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インスリンの歴史

糖尿病

図1. 2世紀後半,ローマの医師アレタイオス.糖尿病を意味する diabetes という言葉を初めて使った [PD]

糖尿病と思われる疾患は,エジプトの医学パピルス以来古くから記載されており,5世紀の インドの名医スシュルタ は,「蜜のような尿」 が出る病気について述べている.日本でも平安時代に栄華を極めた藤原道長(966-1028)が糖尿病であったことはほぼ確実とされ,晩年は大量の水をのむようになり,視力を失い,背中の傷が悪化して全身が化膿したという.激しい口渇のため大量に飲水する状態は,東洋医学では「消渇」と言われた.

糖尿病を意味する diabetes という言葉を初めて使ったのは,2世紀後半,ローマ帝国支配下小アジアのカッパドキアで活躍した医師アレタイオス (Aaetaeus of Cappadocia) (図1) とされ,「流れ出る」 という意味のギリシア語 (διαβήτης)である.アレタイオスは,大量の飲水,排尿を認め短命であり,原因は腎,膀胱にあるとしている.

17世紀のイギリスの名医,ウィリス (Thomas Willis, 1621-1675)は糖尿病患者の尿が甘いことを発見し,diabetes mellitus と初めて記載した.また,その原因は血液にあると的確に指摘しており,その背景に食事,生活の不摂生,精神状態があるとした.尿の甘さの原因が実際に糖であることを証明したのは,イギリスのDobson(Matthew Dobson, 1732-84)で,尿を乾燥させて糖の結晶を証明した.[1,2]

  • 1. Karamanou M, Protogerou A, Tsoucalas G, et al. Milestones in the history of diabetes mellitus. World J Diab 7:1-7,2016
  • 2. de Leiva-Hidalgo A, de Leiva-Pérez A. I‑European research, the cradle of the discovery of the antidiabetic hormone: the pioneer roles and the relevance of Oskar Minkowski and Eugène Gley. Acta Diabetol 59:1632-51,3033
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膵とランゲルハンス島

図2. (上)ランゲルハ ンス(Paul Langerhans, 1847-88) [PD]

図3. 糖尿病におけるランゲルハンス島(→)の硝子変性(ピンクの部分) [3]

1860年,フランスの生理学者 ベルナール (Claude Bernard)が,血中のブドウ糖は肝にグリコーゲンとして蓄積され,またここから放出されることを発見したが,その調節機能については不明であった.また当時既に,糖尿病患者の剖検で膵が萎縮していることから,膵との関連が疑われていたが,膵は消化液を分泌する外分泌腺として認識されていたことからその因果関係は不明であった.1869年に,病理学者ウィルヒョウの学生であったランゲルハ ンス(Paul Langerhans, 1847-88) (図2) は,その学位論文の中に膵組織中に腺管構造に連続しない周囲と異なる淡明細胞の集簇を発見し[1] ,1893年にフランスの病理学者ラゲス(Gustave-Édouard Laguesse, 1861-1927)がこれをランゲルハンス島(図3)と命名したが[2] ,その役割については不明であった.

1889年,ドイツのミンコフスキー(Oskar Minkowski, 1858-1931)とフォン・メリング(Joseph von Mering, 1849-1908)は,脂肪の分解に膵酵素が必要か否かを知る目的でイヌの膵を全摘したところ,多尿が出現し,大量の尿糖が検出された.さらに膵組織を皮下に埋め込んだところ血糖が低下したことから,膵が血糖と関係することが初めて明らかとなった.1901年,アメリカの病理学者オピー(Eugene L. Opie, 1873-1971)は,糖尿病におけるランゲルハンス島細胞の変性を報告し,その後もランゲルハンス島と糖尿病の間の密接な関係を示唆する報告が相次いだ(図3).

  • 1. Langerhans P. Beiträge zur Mikroskopischen Anatomie der Bauchspeicheldrüse. Dissertation, Medizinische Fakultät der Fiedrich-Wilhelms-Universität zu Berlin. 1869
  • 2. Laguesse E. Sur la formation des îlots de Langerhans dans le pancréas. C R Soc Biol 45:819.82, 1893
  • 3. Opie EL. Disease of the pancreas. Its cause and nature ( Lippincott,1903)
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インスリンの発見

図4. バンティング(右)とベスト(左). イヌの膵管を結紮してインスリンを抽出した[PD]

図5. (左)マクラウド(John Macleod, 1876-1935). (右)コリップ(James Collip, 1892-1965) [PD]

20世紀初頭,糖尿病の治療は食餌療法以外になかった.特に当時のアメリカで広く知られていたのは,ハーバード大学の内科医アレン(Frederick Madison Allen, 1879-1957)による食餌療法(Allen's diet)で,炭水化物抜きの低カロリー食(400Cal/日)により尿糖を消失させ,尿糖が出現するまで徐々にカロリーを増やして行く方法であった.患者の多くはこれに耐えられず,これを守っても結局は低栄養で死亡し,余命は6-12ヵ月であった.

