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細菌学と消毒法

ゼンメルワイスの消毒法

図1. ゼンメルワイス(Ignaz Semmelweis, 1818-1865).

人類はその長い歴史の中で,ある種の病気が局所的に同時発生したり,人から人へ伝染することを経験的に知っていた.では病気を運ぶものは何か? これには大きく2つのとらえ方,ミアズマ説とコンタギオン説があった.ミアズマ(miasma)は,ガスのようなもの("妖気")で,これが町に拡散して多くの人に病気をもたらすと考えられた.コンタギオン(contagion)は病人との接触や,衣服,寝具を介してうつる正体不明の物質で,傷の化膿もこれが原因と考えられた.コンタギオン=病原微生物と考えれば,当たらずといえども遠からずであるが,19世紀に病原微生物の概念が成立するまで,その本態は不明であった.

コンタギオン説を一歩進めて,感染予防の手段を初めて講じたのは,オーストリアの産科医ゼンメルワイス(Ignaz Semmelweis, 1818-1865)である(図1).当時,母体の産後死亡率は平均13%,最大30%とされ,その多くが産褥熱であった.現在の知識では,産褥熱は分娩後子宮の細菌感染であるが,この時代,原因は全く不明であった.しかしゼンメルワイスはある事実に気づいた.彼が勤めるウィーン総合病院の産褥熱死亡率は,第一病棟では13%で,時に50%にまで上昇するのに,隣の第二病棟では2〜3%以下であった.第一病棟は主に医学生,第二病棟は助産婦の教育に使われていた.さらに彼は,第一病棟の産婦死亡率が,患者の病理解剖を医学生が行う教育システムが導入されて以降,急上昇していることを知り,病理解剖と産褥熱に何らかの関連があると推測した.折しも,同僚の病理学者が,病理解剖の際に指に負傷しその直後に高熱を出して死亡するという事件が発生した.ゼンメルワイスは,その症状と解剖所見が,産褥熱の女性と全く同じであることに気づいた.

図2.ウィーン総合病院の産褥熱死亡率の変化.ゼンメルワイスが消毒法を導入してから(矢印),死亡率が激減している.[1]

第一病棟では,素手で病理解剖を行った医学生がそのまま分娩を介助していた.ゼンメルワイスは,屍体粒子(Kadaverteile) が屍体から医学生の手に付着して産婦に移行し,産褥熱を起こすと推測した.そこで1847年,彼は医学生が病理解剖後に分娩室に入る時は,当時解剖台の消臭剤として使用されていた次亜塩素酸カルシウムとブラシで手を洗うというルールを作った.すると,第一病棟の産婦死亡率は3%にまで低下した(図2).これは驚くべき成果であり,高く評価されるべきところであったが,ゼンメルワイスは周囲の医師の冷たい視線を浴び,結局ウィーンを追われる結果となった*1.その理由はいろいろあったが,医療行為が産褥熱の原因であるということを当時の医師が認めようとしなかったことに加え,ハンガリー語を母国語とするゼンメルワイスがドイツ語で論文を発表しなかったことや,ウィーン三月革命(1848)の最中にあって革命を支持するゼンメルワイスが周囲に疎まれたことも一因とされる.故郷ハンガリーに戻ったゼンメルワイスは,ブダペスト大学教授となってここでも産褥熱の低減に貢献したが,結局精神に変調を来たし,収容された精神病院の看護人から暴行を受け,非業の死を遂げた*2.そして,この画期的な消毒法も忘れ去られてしまった.

*1 ゼンメルワイスは,ハンガリー帰国後もウィーン医学界を批判し続け,それが受入れられないために憤死したとも言われるが,最近の研究ではアルツハイマー病であったと推測されている[2]. ゼンメルワイスは20世紀後半になってようやく再評価され,1969年には創立200周年を迎えた首都ブタペストのペスト大学医学部がその功績を讃えてゼンメルワイス医科大学と改称された.またその生家は,ゼンメルワイス医学史博物館となっている.

*2 ウィーン大学の中で,近代皮膚科学の父とされるヘブラ(Ferdinand von Hebra, 1816-80)だけが,ゼンメルワイスの方法論をを擁護した

  • 1. Stang A, Standl F, Poole C. A twenty‑first century perspective on concepts of modern epidemiology in Ignaz Philipp Semmelweis’ work on puerperal sepsis. Eur J Epidmiol 37-437-45,2022
  • 2. 佐藤裕. ハンガリー医学史瞥見. 日本医史学雑誌 53:94-5,2007

パスツールの微生物病原説

ゼンメルワイスは消毒法を発明したが,産褥熱を引き起こす原因,「死体粒子」の本態は依然として謎であった.現在の知識から言えばもちろん細菌であるが,この時代,微生物の存在は知られていたものの,そこに疾病の原因を求める発想はなかった.自然科学の最先端をゆくのはドイツであったが,とくに急速な化学の発展を背景とする当時のドイツ医学は,疾病の原因もすべて生体の化学反応に求める風潮にあった.微生物が病気を引き起こすという現在では当たり前の知識を確立したのは,フランスの化学者パスツール(Louis Pasteur,1822-1895)であった.

