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女性医師の歴史

男装の女医 ジェームズ・バリー

図1. ジェームズ・バリー(James Barry, 1789 ?~1865.男性と偽って生涯を送った) [PD]

世界初の女性医師として医学史に登場するのは,イギリスのジェームズ・バリー(James Barry, 1789 ?~1865)である(図1).しかしこの名前から分かるように,彼(女)は男性と偽ってその生涯を送ったのであった.出生,生い立ちについては不詳の点が多いが,本名はマーガレット・アン・バルクリー(Margaret Ann Bulkley)であることが分かっている.バリーはエディンバラ大学を卒業後,外科医となり,大英帝国陸軍の軍医として,1816年に赴任した南アフリカのケープタウンを皮切りに世界各地で活躍した.外科医としての技量に優れ,南アフリカ初の帝王切開を成功させたことでも知られる.このほか,給水設備の改良,らい病棟の患者待遇改善,炎天下での演習の禁止など保健衛生面でも多くの実績が記録されている.モーリシャス,ジャマイカ,セントヘレナ島,西インド諸島,ギリシアなど各地に赴任し,1853年のクリミア戦争ではナイチンゲールが活躍するスクタリも訪れている*.最後の赴任地カナダでは軍医総監(Inspector General)の地位にあったが,体調を崩してイギリスに帰国,1859年に退役を余儀なくされた.

* 理由は不明だが ナイチンゲールはバリーに叱責されたようで,「生涯においてこれほどひどく叱責されたことはなかった.馬上のバリーは,病院の庭で炎天下帽子ひとつの私を,居並ぶ兵士,将校,従僕らの前でけだもののよう私を叱りつけた.死後,彼が女性であったと聞いた...彼(女)は最も厚顔な人間だったと言わざるをえない」と記している[1].

バリーは,小柄で,厚底の靴を履き,かん高い声の持ち主であったという.実は女性であるという噂は生前からあったが,生涯を男性として過ごし,死去に際して遺体の処理をした雑役婦が,女性であること,過去の妊娠による腹壁線条を見たと証言した.しかし,正式な報告書が作成されることはなく,陸軍は長年にわたってバリーの記録を封印した.バリーがなぜこのような決断をしたのか,今となっては知る由もないが,女性が医学を学ぶ途が閉ざされていた当時としては,止むに止まれぬ選択であったことは想像に難くない.奇しくもバリーが退役した1859年,次項に述べるアメリカで教育を受けた女性医師エリザベス・ブラックウェルが,イギリスの女性医師第1号として正式に登録された.

世界初の女性医師 ブラックウェル

図2. エリザベス・ブラックウェル(Elizabeth Blackwell, 1821-1910).世界初の女性医師 [PD]

本当の意味での女性医師第1号は,エリザベス・ブラックウェル(Elizabeth Blackwell, 1821-1910)である(図2)[1,2].ブラックウェルはイギリス人であるが,父親の事業失敗後,幼くしてアメリカに渡った.24歳のとき,癌で死の床にある友人を見舞ったおり,「婦人科の病気は男性医師に話しにくい,女性の医師がいたらもっと早く相談できて治っていたかもしれない...」と聞いて,医師を志した.しかし当時,女性を受け入れる医学校は皆無で,28の医学校に問い合せたがことごとく拒絶され,29番目のジェネヴァ医学校(Geneva Medical College, 後のニューヨーク州立大学医学部)から入学許可が届いた.

しかしこれにはワケがあった.彼女はジェネヴァ医学校への願書に,知己の有力医師の紹介状を添えていた.大学当局は,女性を入学させるつもりなど毛頭なかったが,紹介状の手前むげに断るわけにもゆかず,学長は一計を案じた.女子学生の受け入れの可否を,学生の意見に委ねることにしたのである.学生は当然拒否するはずである.しかし,万が一のことを考えて決議は満場一致を必要とするという条件も付けた.学生が拒否すれば,紹介者には,残念ながら学生の総意により...と断りの手紙を書く,という手はずであった.学長は教室に出向いて,学生たちにブラックウェルの入学願書の一件を話した.学生はあっけにとられた.しかし,女が入学したいって? 面白いじゃないか! ...というわけで,学生たちは学長の予想を裏切り,全くの冗談から全員がイエスと回答したため,大学も彼女を受け入れざるを得なくなった.

図3. ブラックウェルが開いたニューヨーク施療院女子医学校 [The NY pulic library]

しかし,ブラックウェルが入学して,本当に狼狽したのは学生たちであった.登校はしたものの,最初は教室に入れてもらうことすらできず,実習にも参加できなかった.女子医学生への偏見は学外でも大変なもので,町の人々は彼女を変人,ふしだらな女性として白眼視し,町を歩く彼女に嘲笑を浴びせた.しかし,ブラックウェルは幾多の試練を乗り越え,1849年1月23日,首席で卒業,同級生の拍手の中,卒業証書を手にした.28歳であった.外科医を目指してパリにわたったがどこの病院にも受入れられず,止むを得ず産科病院ラ・マタルニテ(La Maternité)の見習い助産婦となった.ここで化膿性眼炎の乳児の眼洗浄中に誤って飛沫を浴び,自らも感染して左眼球摘出,失明という不運に見舞われ,外科医の道は閉ざされた.翌年,母国イギリスのバーソロミュー病院で研修をつづけたが,やはり周囲の偏見は強く,1851年にアメリカに帰国,ニューヨークに小さなビルの一室で細々と診療を開始した.治療費は1週間4ドルまで,ある時払いの催促なし,患者には貧しい移民も多く,無一文の患者には職がみつかるまで無利子で金を貸すこともあった.