1921年,カナダ,トロントの開業医バンティング(Frederick Grant Banting, 1891-1941)(図4)は,トロント大学講師として学生の講義を受け持っていたが,炭水化物代謝の講義の準備中,アメリカの病理学者バロン(Moses Barron)の論文を目にした[1].それは4例の膵石症の症例報告であったが,膵石による膵管閉塞で膵実質が萎縮していたが,ランゲルハンス島細胞は温存されていたという内容であった.バンティングはこれを読んで,膵管を結紮することによりランゲルハンス島細胞のみを取りだし,ここから血糖を制御する物質を抽出できると考えた.相談を受けた生理学教授のマクラウド(John Macleod, 1876-1935)(図5)は,初めは難色を示したものの,夏期休暇中の8週間のみという条件で小さな実験室と助手の学生1名を提供した.学生候補は2人いたが,コインを投げて負けたベスト(Charles Best, 1899-1978)が助手となった(図4).1921年5月16日,2人はイヌの膵管を結紮し,6週間後に再開腹したが思うように膵が萎縮していなかった.期限が迫る中,大学と交渉して実験期間を延長し,7月27日,ようやく1/3に萎縮した膵を摘出し,その抽出液を,予め膵を全摘して糖尿病状態にしたイヌに静注したところ,高血糖で瀕死状態だったイヌの血糖値は2時間で低下し,劇的に回復した.しかしこの膵管結紮法はその後放棄され,バンティングはウシ胎児の膵から抽出する方法を採用した.その後化学者のコリップ(James Collip, 1892-1965)(図5)がメンバーに加わり,生化学的手法に改良を重ねて臨床に使用できる試薬を完成した,バンティングは,この物質を当初アイレチン(isletin)と呼んでいたが,その後マクラウドがインスリン(insulin)と命名した*1[2].

初の臨床例は,重症糖尿病の14歳のトンプソン少年(Leonard Thompson)であった.1922年1月11日,臀部にインスリン15mLを筋注し,血糖が440mg/dLから320まで低下したがケトン体は消失せず,注射部位に膿瘍を形成して不成功に終わった.しかし,コリップが用意したさらに純度を高めたインスリンを1月23日に再投与し*2,少年の血糖値は24時間で520mg/dLから120mg/dLまで低下した*3.その後臨床試験が行なわれ,その成果は1922年5月に発表されたが,インスリンの効果が一般にも報道されると,治療を求める患者がトロント大学に殺到し,バンティングの自宅の周囲に患者がテントを張って居座る患者まで出現したという*4

1923年,バンティングとマクラウドはノーベル医学賞を受賞した*5.バンティングは,ノーベル賞は自分とベストが受賞するべきであると主張して不満を隠さず,自らの賞金をベストと折半した.これを受けてマクラウドも,その賞金をコリップと折半した.

*1 インスリン(insulin)という名称については,エピネフリンの発見者で内分泌学の祖とされるシャーピー=シェーファー(Edward Albert Sharpey-Schafer)が,膵から分泌される血糖低下物質の存在を予測し,既に1913年にインスリン(insuline)と命名していたが,マクラウドはそれを知らずに命名した.

*2 バンティングとベストは,最初は膵管を結紮して変性させた膵組織から抽出を試みたが,その後ウシの全膵組織を処理する方法に変更した.当初は食塩水を使用したが,その後マクラウドの助言によりアルコールによる抽出方法を用いた.しかし研究の進展ははかばかしくなく,バンティングは同じトロント総合病院の病理学部門の生化学者で,以前から彼らの研究に関心を寄せていた生化学者コリップの参加を求め,コリップは1921年12月から研究に参加した.コリップの方法は,やはり全膵組織からのアルコール抽出法であったが,様々な工夫を加えてわずか1ヵ月ほどの短期間で高純度の抽出液を作り出した.バンティングとベストも,これと並行して研究をすすめ,1922年1月11日にトンプソン少年に初めて投与した製剤は,バンティングとベストが作ったものであったが,その効果が不充分であったことから,1月23日の2回目の投与にはコリップによる高純度の製剤を使用して治療に成功した(コリップが至適抽出条件を発見したのは1月16日であった).当時,バンティングとコリップの間には確執が芽生えており,バンティングはコリップとマクラウドが自分の功績を奪おうとしていると疑い,コリップはバンティングがコリップの製剤完成をまたずに臨床実験を開始したことに不満を抱いていた.このためコリップは,詳しい抽出方法をバンティングらに教えず,実験グループからの独立を求めるなどして,確執はその後も長くつづいた[5].

図6. 世界初のインスリン治療を受けた糖尿病患者トンプソン(Leonard Thompson, 1908-35).20歳頃.

