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コッホ Robert Koch

経歴と業績

コッホ (Robert Koch, 1843-1910)

1843年,ドイツのゲッティンゲン近郊の町クラウスタール(Krausthal)に,13人兄弟の3番目として生まれた.父は鉱山技師であった.幼時より学業,特に科学,数学に優れ,19歳でゲッティンゲン大学に入学し,数学,物理学などを学んだが,途中で医学に転向した.この間,解剖学のヘンレ,病理学ウィルヒョウの指導を受ける機会に恵まれ,最優秀の成績で医学部を卒業した.その後各地のいくつかの病院に勤務したが,1870年に普仏戦争が始ると軍医に志願,1872年にヴォルシュタイン(Wollstein) の町で開業した.

コッホは,臨床医として患者の信頼を得る一方,診察室に併設した研究室で細菌学の研究に着手した*.この時期,コッホはいくつかの重要な細菌培養技術を開発した.それまで細菌培養には,フラスコに入れた液体培地が使用されていたが扱いが不便であった.コッホは固形培地として初期にはジャガイモの断面を利用したが,その後寒天を使用し,これをガラス皿に入れる,現在でいう寒天平板培地(agar plate)を開発した.この方法では,コロニーを容易に分離することができ,細菌の分離培養には必須の技術となった.また顕微鏡の観察では,油浸レンズ法,コンデンサ(集光器)を初めて導入した.コッホはこれらの技術を駆使して,次々と新しい病源細菌を発見した.

* 妻Emma(1867年に結婚)が,この年の誕生日プレゼントとして顕微鏡を贈り,これが細菌学研究を始める大きなきっかけとなったとされる.この時妻が顕微鏡と往診のための馬車とどちらが良いかとたずね,コッホは顕微鏡を選択したというエピソードがあるが,歴史的な裏付けに乏しく,後世の小説や映画の創作に由来するものと思われる.1893年,コッホは妻Emmaと離婚,29歳年下のHedwig Freiburgと再婚した.

最初の大きな成果は,当時家畜の致命的な病気として大きな問題となっていた炭疽菌の研究である.炭疽菌は既に知られていたが,1877年にコッホはいわゆる「コッホの4原則」 によってこれが炭疽病の原因菌であることを証明した.これ以前にパスツールが微生物病源説を唱えており,微生物が疾病の原因となりうることは知られていたが,特定疾患が特定の細菌によって起こることを証明した初の例であり,これは細菌学の歴史上,画期的な研究であった.この成果を認められ,1880年にベルリンの保健局に職を得たコッホは,その後細菌学者として名を成すレフラー,ガフキーらを助手として研究を続け,1882年に結核菌を発見,培養に成功した.1883年には,エジプト,インドで発生したコレラの調査の命を受け,コレラ菌を発見した.

1908年,来日時のコッホ夫妻.  左は2番目の妻Hedwig. [PD]

1885年,ベルリン大学教授となり,新設された衛生学研究所の所長となり,ここではエールリッヒ,ベーリング,北里柴三郎らの指導に当たった.1890年,結核の治療薬ツベルクリン*を発明したと報告し,医学界のみならず一般社会にも大きなセンセーションを巻き起こしたが,結局無効であることがわかり,強い批判を浴びた[1-3].

コッホはこれをDeutsche Medizinische Wochenschrift 1891年1月15日号に発表し,ただちにNature,Lancetにも掲載された.当初コッホはこの薬物の成分を公開せず,自らは「茶色の透明な液体」と記述し,一般的には「コッホのリンパ」(Kochs Lymph)と呼ばれたが,その後結核菌抽出液のグリセリン浮遊液であることを明らかとし,ツベルクリンと呼ばれるようになった.

1891年,国立プロイセン感染症研究所(Königlich Preußischen Instituts für Infektionskrankheiten)が新設され,コッホは1904年まで所長を勤めた(第一次世界大戦後,ロベルト・コッホ研究所と改名).1905年,結核菌の研究に対してノーベル生理学医学賞を受賞.1908年には来日し,かつての教え子の北里柴三郎の案内で各地を訪問している.1910年,心臓疾患で死去した.

出典