ワインの発酵を研究していたパスツールは,発酵現象が微生物によるものであることを発見し,ワインの腐敗もまた微生物によるものであることをつきとめて,これを防ぐ方法として低温殺菌法(pasteurization)を発明した.また当時養蚕農家で問題となっていた蚕の病気を研究し,これが微生物によることを発見したことから,人間の病気も微生物によるものではないかと考えた.すなわち「微生物病原説」(germ theory)である.この考え方は,現在ではあまりに当然であるが,当時の化学偏重の医学界にあっては画期的な説であり,1860年~70年代にさまざまな実験を通して確立された.

関連事項

微生物自然発生説の否定

図3.パスツールの実験.フラスコに煮沸した肉汁を入れ,上の2つは密封,左下は開放した白鳥の首型のガラス管.右下は首を折った状態.右下のみ細菌が増殖している[1] 

パスツールは,病気が微生物によることを示したが,では微生物はどこから来るのか? 当時,微生物は有機物から自然発生すると考えられていた.この微生物自然発生説を支持する有力な証拠は,肉汁を煮沸しても放置しておくと,やがて微生物が発生して腐敗する現象で,これは肉汁に含まれる有機物質から微生物が生れるためであると考えられた.しかしパスツールは,これは空気中の微生物が肉汁中に自然落下して増殖するものであると主張し,1861年にこれを有名な鳥の首型フラスコの実験によって証明した[1](図3).

すなわち,フラスコの中に煮沸した肉汁を入れておいても,上部のガラス管を密封したり,あるいは開放しても細長く弯曲した状態では細菌が増殖しないが,ガラス管の首を折って直接空気に触れるようにすると細菌が増殖することから,肉汁に増殖する細菌は空気中から落下したものであることを示し,これによって,微生物自然発生説は否定された

  • 1. Pasteur L. Sur les corpuscules organisê qui existent dans l'atmosphere. 1861

 

リスターの無菌手術

図4.リスター(Joseph Lister, 1827-1912).石炭酸による世界初の無菌手術に成功した [PD]

図5. リスターが使った石炭酸噴霧器 [PD]

パスツールの病原微生物説を知ったイギリスの外科医リスター(Joseph Lister, 1827-1912)(図4)は,傷の化膿も水や空気中の微生物によるものではないかと考えた.リスターが勤務するグラスゴー大学では,術後の敗血症による死亡率が40%にも達していた.パスツールは肉汁を煮沸すると微生物による腐敗を防げることを証明していたが,リスターはいろいろ試した結果,従来さまざまな皮膚疾患や創傷の治療薬として,あるいは汚水の消臭剤として利用されていた石炭酸(フェノール)が有効な消毒薬であることを見いだした.

1865年8月12日,奇しくもゼンメルワイスの死の前日,世界初の無菌手術を行った.患者は馬車に轢かれて脛骨複雑骨折を負った11歳の少年で,石炭酸に浸したガーゼで創部を覆って固定することにより少年の傷は化膿することなく,単純骨折と変わらない経過で治癒した(→原著論文).当時,複雑骨折は放置すれば化膿することから切断術が原則であり,下肢切断術の死亡率は40〜50%であった.リスターはさらに症例を積み重ね,1870年代には創部だけでなく手術室に石炭酸を噴霧する方法を考案した(図5).リスターの無菌手術法は,全身麻酔の導入とともに外科手術に大変革をもたらした.

リスターはゼンメルワイスの業績を知らなかったが,その消毒法は本質的にゼンメルワイスと同じである.時代の徒花と消えたゼンメルワイスと異なり,リスターは消毒法の父として医学史にその名をとどめ,その功績を称えてナイトに叙せられている.ゼンメルワイスはひとえに不運であったと言えよう.

 


原著論文

《1867 初の無菌手術成功》
複雑骨折,膿瘍などの新しい治療法,特に化膿の条件について. 第1部 複雑骨折
New method of treating compound fracture, abscess, etc. with observations on the conditions of suppuration. Part I. On compound fracture
Lister J. Lancet 89:326-9,1867

【要旨・解説】 無菌手術を実現して外科手術に大変革をもたらしたリスターによる,石炭酸の臨床応用の初報である.本稿はLancet 1867年3月16日号に掲載されたもので,症例1~4の報告であるが,これに続いて7月27日まで計5回にわたって初期の複雑骨折11症例が紹介されている*.症例1は,1865年8月12日に行われた世界初の無菌手術成功例として有名な,11歳男児の下肢脛骨の複雑骨折例で,創部に石炭酸に浸したガーゼをあて,副子で固定したところ化膿することなく,6週後に治癒した.当時,複雑骨折は化膿する前に四肢切断することが原則で,四肢切断術の成功率は低かったことから,この症例のように複雑骨折を単純骨折に転換して治療できることは画期的であった.2例目も脛骨骨折で,一時的に回復したものの,リスターが不在にしている間に壊疽により死亡した.初期の11例については,この他症例6が,骨片による動脈損傷で死亡したが,その他は大きな感染徴候を示すことなく治癒している.石炭酸を局所に使用すると,一時的に化膿が見られるが,これは石炭酸による刺激のためで,放置して良いとしており,最終的に創傷は肉芽を形成して治癒し,複雑骨折も単純骨折と同様に扱うことができるとしている.