*3 トンプソン少年(Leonard Thompson)(図6)は,は5月15日に退院したが,その時はインスリン製剤の供給が枯渇しており再び食餌療法に戻った.10月に重症ケトアシドーシスで再入院し,その後はインスリン療法を再開し,製薬会社員として社会生活を送った.27歳のとき,インフルエンザに由来する気管支肺炎に罹患し,昏睡状態となって死亡した.[3].

*4 この他にも,最初期にバンティングの治療を受けた患者の長期生存記録がいくつか知られている[4].元ニューヨーク州知事,最高裁長官のヒューズ(Charles Evans Hughes)の娘エリザベス(Elizabeth Hughes, 1907-81)は11歳で重症糖尿病を発症し重症の糖尿病であったが,1922年8月,16歳のときにバンティングの治療を受け,その後3人の子供に恵まれ,大学理事などとして広く活躍した.生涯を通じて自ら糖尿病を公にすることはなかったが,58年間にわたり42,000回のインスリン注射を行ない,73歳の天寿を全うした.ニュージャージー州のライダー(Theodore Ryder, 1916-)は,4歳で糖尿病を発症し,医師であった叔父がバンティングに治療を依頼した.1922年7月,5歳の時に治療を受けてまもなく急速に回復した.その後図書館司書となり,1993年,76歳で心不全で死去するまで合併症無く生涯を過ごした.インスリン投与は45,000回におよび,インスリンを世界で最も長期間使用した患者とされる.

*5 バンティングとベストの実験開始後,マクラウドは休暇に出かけてしまい実験中は不在であった.休暇から戻ったマクラウドにバンティングが実験成功を報告しても,マクラウドは初めは非協力的であったが,押し問答の末バンティングはようやく研究の継続を継続することができた.両者の関係は一貫して難しいものであったようで,後年バンティングはとマクラウドを激しい言葉で非難している[5].

  • 1. Langerhans P. Beiträge zur Mikroskopischen Anatomie der Bauchspeicheldrüse. Dissertation, Medizinische Fakultät der Fiedrich-Wilhelms-Universität zu Berlin. 1869
  • 2. Laguesse E. Sur la formation des îlots de Langerhans dans le pancréas. C R Soc Biol 45:819.82, 1893
  • 3. Wellington A. Leonard Thompson ever remembered: The first person to receive insulin. J Med Biograph 30:64-6,2022
  • 4. “Early Patients.” Defining Moments Canada: Insulin100, 2020. www.definingmomentscanada.ca</li>
  • 5. Bliss M. The discovery of insulin. (McClelland and Stewart, 1982)

原著論文

《1922 初のインスリン臨床応用》
膵抽出物による糖尿病の治療 - 予備報告
Pancreatic extracts in the treatment of diabetes mellitus - Preliminary report
Banting FG, Best CH, Collip JB, Campbell WR, Fletcher AA. Can Med Assoc J 12:141-6,1922

図7. 重症糖尿病男児の血糖値の変動.当初500mg/dL以上あった血糖が,膵組織抽出物の投与後は100mg/dL以下に低下している.

【要旨・解説】当時,動物膵組織の抽出物の糖尿病に対する臨床的意義はないとされていた.前半では,本論文に先だって,バンティングとベストは,この問題をあらためて追及すべく,膵を全摘したイヌに,膵外分泌線が未発達なウシ胎児の膵の抽出物を投与することにより,70日間延命できたことを述べている.

後半はこれを受けて,世界初の膵抽出物による糖尿病治療を報告している.患者は14歳男児,重症糖尿病の男児で,血糖値580mg/dL,ケトン体陽性. 1921年12月に入院し,食餌療法を試みたが改善がみられず,全身状態が悪化したため,1922年1月11日に膵抽出物を皮下注した.まだインスリンという名称はなく,extract (抽出物)と記載されている.しかし,尿糖,血糖がやや改善したものの臨床的改善は得られなかった.さらに精製して,濃度を高めた抽出物を1月23日から2月4日まで投与したところ,尿糖は著減し,血糖も100mg/dLまで低下し(図7),尿中アセトン体は消失し,全身状態も著しく改善した.この他にも,6例に同様の治療を試み,いずれも良い結果が得られた.

原文 和訳

関連事項

インスリンの先行研究

図8. 膵抽出物が糖尿病に有効であることを初めて示したツュルツァー(Georg Ludwig Zuelzer, 1870-1949)

バンティングらのインスリン発見以前にも,膵抽出物の投与による血糖低下を証明し,これを臨床応用しようとする試みは少なからずあった.

