診断法の進歩
打診法
モルガーニの著書が出版されたと同じ1761年,ウィーン大学のアウエンブルッガー(Leopold Auenbrugger, 1722-1809)(図1)は《胸部潜在疾患の徴候としてのヒト胸部打診法の新知見》(Inventum novum ex percussione thoracis humani ut signo abstrusos interni pectoris morbos detegendi)を著した.これは胸壁の打診法について述べたもので,わずか100頁の小冊子であるが,現在の教科書にもある打診の技術のすべてが,正常所見,異常所見をふくめて簡潔にまとめられている.アウエンブルッガーは,職人がワインの樽を指で叩いてワインの量を調べているのを見てこれを思いついたといわれ,屍体の胸腔に水を注入して打診音の変化を知るなど,実験も行なっている.
この仕事は当時ほとんど顧みられなかったが,1808年,パリ学派を代表するフランスの内科医コルヴィサール(Jean-Nicolas Corvisart,1755-1821)がその臨床的意義を見抜いてラテン語からフランス語に翻訳し,これによって打診法が広く普及するきっかけとなった.1826年,フランスのピオリ(Pierre Aolphe Piorry, 1794-29)は打診器(plexor)と打診板(pleximétre)を考案し,さらにラエネックの聴診に関する著書にならって《De la percussion mediate et des signes obtenus a l'aide de ce nouveau moyen d'exploration dans les maladies des organes thoraciques et abdominaux》(間接打診法および胸腹部臓器の疾患における新しい診断法により得られる所見について)を著した.
関連事項
打診板
アウエルブルッガーの原著には,打診法の実際が以下のように記載されている.「(複数の)接近させた伸ばした指の尖端で同時に緩徐にやさしく叩く.この時胸壁にはシャツを密着させておくか,あるいは術者は滑らかでない革手袋をはめる.肌を直接素手で打診すると雑音が発生して音の本来の性質が不明瞭となる」.またコルヴィサールは,接近させた伸ばした指の腹で打診するとしている.すなわちいずれも,素手か否かは別として,片手だけで打診していた.
パリ病院の医師ピオリ(Pierre Adolphe Piorry, 1794-29)は,ある時自分の胸が痒くなり,胸を掻いたときに音がすること,さらに硬貨の上から掻くと音が大きくなることに気づいた.このことから,ラエネックの間接聴診法に倣って器具を用いた間接打診法を考案し,1826年にこれを学会で発表した[1,2].ラエネックもその聴衆のひとりであった.これは径5cm,厚さ2.5mmの象牙製の打診板(plessimètre) を胸壁に当て,この上から指で打診する方法であった(図2).ピオリはさらに,聴診器と組合わせた打診板も考案している.1828年にはこの診断法を《間接打診法および胸腹部臓器の疾患における新しい診断法により得られる所見について》(De la percussion mediate et des signes obtenus a l'aide de ce nouveau moyen d'exploration dans les maladies des organes thoraciques et abdominaux))に著した.これはその書名からして,明らかにラエネックの間接聴診法の教科書を意識しており,これに匹敵する打診の教科書を意図したものであった.従来法に比較した利点として,患者の疼痛が少ないこと,皮膚疾患があっても打診できることを挙げている(実際,当時は衛生上の問題もあって皮膚疾患がかなり多かった).
しかし,やはりこのような打診板の利用は煩雑であり,その後多くの医師は器具を使わず,自分の片手の指を打診板として利用し,他方の手の指で打診する方法(finger-to-finger percussion)を好んで使うようになった.この方法は現在に至るまで一般的な打診法となっているが,当時ピオリは,指が音を吸収して不明瞭になるとして否定的であった.またハンマーのような打診器を使用する医師もあったが,これにもピオリは反対している.ピオリはさらに,打診により臓器の輪郭を描き出す「臓器描画法」 (organographisme) を考案している(図3)[1,2].
- 1. Alex Sakula. Pierre Adolphe Piorry (1794-1879): pioneer of percussion and pleximetry. Thorax 34:575-81,1979
- 2. Risse GB. Pierre A. Piorry (1794-1879), the French "Master of Percussion". Chest 60:484-8,1971
- 3. Soiferman E, Rackow E. A brief history of the practice of perc;usson. https://www.antiquemed.com/percus.html
パリ学派と病院医学
フランスでは,18世紀末のフランス革命とその後のナポレオン戦争の時期に,戦死による軍医の不足,戦傷者の増加に伴って,医師の養成が急務となり,臨床に即した実践的な医学教育が進められた.このような社会を背景として,19世紀初頭のパリではビシャ,コルヴィサール,ラエネック,ピネルら,パリ学派と呼ばれる医師の活躍により臨床医学が花開いた.パリ学派の活躍の舞台は第一線の病院で,医学教育も病院で行われた.これが病院医学である.