この時点では,石炭酸の使用は創局所にとどまっているが,リスターはその後実験を重ねてさらに術野,手術室内にも石炭酸を噴霧する方法を提案,実践しており(図5),これは1868年に発表している[1,2].しかし,

* 本稿のタイトルには「第1部 複雑骨折」 とあるが,続報に「第2部」の記載はない.

  • 1. Lister J. An address on the Antiseptic system of treatment in surgery. Brit Med J 2(394):53-56, 2(396):101-102, 2(409):461-463,2(411):515-517,1868
  • 2. Lister J. On a case illustating the present aspect of the antiseptic system of treatment in surgery. Brit Med J. 1(524):30-32,1871

原文 和訳


細菌学の父コッホ

パスツールの病原微生物説をさらに推し進めたのが,細菌学の父と称されるドイツの医師コッホ(Robert Koch, 1843-1910)である.コッホは田舎の開業医として患者の診療にあたる傍ら,診療所の片隅の研究室で炭疽病の研究をしていた.炭疽病は,農民の貴重な財産である牛や羊の皮膚や内臓を侵す致命的な感染症で,人間にも伝染して命を奪うことから,その当時大きな問題となっていた.1873年,コッホはついに炭疽病の原因と考えられる細菌,炭疽菌を発見した.しかし,権威主義に固まった当時のドイツの医学界にあって,一介の開業医の研究など首都ベルリンの医学者に相手にされないことを十分に承知していたコッホは,念には念を入れ,自ら発見した細菌が炭疽病の病原であることを一分の隙もなく証明した.すなわち,(1)患部には必ずその病原体が存在すること,(2)その病源体を分離培養できること,(3)分離した病原体を他の動物に感染すると同じ病気が起こること,(4)その動物から,同じ病原体が分離できることを徹底的に示した.これは現在,コッホの四原則*とされるもので,その後現在に至るまで病原微生物学の基本である.緻密な論理に支えられたコッホの論文は,ベルリンのみならず世界の医学者の認めるところとなった.炭疽菌の発見は,微生物が病気の原因となり得るという,現在は当たり前の事実を初めて実証したという点で,医学史上きわめて大きな意義を持つ.

* コッホの原則(Koch's postulates).この考え方は,疾患の微生物原因説の嚆矢ともいえるコッホの師ヘンレ(Friedrich Gustav Jacob Henle, 1809-85)が唱えたもので,(1)~(3)をヘンレの法則,(4)を加えたものをコッホの法則ということもある.その内容には教科書により多少のバリエーションがある.

図6. 組織中の結核菌の鏡検図(青い桿状の構造が結核菌) [3]

1882年,コッホはさらに結核菌を発見した(→原著論文)(図6).結核は古くから知られていたが,特に18世紀末から19世紀初頭にかけてヨーロッパ各地で産業革命が進んだことが引き金となり,大きな社会問題となった.各地から都会に集められた労働者が,狭い工場に押し込められ,劣悪な環境の下に置かれた結果,都市を中心に大量の患者が発生,さらに汽車,汽船など交通手段の発達でこれが各地に拡大したためである.徐々に全身がむしばまれて衰弱,吐血,死に至る不治の病で,次第に青白くなっていく患者の様子から「白いペスト」とも言われて恐れられ,死因の第1位,7人に1人がかかり,罹患すればその1/3が死亡するという恐怖の病であった.従って,その原因究明の報は,医学界のみならず社会全般に大いなる賞賛と治療法開発への期待をもって迎えられた.しかし,結核の治療法が確立するにはなお数十年を要した(→関連事項:ツベルクリン事件).1884年にはエジプト,インドに赴いて現地で診療にあたり,コレラ菌を発見した (→関連事項: コレラ菌の再発見).

コッホの研究を皮切りに,以後19世紀後半には淋菌(1879年,Albert Neisser),チフス菌(1880年,William Budd),マラリア原虫(1880年,Charles Laveran),ジフテリア菌(1884年,Edwin Klebs, Friedrich Löffler),破傷風菌(1884年,Arthur Nicolaier),ペスト菌(1894年,北里柴三郎,Alexandre Yersin),赤痢菌(1897年,志賀潔)など,病原微生物が次々と発見された.1905年,結核に関する研究に対して,第5回ノーベル生理学医学賞を受賞した.