1908年,ドイツの生理学者ツュルツァー(Georg Ludwig Zuelzer, 1870-1949)(図8)は,膵臓の抽出物を6人の糖尿病患者に投与し,全例で尿糖,ケトンが減少し,1例は糖尿病性昏睡から回復したことを報告し,これを Acomatol と命名した.ツュルツァーは動物実験を繰り返してその効果を確認し,当初は発熱,嘔吐などの副作用があったが,アルコール処理することにより抽出物質の純度を高めてこれを克服し,製剤化にむけてスイスの製薬会社ホフマン・ラロッシュ(Hoffman La Roche)社の協力もとりつけた.しかし,痙攣や昏睡をきたすという新たな副作用の問題に直面した.後視的にみればこれは製剤の純度向上にともなうインスリン過量による低血糖症状であったが,ツュルツァーはこれを解決できず,折しも第一次世界大戦が勃発し,研究は中断した[1].

図9 膵抽出物の製剤化直前に研究を断念したパウレスク(Nicolae Paulescu, 1869-1931)

1916年,下垂体の切除実験にも功績のあるルーマニアの生理学者パウレスク(Nicolae Paulescu, 1869-1931)(図9)は,膵抽出液を糖尿病のイヌに投与して,血糖が低下することを示した.1919年,アメリカのクライナー(Israel Kleiner)も,膵抽出物を動物に投与して血糖降下作用を証明した.パウレスクは,第一次世界大戦応召後に実験を再開し,1921年に4編の論文にその成果を著し,この有効成分を pancreine と名づけ,ルーマニアで特許も申請している.1922年に3月には患者に静注し,「血糖がゼロになった」としているが症状については記載がない[2].

バンティングらは,実験開始時にはこれらの研究を知らなかったと思われるが,その論文にはパウレスクとクライナーを引用している.1923年にカナダのバンティングとマクラウドのノーベル生理学医学賞受賞が発表されると,ツュルツァー,パウレスクはいずれもノーベル賞委員会にインスリン発見の優先権を申し立てた.しかし彼らの製剤はいずれも不純物が多く,副作用が強かったのに対して,バンティングらのインスリンは臨床応用が可能なまでに精製されていた点で先行研究とは一線を画すものであった.またパウレスクは,強力な反ユダヤ主義者,優生思想の持ち主で,ルーマニア国内のユダヤ人虐殺などにも関与したことが,その医学的業績が評価されにくかった一因とされる.後年,バンティングの共同研究者ベストは,パウレスクらの先行研究の意義について訊ねられたおり,「彼らはその業績を世間にを信じさせることができなかった.どんな発見でも,科学界にそれを信じさせることは最も大切なことで,我々はそれを成し遂げたのだ」と述べている[1].パウレスクの業績は,再評価すべきとする声もある[3].

  • 1. Hall K. The discovery of insulin: a story of monstrous egos andtoxic rivalries. The Conversation (Jan 11, 2022)
  • 2. Bentia1 D, Saceleanu MV, Marinescu AA, et al. Centenary of insulin discovery (1921-2021): Nicolae Paulescu’s original contributions. Acta Endocrinol 1;7:406-11,2011
  • 3. Murray IAN. N. Paulesco and the Isolation of Insulin. J Hist Med Allied Sci 26: 150–7,1971

インスリンの臨床応用

図10. 初のインスリン製剤アイレチン(Iletin,リリー社) [CC0]

1923年,リリー社は初の商用インスリン製剤 Iletinを発売し*1,世界中で臨床応用が開始された(図10).その後のインスリン開発は,純度の向上,作用時間の延長を目指して進められた.初期のインスリンはブタやウシの膵臓から抽出,精製された.1926年にアメリカの薬理学者エイベル(John Jacob Abel, 1857-1938)*2が結晶化に成功し,純度は10倍以上改善されたが,不純物による注射部位の腫脹や疼痛,アレルギー反応などが少なくなかった.1970年代に,イオン交換クロマトグラフィなど様々な技術による高度精製インスリンが開発され,このような問題は解決した.作用時間については,初期のインスリンは,現在でいうレギュラーインスリンに相当し,作用時間が短いため毎食前に注射が必要であった.その後1938年にプロタミン亜鉛インスリン,1953年にはレンテインスリンなど作用持続時間の長い製剤が開発された.

さらに動物臓器に依存しないヒトインスリンの開発が進められた.インスリンのアミノ酸一次構造は1953年にサンガー(Frederick Sanger, 1918-2013)により決定されていた*3.ブタインスリンとヒトインスリンの構造はアミノ酸1個の違いだけであることを利用して,1978年に酵素を使ってブタインスリンからヒトインスリン化した半合成インスリンがノボ社から発売され,動物由来製剤に起因する副作用は激減した.さらに1979年には,リリー社が遺伝子組換えヒトインスリンを開発し,以後さまざまなインスリンアナログ製剤が製造されるようになった.

*1 バンティングは,「インスリンは私のものではない.世界のものだ」と言い,インスリンの特許をトロント大学に1ドルで売った.

*2 エイベルは,1899年にエピネフリン(アドレナリン)を単離し,その優先権をめぐって高峰譲吉と争った.

