球発光説)が優勢であった(図1).これはプラトンが唱え,ピタゴラス,ユークリッドらもこれを支持し,アレクサンドリアの科学者プトレマイオスを経て,ローマのガレノスに受け継がれた.その中にあってアリストテレスはこれに反論し,外界から発せられる光あるいは粒子(原子)が,エーテルを介して眼球に伝えられ視覚となるとする内送説(intromission theory,外界発光説)を唱え,デモクリトス,エピキュロスも原子論的な立場からこれを支持した.

ローマの ガレノス(Galenos,129?〜200?)は,動物を解剖して眼球の構造に4つの膜(角膜,ブドウ膜,網膜,結膜),3つの液体(硝子液,結晶液(水晶体),水様液)を区別しているが,眼球発光説を支持し,脳室内のプネウマ(霊気)が中空の視神経を経て,眼球の中心に位置する水晶体を満たし,その周囲を霊気化して眼球内から発光し,これが再び水晶体で受容され,変質したプネウマが脳に伝えられて視覚を認識すると考えた*1眼球の中心部に位置する水晶体が視覚の主器官であるという考え方は,その後中世を通じて長く信奉された*2.近代解剖学の父とされるイタリアの ヴェサリウス(Andreas Vesalius 1514-64)は,1543年に著したその解剖学書「ファブリカ」で,ガレノス解剖学の数多くの誤りを訂正し,視神経が中空でないことを指摘したが,こと眼球に関しては旧来通り水晶が中心にあって視覚を司るという従来の考えを継承している(図2).

水晶体の位置を正確に記載し,水晶体は光を屈折するレンズに過ぎず,視覚の主器官は網膜と視神経であると初めて考えたのは,スイスの解剖学者プラテル(Felix Platter)で,1583年に著したその解剖学書(De corpus humani structura et usu)で入射した光線が水晶体を経て網膜と視神経に達し,水晶体は単なるレンズで視覚の主座は網膜であることを指摘した.さらに,天体運動の研究で知られるケプラー(Johannes Kepler, 1571-1630)は,屈折光学の研究から視覚についても業績を残し,その著書「天文光学」(Astronomiae pars optica, 1604)にその知見を記載した(図3).またケプラーは,当時イタリアの博物学者ポルタ(Giambattista della Porta, 1538-1615)が研究,普及させたカメラ・オブスクラ(ピンホールカメラ)と眼球の構造的な類似性を指摘し,内送説を否定した.また,網膜に結ぶ外界の像が倒立像であることを光学的に示,実際に知覚される像は正立像であること,眼球は2つあるが知覚される像は1つであることから,網膜に連続する視神経から脳への経路は光学的に説明できないと正しく記載している.さらに1619年,ドイツのイエズス会の司祭で,天文学者でもあったシャイナー(Christoph Scheiner, 1575-1650)*3は,ウシの眼球の後壁を部分的に切除して紙をはり,実際に外界の像が倒像を結ぶことを実証した.またシャイナーは,薬品によって摘出眼球を固定する方法を考案し,眼球の構造がより正確に分かるようになった.その著書「眼球」(Oculus hoc est, 1619)にはほぼ現在に近い正確な解剖図が掲載されている(図4).こうして,ガレノス以来信じられ,ヴェサリウスも訂正できなかった,眼球の中心部にある水晶体が光の受容器であるという考えは終焉した[1-3].

こうして,17世紀になってようやく光学的に網膜面に像が投影されることが明らかとなったが,網膜の詳しい構造については顕微鏡の登場を待つ必要があった.1854年,ミュラー細胞(網膜特有のグリア細胞),ミュラー筋(眼瞼挙筋と瞼板を連結する筋)にも名前が残るドイツの解剖学者ミュラー(Heinrich Müller, 1820-64)は,桿体細胞,錐体細胞が受容器と考え,1866年,ドイツの解剖学者シュルツェ(Max Schultze, 1825-74)は,コウモリなど夜行性動物の網膜が錐体を欠くことから,視細胞の二重説(duplex theory)を提唱し,これは現在にいたる光覚理論の基本となった(図5)[4].

*1 古代ローマ衰退後,ギリシア,ローマの医学はアラビア世界に継承,保存されたが,アッバース朝イスラーム時代に活躍した科学者,医学者のアルハーゼン(Alhazen,イスラーム名 イブン・アル=ハイサム Ibn al-Haitham, 965-1040)は,レンズや鏡による反射,屈折などを研究して光学理論を大きく進歩させ「光学の書」を著した.視覚光学についても眼球発光説を否定し,プラッターより400年も前に水晶体の位置を正しく把握し,光の受容器が水晶体ではなく網膜であることを示した.

*2 多くの文献で,水晶体が眼球の中心に位置することを初めて記載したのは,ローマのケルススの「医学について」 (De Medicina)であるとされているが,最近の研究では,ケルススは水晶体の位置について明言しておらず,しばしば例示されるケルススの手になるとされる水晶体が中心に位置する眼球の図も20世紀の医学史家による誤った解釈であるという.またガレノスも眼球前部にあると考えており,これが中心にあると初めて記載したのは9世紀のアラビアの医学書であるという.しかしいずれにせよ,中世ヨーロッパでは16世紀にプラッターが正しい位置を示すまでこの説が信奉された [5].

*3 シャイナーは,太陽観察用望遠鏡ヘリスコープの発明,太陽黒点の発見(衛星と考えていた),太陽の赤道傾斜角の測定,製図用パンタグラフ(拡大縮尺に使う)などでも知られる.眼球解剖に関する業績は,このような光学,幾何学の知識を背景とするものであった.

  • 1. 大庭紀雄編,渡邊郁緒他. 眼科学の歴史-眼の構造と機能・研究史. (眼科診療プラクティス93 (文光堂, 2003)
    2. 神谷貞義. 視覚生理学の発祥. 臨床眼科 8:1043-52.1954
    3. Wheeler JR. History of ophthalmology through the ages. Br J Ophthalmol. 30:264-75,1946
  • 4. Historical review. Act Ophthalmol 13:13-28,1935
    5. Leffler CT, Hadi TM, Updupa A, et al. A medieval fallacy: the crystalline lens in the center of the eye. Clin Ophthalmol 10:649-62,2016
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眼光学の進歩

眼球の基本的な機能である屈折調節(accommodation)メカニズムについては,ケプラーやデカルトは眼球径の変化にこれを求め,この他にも角膜,瞳孔の変化,あるいは水晶体の前後移動などで説明する説もあったが,1793年,これが水晶体の厚さの変化によることを初めて示したのはイギリスの物理学者ヤング (Thomas Young)である[1].しかし,ヤングはこれを水晶体内部に筋肉のような線維があると考えていた.その後1850年代になってヘルムホルツ(von Helmholtz, 1821-94)が,毛様体筋とZinn氏帯の作用によることを明らかにした.当時,屈折異常(ametropia)は近視(myopia)と老視(presbyopia)に分類され,老視と遠視(hypermetropia)は区別されていなかった.1864年にオランダの眼科医ドンデルス(Frans Cornelis Donders, 1818-89)がその著書で老視と調節異常の関係を明らかにして,老視と遠視を区別した[2]*1

図6. 最初期の検眼器オプトメーター.[Australian College of Optometry]

図7. Bush-Thorner式オプトメーター.他覚的検査が可能となった [同上]

図8. 初の完全自動検眼装置 Auto-Refractor 6600 (1973年).まだ大型であるが,現在のオートレフラクトメーターの原型となった  [同上]

眼球の屈折率の測定,いわゆる検眼(optometry)は眼光学の基本である.イギリスの眼科医ポータフィールド(William Porterfield, 1696-1771)が1759年にその著書でオプトメーター(optometer,検眼器)という言葉を初めて使用した.これは棒状の架台にレンズと視標を一直線に配置し,被検者が視標を最も鮮明に見える位置にレンズを動かしてその距離を測るというきわめて単純なもので(図6),その後様々改良が加えられたが,基本的に被検者の主観に依存する自覚的検査法である[3].

