- 古代・中世日本の医学
- 奈良・平安時代
- 関連事項:怨霊と物の怪
- 鎌倉・室町時代
- 関連事項:近世中国の名医
古代・中世日本の医学
奈良・平安時代
西洋と同じく日本の神話時代,大和朝廷の時代の支配者も呪術者,治療者を兼ねていたと考えられる.「因幡の白兎」の物語では,大国主命(おおくにぬしのみこと) がワニに皮を剝がれたウサギに油を塗って治療する場面があるが(図1),神話時代の医学を象徴している.大国主命と共に国造りに携った少名毘古那神(すくなびこなのかみ)は,日本の代表的な医神とされる.
飛鳥時代(593~)・奈良時代(710~)になると先進国である朝鮮,中国の渡来人によって医学,薬学の知識を持ち込まれ,遣隋使(607~),遣唐使(630~)でも医術を学ぶ留学生が派遣された.701年,唐にならって制定された日本初の成文法,大宝律令の中には医疾令 (いしつりょう)という法律があり,医事をつかさどる役所として典薬寮が置かれた.典薬寮には「医師」*1という官職名が定められている.これは律令制の下の官医で,今で言えば国家公務員として医者を任命している状態である.またここには体療科と創腫科という区分があり,それぞれ内科,外科を意味した.
奈良・平安時代の官医の必読書は隋,唐から輸入された医学書*2であった.982年に官医丹波康頼 (たんばやすより, 912-95)*3が編纂した「医心方」全30巻(図2)は,主に隋,唐の200編以上の医学書の内容を総合した医学全書であった.ここには約900の病名が記載されている.「医心方」 は現存する日本最古の医書*4であると同時に,これが引用している中国の医学書の多くが失われていることから,当時の中国医学を知る上でも貴重な資料とされる.
このような薬草による治療と同時に,当時の医学はなお呪術性を強く残しており,病者の枕頭に呼ばれる仏僧,験者などによる加持祈祷は重要な医療の一環であった(→関連事項:怨霊と物の怪).
*1 典医寮は,唐の高祖が624年に設立した衛生行政組織「太医署」に範をとった.太医署には,医学部,薬学部があり,医学部は医科,鍼科,按摩科,呪禁科の4科に分けられた.典医寮では,この4つの部門それぞれに医学教育者の「博士」,医療技術者の「師」,学生の「生」(しょう)が設けられ,医科の師 は「医師」 と呼ばれた.
*2 具体的には,西晋時代の「脈経」(280年頃,当時の医学書の内容を編纂),「甲乙経」(250年頃,鍼灸医学書),随唐時代の「諸病源候論」(610年頃,症状を1739種類に分類),「千金方」(652年頃,総論と各論にわけて診断,処方,各科の疾患各論を記載),「外台秘要方」(752年頃,六朝から唐代の処方を集成.すべての引用文に出典がつけられ資料として貴重)などがある.
*3 丹波康頼の子孫は代々,典薬寮の長官である典薬頭(てんやくのかみ)を世襲し,室町,鎌倉時代を通じて将軍の侍医を多く輩出した.江戸時代,徳川将軍家の奥医師を代々つとめた多紀氏もその子孫である.
*4 これ以前,勅命により,大陸からの輸入によらない日本固有の医方の亡失を防ぐ目的で,出雲広貞,安倍真直を選者として諸国の伝来医方を集めた「大同類聚方」(だいどうるいじゅほう) (全100巻)が808年に完成した.その意味で,日本最古の医書は医心方ではなく本書であるが,その後多くの写本を経て,現存する資料は偽書であるとする説が強くなり,現在も不詳の点が多い.江戸中期に国学の台頭とともに,漢方医学,西洋医学を批判して日本固有の医学を求める「和方医学」が盛んになり,大同類聚方はその原典とされた.
関連事項
怨霊と物の怪
平安時代の文学作品では,貴族が病に伏せると仏僧が加持祈祷を行なう場面がしばしば登場し(図2),医師(薬師)の陰は薄い.この背景として,平安初期から災厄や病気は怨霊(おんりょう)の祟り,すなわちその人物に恨みを持つ者の霊である怨霊が肉体から抜け出して空中をさまよい,物の怪(もののけ)として人にとりつくことが病気の原因であるとする考えが根強くあった.物の怪はもちろん目に見えない存在であるが,しばしば鬼のようなイメージで描かれる.源氏物語では,嫉妬した六条御息所の生き霊が葵の上に取り憑く場面が有名であるが,六条御息所は死後も死霊として女三の宮,紫の上を苦しめる.物の怪を退散させるためには,祈祷師や僧侶が加持祈祷を行ない,物の怪を「よりまし」(憑子) ,いわゆる霊媒に乗り移らせる.「よりまし」には,しばしば子供や若い女性が選ばれ,その口を通じて語られる言葉から怨霊を特定し,加持祈祷で退散させる.中でも有名な怨霊は,学者として最高位に登りつめながら讒言により左遷されて窮死に至った菅原道真にまつわるもので,その死後都で貴族,天皇の病死,事故死が相次ぎ,御所の落雷など災厄が続いたため,その霊を鎮めるために北野天満宮が建立された.