*3 サンガーは,インスリンのアミノ酸配列を決定したが,これは世界初の蛋白質のアミノ酸配列解析例であった.これにより蛋白質がアミノ酸の配列から成ることが確立され,サンガーは1958年にノーベル化学賞を受賞した.その後サンガーは,DNAの塩基配列決定法 (サンガー法)も開発し,1980年に2度目のノーベル化学賞を受賞した.

 

関連事項

経口糖尿病治療薬

《ビグアナイド系製剤》

図11 メトホルミン. グアニジン NH(NH2)2基を基本骨格とする.

古くから糖尿病に効くとされるさまざまな生薬があったが,1918年,そのひとつマメ科の植物ガレガ草(Galega officinalis) の有効成分がグアニジンであることが明らかとされ,その血糖低下作用が報告された.これをもとに,グアニジン基2個にさまざまな側鎖をつけたビグアナイド系と総称される物質が試みられ,1950年代にメトホルミン(metformin)(図11,ブホルミン(buformin),フェンホルミン(phenformin)が製品化された.ビグアナイド系製剤は,肝における糖新生を抑制することにより血糖低下作用を発揮する.これらの薬品は一時広く用いられたが,その後乳酸アシドーシスを来たすことが知られるようになって次第に使われなくなり,1978年には特に副作用の頻度が高いフェンホルミンは製造中止となった.しかしその後,メトホルミンが大血管合併症の抑制に有効であること,乳酸アシドーシスは他のビグアナイド系薬剤にくらべて重篤な背景疾患がない限り充分少ないことが明らかとなり,1990年代にあらためて臨床試験が行なわれて再評価され,2型糖尿病の第一選択薬として復活を遂げた[1].

《スルフォニル尿素系製剤》

図12. トルブタミド. 感染症治療用サルファ剤の研究から生まれた

ペニシリンの登場前,感染症治療薬として様々なサルファ剤が開発された.1941年,フランスのモンペリエ大学では腸チフスの治療薬として開発された新薬スルフォニル尿素製剤2245RPを患者に投与したところ,3例の死亡例が発生し,そのいずれも重度低血糖が原因と判明した.当時モンペリエ大学では.生理学者のルバティエール(Loubatière)が作用時間の長いプロタミン亜鉛インスリン(PZI)の研究をしていたが,この新薬による低血糖がPZIの作用に類似していることからインスリン分泌作用を持つと推測した.1946年にこれを学位論文として報告したが,臨床応用には至らなかった.1955年10月,ドイツのDMW誌に,新たなスルフォニル尿素製剤カルブタミド(carbutamide)の血糖低下作用に関する3編の論文が同時に掲載された.ここにはルバティエールの論文も引用されているが,スルフォニル尿素製剤の実用化という点ではこのドイツの研究が嚆矢となった.1956年,カルブタミドのアミノ基をメチル基に換えたトルブタミド(tolbutamide)(図12)が開発された.トルブタミドには抗菌作用はなく,β細胞からのインスリン分泌を促進する,副作用の少ない糖尿病治療薬として現在にいたるまで広く利用されている[2].

  • 1. Inzucchi SE.Bergenstal RM.Management of hyperglycaemia in type 2 diabetes: a patient-centered approach. Position statement of the American Diabetes Association (ADA) and the European Association for the Study of Diabetes (EASD). Diabetologia 55:1577-96,2012
  • 2. Bander A, Creutzfeldt W. Über die orale Behandlung des Diabetes mellitus mit N-[4-Methyl-benzolsulfonyl]-N'-butyl-harnstof(D860). Klinische und experimentelle Untersuchungen. Dtsch Med Wochenschr 81:823-46,1956.

ホルモンの歴史

図13. ワルトン著「全身の腺図譜」.膵の解剖図.膵管が描かれている[1]

ガレノスの時代から,機能がはっきりしない実質臓器は「」(αδένα, adena)と呼ばれた.例えば膵,脾,副腎,胸腺,前立腺,リンパ節,松果体などがこれに分類された.17世紀,顎下腺管(Wharton's duct)に名前が残るイギリスの解剖学者ワルトン(Thomas Wharton, 1614-73)は,その著書「全身の腺図譜」(図13)で,その解剖を詳細に記し,多くの腺には導管があることを示したが,導管のない腺も既に知られていた.甲状腺(glandula thyreoidea)を初めて命名したのもワルトンである.このような腺は,血管腺(les glandes vasculaires sanguines)と呼ばれ,ドイツの解剖学者ヘンレ(Friedrich Gustav Jakob Henle, 1809-85)は,このような臓器が物質を血管内に放出して血液の性質を変化させると考えた.1869年には,フランスのブラウン=セカール(Charles-Edouward Brown-Séquard, 1817-94)も,管のある腺,ない腺は,いずれも 血液に重要な要素を与えるとしている*1

フランスの生理学者 ベルナール (Claude Bernard)は,1855年の著書「実験生理学講義」 で内分泌(sécrétion interne)という言葉を使用しているが,これは肝の胆汁分泌を「外分泌」sécrétion éxterne,グリコーゲンを血中に放出する機能を「内分泌」としたもので,現在でいう内分泌の概念とは多少異なる.1893年,現在と同じ意味で内分泌(endocrine)という言葉を初めて使ったのは,膵のランゲルハンス島を命名したことで知られるフランスのラゲッセ(Edouard Laguesse, 1861-1927)である[2].