眼球屈折率の他覚的検査法として最古のものは,1859年にイギリスの眼科医ボウマン(William Bowman)が考案した 検影法(retinoscopy, skiascopy)である*2.この約10年前にヘルムホルツが検眼鏡を発明していたが,ボウマンは検眼鏡で円錐角膜の検査をする中で,検眼鏡の動きと屈折率の関係を発見したとされる.これはその後フランスのクイグネット(Ferdinand Cuignet, 1823-90)により臨床検査法として広く普及した.その後他覚的検査ができるオプトメーターが登場したが,初期の装置は,網膜に投影される像が最も鮮明になる位置(結像式),あるいは2つの像が一致する位置(合致式)を検者が判断して数値を読む方法であった.代表的なものに,1920年代にドイツのトルナー(Walter Thorner)が考案し,エミール・ブッシュ社から発売された結像式のBusch-Thorner式オプトメーター(図7),1953年にツァイス社のハーティンガー(Hans Hartinger)が開発したHartinger式オプトメーター(Hartinger coincidence optometer)がある.

現在のような,検者が介入することなく完全自動で計測可能なオートレフラクトメーター (autorefractometer)は,1937年にコリンズ(Geoffrey Collins)が発表して注目を浴びた electronic refractionometerを嚆矢とするが,第二次世界大戦のため開発は中止され,その後長らく実用的な製品は登場しなかった.1972年に,カナダのボシュロム(Bausch-Lomb)社が検影法の原理を用いて1秒間に720回走査することにより計測する装置を開発し,翌1973年にアメリカのAcuity-Systems社がシャイナーの原理*3を利用する完全自動のAuto-Refractor 6600(図8)を発売して以後,数多くの自動計測装置が開発されて現在に至っている[3,4].

*1 ドンデルスは,1840年にユトレヒト軍医学校を卒業,軍医として勤務後,1842年から母校で解剖学,生理学を講義した.生活費の足しとするためにリューテ(Reute)の眼科学書を翻訳したことから,1847年から眼科学を講義するようになった.リューテは,屈折調節のメカニズムを水晶体の前後移動に求めていたが,ドンデルスはこれに疑問をいだき,1849年にドイツの解剖学者ランゲンベック(Maximillian Langenbeck) が唱えた水晶体前面の曲率の変化を,実際に顕微鏡で水晶体を観察して確認した.ヘルムホルツも独立に同じ結論に達して1856年の著書で述べている.

*2 検影法.検者が,片手に持った光源で眼球内に線状あるいは円形の光線を入射し,反対の手にもったレンズを通して眼底に投射される光を観察する.光源を平行運動させると,眼底に投射される光が同方向に移動(同行)する場合と,反対方向に移動(逆行)する場合がある.レンズの度数を少しずつ変えて適当に選ぶと,同行も反行もしない状態(中和)となる.この時のレンズの度数と投光距離から眼球の屈折率を求めることができる.光源の運動方向を変えることにより乱視の角度を知ることもできる.オートレフラクトメーターが普及した現在,かなりの熟練を要することから活用の場はほとんどなくなったが,小児の検査に用いられることがある.

*3 シャイナーの原理(Scheiner disc principle).ピンホールを2つあけた円板(Scheiner disc)を眼前に置き,点視標を見るとき,被検眼による屈折と点視標までの距離が適当であれば網膜には1点が結像するが,近視,遠視により一致しない場合は2点が結像する.現在もオートレフラクトメーターの多くがこの原理を利用している.

  • 1. 1. Young T, Brocklesby R. Observations on vision. Phil Tran Roy Soc Lond 83:169-91,1793. Young T. On the mechanism of the eye. Phil Trans Roy Soc London B. 91:23-88,1801 
  • 2. Donders FC. Accommodation and refraction of the eye (1864) 
  • 3. Bennett AG. An historical review of optometric principles and techniques. Ophthal Physiol Opt. 6:3-21,1986 
  • 4. 大庭紀雄編,所敬. 眼の構造と機能・研究史. (眼科診療プラクティス93, 文光堂, 2003) 
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検眼鏡

図9. ヘルムホルツが発明した検眼鏡(Augen-Spiegel).[2]

検眼鏡(眼底鏡, ophthalmoscope)は,1850年にヘルムホルツにより発明された.ヘルムホルツをこれを Augen-Spiegelと呼んだが(図9),現在でいう直像検眼鏡である.ヘルムホルツはこれを,1850年12月6日のベルリン物理学会で発表し,翌年これに関する小冊子を出版[1],1852年に製品として発売されたが*,まだ電球がなかった当時,石油ランプを光源とし,傾斜したガラス板を使うことで光を反射させる工夫が施されている.現在使用されているものもその基本構造は同じである.間接検眼鏡(倒像検眼鏡)は,同じく1852年にリューテ(Reute)が発明している.ヘルムホルツの検眼鏡は,すぐにヨーロッパの眼科医に広まり,特にグレーフェ(von Graefe)は「ヘルムホルツは新世界を開いた」と賞賛してその普及に大きく貢献した[4]

検眼鏡の登場により,それまで見えなかった眼底疾患が次々と発見され,黒内障と総称されていた眼内病変の本態が明らかとなった.例えば,網膜色素変性症(1853),網膜剥離(1853),黄斑変性(1854),糖尿病性網膜症(1855),網膜中心動脈閉塞症(1859),うっ血乳頭(1866)などはこの時期に初めて記載されている.[3].このため,この検眼鏡発明の年1850年をもって近代眼科学の始まりとすることもある.また検眼鏡の登場は,眼科学が独立した専門分野として確立するきっかけともなった[2,3].

*ヘルムホルツは検眼鏡の発明について,父に手紙を書き送ったところ,特許を取得することを示唆されたが,自己の利益を追求することよりもこれが広く医学に役立つことを願って特許を取らなかった[4].