一方,フランス,イギリスに比べて産業の近代化に遅れをとっていたドイツは,19世紀半ばから国を挙げて科学研究を振興し,特に大学の実験室での研究を推進した.医学も例外ではなく,実験室医学が発展した.実験室医学は,ベッドサイドや病院を離れた別の空間で,患者自身ではなくその臓器や組織を使って行う医学であり,大学や専門施設で研究,教育が行なわれた.
フランスでも実験の重要性を認識していたベルナール(Claude Bernard, 1813-1878)は,その著書「実験医学序説」(1865)で病院医学と実験医学の関係を,次のように論じている.「実験室は,医学研究の最終目標である.病院,病棟は,観察の場であるに過ぎず,臨床医学が行われる場である.病気はできるだけ詳しく研究し,医療は臨床医学から始まらなければならず,臨床こそが医学の対象である.しかし,臨床は科学的な医学の基礎にはなり得ず,生理学こそがその基礎である.実験的方法は,完成された科学の頂点に位置する.自然を記録,分類することと,科学は同一ではない.科学は自然を説明するものである」.
19世紀後半,明治の日本が手本としたドイツ医学は,まさにこの実験室医学の最盛期にあり,その後の日本の医学教育や医学研究は,このドイツ流実験室医学の流れを汲むものとなった.
聴診法
フランスでは,18世紀末のフランス革命とその後のナポレオン戦争の時期に,戦死による軍医の不足,戦傷者の増加に伴って,医師の養成が急務となり,臨床に即した実践的な医学教育が進められた.19世紀初頭,ビシャ,コルヴィサール,ラエネック,ピネルらはこのうな社会を背景として活躍し,パリ学派と言われる.パリ学派の活躍の舞台は第一線の病院で,医学教育も病院で行われた.これを病院医学と言う.
一方,フランス,イギリスに比べて産業面の近代化に遅れをとっていたドイツは,19世紀半ばから国を挙げて科学研究を振興し,特に大学の実験室での研究を推進した.医学も例外ではなく,実験室医学が発展した.実験室医学は,ベッドサイドや病院を離れた別の空間で,患者自身ではなくその臓器や組織を使って行う医学であり,大学あるいは研究所で研究,教育が行なわれた.
パリ学派の病院医学は,ドイツの実験室医学へ受け継がれていったが,フランスでも実験の重要性を認識していたベルナール(Claude Bernard, 1813-1878)は,その著書「実験医学序説」(1865)で病院医学と実験医学の関係を,次のように論じている.「実験室は,医学研究の最終目標である.病院,病棟は,観察の場であるに過ぎず,臨床医学が行われる場である.病気はできるだけ詳しく研究し,医療は臨床医学から始まらなければならず,臨床こそが医学の対象である.しかし,臨床は科学的な医学の基礎にはなり得ず,生理学こそがその基礎である.実験的方法は,完成された科学の頂点に位置する.自然を記録,分類することと,科学は同一ではない.科学は自然を説明するものである」
19世紀後半,明治維新後の日本が手本としたドイツ医学は,まさにこの実験室医学の最盛期にあり,その後の日本の医学教育や医学研究は,このドイツ流実験室医学の流れを汲むものとなった.
聴診は,既に前16世紀のエジプトの医学パピルス(Ebbers Papyrus),前5世紀のヒポクラテス全集にも記載がある.当時の医師も必要に応じて聴診を利用したと思われるが,体壁に耳を押し当てる必要があり,医者にも患者にも不快な方法で一般的に行なわれるものではなかった(図4).初めて聴診器を使ったのは,コルヴィサールの弟子の一人,フランスの医師ラエネック(René Laënnec, 1781-1826)である(図5).ある時ラエネックは,若い女性患者を診察することになった.コルヴィサールの下で学んだラエネックは打診法にも精通していたが,その患者は非常に太っていたため打診が難しく,聴診するにも女性の胸に耳を当てることは憚られた.
そこでラエネックは手近にあった薄い本を筒状に丸めて,一端を患者の心臓の上に,もう一端を自分の耳に当てたところ,明瞭に心音を聴こえた.当時,長い木の棒の一端をピンでひっかいて音を出して通信する,電話ごっこのような子供の遊びがあり,これにヒントを得たとも言われる.これをきっかけに,ラエネックは木製の筒状の聴診器を考案し(図6),これを使って数多くの患者を診察,さらに患者が死亡すると剖検結果と聴診所見を対比して,1819年,《間接聴診法あるいは新しい診察法の原理に基づく心肺疾患の診断について》(De l'auscultation médiate ou traité du diagnostic des maladies des poumons et du coeur, fondé principlement sur ce nouveau moyen d'exploration)と題する900頁以上におよぶ大著にまとめた.これは,単に肺、心臓の聴診所見にとどまらず,当時知られていたほとんどすべての肺疾患,心臓疾患について,症状,病理解剖所見を詳述した内科学の教科書であった.本の価格は13フランで,さらに3フラン払うとラエネク手製の聴診器が送られてきたという.
