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ナイチンゲール  Florence Nightingale

経歴と業績

ナイチンゲール (Florence Nightingale,1820-1910)[PD]

イギリスの裕福な家庭の二女として生れた.両親の新婚旅行中にフィレンツェで誕生したため,フローレンス(フィレンツェの英語読み)と名づけられた.女性も充分な教育を受けるべきであるとする進歩的な両親により,姉とともに外国語,数学,天文学,芸術など充実した教育を受けた.1837年,16歳のとき神の声を聞き看護が天職とであると決意したという.周囲は反対したが父は唯一の理解者であった.この頃,政治家で詩人でもあるミルンズ(Richard Monckton Milnes)の求婚を断り,看護の道を選んだ.

1849年,1951年の2回にわたって,当時ドイツで先進的な看護教育を行なっていたフリートナーの運営するカイゼルスベルト・ディーコネス学校(Kaiserswerther Diakonie)を訪れ,短期間であったがその看護教育を受ける機会を得た.帰国後はロンドンの病院で看護婦となったが,ここで各病棟への温水配管,ナースコールのような呼鈴,給食を各階に運ぶリフトの設置などを実践している.

1853年,クリミア戦争が勃発し,前線病院の惨状が報道されると,志願して38人の看護婦を率いてスクタリ(現ユスキュダル)の野戦病院を訪れた.スクタリは,戦場であるクリミア半島と海を隔てた対岸にあり戦傷者の治療の最前線であったが,患者の死亡率は42%にのぼり,その大部分が戦傷ではなく感染症による死亡であった.ナイチンゲールは,病院の衛生状態を改善することにより1年間で死亡率を2%まで低下させた.ナイチンゲールの活躍が報道されると,イギリス本国では多くの国民から寄付が寄せられ,この資金は現地の医療資源の充実に活用されると同時に,その後ナイチンゲール基金として戦後の活動の重要な資金源となった.

1856年,クリミア戦争が終結して帰国したナイチンゲールは,統計学を駆使した報告書を政府に提出し,医療の改革を訴えた.1860年には,戦時中の寄付をもとにしたナイチンゲール基金により,聖トーマス病院にナイチンゲール看護学校(Nightingale Training School)を設立し,本格的な看護婦教育の先駆となった.ナイチンゲールの実践する看護学の基本は,看護は奉仕や信仰心に基づくものではなく,科学的知識に基づく専門職であり,看護教育は看護婦自らの手で行なうとするものであった[1,2].

ナイチンゲールは,1855年5月にスクタリからクリミア半島の前線視察に赴いた際,熱病を発症し一時療養が必要となったが,その後も生涯にわたって慢性の倦怠感,骨関節症状,精神神経症状に悩まされることになった.1861年から6年間は歩行困難のため寝たきりの生活であった.その後も頭痛,うつ状態となり60歳を過ぎてようやく症状が寛解した.最近の研究では,この一連の症状は戦地で感染したブルセラ症によるものであったとされている[3].このため,ナイチンゲールが実際に看護にあたったのは戦時中の2年間のみで,後半生はほとんど著作による啓蒙活動に専念した.ナイチンゲールの著作は百数十編におよぶが,とくに「看護覚え書」(Notes on the nursing, 1859年),「病院覚え書」(Notes on the Hospitals, 1858年)はその看護理論,衛生理論の集大成であった*

* ナイチンゲールが野戦病院の伝染病と格闘していた頃,伝染病の原因は不明であった.ナイチンゲールはその原因をeffluviaと表現しており,これは当時の一般的な概念であったミアズマ(miasma,瘴気)に相当するものと考えられる.このため「看護覚え書」 はこのミアズマ説に基づき,換気の重要性がとくに強調されている [4].ナイチンゲールの伝染病,感染症に関する理解は必ずしも正しくなかった.しかし1860年代以降,パスツールの微生物病源説(germ theory)が確立し,リスターが石炭酸による無菌手術に成功したのは1865年,コッホが炭疽菌を発見したのが1873年で,1882年の著書「看護婦の訓練と看護」ではこれらの最新の知見も踏まえ,接触感染を防ぐための手指衛生を説いている.

出典