  • 1. Helmholtz H. Beschreibung eines Augen-Spiegels zur Untersuchung der Netzhaut im lebenden Auge (A. Förtnee'sche Verlangsbuchhandlung, 1851)
  • 2. Nover A. 100 Jahre Augenheilkunde. Fortschr Med. 100:2222-27,1982
  • 3. 清水弘一. 検眼鏡の発明. 臨床眼科 55:1721-26,2001
  • 4. Ravin JG. Hemann von Helmholtz: The power of opthalmoscopy.In:Mamor MF
    et al. ed. The foundations of ophthalmology (Springer,2017)

細隙灯

図10. ガルストランドが発明した細隙灯.前面にスリット状の開口部がある[1]

図11. ツェーエンダーが作った「角膜ルーペ」.これとガルストランドのスリット光源を組み合わせて現在の細隙灯が開発された[1]

最も基本的な眼科検査法のひとつである細隙灯(slit lamp)は,1911年にスウェーデンの眼科医ガルストランド(Allvar Gullstrand, 1862-1930)が発表したものである.これはネルンスト灯を光源としてのその前面にスリットを置き,上下に細長く照明する光源であった(図10).これに先立つこと20年,1887年にドイツの眼科医ツェーエンダー(Wilhelm von Zehender)と技師のヴァインシュティーン(Heinrich Weinstien)は,初の双眼顕微鏡を発明し,これを角膜ルーペ(corneal loupe)と呼んだ(図11).現在の手術顕微鏡の原型ともいえ,前眼部を10倍に拡大して立体的に観察できた.その後様々な改良を経て,倍率は25倍となり,網膜など後眼部も観察できるようになっていた.

ガルストランドは,このツェーエンダー型双眼顕微鏡に細隙灯を組み合わせることにより,前眼部の断層像を観察できることを示した.この細隙灯にはその後様々な改良が加えられ,まず赤色調のネルンスト灯が白色のアーク灯にかえられ,アーム上で双眼顕微鏡と一体化して自由に移動できる装置が開発された.1938年に,ゴールドマン(Hans Goldmann)が現在のようなジョイスティック形式の操作桿を導入し,1950年にリットマン (Hans Littmann)工夫によって拡大率を数段階に変更でき,スリット光を左右に自由に動かせる装置がツァイス社から発売され,ほぼ現在の形状が確立された[1].

  • 1. Marcus-Matthias Gellrich. The slit lamp. Applications for biomicroscopy and videography. (Springer, 2014 )
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視力検査

図12. アラブ式視力検査.北斗七星の2番目の星が2つに見えるかどうかで視力を判定した.

古代から,とくに狩人や戦士にとって視力は重要であったが,アラブ社会では夜空の星を使った視力検査が知られていた.ブワイフ朝時代の天文学者アル・スーフィー(al-Sufi, 903-86)は,964年にその「星座の書」でこれについて触れている.大熊座の一部である北斗七星は,ひしゃく型の7つの星からなり,ひしゃくの柄の2番目に位置する ζ (ゼータ)星はミザール(Mizar)*と呼ばれる2等星であるが,すぐそばにアルコル(Alcor)*1という4等星を従えた二重星である.この2つを識別できるかで視力の良し悪しが判断され,アラブ式視力検査(Arab eye-test)と呼ばれる(図12).両者の視角は12分で,これは単純に換算すると視力0.1に相当するが,アルコルはミザールに比べてはるかに暗く,その他の事情も勘案すると視力1.0に相当するとされ[1],常識的な視力の判定としては妥当なものであったと言える.この他にも,やはり二重星であること座の ε (イプシロン) 星,7個の星から成るおうし座の昴(すばる,プレアデス星団)なども視力の目安とされる.

図13. キュヒラーが作った初の視力表(1843).異なる大きさの文字で地名が書かれている[2]

図14. (左)スネレンによるアルファベット視力表(スネレン表, 1826).(右)文字の読めない人のためにEだけを使った表(E-chart, 1873) .

図15. 日本で広く使われているランドルト環による視力検査表(1899) [4].

一般に視力(visual acuity)とされるものは,中心視野で識別できる最も小さな視標を見込む視角の逆数である.この考え方を初めて記載したのは紀元前3世紀,アレクサンドリアの数学者エウクレイデス(ユークリッドであったが,長らく忘れ去られ,これが定式化されたのは2000年も後のことであった.17世紀に活躍したバネの法則や顕微鏡の研究で知られるイギリスの物理学者フック(Robert Hooke, 1635-1703)は,望遠鏡で見える星が肉眼では見えないことから,視角1分以下範囲にある複数の星はひとつに見えるとした.

ドイツの眼科医キュヒラー(Heinrich Küchler, 1811-73)は,1835年に本から切り抜いた動物,鳥,銃など,様々な大きさの絵を紙にはりつけたものを作り,これが初の視力表(optotype)とされる.1843年には,異なる大きさの文字による視力表を作ったが,これには地名が書かれていた(図13).キュヒラーは,視力表の条件として(1)誰もがわかる視標であること,(2)すべての視標はその大きさ,視角以外の条件は同じであること,(3)前後の視標と差が一定であることを挙げた.その後,多くの眼科医がそれぞれ独自の視力表を工夫して使用するようになったが,一定の基準がなく結果を比較することはできなかった.1862年,オランダのスネレン(Herrmann Snellen, 1834-1908)はこれを統一する目的で,アルファベットによる視力表を作製した.このスネレン視力表は,使用するアルファベットは原則としてC, D, E, F, L, O, P, T, Zのみで,いずれも全体として5×5のマス目に描かれ,黒い文字の線部分と白い空白の幅は等しく作られている.スネレンは,1873年に字が読めない患者や小児にも使いやすいようにアルファベットのEだけを使ったE字視力表(tumbling E chart)も作成した(図14)[2,3].

現在の日本で一般的なC字型の視標を使うランドルト環視力表は,1899年にフランスの眼科医ランドルト(Edmund Landolt, 1846-1926)が提唱したもので,円環の間隙部分の視角の逆数が視力となる(図15).キュヒレルが示した視力表の3条件をはじめて完備したものでもあった.1909年の第11回国際眼科学会で標準視力表とされたが,欧米ではスネレン視力表,E字視力表が使われることが多い.視力の表記には,日本やヨーロッパでは小数視力が用いられるが,アメリカでは分数視力*2の表示が一般的である.この他,より精密,定量的な検査が必要な場合は,ETDRSチャートや logMAR視力が用いられる*3[2,3].

*1 Mizar, Alcorはアラビア語でそれぞれ「覆い」,「忘れられたもの」を意味するという.

*2 分数視力.20/40のように表示する.分子の20は検査距離(20フィート),分母の40は,その視標を健常者は40フィートで識別できるが被検者は20フィートではじめて識別できることを意味する.単純に割り算すれば,20÷40=0.5 として日本で一般的な小数視力 に換算できる.

図16. ETDRSチャート. logMAR視力と組み合わせて,より精密な視力測定,研究に利用される.