原著論文

《1882 結核菌の発見》
結核の病因
Die Ätiologie der Tuberkulose
Koch R. Berlin Klin Wochenschr 19:221-30,1882

【要旨】結核病原菌の同定,分離,培養を行った.染色法としては,メチレンブルーと褐色のベスビン液(=ビスマルクブラウン)の重染を採用した*.メチレンブルーの染色には室温で24時間を要するが,40℃に加熱すると1時間以下となる. これにより結核菌は鮮やかに青染し,他の細菌は褐染するため結核菌を容易に識別できる.

こうして鏡検した結核菌は,細長い桿菌で,長径は赤血球の1/4~1/2で,癩菌に酷似し,運動性をもたない.組織中に巨細胞が存在する場合はその内部に好発する.ヒトの結核病巣(肺,脳,腸,リンパ節,関節),動物(ウシ,ブタ,ニワトリ,ウサギ,モルモット)の結核病巣の全例で,結核菌が検出された.複数の研究者が結核菌発見を報告しているが,その記載は明らかにこれと異なり,雑菌が観察されていたものと思われる**

結核症と結核菌の存在の因果関係を確認するために,結核菌の分離培養を行った.培地にはウシ,ヒツジの加熱凝固血清を使用した.動物やヒトの結核病巣から得た材料を培地に接種して37~38℃の恒温槽におくと,最初の1週間は何も変化がないが10日目以降に微細な点が出現し,数週で特徴的なコロニーが完成する.

ヒトや動物の病変から得た結核材料あるいは培養して得られた結核菌をモルモットに接種すると,モルモットは4~6週で死亡し,肝,脾など内臓に結核病変が認められた.さらにこれらの動物から得られた材料を,マウス,ラット,ハムスター,ウサギなど他の動物の皮下,腹腔,前眼房などに接種し,症状,病変の再現を確認した

結核の感染経路としては,空気中の塵埃を介して呼吸器から感染する可能性が高い.結核患者の喀痰からは大量の結核菌が検出され,乾燥した喀痰により動物が感染することが証明された.結核菌が結核症の病源菌であることが証明されたことから,今後その臨床応用が期待される.

* 学会発表の聴衆のひとりであったエールリヒは,口演終了後にコッホから結核菌を入手して,その日のうちに自分の研究室で新しい染色の開発を開始し,わずか1週間で新しい染色法を開発した.これはアニリン色素のフクシンで染色し,硝酸で脱色してメチレンブルーで後染する方法で,結核菌の細胞壁は抗酸性のため脱色されず赤染し,他の菌は青染することから結核菌を容易に同定できる.コッホはこれを高く評価してその後の研究に採用した.現在結核菌の標準的染色法とされるZiehl-Neelsen染色は,このエールリヒの方法の変法である.

**本稿でコッホは,結核菌の芽胞について何回も言及している.当時よく研究されていた炭疽菌と同様に,結核菌も芽胞を形成すると考えられていた.その後これは否定されたが,現在もなお結核菌芽胞の存在を示唆する研究があり,完全には決着していない[1].

【解説】コッホが結核菌発見を初報した画期的な論文である.1882年3月24日*のベルリン生理学会**で発表した内容を4月10日発行の雑誌したものである.この学会の出席者は36名で,その中にはエールリヒ(Paul Erhlich),レフラー(Friedrich Löffler)らもいた.この発表は,4月22日にイギリスのThe Times,翌23日にアメリカのNew York World,5月3日にNew York Timesなど欧米の一般紙にも報じられ,瞬く間に世界中の知るところとなった[2].

* 1997年,WHOはコッホがこの発表を行った3月24日を「世界結核デー」(World Tuberculosis Day)と定めた.

** この時コッホが,ベルリン病理学会ではなくあえて生理学会で発表した理由については,当時病理学会を牛耳っていたウィルヒョウ(Rudolf Virchow, 1821-1902)への配慮があったとも言われる[2].当時,細胞説を唱えるウイルヒョウ は,すべての疾患の原因を細胞機能の内在的な変調にもとめ,微生物のような外因には否定的であった.実際,本稿の発表後も,ウィルヒョウらはその結論に懐疑的であった.

論文の最後にこの研究は「この研究は,保健上の関心から行われたものであり」という下りがある.これは当時コッホは「帝国保健局」の職員であったためであるが,まさに結核は当時最大の公衆衛生学的問題であった.論文の冒頭に記載されている通り,当時は全人口の1/7が,生産性の高い中年層の1/3が結核で死亡していた.しかし結核が感染症であるという確実な証拠は得られていなかった.また,粟粒結核,肺癆,瘰癧,結核性関節炎など様々な病態が,本当に同じ原因によるものかということも不明であった.本論文の方法論は,「コッホの四原則」をまさに体現したもので,結核菌を分離同定し,これが結核症の原因であることを明示することにより,これらの問題を一気に解決し,以後現在にいたる結核研究の原点 となった記念碑的論文である.

この2年後の1884年に,コッホは本稿を大幅に補筆した論文を著した[3].1882年の論文では,先行研究の引用に不充分なところがあるが,1884年の論文ではこの点が補完され,またエールリヒの染色法についても記載されている[3].また1882年の初報には図版が掲載されていないが,1884年の論文には50点以上の図版が掲載されている(図6).