図14. スターリング(Ernest Henry Starling, 1866-1927). セクレチンを発見し,ホルモンという名称を提唱した.

内分泌腺から血中に放出される物質を ホルモン (hormone) と呼んだのはイギリスの生理学者スターリング(Ernest Henry Starling, 1866-1927)*2(図14)である.1902年,スターリングはベイリス(John William Bayliss, 1860-1924)とともに十二指腸から分泌されて膵の重炭酸塩分泌を促進するセクレチン(secretin)を発見した.その後1905年に特定の臓器から血中に分泌されて遠隔臓器に作用する化学物質をホルモン(ὁρµᾶν,horman 刺激するの意 )と呼ぶことを提唱し,以後この名称が広く使われるようになった.

*1 ブラウン=セカールは,1899 年に精巣が "dynamogenic substance" (活力生成物質)を産生しており,老齢動物,衰弱動物に投与すると活力を回復するとし,自ら2週間毎日注射して「若返った」 と発表して物議を醸した

*2 スターリングは,スターリングの心筋負荷の法則(心拍出量(SV)は左室前負荷(LVEDV)に依存する),毛細血管のスターリング仮説(毛細血管から間質への水移動量は,両者の静水圧差,浸透圧差に依存する)に名前が残る.

  • 1. Wharton T. Adenographia sive glandarum totius corporis descreptio, 1656
  • 2. Fossati P. Edouard Laguesse à Lille en 1893 crée le terme "endocine" e ouvre l'ère de l'endocrinologi. Hist Sci Med 38:433-40,2004

《甲状腺ホルモン》

図15. 左:粘液水腫の治療前.右:甲状腺抽出物の経口投与による治療後.全身の浮腫が消失している[3].

図16. サイロキシン(T4).ヨウ素(I) 4原子を含む.

内分泌腺の中で最初に詳しく研究されたのは甲状腺である.1835年,イギリスの外科医 グレイブス(Robert James Graves, 1796-1853)は甲状腺が腫大して,心悸亢進,眼球突出を来たす病態を記載し,1840年にはバセドウ(Adolph von Basedow)も同様の病態を報告し,Graves病あるいはBasedow病と呼ばれるようになった.1884年にレーン(Ludwig Rehn)はGraves病の甲状腺を切除するとこのような症状が消失することを示し,甲状腺の機能亢進が原因と考えた.甲状腺機能低下症であるクレチン症粘液水腫はそれ以前から知られていたが,1883年に甲状腺との関わりを初めて提唱したのはFelix Semonであった.さらにコッヘル鉗子で知られるスイスの外科医コッヘル(Theodore Emil Kocher, 1841-1917)は,甲状腺を全摘すると重篤な全身衰弱症状が出現することを示した.1891 年には甲状腺抽出物の皮下注,翌年には経口投与により甲状腺機能低下が改善したことが報告された(図15).初期の内分泌研究は,このように内分泌腺の抽出物を投与することが中心で,まだ個々の活性成分を抽出するには至らなかった.1914年,アメリカのケンダル(Edward Kendall, 1866-1972)が甲状腺ホルモンを単離してサイロキシン (thyoxin, 後に thyroxine. T4)(図16)と命名した[1,2]. トリヨードサイロニン(triiodothyronine, T3)は,1952年にピット=リヴァース(Rosalind Pitt-Rivers, 1907-90)が同定した.

  • 1. Connelly KJ, Park JJ, LaFranchi SH. History of the thyroid. Horm Res aediatr 95:546-56,2022
  • 2. Cawadias AP. The history of endocrinology. Proc R Soc Med 3:303-8,1941
  • 3. Shapland JD. The treatment of myxoedema by feeding with the thyroid gland of the sheep. Brit Med J 1:738-9,1893
  •  

《アドレナリン》

図17. 左:高峰譲吉.副腎髄質ホルモンアドレナリンの結晶化に初めて成功した.右:エイベル.エピネフリンを抽出したが,結晶化には至らなかった.

図18. アドレナリン. カテコール基 C6H6(OH)2 を基本骨格とする.

副腎の存在を初めて記載したのは,エウスタキオ管(耳管)に名前が残る16世紀のイタリアの解剖学者エウスタキウス(Bartolomeo Eustachi)であるが,その作用は不明であった.1855年,アジソン (Thomas Addison) は,皮膚の色素沈着,貧血,全身衰弱を来たす患者(Addison病)の副腎が萎縮していることから,これを副腎機能不全であると考えた.その後,動物の副腎を切除すると死亡することから,重要な物質を分泌している臓器であることが推測された.