*3 より正確,定量的な視力測定には,ETDRSチャート logMAR視力が利用される(図16).ETDRS (Early Treatment Diabetic Retinopahy Study)チャートは,その名称からわかるように糖尿病性網膜症における精密な視力測定を目的としたのもので,弱視領域をふくむ幅広い範囲をより正確に検査することを目的としている.1976年にアメリカの眼科医ベイリー,ラビー(Bailey & Lovie)が考案した視力表をもとにしており,各段に5つの文字が配置され,個々の文字の読みやすさがほぼ均等であること,字間,行間が文字の大きさに等しいこと,段毎の差が一定(10 0.1 = 1.26)である.被検者は格段の文字をすべて読み上げ,5文字すべて正解した段を基本視力とする.さらに視力表示を,文字の視角(MAR, minimum angle of resolution)の常用対数logMARとすることで,各段の視力が 1.0, 0.9, ..., 0, -0.1, -0.2 のように一定間隔となり,統計解析が容易となる利点があるため研究目的でも用いられる (正常視力1.0 は MAR=1.0 なので logMAR=0となり,これより視力がよければ logMAR値は負値となる) [3].

  • 1. Bohigian GM. An ancient eye test - using the stars. Surv Opthalmol 53:536-9,2008
  • 2. De Jong P. A history of visual acuity testing and optotypes. Eye. 38:13-24,2024
  • 3. Kniestedt C, Stamper RL. Visual acuity and its measurement. Ophthalmol Clin N Am 16:155-70,2003
  • 4. Landolt E. Nouveaux opto-types pour la détermination de l’acuité visuelle. Arch Ophtal. 1899;19:465–71

関連事項

眼鏡・コンタクトレンズの歴史

図17. 眼鏡の原型.リーディングストーン.現在でも読書ルーペとして使われている [CC BY 4.0]

図18.1352年の絵画に描かれた眼鏡をかけた修道士[PD]

図19. 1727年にスカーレットが作った初のフレーム型眼鏡(復刻モデル). ツルの先端の輪は紐を通して後頭部に固定するためのもの [Ed Scarlett社]

図20. 初期のコンタクトレンズ.角膜のみならず強膜まで覆う「強膜レンズ」であった.[Eye Health Central]

水晶やガラスを研磨して製作したレンズ*1は古代から知られていたが,その目的は装飾用,あるいは火をおこすための集光用であった.レンズの視力補助,拡大効果を初めて記したのは,アラブの科学者,医学者で光学,眼科学にも大きな功績を残したアルハーゼンで,13世紀にその著書のラテン語訳「光学」(Opticus) に読字における効用が記されており,キリスト教の修道院で修道士が文献を読む際に,水晶など透明な鉱石*2の平凸レンズを書物の上に置いて使うようになった.これはリーディングストーン(reading stone)と呼ばれ(図17),現在も使われている読書ルーペである.暗い室内で小さな文字を読む,特に高齢の修道士には重宝されたものであろう.おそらくアルハーゼンの著作からこれを知ったイギリスの修道士で哲学者,科学者でもあったベーコン(Roger Bacon, 1214-94)*3も,その著書「大著作」(Opus majus, 1267年) に凸レンズの効用を記載している[1-3].

レンズを枠にはめて鼻や耳にかけてつかう現在のような眼鏡が,誰がどこで発明したかについては諸説あり不詳である.時期はおそらく13世紀後半で,ヨーロッパ各地の修道士とも,ガラス製造技術の発達がめざましかった北イタリアとも言われる.1352年,イタリアの画家トマソ・ダ・モデナ(Tommaso da Modena)が当時の聖職者や学者を描いた一連の絵画の中に,聖職者が眼鏡をかけて文字を書いている作品があり(図19),遅くともこの時期には眼鏡が使われていたと考えられる.日本に伝わった眼鏡は,1549年に来日したフランシスコ・ザビエルが周防の大内義隆に謁見した際に献上したものが最初とされる.1450年にグーテンベルクが印刷技術を発明して以来,出版文化が興隆したことも眼鏡の需要に結びついたものと思われる.当初の眼鏡はもっぱら凸レンズの老眼鏡であったが,15世紀には凹レンズを使った近視用眼鏡も登場した.16世紀から17世紀にかけて,イギリスやフランスでは眼鏡職人のギルドが設立されていることから,ひろく社会に普及していたことがうかがわれる.

当時の眼鏡は,鼻梁をはさむいわゆる鼻眼鏡や,前額骨と胸骨の間に挟んで固定する片眼鏡(モノクル)であった.1727年,現在のような耳にツル(テンプル)をかけるフレーム型眼鏡を初めて作ったのは,イギリスの眼鏡職人スカーレット(Edward Scarlett, 1688-1743)とされる*4.1784年,フランクリン(Benjamin Franklin),初めて遠近両用の二焦点レンズを発明した.

世界初のコンタクトレンズは,1888年,ドイツの眼科医フィック(Adolf Gaston Eugen Fick, 1852-1937)*5が「Contact-Brille」として論文に発表し,同年の英訳論文「contact lens」でこの名前が登場した.これは高度近視,円錐角膜などの治療を目的として考案したもので,ガラス製,直径20mm,重さ0.5gであった.翌1889年にはドイツの眼科医ミュラー(August Müller)もその学位論文で「角膜レンズ」(Horn­haut­linsen)と称して同様のものを発表した.ミュラー自身が-14Dの高度近視であったが,これで良く矯正されたという.1911年にはドイツのカール・ツァイス社がシリカガラス製のコンタクトレンズの販売を開始した.当時のコンタクトレンズは,角膜部分だけでなく周囲の強膜も覆う強膜レンズ (scleral glass contact lens)であった(図20).このため充血や異和感を避けられず,長時間の使用は難しかった.1936年,アメリカで飛行機の風防用に透明,軽量なプラスチック  PMMA (polymethyl­methacrylate,商品名「プレキシグラス」 Plexiglas)が開発され,1944年にこれを用いたコンタクトレンズが作られて装用性は向上した[1].

1946年,アメリカの眼鏡技師テューイ(Kevin Tuohy)は,強膜レンズの加工中に誤って破損してしまい,角膜部分と強膜部分が割れてしまった.分離した角膜部分を試しに自分で装用してみたところ予想外に良い結果であったことから,これに改良を加えて角膜レンズを製作,特許を取得した.以後,コンタクトレンズは強膜レンズから角膜レンズに移行した.最大の問題は酸素透過性の不良による炎症や異和感であったが,1960年に,親水性に富む HEMA (hydroxyethyl­methacrylate)を利用したソフトコンタクトレンズが登場,1980年にはFMA(fluoro­methacrylate), SMA(siloxanyl­methacryloate)などを利用した酸素透過性ハードコンタクトレンズ(RGPCL, rigid gas-permeable contact lens)も開発され,その後様々な改良を経て現在に至っている[1].

 

*1 レンズという語は,ラテン語のlens(レンズ豆,英:lentil)に由来する.形状の類似から命名された.OEDによると初出は17世紀末である.

*2 ベリル石(緑柱石)も使用され,これがドイツ語で眼鏡を表す Brilleの語源とされる.