  • 1. Traag BA, Driks A, Stragier P, et al. Do mycobacteria produce endospores? Proc Nat Acad Sci 107:878-81,2010
  • 2. Sakula A. Robert Koch: centenary of the discovery of the tubercle bacillus,1882. Thorax 27:246-51,1982
  • 3. Koch R. Die Aetiologie der Tuberculose. Mittheilungen aus dem Kaiserlichen Gesundheitsamt 2:1-99,1884

原文 和訳

関連事項

ツベルクリン事件

図7.大衆紙に掲載された,聖ジョージの竜退治になぞらえて結核に立ち向かうコッホを揶揄した漫画 [1]

1890年,コッホは結核菌の発育を抑える物質を発見したと発表した.このニュースは,ただちに世界中を駆けめぐり,結核菌発見をさらに上回る大反響を呼び起こした.コッホのもとに世界中から患者が押しかけ,ベルリン市内はホテル不足に陥るほどであったという.このとき,この物質にはまだ名前がなかったが,その後ツベルクリン(tuberculin)と名付けられた.ツベルクリンは破砕結核菌のグリセリン浮遊液で,「ツベルクリン反応」として現在も結核の診断法のひとつとして利用されているが,治療効果はない.コッホの発表は誤りであった.実際にその後約1年間,2,000人以上がツベルクリンの治療を受けたが,無効なばかりか悪化する患者が続出した.賞賛と期待は一気に誹謗と失望に転じた(図7). 

なぜコッホが,このような過ちを犯したのかについては諸説ある.5年前の1855年,フランスのライバル,パスツールが狂犬病ワクチンを開発し,また1890年には自らの弟子であるベーリングがジフテリア血清療法に成功するなど,自らの業績の翳りへの焦りがあったとか,結婚生活の破綻などが理由として挙げられているが,いずれにせよ大学者コッホ,痛恨の大失策であった[1]. 

  • 1. Ligon BL. Semin Pediatr Infect Dis 13:289-9,2002. Robert Koch: Nobel  laureate and controversial figure in Tuberculin research.

コレラ菌の「再発見」

図8. コレラ菌を初めて記載したパチーニ(Filippo pacini, 1812-83) [PD]

コレラ菌の発見者はコッホとされることが多いが,正確にいうとコッホはコレラ菌を「再発見」した.コレラ菌を初めて記載したのは,イタリアの解剖学者で,神経終末のパチーニ小体に名前が残るパチーニ(Filippo pacini, 1812-83)である(図8).1854年,フィレンツェでコレラが大流行した際,パチーニは死亡した入院患者と病院の洗濯婦の解剖を行ない,腸粘膜の組織から桿菌を発見し,これをvibrio choleraと命名した.さらにコレラの病態は,この病原体の腸粘膜に対する作用に起因する大量の水と電解質の喪失であることを的確に指摘し,食塩水の経静脈性投与を推奨している.しかし当時,コレラの原因は瘴気(ミアズマ)説が優勢で,まだ細菌が疾患の原因となることが一般に認められていなかったため,この業績は注目されないままに放置された.

1884年,コッホがあらためてコレラ菌の純粋培養成功を報告し,コンマ状であることからこれを comma bacillus と呼んだ.コッホはパッチーニの研究について何も触れていない.同年イタリアの細菌学者Vittore Trevisaはこれがパッチーニの発見した菌と同一であることをただちに指摘して Bacillus choleraeと命名し,Lancet誌でもパッチーニの先行研究が指摘されたが,その後もパッチーニの功績は軽視され続けた.現在の学名 Vibrio cholerae は1896年にドイツの細菌学者Pfeifferが命名したものであるが,1964年,アメリカのRudolph Hughの提案により,正式名称として Vibrio cholerae (Pacini 1854)が採用され,ようやくパッチーニの功績が認められた.なおコッホも,コレラ菌を動物に感染させて発症することには成功しておらず,ことコレラに関してはコッホの四原則が成立していなかった.コレラ菌とコレラの因果関係が最終的に証明されたのは1959年のことで,インドの内科医Sambhu Nath Deが,コレラ菌毒素を健常人に接種してコレラの症状が起こることを示した[1,2].

  • 1. Lippi D, Gotuzzo E. The greatest steps towards the discovery of Vibrio cholerae. Clin Microbiol Inrct 20:191-5,2013
  • 2. Rao MS. Original observations of Filippo Pacini on vibrio cholera. Bullet Ind Inst Hist Med 8:32-8,1978
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パスツールとコッホ

図9.パスツール(Louis Pasteur,1822-1895)[PD]

図10.コッホ(Robert Koch, 1843-1910)[PD]

フランスのパスツール(図9),ドイツのコッホ(図10)は,ほぼ同時代に活躍し,病原微生物学の創始,発展に重要な役割を果たした二大巨人であるが,医学史におけるそれぞれの位置づけはやや異なる.パスツールは化学者であり,光学異性体の発見者であるが,その過程で酒石酸の光学異性が微生物によって変化することから,アルコール発酵や酢酸発酵が微生物によるものであることを発見した.ここから細菌研究に足を踏み入れたが,パスツールの細菌培養法はフラスコ内の液体培地を利用するものであった.