1895年,イギリスの開業医オリバー(George Oliver)は,様々な物質による血圧変動を研究するうちに,副腎の抽出物に昇圧機能があることを発見し,生理学者のシャーピー=シェーファー(Edward Albert Sharpey-Schafer)とともに,副腎髄質に血管の収縮作用,昇圧作用をもつ物質を報告したが,特定の名称は提案していない.同年,ポーランドの生理学者シブルスキー(Napoleon Nikodem Cybulski)も,副腎に昇圧物質を発見し,これをnadnerczyna (ナドネルチャ,副腎の意)と呼んだ.1897年ドイツのフュルト(Otto von Fürth)はブタ副腎から昇圧作用のある物質を抽出し,スプラレニン(suprarenin)と呼んだ.1899年,アメリカの薬理学者エイベル(John Jacob Abel, 1857-1938)(図17)もやはり活性物質を抽出してエピネフリン(epinephrine)と命名した.しかしいずれも結晶化されず,作用も不確実であった.1900年,高峰譲吉 (図17)は副腎髄質組織から抽出した有効成分の結晶化に成功し,アドレナリン(adenaline)と命名した.これは化学物質として単離された初のホルモンである(図17).その後,カテコール基を基本骨格とする化学構造(図17)が決定されたが,これはその後一連のカテコラミン(ノルアドレナリン,ドパミン)の発見につながった.

高峰は,アドレナリンの結晶化成功の直前にエイベルの研究室を訪れて意見を交わしていた.このため,後にエーベルは高峰のアイデア盗用を示唆して非難したが,その後の高峰の実験ノートの研究などからもアドレナリンの真の発明者は高峰であることが確認されている.しかしアメリカではその後現在に至るまでエピネフリンの名称が使用されている.日本薬局方でも長らくエピネフリンと記載されていたが,2006年の日本薬局方改訂によりアドレナリンが正式に採用された.[1,2].

  • 1. Parascandola J. Abel, Tkamine, and the isolation of epinephrine. J Allergy Clin Immunol 125:514-7,2010
  • 2. Ball CM. The early history of adrenaline. Anaesth Intensive Care 45:279-81,2017

 

《副腎皮質ホルモン》

図19. 副腎皮質ホルモンを発見したケンダル(左),ライヒシュタイン(中),臨床応用への道を開いたヘンチ(右).そろって1950年にノーベル生理学医学賞を受賞.

副腎髄質から抽出されたアドレナリンは,アジソン病のような副腎機能低下症状には無効であったことから,副腎皮質に未知の物質が存在することが推測された.1930年,アメリカの生理学者ハートマン(Frank A. Hartman)は,仔ウシの副腎皮質抽出物がアジソン病に有効であることを示し,これをコルチン(cortin)と名づけた.既に甲状腺ホルモンの単離に成していたメイヨークリニックの生理学者ケンダル(Edward Kendall, 1866-1972)(図19)はパーク・デイヴィス社の協力を得て,副腎皮質から6種類の化合物を単離してこれを物質A~Fと名づけたが,中でも物質E(その後コルチゾン cortisonと命名,図20)が最も強力であった.ほぼ同時期,ビタミンC合成法を開発した経歴を持つスイスのライヒシュタイン(Tadeusz Reichstein, 1897-1996)(図19)もオルガノン社と協力してやはり副腎皮質ホルモンの抽出に成功し,その化学構造を明らかにした.問題は量産化であったが,米軍が軍事利用に関心を示して資金を提供したことからケンダルは臨床応用可能な製剤を手にすることできた.

図20. 物質E(コルチゾン).

ちょうどこの頃,ケンダルと同じメイヨークリニックのリウマチ内科医ヘンチ(Philip Showalter Hench, 1896-1965)(図19)は,以前から関節リウマチ患者が黄疸にかかったり妊娠すると症状が一時的に寛解することに気づき,これらの病態で体内に増加する物質がリウマチの治療薬になると考えて未知の物質を模索していた.ケンダルの研究成果を知ったヘンチは,この副腎皮質の抽出物が目当ての物質である可能性を考え,1948年,ケンダルから提供された物質Eをリウマチ患者に投与したところ寝たきりだった患者が歩けるまでに劇的に回復した.ヘンチはさらにこれが関節リウマチのみならず,種々の炎症性疾患,アレルギー疾患にも効果があることを示した.これにより,副腎皮質ホルモンの臨床適応が,アジソン病という稀な疾患に限られたものではなく幅広い用途があることが明らかとなり,量産されるにいたった.1950年,ケンダル,ライヒシュタイン,ヘンチは,「副腎皮質ホルモンに関する発見およびその構造と生理学的な作用の発見に対して」ノーベル生理学医学賞を受賞した[1].

  • 1.Burns CM. The history of cortisone discovery and development. Rheum Dis Clin North Am. 42:1-14,2016

《成長ホルモン》

図21. ヴェルガが初めて報告した末端肥大症患者の頭蓋.トルコ鞍の拡大が認められる[3].