*3 ベーコンは眼鏡の発明者とされることもある.その著書に「このガラスは老人や視力の弱い者に有用であろう」と述べており,モンテカジノ修道院でリーディンググラスを製作した.しかし,人間の能力をこのような道具で補うことは神への冒涜との批判を恐れ,公にすることなくその製法を修道士のゲータル(Heinrich Goethals)にだけ伝えた.ゲータルは,イタリアを訪問した際にこれを修道士のスピナ(Alessandro della Spina)に漏らし,さらにこれを伝え聞いたスピナの友人アルマトス(Salvinus de Armatus, ?-1317)は眼鏡を実際に製造した.アルマトスの墓碑には「眼鏡の発明者」の文字が刻まれている.

*4 Edward Scarlettは,その後1707年にロンドンに眼鏡店 "The Old Spectacle Shop"を開き,現在は Ed Scarlett社として眼鏡の製造販売を行っている.

*5 フィック. 心拍出量を初めて測定し,Fickの拡散法則で知られる生理学者 Adolf Eugen Fick (1829-1901)の甥にあたる.

  • 1. Scholtz SK, Auffarth GU. From reading stones, glasses and contact lenses to intraocular lenses & ophthalmic lasers - A short overview over the history of visual aids. Vesalius 18:30-5,2012
  • 2. Gordon BL. A short history of spectacles. J Med Soc New Jersey. 48:3-8,1951
  • 3. Cashell GTW. S short history of spectacles. Proc Roy Soc Med 64:29-30,1971

色覚検査

図21. ドルトン(John Dalton).自らの色覚異常を科学的に研究した[PD]

ギリシア,ローマ医学には,色覚異常の記載がない.最古のものは,中国の明朝で1602年に出版された医学書「證治準縄」(しょうちじゅんじょう)の眼科疾患の項「目部」に現れる「視赤如白證」が,世界初の色覚異常の記載とされる.欧米では,原子論で知られるイギリスの科学者ドルトン(John Dalton, 1766-1844)(図21)が,26歳の時に自らの花の色の見え方が他人と異なることに気づき,また弟にも同様の症状があることから,色覚を科学的に研究してその原因は眼球内の液体(硝子体)が青く着色しているためと推測した[1].これはもちろん誤りであったが*1,現在でも色覚異常を指してDaltonism という言葉が用いられることがある.

*1 ドルトンは,自分の死後に解剖してこれを確認するよう遺言していた.死の翌日,医師のJoseph Ransomeは,片眼の硝子液が完全に透明であることを確認し,また他眼の後壁を切開してここから赤,緑の物体を透見しても正常に見えることから,ドルトンの推測が誤りであることを証明した.この眼球は両眼とも保存されており,1995年にDNA解析が行われ,2型2色覚(deuteronope,緑色に感度を持つM錐体の機能不全)であることが確認された[4].

図22.  ヘルムホルツが提示した種類の神経線維の周波数感受性 [5]  

1785年,イギリスの化学者ジェンティリー(George Girs de Gentilly, 1746-1826)は,染色材料を研究する中で,網膜には3種類の光線に反応する「分子」(molecule)あるいは「膜」(membrane)があり,色覚異常はこれの不全によるものであると推測した.光の干渉実験やヤング率で知られるイギリスの物理学者のヤング(Thomas Young, 1773-1829)は,その1801年の講演の中で,色覚は赤,緑,青の3色の組み合わせから成り,網膜にはそれぞれに対応する受容器が存在するという仮説を提示した[1].1850年,ドイツの物理学者ヘルムホルツ(Hermann von Helmholtz, 1821-94)はさらにこれを発展させ(図22)*2ヤング・ヘルムホルツ理論(Young-Helmholtz theory)は色覚の基本原理となった.

図23. 網膜の3種類の錐体細胞(S, M, L)と桿体細胞(R)の波長に対する感受性.

しかし,その解剖生理学的にこれが証明されたのは100年以上後のことで,1956年,スウェーデンの生理学者スヴェティチン(Gunnar Svaetichin, 1915-81)が,網膜細胞の電気生理学的研究から,実際に3原色の波長に対応する感度を持つ3種類の錐体細胞の存在を証明した(図23).

1875年,スウェーデンで蒸気機関車が正面衝突し,9人が犠牲となる事故が発生した.この調査にあたった生理学者のホルムグレン(Frithiof Holmgren, 1831-97)は,機関士あるいは助手の色覚異常が原因と推測し*3,従業員266名を検査したところ13名に異常が認められた.当時,この他にも信号の誤認による鉄道や船舶の事故が相次ぎ,鉄道員,海員などの色覚異常への関心が高まった[2,3].

図24. 最初期の色覚検査,ホルムグレン毛糸検査.似た色の毛糸を選択することで色覚異常を検出した [CC By 4.0]

図25 石原表.高精度であることから国際的な標準検査表となった.

ホルムグレンが考案した世界初の色覚検査,ホルムグレン毛糸検査(Holmgren's wool test)は,様々な色の毛糸から,薄い赤色,薄い緑色の毛糸とそれぞれ似た色の毛糸を選ばせるもので,選択の誤りから赤色色盲,緑色色盲を検出できた(図24).その後,アメリカのトムソン(William Thomson)が改良,簡略化してホルムグレン-トムソン検査(Holmgren-Thomson test)として欧米で鉄道員,船員の検査に広く用いられた.1877年,ドイツの眼科医シュティリンク(Jakob Stilling, 1872-1915)は,仮性同色表(Pseudo­iso­chroma­tische Tafeln)を考案した.これは健常者には異なる色としてみえるが,色覚異常者には同色に見える色(=仮性同色)を使って文字,数字などを描き,これを判読できるか否かを診断する方法で,現在も広く使われる色盲検査表の原型であった.日本でも「スチルリング表」として,陸海軍の将兵,鉄道員の採用試験などに利用された[2,3].

スチリング表の精度は必ずしも高いものではなく,日本独自の仮性同色表が作られ,例えば1910年に小口忠太が「色神検査表」,1913年に伊賀文範が「新撰色盲検査表」,1916年に石原忍(1879-1963)が「大正5年式色神検査表」(通称,石原表)を考案した.中でも石原表は精度に優れ,色覚異常者が読めない表だけでなく,色覚異常者のみ読める表,あるいは正常者と色覚異常者で読み方が異なる表なども備えるなど,様々な工夫がこらされていて使いやすかった(図25)*4.石原はこれを世界各国の主だった大学や病院に寄贈したところ高く評価され,Ishihara Platesとして国際的な標準検査表に採用された.その後も国内外で様々な色覚検査表が開発されたが,石原表は現在も世界中で標準仮性同色表として使われている*5

*2 ヤングは網膜組織に関する詳しい知識を持っていなかったが,ヘルムホルツは桿体,錐体,神経節細胞などを区別しており,3つの色に反応する神経線維(nerve fiber)が存在すると考えた.ほぼ同時期,電磁波のマクスウェル方程式で知られるイギリスの物理学者マクスウェル(James Clerk Maxwell, 1831-79)も,ヤングの理論を支持,発展させて実験も行っており,その発表はヘルムホルツよりも早いことから,ヤング・マクスウェル・ヘルムホルツ理論と呼ばれることもある[6]. 