一方のコッホは,医学者であり臨床医でもあった,細菌研究を進めるうちにシャーレ内の固形寒天培地による培養法を発明したが,寒天培地は現在も細菌学の研究に不可欠なもので,液体培地にくらべて扱いが容易であり,特に個々のコロニーを分離できるという大きな利点がある.コッホはこれを活用して次々と新しい病原菌を発見した.パスツールは,微生物病原説,微生物自然発生説の否定など,微生物学の基本原理の構築に大きく貢献しながらも,実際の細菌同定,発見という面ではコッホに大きく譲ったことは,化学者と医学者という背景の違いに加えて,この培養技術の差が大きく影響している.

なお,両者が犬猿の仲であったことは有名である.その背景には,学問的な問題以上に,普仏戦争(1870-71)後まだ間もないドイツ,フランス両国間の根強い反目感情があった.パスツールは「科学に国境はないが,科学者には祖国がある」と発言している.加えて言葉の問題もあった.パスツールはドイツ語を全く解さず,コッホはフランス語を多少読めたが話せなかった.両者が会した1882年の学会で,パスツールが「ドイツの論文集(recueil allemand)」と発言したのを通訳が「ドイツの傲慢(orgueil allemend)」と聞き違えて訳したために,激昂したコッホは突然席を立ち,パスツールもコッホの無礼な態度にこれまた憤激したというすれ違いの場面もあった.パスツールの反独感情は最後まで解けることなく,ドイツから贈られた名誉学位を返上し,晩年にはドイツ政府の勲章を拒絶している.しかし,この二人の巨人が細菌学を一気に推し進め,20世紀における感染症医学の目覚ましい発展の礎を築いたことは確かである[1].

  • 1. Hal H. Pasteur versus Liebig, Pouchet, and Koch. In: Great feuds in Medicinie (John Wiley & Sons, 2001)
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癩菌の発見

図11.癩病(ハンセン病)で変形した手 [CC BY-SA 3.0]

癩病 (ハンセン病, lepra)*1は,癩菌(mycobacterium leprae)の感染症である.癩菌を発見したのはノルウエーの医師ハンセン(Gerhard Henrick Armauer Hansen, 1841-1912)(図11)で,1873年に報告しているが,これはコッホによる 炭疽菌の発見 と同年である.癩菌は全身臓器に感染するが,比較的低温(32℃前後)を好んで発育するため深部臓器の病変は顕性化しにくく,皮膚,末梢神経の病変が前景に立つ.Schwann細胞に親和性が高いため,皮疹に一致して末梢神経障害による知覚鈍麻や運動麻痺を認めることが多く,特徴とされる.しばしば変形が強く醜形を来す(図11).

紀元前1600年頃のエジプトの医学パピルス,2世紀のインドの医学書アーユルヴェーダにも記載がある.近年のゲノム研究によれば,癩病は東アフリカ紀元でこれがヨーロッパに伝わったものと考えられている.聖書にはキリストが癩患者に触れて治癒させる場面が登場する.ただし,古代,中世の癩病の記載は,他の重症皮膚病をさして呼ばれることもある*.ヨーロッパでは,十字軍により拡大し,各地に「ラザレット」(癩施療院)が設けられた.アメリカ大陸には存在しなかったが,16世紀以降にヨーロッパから持ち込まれて蔓延した.南太平洋,ポリネシアにも存在しなかったが,欧米から持ち込まれて19世紀にハワイで大流行が見られた.ハワイ王国政府は患者をモロカイ島に隔離し,事実上棄民した.当時ハワイで布教活動を行っていたベルギーの宣教師ダミアン神父(Father Damian, 1840-89)は,1873年にモロカイ島に渡りその生涯を患者の生活改善,福祉に捧げ,自らも癩病に斃れたことは良く知られている(1995年にローマ教皇庁により聖人とされた).

図12.ハンセン(Gerhard Henrick Armauer Hansen, 1841-1912).癩菌を発見した [PD]

図13.ダニエルセン(Daniel Cornelius Danielssen, 1815-94).遺伝説を主張しハンセンの感染説を認めなかったが,ハンセンの研究を支援した [PD]