女性医師の存在は周囲の理解をなかなか得られず多難なスタートであったが,それでも徐々に患者の信頼を勝ち得ることに成功し,1857年5月,ニューヨーク施療院(New York Infirmary)を開いた.開院日は,イギリス滞在中に親交を結び,医学における女性の役割を語り合ったフロレンス・ナイチンゲールの誕生日に因んだ.1868年にはニューヨーク施療院女子医学校(Women's Medical College of the New York Infirmary)を併設した(図3).1869年,母国イギリスに戻り,1874年には妹のエミリー, イギリス初の女性医師アンダーソン(Elizabeth Garrett Anderson)*1ジェックス=ブレーク(Sophia Jex-Blake)*2らとともにロンドン女子医学校(The London School of Medicine for Women)を創設し,自らも産科学を講じた.世界初の女性放射線科医 ストーニー (Florence Ada Stoney, 1870-1932)もここに学んでいる.

1877年に引退したが,89歳の天寿を全うするまでその生涯を,多くの著述を通じて母国イギリスの,そして世界の女性医学教育に捧げた.ニューヨーク施療院女子医学校は1918年にニューヨーク医科大学と合併し,ニューヨーク施療院は現在もニューヨーク・ダウンタウン病院(New York Downtown Hospital)として,ウォール街を擁する人種のるつぼマンハッタン地区の重要な医療拠点となっている.

*1 アンダーソン (Elizabeth Garrett Anderson, 1836-1917).イギリス初の女性医師.ブラックウェルの講演に触発されて医師を志すが叶わず,看護師,薬剤師を経て,1870年,フランスのソルボンヌ大学で医師免許を得た.1872年,ロンドンに新産婦人科病院(The New Hospital for Women, 現 University College Hospital / Elizabeth Garrett Anderson Wing) を開業, 1874年にロンドン女子医学校の設立に加わり,1883年から20年にわたってその校長として後進の育成に尽力した.

*2 ジェックス=ブレーク(Sophia Louisa Jex-Blake, 1840-1912).イギリスで2番目の女性医師.ロンドン大学の数学の講師であったが医師を志し,渡米してブラックウェルの医学校に入学を希望したが家庭の事情で帰国せざるを得ず,エディンバラ大学医学部に受講希望を提出,いったんは拒否されたが,志を同じくする女性6名とともに社会活動を展開して許可を取り付けた.しかし,男子学生の執拗な嫌がらせを受け,1870年11月には暴動(Surgeons' Hall Riot) まで発生したが,これを機に女性の高等教育への関心が高まった.1874年にロンドン女子医学校開設に参画,1877年に医師資格を取得した.

日本初の女性医師 荻野吟子

図4. 荻野吟子(1851-1913).日本発の女性医師.試験合格直後に郷里の写真館で撮影した写真とされる [PD]

ブラックウェルがニューヨークで診療所を開いた1851年,荻野吟子(1851-1913)(図3)は,武藏国俵瀬村(現埼玉県熊谷市)の裕福な家庭に生まれた.1868年(明治元年),19歳にして結婚したが,夫から淋病を染されて離婚.上京して順天堂医院(現順天堂大学医学部)に入院して無事完治したものの,このとき男性医師に婦人科の診察を受ける屈辱を忘れることができず,医学の途を志した.1879年,東京女子師範学校(現お茶の水女子大学)一期生として首席で卒業したが,女性を受け入れる医学校はなく,つてを頼って下谷練塀町(現東京都台東区秋葉原付近)の好寿院に例外的に入学を許された.好寿院は,西洋医学の導入を積極的に推進し,後に明治天皇の侍医も務めた典医高階経徳が開いた当時まだ少ない私立医師養成所の一つであった.

しかし,男尊女卑が公然とまかり通っていた当時,吟子を待ち受けていたのは男子学生の陰湿ないじめであった.卑劣な性的嫌がらせ,果てはレイプ寸前の行為まで,いじめは執拗をきわめた.吟子はそのすべてを耐え忍び,1882年(明治15年),3年間の修行をおえて抜群の成績で卒業した.しかし,医術開業試験の受験を申請しても女性であることを理由に許可されなかった.再三の請願の末,1885年(明治18年),34歳にしてついに医師の資格を手にした.日本の女性医師第1号である.順天堂医院の診察室で医師になることを誓ってから,15年が経っていた.