*3 当事者は2人とも死亡しており,色覚異常は証明できなかった.その後ホルムグレンが行った調査や実験にも問題が多く信憑性にかけるという批判があるが,いずれにせよこれが色覚検査が普及するきっかけとなった.

*4 1915年(大正4年)に完成した「大正5年式色神検査表」 は平仮名と曲線で作られており非売品であった.1916年には片仮名による「日本色盲検査表」が発売され,1918年に数字を使った「学校用色盲検査表」が登場した.ここで数字を使ったことは,その後海外でも広く受け入れられる一因となった.石原式検査表は5類の表からなる.すなわち(1)正常者,異常者ともに読める表,(2)正常者と異常者が異なる読み方をする表,(3)正常者だけが読める表,(4)異常者だけが読める表,(5)第1色覚異常,第2色覚異常を鑑別する表である[2].

*5 日本では1920年に学校での色覚検査が義務付けられ,1958年の学校保健法施行後,就学時および毎年の検査が定められた.その後数回の変更を経て1995年から小学校4年時のみとなった.原則として石原表が用いられたが,その優れた感度がかえって災いして,日常生活に問題ない軽度の色覚異常が診断されて,進路,職業の選択に過剰に影響する例もあった.このため,色覚検査が差別につながるとして2002年に学校保健法が改正され,任意検査となった.その一方で,色覚異常に気づかないまま成長して,進学,就職の時点で初めて診断されて困惑したり,進路の不適切な選択に至る不利益もあることが指摘され,色覚検査の適切な実施が推奨されている.

白内障

水晶体が混濁する白内障は,おそらく人類発生以来存在していたものと思われるが,その病態,治療が初めて記載されたのはインド古代文明であった.古代インドの名医,外科学の父とされるスシュルタが編纂した外科書 スシュルタ・サンヒター に,前眼部に針やナイフを刺しこみ,混濁した病変部を後ろに押し倒して光路から外す手術法「墜下法」 (couching) の記載があり,これが初出とされる.スシュルタの生きた時代は不詳で,紀元前10世紀から紀元2世紀まで諸説あるが,この墜下法はその後19世紀まで行われることになる(図27).

図27. 墜下法手術.1826年,インドのカルカッタ路上で行われている手術の様子のスケッチ[1]

白内障の病変はもちろん混濁した水晶体であるが,前述のように中世ヨーロッパでは水晶体は眼球の中心部に位置するとされ,眼球の解剖学が不明であった当時,病変は水晶体の前に存在すると考えられた.角膜と水晶体の間の空間は,ケルススによれば locus vacuus (英:empty space)と呼ばれ,本来透明であるべきこの部位に病的な物質が貯溜して混濁すると考えられた.この病的な物質は,液体の凝固物膜,索状物など様々に解釈された.従って,墜下法で後ろに倒す対象物は,(実際には水晶体であったが)必ずしもそのようには認識されていなかった[1,2].この異常な物質はラテン語で suffusio (英: suffu­sion,滲出)と呼ばれた.アラビアではこれが nuzul-el-ma (英: flowing down of water,水の流下)と訳され,さらにサレルノ医学校のコンスタンティヌス・アフリカヌス(Constantinus Africanus, 1010-?)がラテン語に再翻訳する際に cataracta (英: cataract,滝)として現在に至っている.

白内障の本態が水晶体の混濁であり,墜下法で除去されるのは水晶体前面の物質ではないということが初めて明らかになったのは18世紀のことで,1707年にフランスのブリソー(Michel Brisseau, 1676-1743)が,白内障を患った兵士の剖検結果を報告し,その著書「白内障に関する新たな知見」(Nouvelles observations sur le cataract)に白内障の原因が水晶体の混濁であることを明記した.ほぼ同時期,1708年には,同じくフランスの眼科医イヴ(Charles de Saint-Yves, 1667-1736)が,墜下法の手術に際して,偶然前房に転落してしまった水晶体を摘出してその混濁していることを発見している.しかし,その後もその本態については賛否両論が相半ばして不詳のままであった.

図28. (上)フランスの眼科医ダヴィエルJacques Daviel, 1696-1762).初の水晶体摘出術に成功した.(下)ダヴィエルが行った水晶体摘出術.角膜を弧状に切開して弁状に挙上して水晶体を摘出している [2].

これらの知見をもとに,1745年に初めて水晶体を摘出し,近代の白内障手術への道を拓いたのは,フランスのダヴィエル(Jacques Daviel, 1696-1762)(図28)で,現在でいう嚢外水晶体摘出術(extracapsular cataract extraction, ECCE)である(図28).1756年には434例384例,成功率90%を報告している.従来の墜下法の成功率がせいぜい15%であったことを考えると,遙かに良好な成績であった.その後,手術手技に様々な工夫が加えられた.例えばダヴィエルは角膜に弧状切開を加えたが,1864年にグレーフェ(Albrecht von Graefe, 1828-70)はより小さな切開で摘出可能な直線切開法を開発した.グレーフェが考案した細長いメス(schmal Messer, 線状刀)は,その後Graefe knife と呼ばれ100年にわたって使用された[1,2].さらに麻酔法,消毒法の発展とともに水晶体摘出術の成績も向上した.

1842年にアメリカのロングが初のエーテルによる全身麻酔手術に成功したが,1860年にドイツのニーマン(Albert Niemann, 1834-61)がコカの葉からコカインを抽出してその局所麻酔作用を報告し,1884年にオーストリアの眼科医コレル(Karl Koller, 1857-1944)が初めてこれを使って表面麻酔による白内障の手術応用した.同年,クナップ(Herman Knapp, 1832-1911)が球後麻酔を試みている.コレルの論文を読んだアメリカの外科医 ハルステッド (William Stewart Halsted, 1852-1922)はコカインによる浸潤麻酔,伝達麻酔を発展,普及させたが,1905年にドイツの化学者アインホルン(Alfred Einhorn, 1856-1917)が副作用の少ないプロカイン(procaine, 商品名ノボカイン)を発明し,その後リドカイン(lidocaine),ブピヴァカイン(bupivacaine, 商品名マーカイン)などが次々と開発された[2,4].

水晶体を全摘する嚢内水晶体摘出術(intracapsular cataract extraction, ICCE)は,1753年にシャープ(Samuel Sharpe)が初めて行ったが,拇指で眼球を圧迫して摘出した.その後,輪匙を使う方法,牽引法などが行われたが,硝子体脱出や感染のリスクが問題であった.

図29. (左) リドレー(Harold Ridley, 1906-2001).眼内レンズ(IOL)を発明した.(右) 初報の論文に掲載されたIOL挿入手術の図 [3]

白内障術後の眼鏡による光学的矯正は,17世紀から試みられた.1795年にカサーマータ(Virgilius Casaamata)がガラスレンズを術後の眼内に挿入した記録があるが,レンズは落下して失敗に終わった.現在のような眼内レンズ( intraocular lens, IOL)の挿入に初めて成功したのはイギリスのリドレー(Harold Ridley, 1906-2001)(図29)で,1949年にプラスチック(polymethl metacrylate)製のレンズの挿入に成功した(図29).この背景には,第二次世界大戦中に負傷した英空軍のパイロットの眼球にプラスチックの破片が入ったにもかかわらず,眼内合併症が見られなかったことがヒントとなったという.当初はその安全性に疑問が投げかけられ普及が遅れたが,幾多の技術的改良を経て,IOLは1980年代から広く用いられるようになった[1,3].