図22. 末端肥大症という病名を初めて使用したマリーが報告した症例.37歳女性[4]

下垂体はガレノスの時代から知られていたが,当時は脳と鼻腔を連ね,四体液のひとつ粘液の通路としての認識であった(pituita は 粘液の意).その内分泌腺としての役割が初めて認識されたのは,末端肥大症や巨人症などとの関連においてであった.

末端肥大症や巨人症と思われる患者の記載は16世紀から散見され,18世紀には,医学標本収集家としても有名なスコットランドの外科医ハンター(John Hunter)が,末端肥大症の患者の骨格を自らのコレクションに加えたことは良く知られている.1864年,末端肥大症の患者の下垂体病変を初めて記載したのは,イタリアのヴェルガ(Andrea Verga)で,彼は prosopectasia (大顔症)と表現しているが,剖検でトルコ鞍部にクルミ大の腫瘍を認めた(図21).1886年,Charcot-Marie-Tooth病で知られるフランスの神経学者マリー(Pierre Marie)は,女性患者2例を報告し,末端肥大症(acromegaly) という病名を初めて使用した(図22).この時点では下垂体腫瘍への言及はないが,1890年に末端肥大症には常に下垂体の腫大を伴うことを示した.ほぼ同時期,1887年にはミンコフスキー(Oskar Minkowski)が,トルコ鞍拡大を伴う末端肥大の症例を報告している*1.1900年には,ドイツの病理学者ベンダ (Carl Benda) が,末端肥大症に好酸性下垂体腫瘍を伴うことを記載している.当時は,末端肥大症と巨人症は別の疾患と考えられていたが,その後発症年齢の差による同じ病態であることが認識された [1,2].

しかし,下垂体腫瘍と末端肥大症/巨人症の関係が明らかになるには意外に時間がかかった.その原因のひとつは,当初は下垂体腫瘍による下垂体機能の低下が末端肥大症の原因と考えられたことであった.また1901年にドイツのフレーリヒ(Alfred Frölich)が,下垂体腫瘍に肥満,外性器発育不全(Frölich症侯群)を呈する男児を報告し,下垂体腫瘍により全く異なる病態が発生することがさらに混乱を深めた.下垂体切除は高度の手技を要するため切除実験が難しかったが,ルーマニアの生理学者パウレスコ(Nicholae Paulesco)は安全確実に下垂体を切除できる側頭開頭法(subtemporal approach)を開発して,1908年に動物の下垂体を全摘すると24時間で死亡すること,前葉や茎部の切除でも同様であることを示し,1909年に脳外科医のクッシング(Harvey Cushing)もこれを確認した.

1921年,アメリカのエヴァンス(Herbert M. Evans)とロング(Joseph A. Long)は,ウシの下垂体前葉抽出物をラットの腹腔内に投与し,巨大なラットを作り出すことにより,下垂体に成長促進物質が含まれることを示した.また逆に,ラットの下垂体を切除すると,発育が低下することもわかった.このような知見を背景に,1930年代には,小人症にウシ下垂体抽出物の投与が試みられ,ある程度の効果はあったものの不確実であった.1944年にはウシの下垂体から,初めて成長ホルモンが単離されたが,成長ホルモンの効果には種特異性があることが示され*2ヒト成長ホルモンの精製が課題となった.1957年にRabenがヒト下垂体からの抽出法を確立し,翌年にはその臨床応用に成功した.ヒト成長ホルモン(hGH)のアミノ酸配列が明らかになったのは1970年代で,1980年代になって遺伝子工学的に合成されるようになった [1,2].

*1 ミンコフスキーが報告した症例は,30歳の音楽家で,バイオリニストであったが指が太くなりすぎて弾けなくなり,フルートに転向したがまもなく口唇が肥大して吹けなくなり,最後は視力障害で楽譜が読めなくなったという[Minkowski O. Über einen Fall von Akromegalie. Berl Klin Wohenschr 24:371,1887].

* 1959年,霊長類は霊長類の成長ホルモンにしか反応しないことが示された[Kobil E, Greep RO. The physioloy of growth hormone with particular reference to its action in the rhesus monkkey and the 'species specificity' problem. Rec Prog Horm Res 15:1-58,1959]

  • 1. Kaplan SA. The pituitary gland: a brief history. Pituitary 10:323-5,2007
  • 2. de Herder WW. The history of acromegaly. Neuroendocrinol 103:7-17,2016
  • 3. Verga A. Caso singolare de prosopectasia. Reale Istituto Lombardo di Scienze e Lettere Rendiconti Classe di Scienze Matematiche e Naturali 1:111-7,1864
  • 4. Marie P: Sur deux cas d’acromégalie; hypertrophie singulière non congénitale des extrémités supérieures, inférieures et céphalique. Rev Med Liege 1886; 6: 297-333