ノルウェーでは,1800年代から癩病が急速に拡大した.1839年にベルゲンの癩病院の診療部長に就任した内科医ダニエルセン(Daniel Cornelius Danielssen, 1815-94)(図13)が,皮膚科医のベック(Carl Wilhelm Boeck, 1808-75)と共著で,その直前の1847年に著した 「癩病について」(Om Spedalskhed)は,癩病に関する初のまとまった研究書で,癩病研究のためにノルウェーを訪れたドイツの病理学者ウィルヒョウもこれを高く評価した.ダニエルセンは,癩病は遺伝性の血液疾患であるとして,感染症を否定した.実際ダニエルセンは,患者の癩結節の抽出物を自分や看護人に接種する人体実験を試みたが,いずれも感染しなかった.1849年にベルゲンに癩病専門病院が新設されると,ダニエルセンは所長に任命された.1868年,医学部卒業2年目にしてここに配属された若い内科医ハンセンは,眼科医ブル(Ole Bull, 1842-1916)とともに癩性眼炎の研究を開始したが,その過程で癩菌を発見し,1873年の論文で癩病が感染症であることを示した*2[1].しかし培養,動物感染実験は不成功におわり,コッホの四原則を確認できないままであった*3.ハンセンは癩菌の染色にも成功していなかったが,ドイツのナイセル(Albert Neisser, 1855-1955)がノルウェーを訪れた際に標本を託し,ナイセルは持ち帰った標本の染色に成功し,癩患者における癩菌の存在を確実なものとして1879年に癩菌の発見を発表した.これを見たハンセンは翌1880年にあらためて自らの初報をドイツの医学誌に報告し,両者の間には優先権をめぐる確執があったが,癩菌が起炎菌であることを確証したナイサーの貢献は,ハンセンのそれに勝るとも劣らないものであった[2].

動物実験が不成功のため,病因としての因果関係を求めるには人体実験が必要であった.1879年,ハンセンは入院患者の結膜を切開するにあたり,他の癩患者の皮膚結節切除に使用したメスを使用して患者の同意なく人体実験を行ったとして起訴され,医師としての職権を失ったが医務官としての地位にとどまって癩病対策に尽力した[3].ハンセンは患者隔離,強制入院を柱とする予防政策を提言し,これによってノルウェーの癩患者は急速に減少し,ドイツを初めヨーロッパ各国もこれにならった.1897年に第1回国際癩学会は,各国におけるノルウェー方式の採択を決議した.その後の研究で,癩病の伝染率は非常に低いことが明らかとなり,1943年には結核,マラリア治療薬として開発されたサルファ剤プロミン(glucosulfone sodium)の有効性が示され,さらにその有効成分であるダプソン(diaminodiphenyl sulfone, DDS)が製剤化されて外来治療可能な疾患となったが,根強い偏見が患者を長く苦しめた.

日本でも癩病は奈良時代から記録があり,癩病は伝染病であると同時に前世の悪行に対する報いである「業病」 とされ,患者は明治時代にいたるまで各地で非人として扱われてきた.治療薬としては,16世紀明代の中国の「本草綱目」 に記載されている大風子油が知られ,明治期以降は注射薬(筋注)として使用された.これは19世紀末からヨーロッパでも使用されたが,その効果のほどは定かでは無かった.1907年に癩予防法が制定され,各地に療養所が設けられて,全国的に「無癩県運動」が展開され,患者の強制収容が積極的に進められた.第二次世界大戦後プロミンなど化学療法が可能となり,欧米で外来治療への転換が進む中でも社会政策は見直されず,1953年には新たに制定されたらい予防法でも患者の待遇に大きな違いはなかった.これが廃止されたのはようやく1996年のことであった[4].

現在,日本における新規患者は年間1-2例であるが,世界的にはインド,東南アジアを中心に年間20万人以上の患者が発生している.治療にはダプソン,リファンピシン,クロファジミンの多剤併用療法が行われる.

*1 癩病を意味するラテン語名 lepraは,皮膚病変の外観を表わすギリシア語の λέπος (lepos, 鱗), λεπρός (lepros, 鱗状の) に由来しており,実際には乾癬,魚鱗癬,その他苔癬化した慢性湿疹なども含まれていたと思われる.英語では leprosy が一般的であるが,歴史的配慮からWHOやCDCでは Hansen's diseae (leprosy) と記載している.日本でも1950年頃からドイツ語読みの「ハンゼン氏病」が好んで使用されるようになったが,公には厚生省がひらがな表記の「らい病」に変更するにとどまった.その後「ハンセン氏病」「ハンセン病」などが提唱され,1996年のらい予防法廃止に伴い「ハンセン病」 が正式病名となった.1927年創立の日本癩学会は,日本らい学会を経て,1996年に日本ハンセン病学会(Japanese Leprosy Association)と改称された.なお本稿では,歴史的観点からあえて「癩病」と記載している.

*2 ハンセンは上司であるダニエルセンとの初対面で,「あなたの癩病の理解は間違っている.癩病は遺伝疾患ではなく感染症である」と明言し,ダニエルセンは激昂して部屋から追い出した.しかし翌日には「昨日君が言ったことをあらためて考えた.君の言うことはもちろん誤りだが,君は思うところがあるようだからできるだけの手助けをする」と言い,実際にその後も支援を惜しまなかった[3].ダニエルセンは生涯,感染説を認めなかった.両者は科学的な立場を異にしたが,ハンセンはダニエルセンの女婿でもあり,個人的には互いに理解のある関係であった[1].