図30.ケルマン(Charles Kellman, 1930-).現在の標準術式であるKPEを発明した[PD]

1967年,アメリカの眼科医ケルマン(Charles Kellman, 1930-)*(図30)は,超音波乳化吸引術(phacoemulsification and Aspiration, KPE)を開発した.これは非常に小さな切開創から細い超音波プローブを挿入して超音波により水晶体を液状化して吸引するもので,従来の方法にくらべてリスクが小さく,入院期間が短縮し外来でも治療可能となり,現在ではIOLと組み合わせた標準的な術式となっている[1].

* ケルマンは,白内障の凍結手術を開発,その後KPEを開発し,1994年に国際白内障学会で the Ophthalmologist of the Centuryに選ばれ,2004年にラスカー賞を受賞したが,少年時代からハーモニカ,クラリネット,サックスを演奏,高校ではビッグバンドを結成,作曲を手がけ,その後レコードをリリース,ブロードウェイミュージカルの制作に携わり,数々のテレビ番組に出演するなどエンターテイナーとしても活躍した.

  • 1. Leffler CT, Klebanov A, Samara WA, et al. The history of cataract surgery: from couching to phacoemulsification. Ann Transl Med 8:1551,2020
  • 2. Albert DM. Jacques Daviel: The invention of modern cataract surgery. In:Mamor MF et al. ed. The foundations of ophthalmology (Springer,2017)
  • 3. Margo CE. Harold Ridley: The development of plastic implantable lens. In:Mamor MF et al. ed. The foundations of ophthalmology (Springer,2017)
  • 4. Chou F, Conway MD. History of ocular anesthesia. Anesthesia 11:1-9,1998

関連事項

近代眼科学を築いた人々

近代眼科学を創始した医学者,研究者には,幅広い領域に数々の業績を残し,眼科学の歴史に度々その名前が登場する者が少なくない.ここえではそのような,いわゆる「マルチ」な眼科研究者を紹介する.

・ヤング (Thomas Young, 1773-1829)

図31.ヤング (Thomas Young, 1773-1829) [PD]

イギリス医学者,物理学者.天才に恵まれ,2歳で読書し,4歳までに聖書全編を4回も通読,14歳までに独学で英語,仏語,ラテン語,ギリシア語,アラビア語,ヘブライ語など数ヶ国語を習得したという.1792年からイギリス,ドイツで医学を学び,1800年,ロンドンで医師として開業,1801年に王立研究所の教授となった.その業績は多岐にわたるが,光学,眼科学関連の業績としては,色覚の三色説 (ヤング・ヘルムホルツ説, 1801),光の干渉実験(ヤングの実験, 1805)による光波動説の証明*が良く知られる.光の三色説(trichromacy theory)は,色覚は赤,青,緑の3要素があり,その刺激の比率に応じて色を識別し,全てが同等に刺激されると白色と感じるとするもので,その後の色覚理論の基本となった.この他,弾性係数のヤング率,音階理論の研究ではヤング音律にもその名前が残る[1].

* 1609年にオランダの物理学者ホイヘンス(Christian Huygens, 1629-95)が光波動説を,1704年にニュートン(Isaac Newton, 1643-1727 )が光の粒子説を提唱し,両者は対立していた.

  • 1. Gettinger Jr JW. Thomas Young: The foundations of light color, and optics. In:Mamor MF et al. ed. The foundations of ophthalmology (Springer,2017)

・ヘルムホルツ (Hermann von Helmholtz, 1821-94)

図32.ヘルムホルツ (Hermann von Helmholtz, 1821-94) [PD]

ドイツの医学者,物理学者.物理学志望であったが家計が苦しいため,1838年,国費で進学できるフリードリヒ・ヴィルヘルム軍医学校に入学し,1842年から6年間軍医を勤めた.その後ケーニヒスベルク大学,ボン大学,ハイデルベルク大学で生理学教授,1971年にベルリン大学物理学教授となった.物理学教授のポストに医師が就任することは異例であった.また1850年に発明した検眼鏡(眼底鏡)は,眼科学を大きく飛躍させた.1856年の著書 Handbuch der Physiologischen Optik (生理光学),1863年の著書 Lehre von den Tonempfindungen (聴覚学)にそれぞれ視覚,聴覚の研究成果が詳述されているが,この中で半世紀前にヤングが唱えた色覚の三色説(trichrmacy)を再検討し,その背景に錐体視色素の存在を仮定し,また色覚異常が錐体視色素の異常であることを的確に予測した.また調節のメカニズムが,毛様体筋よる水晶体の変形にあることを初めて明らかにして,それまでの角膜説,眼軸説,水晶体移動説を否定した.音色が倍音の成分によって決まることを示したのもヘルムホルツである.晩年は物理学に転向し,電磁気学,電気化学,流体力学などに多大な業績を残した.たとえばエネルギー保存則(熱力学の第一法則)を提唱し,ヘルムホルツの自由エネルギー,2つの円形コイルを平行に配置するヘルムホルツコイル,流体力学におけるヘルムホルツの渦定理,ベクトル解析のヘルムホルツの定理など,その名前を冠した物理学の法則,定理は数多い [1].

  • 1. Ravin JG. Hemann von Helmholtz: The power of ophthalmoscopy. In:Mamor MF et al. ed. The foundations of ophthalmology (Springer,2017)

・グレーフェ (Albrecht von Graefe , 1828-70)

図33.グレーフェ (Albrecht von Graefe , 1828-70) [PD]

ドイツの眼科医.1847年,ベルリン大学で学位を取得後,プラハ,パリ,ウィーン,ロンドン各地で眼科学を学び,1850年にベルリンに戻って120床の眼科病院を開いた.貧しい患者からは治療費をとらず,最初の1年で1900人の患者が訪れ,その数はまもなく年間1万人を超えるようになった.ちょうどこの時期,ヘルムホルツが検眼鏡を発明し,その利点を真っ先に認めて普及に努めた.グレーフェの業績はきわめて広範であるが,急性緑内障における虹彩切除術の導入,白内障における水晶体摘出術の導入は最も大きな業績とされる.白内障手術については100年前にダヴィエルが水晶体摘出術を創始したが,まだ墜下術との優劣には論争があった.これは眼科学における「百年戦争」と言われることがある.それまで白内障の手術には幅の広い大きなメスが使用されていたが,グレーフェは後にGraefe knifeと呼ばれるようになる,最小限の切開が可能な尖端の細いメスを作るともに,角膜輪の切開法を工夫して,水晶体摘出術を安全,確実な術式として術式を巡る論争に終止符を打った.この他にも,緑内障において眼圧上昇,視野欠損,乳頭陥凹の組み合わせが重要であることを初めて記載,緑内障のグレーフェ分類,バセドウ病におけるグレーフェ徴候にも名前が残り,頭蓋内圧亢進と視神経乳頭浮腫の関連を指摘した.1858年にベルリンのシャリテ病院の助教授,1866年には教授となり,ヨーロッパのみならずアメリカからも多くの眼科医が訪れてその指導を受けた.1854年に独力で創刊した学術誌 Archiv für Ophthalmolgieの第1巻は,480頁中400頁を自ら執筆し,1870年の16巻までに2500頁を書いたという.その後,Graefe's Archive for Clinical and Experimental Ophthalmology となり,現在も最も歴史ある眼科専門誌となっている [1].