書名の「間接」は,従来の耳を押しつける「直接」聴診法に対する言葉で,聴診(auscultation),聴診器(stéthoscope)という言葉もラエネックが初めて使用したものである.ラエネックの聴診器は,当時の医学会に賛否両論で迎えられ,珍妙な器具を売るペテン師という批判もあったが,その簡便さから次第に広く普及した*.
* 1848年,長崎のオランダ商館医モーニケ(Otto Mohnike)はラエネックの聴診器を初めて日本に持ち込んだ.この時モーニケは,長崎藩の依頼で日本に痘苗を届けたことでも知られる.
このような打診法,聴診法に代表される検査法の登場は,単に新しい技術の進歩にとどまらない.それは,医者—患者関係という医療の枠組みを大きく変化させるきっかけでもあった.それまで,患者を診る医師の主たる情報源は問診,すなわち患者の訴えであった.これに加わる客観的情報は視診であるが,これも患者自身が共有できる情報である.従って病状に関する情報は患者の方が多くもっている.しかし打診法,聴診法など新しい検査技術,検査装置の登場により,医師は患者が知ることのできない客観的情報を手にし,さらに素人の患者には理解できない医学理論で武装することにより,両者の優位関係は大きく医師側に傾き,医者は確実に患者の上に立つようになった.
関連事項
聴診器の歴史
ラエネックの聴診器は,スギやクルミの木の棒を筒状に削った単純な構造であったが(長さ30~40cm,直径4~5cm)(図7),重くて扱いにくいなどの理由でその後様々な改良が加えられた.例えば Piorryは材料にスギや黒檀を使用し,長さ16cm,直径2cmに小型化し,さらに聴診面をラッパ状に広くするなどの工夫をこらしている[1,2].
現在のような両耳のイアピースと胸壁に当てるチェストピースを2本のチューブでつなぐ双耳型聴診器(binaural stethoscope)は,1852年にアメリカの医師キャマン(George Philip Cammann,1804-1863)が製作,販売したものである(図8)*.以後さまざまなタイプの双耳型聴診器が開発されたが,1961年,ハーヴァード大学の内科医リットマン(David Littmann)は,チェストピースにベル型,ダイアフラム型の2つを備え,チューブをできる限り短くし,左右のイアピースの支持部にスプリングをつけて耳への密着性を向上させるなど,様々な改良を重ねた「理想的な」聴診器を提案した[3].これは3M社により製品化され,リットマン式として広く普及して現在に至っている.1990年代後半になると,増幅回路や録音装置を内蔵した電子式聴診器も開発され一部で使用されているが,最近では様々な検査法の発達に伴い聴診の意義そのものに疑問を投げかける向きもある.
* この前年1851年,ロンドンで開催された第1回万国博覧会に,アイルランドの医師Arthur Learedが当時マレーシアから輸入されたばかりのペルカゴムで作ったチューブを利用した双耳型聴診器を "Double stethoscope of gutta percha" として出品しており,キャマンに対する優先権を主張しているが[4],実際に製品化して普及に貢献したのはキャマンである.ラエネックの聴診器のような円筒型聴診器も,いわゆるトラウベ型聴診器として比較的最近まで産科医による胎児心音の聴診に利用されていたが,現在はほとんど使われない.
- 1. Renner C. Évolution du stéthoscope de Laennec ä Cammann. Hist Sci Med. 43:407-16,2009
- 2. Harbison J. The old guessing tube: 200 years of the stethoscope. QJM. 110:9-10,2017
- 3. Littmann D. An approach to the ideal stethoscope. JAMA. 178:504-5,1961
- 4. Leared A. On the self-adjusting double stethoscope. Lancet 68:138,1856
体温測定
世界で初めて温度計の原理を考案したのは,ガリレイ(Galileo Galilei, 1564-1642)とされる.ガラス球にガラス管を連結し,温度が上昇するとガラス球内の空気が膨張してガラス管内の液体が移動することにより温度の変化を知るものであったが,まだ目盛はなく,体温を測定するという発想はなかった.初めて体温を測定したのは前述の1609年,ガリレイとほぼ同時代のイタリアの医学者サントリオ(Santorio Santorio,1561-1636)で,曲がりくねったガラス管の一方の端を球状に膨らませ,他方の端を水の入った容器に入れた温度計を作った(図9).球状の部分を口でくわえると,管内の空気が膨張して水面が下降する,その変化を目盛りで読み取る.世界初の体温測定であるが,臨床応用には至らなかった[1].