*3 癩菌に感受性のある動物はきわめて限られており,1960年にマウスの足底,1970年代にある種のアルマジロへの接種にようやく成功した.その後,細胞性免疫を欠くヌードマウスで増殖することが明らかとなり,現在ではこれが主に利用されている.

  • 1. Mange PF. Gerhard Henrik Armauer Hansen and his discovery of Mycobacterium leprae. New Jersey Med 89:118-21,1992
  • 2. Fite GL, Wade HW. The contribution of Neisser to the establishment of the Hansen bacillus as the etiologic agent of leprosy and the so-called Hansen-Neisser controversy. Internat J Leprosy 23:418-28,1955
  • 3. Marmor MF. The ophthalmic trials of G. H. A. Hansen. Surv Ophthalmol 47:275-87,2002
  • 4. 森修一,石井則久. ハンセン病と医学-隔離政策の提唱とその背景. 日本ハンセン病学会雑誌 75:3-22,2006

原著論文

《1875 癩病の病因》
癩病の病因について
On the Etiology of Leprosy
Hansen GA. Br Foreign Med Chir Rev. 55:459-89,1875

【要旨・解説】著者ハンセンの師ダニエルセンが,1847年の著書で癩病は遺伝性疾患であると結論したことに反論し,伝染病であることを強く示唆した初の論文である.ハンセンは1874年にこの論文をノルウェー語で発表しており[1],本稿はその2年後に英語で書かれたものである.ノルウェー語の原著の抄訳であるが,直訳と思われるところもあり非常に生硬な読みにくい英文で,意味不明のところも散見される.本稿の大部分は,疫学的に癩病が遺伝性ではなく伝染性であることを,冗長かつ必ずしも科学的とは言えない論法で示している.癩病が遺伝性であるとされた最大の理由は,その家族集積性,地域集積性であるが,患者の多い家族,地域は,他の癩病蔓延地区との人的交流が多く,同じ農場で起居を共にしたり,同じ船で漁に出たりする労働者に多いことを,多数の実例で示し,伝染病として説明可能であることを示唆している.もともと癩病がなかったアメリカに移住したノルウェー移民に癩病が発生することも遺伝説の根拠とされていたが,これも癩病が感染から発症まで長期間を要することから,既に国内で感染していた者が移住後に発症したものと考えれば伝染説で説明できることを示している.また,癩療養所への収容率が高い地域では,新規患者数が減少することを統計から示し,これも伝染説の有力な裏付けであるとしている.

最後の1頁に,癩病が伝染病であることの「直接的証明」として,癩結節の中に細菌に類似した桿状体が認められると述べている.1874年のノルウェー語の原著には,この部分に関する記載がもっと多いようであるが,本稿でも桿状体については1869年の眼の癩病を詳述した論文[2] にスケッチとともに既報であると述べており(図11),1874年の論文,本稿ともに詳細は省略されている.1869年の論文では,眼の癩結節に軟らかい褐色の組織がみられることを報告しており,この組織の中に桿状体(癩菌)が認められた.

図11.皮膚(左)および脾(右)の癩病組織に認められる癩菌(細長い茶色の構造) [5]

ハンセンは,癩病の遺伝性を否定して伝染性であると結論したが,発見した「桿状体」 が病原菌であるということについては,慎重を期して断定していない.しかし,ドイツの ナイセル(Albert Neisser)がハンセンから譲り受けた標本にあらためて癩菌を同定して,1879年にこれを癩菌の発見として学会報告したため[3],ハンセンは翌1880年に優先権を主張する論文を発表している[4].1895年に皮膚科医のCarl Looftとの共著[5]はその研究の集大成で,以後の癩病研究の原点となった.

本論文を機に,癩病が伝染病であるということが認識され,ハンセンはノルウェー政府の癩病対策の責任者として施設,法律の整備に尽力した.ノルウェーでは,Laegd制といって貧しい労働者が農場から農場を渡り歩き,他の労働者と起居をともにして働く制度があったが,1877年にこれを禁止する法律を定め,さらに1885年には患者を強制的に隔離する法律が制定された.これにより,国内の癩病患者は着実に減少し,1895年に688人,1900年に577人,1910年に326人となり,1950年に11人となった[6].

  • 1. Hansen GA. Undersøgelser angående Spedalskhedens Årsager [Investigations of the causes of leprosy](Christiania, Det Steenske Bogtrykkeri, 1874)
  • 2. Bull OB, Hansen GA. The leprous diseases of the eye. (Albert Cammermeyer,1873)[英訳版, 原著は1869]
  • 3. Neisser A. Zur Aetiologie der Lepra. Breslauer Arztl Zeitschr 1:200-2,214-5,1879
  • 4. Hansen GA. The bacillus of leprosy. Quart J Microscop Sci s2-20:92-102,1880
  • 5. Hansen GA, Looft C. Leprosy in its clinical & pathological aspects. (John Wright & Co. 1895)
  • 6. Mange PF. Gerhard Henrik Armauer Hansen and his discovery of Mycobacterium leprae. New Jersey Med 89:118-21,1992

原文 和訳