  • 1. Albert DM. Jacques Daviel: The invention of modern cataract surgery. In:Mamor MF et al. ed. The foundations of ophthalmology (Springer,2017)

・ゴールドマン* (Hans Goldmann, 1899-1991)

図34.ゴールドマン(Hans Goldmann, 1899-1991)  [2]

スイスの眼科医.1923年にプラハのカレル大学を卒業,翌年ベルン大学眼科助手,1935年に教授となり,1968年に引退するまでこの職にあった.この間240篇以上の論文を著し,その内容は白内障,緑内障,房水の動態,視野,乳頭の病理,暗順応,ブドウ膜炎の病理など,きわめて広範な分野にわたり,いずれも現在の眼科学の礎となる先駆的な研究であった.また,細隙灯顕微鏡(1933),隅角鏡(1937),視野計(1945),暗順応計(1945),圧平眼圧計(1954),三面鏡(1949)など数々の検査装置をスイスのHaag-Streit社と共同開発し,これらはいずれも現在も使われており,その多くにゴールドマンの名前が冠されている.特に細隙灯顕微鏡については度重なる改良を加え,1937年のゴールドマン360型では光源系と観察系を同軸としてジョイスティック方式を取り入れ,1958年に発表されたゴールドマン900型は光源を上部に置く画期的な設計で歴史的名機とされ,その基本構造は現在もそのまま踏襲されている.さらに隅角鏡,三面鏡の開発は,前眼部用に開発された細隙灯の対象を眼球全体に拡大した.ゴールドマン眼圧計,ゴールドマン視野計は緑内障の臨床を大きく進歩させたが,これもそのまま現在に継承されている [1,2].

* ドイツ語圏なので「ゴルトマン」がより正確であるが,英語圏の通称に従う.

  • 1. Fankhauser F. Remembrance of Hans Goldmann, 1899-1991 Surv Ophthalmol 37:137-42,199
  • 2. Dranc SM. First Hans Goldmann Lecture of the Glaucoma Society of the International Congress of Ophthalmology. J Glaucoma 3:346-53,1994

日本人眼科医の冠名疾患

図35.(上)小柳美三,原田永之 [PD]
(中)高安右人,小口忠太[PD]
(下)水尾源太郎,中村文平 [大阪大学眼科学教室]

・Vogt-小柳-原田病

小柳美三(こやなぎ よしぞう, 1880-1954) .武蔵野国国分寺(現東京都国分寺市)に生まれ,1908年に京都帝国大学を卒業,眼科学教室入局,年京都医学専門学校(現 京都府立医科大学)教諭, 1918年東北帝国大学初代教授.1914年に「葡萄膜炎に伴う毛髪の脱落白変に就て」として2症例を報告し,その1例の眼底像は「汎発性にし淡褐黄赤色を停止,恰も夕照の天空を観るが如し」として,いわゆる夕焼け状眼底を記載している.1929年に4症例をドイツの眼科学雑誌に発表したが,虹彩,眼底所見は,当時としては異例のカラー印刷で掲載された.その後の調査により1906年にスイスの眼科医のフォークト (Alfred Vogt, 1879-1943)が同様の症例を報告していることを自ら発見し,Vogt-小柳病と呼ばれるようになった.

原田永之助 (はらだ えいのすけ, 1892-1946).熊本県天草に生まれ,東京帝国大学を卒業,軍医を経て1917年1月に眼科に入局した.同年5月石原忍が教授に就任している.その年の10月に,両側急性視力障害の47歳男性症例に遭遇し,眼底浮腫,網膜剥離を認め,滲出を伴う急性脈絡膜炎と考えた.その後3年間に同様の症例をさらに4症例を経験して,1926年に報告した.これは原田氏病とされたが,その後Vogt-小柳病と同一疾患で,病変が眼底に限局した病型であることが判明し,Vogt-小柳-原田病と呼ばれるようになった.現在では,メラニン細胞に対する自己免疫疾患であることが判明している.

・高安病

高安右人(たかやす みきと, 1860-1938).肥前国小城郡(現佐賀県多久市)に生まれ,1887年に東京帝国大学を卒業,翌年第四高等中学校(現 金沢大学)医学部教授.1905年,両眼霧視を訴える22歳女性の眼底に異常血管が認められ,1908年に「奇異なる網膜中心血管の変化の一例」として学会に報告した.これに対して,福岡医科大学(現 九州大学)の大西克知(おおにし よしあきら)が同様の眼底所見に加えて両側橈骨動脈の脈拍を触知しない症例を追加した.1921年,東京帝国大学の中島実が自験例を加え,若年女性,網膜血管の動静脈吻合,動脈瘤様拡張,視力障害,全身の循環器疾患の合併を特徴とする新たな疾患として,高安病と称することを提唱した.その後,大動脈およびその太い分枝血管の血管炎症侯群であることが判明し,現在では高安動脈炎が正式名称となっている.

・小口病と水尾・中村現象

小口忠太 (おぐち ちゅうた, 1875-1945).長野県上田町(現上田市)に生まれ,1889年に済生学舎に入学,翌年16歳にして医術開業試験に合格した.1894年,20歳の適齢を迎えて志願兵となり,日清戦争(1894),日露戦争(1904)に軍医として従軍した.1906年,東京第一衛戍病院で,夜盲症の新兵を診察した.夜に見えづらく夜間演習に参加できないと訴え,それまで詐病も疑われていた.特徴的な眼底所見が認められ,1907年に「夜盲症の一種に就て」として学会誌に報告した.1911年に3例をまとめてドイツの学会誌に報告し,同年東京帝国大学初代教授の河本重次郎が同様の症例を報告するとともに小口氏病と呼ぶことを提唱した.九州大学の大西克知は,この眼底所見を「金箔の禿かかりたる眼底」と表現した.1913年,大阪大学の中村文平(なかむら ぶんぺい, 1886-1969,後に教授)は,眼帯で1昼夜遮光すると光感受性が改善することを知り,6昼夜遮光してから眼底を観察したところ眼底所見が正常化していることを発見した.これを水尾源太郎(みずお げんたろう, 1876-1913)教授とともに報告*し,その後水尾・中村現象と呼ばれるようになった.小口病は先天性夜盲症のひとつで,現在では原因遺伝子と関連代謝物質が同定されているが水尾・中村現象の成因は未だ不詳である.

* 中村は,水尾教授の指導を仰いでこの現象を研究したが,発表時水尾は病没しており,水尾,中村の連名で中村が報告している.