荻野吟子が,東京の湯島に産婦人科荻野医院を開業すると,待合室は花柳界の女性でいつも満員であった.キリスト教に帰依し,39歳で信仰を同じくする14歳年下の志方之善と再婚,共に北海道に渡り医院を開業して夫の伝道活動を支えたが,夫は志し半ばに病死し,1909年(明治42年),再び東京の下町に「婦人科小児科荻野医院」を開いて63歳で病没するまで診療を続けた.その後,荻野に続く女性は次第に増え,1900年(明治33年)には22人目の女性医師,吉岡彌生(1871-1959)が東京女医学校(現東京女子医科大学)を設立.ようやく,女性,男性の別なく医師への途が拓かれた.

関連事項

荻野吟子以前,以後

荻野吟子は,明治の医制の下で認められた初の女性医師であるが,これ以前にも女性医師は存在した.古くは701年,奈良時代に制定された日本初の法律,大宝律令で医療を扱った医疾令(いしつりょう)の中に「女医」(にょい)の定めがあり,15歳以上25歳以下の優秀な子女30人を選び,産科,小外科,鍼灸などの技術を口述で伝授することが記載されている.漢文の医書を読み,内科をふくめて教育される通常の男性医師とは別に,このような女性医師が養成されていたことは興味深い[1].

平安末期,さらに武士の時代になると律令制は形骸化し,その下の医療制度も崩壊して,仏教医学を学んだ僧医が台頭するにいたって女性医師は消滅した.江戸時代の医師の多く,とくに官医,藩医は漢学を学んだ武士階級であり当然男性であった.しかし町医者の中には,少数ながら女性医師が知られている.例えば幕末に長崎の出島の商館医として来日したドイツ人シーボルトと日本人妻お滝の間に生まれ,蘭学の知識を生かして西洋医学を学び産科医となった楠本イネ(1827-1903) は良く知られている.この他にも,江戸の森崎保佑(1784-1824),京都の疋田千益(ちます)(1793-1869),福岡の高場乱(1831-91)などの名前が残る.ただし医師とは言っても,正式な医学教育の場がなく,医師の資格もなかった当時,その医学知識は断片的なものであり,多少の医学の心得があるという程度のものであった.

図5. 高橋瑞子(1852-1927).3人目の女性医師.ドイツに留学して産科学を学んだ.

図6. 吉岡弥生(1871-1959).27人目の女性医師.東京女子医科大学の前身,東京女医学校を創設.

明治時代になり,系統的な西洋医学教育を受け,公許を得たという意味で本来の医師の第1号は前述の 荻野吟子であった.これに続く医術開業試験2番目の合格者 生澤クノ(1864-1945) は,武蔵国榛沢(現在の深谷市)の蘭方医であった父 良安を姿を見て医師を志して上京,私立医学校東亜医学校*に学んだが,断髪男装で,男子学生とは別室で受講するという苦労を重ねた.23歳で試験に合格,深谷の父の診療を助け,父の没後は川越,その後足利で開業医として生涯を貧しい病者の診療に捧げた.

3番目の合格者 高橋瑞子(1852-1927)(図5)は,もともと産婆(助産婦)の資格を持ち盛業していたが,高収入を求めて医師を志したという.1884年,私立医学校の済生学舎(後の日本医科大学)に入学を希望したが拒否され,校門の前に三日三晩立ち尽くして校長に面会を求め,さらに嘆願を繰り返してようやく入学を許可された.荻野吟子と場合と同じく,男子学生の執拗ないじめに耐えて卒業,順天堂医院での実習を経て,1888年に医師免許を手にした.日本橋で開業し盛業したが,ドイツ留学を思い立ち1890年に渡独,コッホの下に留学していた北里柴三郎らの支援もあり,ベルリン大学で産婦人科学の聴講生となった.しかし翌1891年に吐血,重病のため帰国,日本橋で再開業し,1914年の還暦まで診療にあたった.高橋瑞子が三日三晩立ち尽くして以来女子に門戸を開いた済生学舎は,1901年に再び女子入学を禁ずるまで,100人以上の女性医師を輩出した.その中には,1889年に入学,27人目の女性医師となった吉岡弥生(1871-1959)(図6)がいた.

済生学舎が再び女子に門戸を閉じた背景には,大学医学部の正規の医学教育を受けた医師と,私立の医学校を経て医術開業試験により資格を得た医師が同列に扱われることの批判があり,その矛先が済生学舎にも向けられ,特に男女共学による風紀上の問題も批判されたことがあった.これを受けて済生学舎は,1900年に女子の受け入れを中止し,翌1901年には在校生にも退学を求めた.この状況を憂いた吉岡弥生は,1903年に自宅を開放して東京女医学校を開校し,その後東京女子医学専門学校(現東京女子医科大学)となり,日本初の女性医師専門教育機関となった[1-3].

*生澤クノは,東亜医学校が途中で閉鎖されたため済生学舎に移った.済生学舎は,既に高橋瑞子が女子に門戸を開かせていたため入学できた.

  • 1. 吉岡博人. 日本女医の系譜. 日本健康学会名誉会長講演. 1931
  • 2. 堀口文. 歴史的背景から考察した日本の女子医学教育について.医学教育16:14-16,1985
  • 3. 三崎裕子. 「近代的明治女医」 誕生の経緯と背景. 日本医史学会雑誌 61:145-62,2015