洋の東西を問わず古代社会では,呪術と医術,宗教家と医師は渾然一体であった.時代が下っても病気の原因が不明で,医療といっても薬草しかなかった時代,病気の原因を目に見えないものに求めて,医師よりもまず祈祷師を招いて神仏に平癒を祈ることは時代と場所を超えて自然なことであった.中世の西洋でも,悪魔や魔女が病気の原因とされ悪魔祓いがおこなわれた.しかしその背景に個人的怨恨をもつ怨霊を想定する点で怨霊,物の怪思想はやや異なっており,権謀術数がうずまく日本の貴族社会を背景として盛んになったが,武力が勝敗を決する武家社会になると物の怪の登場する場面は少なくなった.
鎌倉・室町時代
医疾令のもとで官医はほとんど世襲状態となって弊害も明らかとなり,平安時代末期になると律令制の下の医療制度は崩壊していった.医疾令が形骸化した鎌倉・室町時代は,官医ならずとも誰でも医師になれるようになったが,医書を読解できるのは僧侶や貴族に限られていた.このため鎌倉時代,武家社会では僧医が活躍した.奈良時代から仏教の興隆とともに仏僧は医術を行ってきたが,当時はまだ加持祈祷が中心であった.鎌倉・室町時代には,学識豊かな仏僧が中国から積極的に新しい知識を取り込んだ.こうして,インドのアーユルヴェーダに発する仏教医学が,中国医学と混じり合って日本の僧医に受け継がれた.僧医の評価が高まる一方で,官医は旧態依然たる医学にとどまって次第に凋落していき,ますます僧医の役割は大きくなった.中でも名僧医として知られる梶原性全(かじわらしょうぜん, 1266-1337)が著した「頓医抄」(とんいしょう)(全50巻,1302-4)(図3) は,中国の医書の内容に加えて自らの経験を加えた大著で,漢字仮名まじり文で書かれ,漢学の素養のない者も医術を学べるように配慮されていた.また日本の医学書としては初めて内臓の解剖図が掲載されている*.同じく梶原性全の著書「万安方」(まんあんぽう)(全62巻, 1313-27)は漢文であるが,さらに多くの知見が盛り込まれている.
* この解剖図は,中国の北宋時代に著された「欧希範五臓図」(おうきはんごぞうず) に基づいている.1045年に反逆人として死刑に処せられた罪人,欧希範の名を冠したもので,生きたまま身体から筋肉を少しずつ削いでゆく凌遅刑という残虐な処刑と同時に行なわれた解剖によるとされる.
1487年,武蔵国の僧,田代三喜 (たしろさんき, 1465-1544) (図4)は明に渡り,そこで金・元の時代に活躍した李東垣(りとうえん),朱丹渓(しゅたんけい)に発する李朱医学 (当流医学)を学んで帰国,貧者にも等しく医療を施して医聖とされた.その門下の僧医,曲直瀬道三(まなせどうさん, 1507-1594) (図5) は,還俗して大出世し,皇室にも出入りする官医となった.また医学校「啓迪院」(けいてきいん)を開いて多くの弟子を育てた.その数800人とも言われる.1571年には「啓迪集」(けいてきしゅう)(全8巻)を著し天皇に奉じた.「啓迪集」は多くの中国の医書を抜粋して疾患を74種類に分類し,その症状,診断,治療,予後などをまとめたものである.道三は李朱医学の運気論に精通しておりこれを応用したが,このほかにも独自の理論を加えて多くの著述を残した.道三流医学は,その後江戸初期まで日本の医学の中心的存在となり,道三は「医聖」とも言われる.. 道三の後を継いだ,甥で養子でもあった曲直玄朔(まなせげんさく,1549-1632)も名医として知られた.その著書「医学天正記」は30年間わたる自らの症例集で345症例を疾患別に記載している.
応仁の乱(1467-1477)以降,戦乱の世になり,金創医と呼ばれる外傷を専門とする外科学が発展した.金創とは刀傷のことで,戦場の外傷では僧医の手を借りることなく応急手当が必要となり,これを行うのが金創医であった.大宝律令以来「体療科」と言われていた内科が「本道」と呼ばれるようになり,「外科」という言葉も登場した.
関連事項
中国近世の名医
《金・元時代》
中国の医学は,前漢,後漢時代に編纂された黄帝内経により陰陽五行説による理論が確立し,後漢の傷寒論,神農本草経で薬物療法に基づく臨床医学が確立され,その後長らくこれら3大古典に基づく医学が行なわれてきたが,理論と臨床はともすれば解離があった.宋,金,元(10~13世紀)の時代になり,これらを融合して治療法を理論付けようとする機運がみなぎった.またこの時代,新たな理論も登場した.特に盛んに研究されたのが運気学で,これは疾患の原因として地中の五運(木火土金水),大気の六気(風邪寒暑湿乾火)を想定するもので,これらを臨床に応用して各医家がそれぞれ独自の理論を展開し,中国医学史上画期的な時代であった.特に金元四大家(図6) と言われる4人の医師の理論と臨床は,日本の漢方医学にも大きな影響を及ぼした.
