高峰譲吉
経歴と業績
越中高岡(現 富山県高岡市)に生まれた.父は加賀藩の御典医をつとめる漢方医,母の実家は造り酒屋であった.幼時より才気煥発で,12歳から英語を学び,大阪に出て緒方洪庵の適塾,大阪医学校,大阪舎密局*1で化学を学んだ後,上京して工部大学校(現 東京大学工学部)の化学科を首席で卒業した.1880年から英国グラスゴウ大学に留学,1884年農商務省に入省した.1884年,米国ニューオーリンズの万国工業博覧会に派遣されたおりに知り合ったキャロライン・ヒッチと出会い,1886年に結婚した.
同年,東京人造肥料会社(現 日産化学)を創業,モルトのかわりに麹を使用してウイスキーを醸造する「高峰式元麹改良法」を創案,1890年に渡米(以後永住)して事業化を手がけたが,失職を恐れるモルト業者が高峰の研究所を襲撃,放火する事件が発生して断念した*2.
1894年には,日本酒の醸造に用いられる麹菌 Aspergillus aryzaeの抽出液が強力な消化作用を示すことに着目してこれを精製し,パーク・デイヴィス社(Parke-Davis,現 ファイザー)から健胃消化薬 タカヂアスターゼ (Taka-Diastase)*3 として販売された.日本では,1899年に創立された「三共商店」*4が独占的に輸入,販売した(図2).
高峰はタカヂアスターゼの発売以来パーク・デイヴィス社の顧問技術者であったが,同社の依頼に応じて副腎の生理活性物質の単離の研究に着手した.その後助手として加わった薬理学者の上中啓三*5の尽力の結果,1900年に副腎髄質ホルモンであるアドレナリン(adrenaline)の結晶化に成功した.当時既に甲状腺の抽出物を甲状腺機能低下症の治療に利用する試みがあったが,純粋な化学物質としてのホルモン単離成功は世界初であった.翌年にはその構造も明らかとなり,製剤化されて昇圧剤,止血剤として利用されたが,これはその後のノルアドレナリン,ドーパミンなど一連のカテコラミン発見に結びつく画期的な研究となった.日本ではタカヂアスターゼと同じ三共商店が輸入,販売した(図3).
ほぼ同時期,アメリカの薬理学者エイベル(John Jacob Abel, 1857-1938)がやはり副腎髄質ホルモンを抽出して,1899年にエピネフリン(epinephrine)と命名していた.しかし,単離されておらず,その生理的活性もアドレナリンにくらべて弱かった.高峰は,アドレナリンの結晶化成功の直前にエイベルの研究室を訪れて意見を交わしていた.このため,後にエイベルは高峰のアイデア盗用を示唆して非難したが,その後の資料研究から高峰の優先権が確認された[1,2].
1914年,第一次世界大戦がおこり日本の工業が急速に発展するとともに,電力需要が増し,日本中で電源開発が行なわれた.高峰は以前からアルミニウム精錬に関心を寄せており,アメリカ最大のアルミニウム製造会社との合弁事業を計画した.アルミニウムの製造には特に大電力が必要となる.高峰は出身地富山県の黒部川の水利権を獲得し,三共株式会社の社内に東洋アルミナム社を設け,黒部鉄道,黒部温泉会社を設立して黒部川流域開発に着手した.戦後の不況に加え,1922年に高峰が病没したことからアルミニウム製造は実現しなかったが,電源開発事業は日本電力(現 関西電力)に引き継がれ,1927年に初の柳河原発電所が送電を開始,1935年黒部第二発電所(1935年),1940年黒部第三発電所,1961年黒部第四発電所(いわゆる「くろよん」)が操業した.
*1 大阪舎密局(せいみつきょく).舎密局は明治初期に西洋化学の研究教育機関として政府が設けた組織で,1869年に大阪舎密局,1870年に京都舎密局(京都大学の前身)が設置された.舎密(せいみつ)はオランダ語で化学を意味する chemie(ヒェミ) の当て字.
*2 この事件により,麹によるウイスキー造りは失敗に終わったが,2021年に日本の酒造会社がこの製法を再現した.法律上,国内ではウイスキーと名乗れないためリキュールとして製品化されたが,アメリカでは Takamine Koji Whiskeyとして販売されている.
*3 タカジアスターゼ:澱粉分解酵素のひとつで,消化促進剤としての効能がある.澱粉分解酵素は,1883年にフランスのAnselm Payen, Jean F. Persozが初めて麦芽から分離し,これを diastase (ジアスターゼ) と呼んだ.澱粉分解酵素はその由来により多くの種類があるが,その後 amylase (アミラーゼ)の名称が広く使われるようになった.高峰がタカジアスターゼを発明した当時,まだこの名称はなかったが,現在の分類でいえばα-amylaseである.
*4 合資会社三共商店は,1899年に横浜絹物会社の塩原又策が創業し,高峰譲吉と日本,中国,朝鮮におけるタカジアスターゼの独占販売契約を結んで「タカヂアスターゼ」の名称で販売を開始した.1902年には,高峰とアドレナリンの独占販売契約も結んだ.1908年には,鈴木梅太郎とともに,脚気治療薬 オリザニン (ビタミンB1)を開発した.1913年に,三共株式会社となり,初代社長に高峰が就任し,タカヂアスターゼの製造権を獲得,国産化した.2005年に第一製薬と統合,2007年に第一三共株式会社となった.
*5 上中啓三(1876-1960)(図4).大阪薬学校,東京帝国大学薬学科に学び,日本の薬理学の祖とされる長井長義 (大日本製薬,現住友ファーマ創立者) の指導を受けた.長井は1885年に麻黄からエフェドリンを単離しており,上中はこの技術を手中にしていた.1899年に渡米,高峰譲吉の助手となったが,当時手詰まり状態にあった高峰の研究を進め,わずか半年でアドレナリンの結晶化に成功した背景には,構造が良く似たエフェドリン抽出に関する上中の知識と技術が中心的な役割を果たしたと考えられる.その後パーク・デイヴィス社(現ファイザー)を経て,1916年帰国後は高峰が社長を務める三共株式会社(現 第一三共)で研究開発に従事し,タカジアスターゼやアドレナリンの国産化に貢献した[3].
出典
- 1.Parascandola J. Abel, Takamine, and the isolation of epinephrine. J Allergy Clin Immunol 125:514-7,2010
- 2. Ishida M. Hormone hunters: The discovery of adrenaline (Chapter 7) (2018). https://doi.org/10.14989/234214
- 3. 斎藤繁. アドレナリンとエフェドリンの交差点:上中啓三. 日本臨床麻酔学会誌 32:573-81,2012
- 4. 中山沃. 上中啓三のアドレナリン実験ノート. 化学と工業 53:558-9,2010