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コルヴィサール  Jean-Nicolas Corvisart 

経歴と業績

コルヴィサール(Jean-Nicolas Corvisart, 1755-1821)

1755年,フランス東部,アルデンヌ地方の村ドリクール(Dricourt)に生まれた.父は弁護士であった.法曹の道を期待され,12歳で名門サントバルブ大学に入学したが法学には興味をもたず,足しげくパリの診療所を訪れ,医学に転向した.パリの貧民地区で開業したが,次第にその実力が認められシャリテ病院の臨床病理学教授となり,臨床とともに新設された医学校で教鞭をとった[1].1789年,フランス革命が始まると,病院や医学教育にも革新の波が訪れた.19世紀初頭のフランス医学は,臨床的な観察とその病理学的裏付けをもとにした新たな医学を生み出し,この時代活躍にした医学者はパリ学派と呼ばれるが,コルヴィサールはその筆頭で,他にはその弟子であるビシャ((Marie François Xavier Bichat, 組織学を創始),ブレトノー (Pierre Bretonneau, ジフテリア,チフスの発見),ラエネック(René Laënnec,聴診法の発明),ピネル(Philippe Pinel,近代精神医学の父)らが続く.

1795年,パリに最初の医学部が設立され,コルヴィサール満場一致で臨1床医学の講座の講師に選任され,1797年には教授に就任した.1799年,ナポレオンの侍医となり,その厚い信頼を得た.ナポレオンは医者嫌いであったが,「医学は信じないがコルヴィサールは信じる」と言ったという.コルヴィサールは,臨床所見と病理解剖の所見を綿密に対比し,1806年にその主著《心臓・大血管疾患と器質的病変》を著した.1808年には,アウエルブルッガーの打診法の教科書《胸部潜在疾患の徴候としてのヒト胸部打診法の新知見》をフランス語に翻訳し,これを機に打診法は広くおこなわれるようになった[1].

出典