・劉 完素(りゅうかんそ,1120-1200)
母が病に伏したとき,貧しいため医師を頼んでも往診してもらえず母が死んだことを機に医学を志した.素問の五運六気説を特に研究し,六気(風寒暑湿燥火)のうち署と火が一体となった火熱がほとんどの病気の原因であり,風寒湿燥も火となって病を起こすとして寒凉剤を多用し,寒凉派とも呼ばれる.その処方,防風通聖散は現在に伝わる.著書に「宣明論」 「素問玄機原病式」 などがある.
・張 子和(ちょうしわ,1156-1228)
劉完素に私淑した.正気(抵抗力)が衰えると外部から邪気が侵入して病気を起こすとして,正気を補うと同時に,体内の天の邪(風寒暑湿燥火),地の邪(霧露雨氷泥)を排除するために汗(発汗),吐(嘔吐),下(下痢)を誘発することが治療となるとした.このため攻下派と呼ばれる.
・李 東垣(りとうえん)(1180-1251)
疾患は外感(外因)のみならず内傷(内因),すなわち食事や生活の不摂生,精神的な要因(現在でいうストレス)が内臓に害を及ぼすとする「内傷説」を唱えた.特に脾胃の働きが健康に重要であるとする脾胃論を唱え,脾胃が傷害されると病気になると考えた.ここでいう脾は現在の脾臓とは異なり,食物を胃が消化し,脾が水分や栄養分を吸収して全身に運ぶ(運化する)と考え,脾胃全体として消化管のようなものである.これを薬(補剤)で補うことが治療となる.このため温補派,補土派(脾は五行では土にあたる)などと呼ばれる.,現在も広く使われる補中益気湯を発明した.著書に「脾胃論」「内外傷辨惑論」などがある.
・朱 丹渓(しゅたんけい)(1281-1358)
官吏を目指して科挙の勉強をしていたが,母の病気を機に医書を読み,5年間の勉学の末に母の病を治した.腎で生成され肝で賦活化される相火は体を温める火であるが(相火論),陰が不足するとこれが漏れ出して陽が余ること,すなわち陰陽の不均衡が病気の原因であると考え,陰分を補うことが治療につながるとした.滋陰降火の則を編みだし,水分を補給する滋陰剤,熱を鎮める降火剤を処方する.養陰派と呼ばれる.先行する劉,張,李の学説を学んで,金元医学を集大成した.李東垣と朱丹渓は,ともに不足しているものを補剤で補うことで治療するという点で共通するところがあり,両者は李朱医学と呼ばれ,日本の後世派漢方医学の基盤となった.
《明・清時代》
明代には本草書が多く刊行され,特に李時珍の「本草綱目」(ほんぞうこうもく)は日本の漢方医学にも大きな影響を与えた.また理論と臨床の融合をはかった金・元代の医学がさらに発展して,より臨床に則した書物が多くなった.また,当時伝わる「傷寒論」(しょうかんろん)には後世に加筆された部分が多いとしてこれを正し,本来の形を復興しようとする動きが盛んになり,清の喩嘉言(ゆかげん)による「傷寒尚論篇」,程応旄(ていおうほう)の「傷寒論後条弁」 のような著作は,日本の古方派を生むきっかけとなった.
・李 時珍(りじちん)(1518-93)
中国の本草学(中国医学の薬学を意味する.植物のみならず,動物,鉱物などを原料とするものも含む)は,「神農本草経」以来増補が繰り返され複雑なものとなっていた.李時珍 (図7) はこれを整理して,新たに編纂し,自らも野草を収集して研究し,27年間かけて完成させた.この「本草綱目」(全52巻)は,約1,900種類の薬を分類,解説し,1,100葉の挿図,11,000種の処方が掲載されている.完成直後,本人は急逝したが息子が当時の万暦帝に献上して1596年に刊行された.1604年には江戸初期の日本にも伝わり,本草学の基本書となったが,日本にとどまらず仏語,独語,ラテン語にも翻訳されて世界中で読まれた.
・龔 廷賢(きょうていけん)(1522-1619)
龔廷賢 (図8) 医家の名門に生まれ,科挙に落第したため医家となった.報酬を求めず,受取ったものは周囲にふるまったという.多くの著書があるが特に「万病回春」(全8巻)は,1巻で陰陽五行など理論を述べた後,2巻以降では自らの臨床経験をもとに,内科,外科,婦人科,小児科を含む総合医学書で,1,000以上の処方が解説されている.日本でも李時珍の「本草綱目」とともに広く読まれた.