その後18~19世紀には,多くの医学者が体温について研究している.たとえば,マリア・テレジアの侍医でもあったウィーンのハーエン(Anton de Haen, 1704-76)は,健常者,病者の体温を測定し,年齢,日内変動についても記載している.寒気を訴える患者の体温は,実は高いこととも指摘している.これらの知見はその著書Ratio Maedendi(1757-73)に記載されているが,全15巻に分散しているためあまり注目されなかった.ほぼ同時期,イギリスのブラグデン(Charles Blagden, 1748-1820)らは,動物を恒温槽にいれて実験し,体温が外気温の影響を受けないことを発見した.[1].
このような研究から,体温が体内の異常を鋭敏に反映することは明らかとなったが,臨床診断に直結する知見を体系的に記述したのは,ドイツの内科医ヴンダーリッヒ(Carl Reinhold August Wunderlich, 1815-1877)である.ヴンダーリヒは,25,000人の患者で,述べ100万回以上体温を測定した[2].その著書《諸疾患における体温の変化》(1868)には,健康人の体温はほぼ一定で36.3〜37.5℃と書かれている*.32種類の熱型(疾患経過中の経時的体温変化)を分類しており(図10),その一部は現在の教科書にも書かれている.ヴンダーリヒの著作は,アメリカの精神科医セガン(Édouard Séguin,1812-1880)により英訳され,アメリカの医学界にも広まった.
* 温度目盛の華氏(°F),摂氏(°C)はそれぞれ1709年にDaniel Gabriel Fahrenheit,1742年にAnders Celsiusが提案した.初めて水銀温度計を作ったのもFahrenheitである.
- 1.Haller JS. Medical thermometry - A short history. West J Med. 142:108-16,1985
- 2. Pearce JMS. A brief history of the clinical thermometer. QJM 95:251-2,2002
関連事項
体温計の歴史
ヴンダーリッヒが使用した水銀体温計は,長さ20cm以上もある大きなもので,検温には20分を要し,計測値を保持する水銀溜まりもなかった.現在のような小型の体温計を制作したのは,アメリカの精神科医で,眼底鏡の発明者としても知られるオルバット*(Thomas Clifford Allbutt,1836-1925)である.1866年にオルバットが作った水銀体温計は,長さ12cm,検温時間も5分で,現在の水銀体温計とほとんど変わるところはない(図11.体温計の小型化に伴い,体温測定は急速に普及した.
ちなみに,オルバットの体温計が作られたのは1866年で,日本では明治維新(1868年)直後から西洋医学の導入と同時に体温計が使用された.当時体温計はもっぱらヨーロッパからの輸入品であったが,第一次世界大戦で輸入が難しくなり国産の必要に迫られて生まれたのが赤線検温器株式会社(現テルモ株式会社, 1922年)で,発起人には北里柴三郎も名を連ねている.「赤線」 の名称は,水銀柱の背景に赤い線を描いて示度を読み取りやすいように工夫されていたことに由来する(図12).
水銀体温計はその後長らく活躍したが,現在はもっぱら電子体温計が利用されている.驚くべきことに、前述のしたヴンダーリヒの教科書には,異なる二種類の金属を貼り合せると温度に応じて電気が流れる,現在でいう熱電対を利用した温度測定法が紹介されているが,実用化には至らなかった.1964年,現在のような温度により電気抵抗が変化するサーミスタ素子を利用する温度計を使って鼓膜温度の計測に成功したのは,ドイツの医師heodor H. Benzinger である.当時はまだ装置も大型で研究用途に限られたが,1980年にオムロン社,1983年にテルモ社が,病院や家庭で簡単に使える電子体温計を発売して以後急速に普及し,現在も日本のメーカーが世界市場をリードしている.
- 1. Clifford Allbutt. Lancet. 228(5891):202,1936
血圧測定
体の外から触れることができる脈拍の存在は古代から知られていたたが,血圧の概念に人類が気づいたのは意外に遅く,18世紀初頭のことである.世界で初めて血圧を測ったのは,イギリスのヘイルズ(Stephen Hales, 1677-1761)ある.ヘイルズはイギリスのケント州の片田舎の牧師であったが,科学的探求心が旺盛で博物学者,発明家としても活躍した.特に植物生理学の研究で知られるが,当初樹液の圧力を測ろうとしたが難しかったため,まず動物の血液の圧力を測ろうと考えた.1720年,1頭のウマを縄で地面に縛り付け,後脚の動脈に真鍮の管を挿入し,アヒルの気管を介してガラス管に接続した.血液は瞬く間にガラス管内を駆け上り,高さ250cmに達した(約180mmHgに相当) (図13).ヘイルズはこのほかにも大小さまざまな動物の血圧を測定し,動脈と静脈では圧力が異なること,呼吸や運動により血圧が変化すること,瀉血すると血圧が低下することなどを記している.しかしこの実験は,その後さらに100年以上もの間,顧みられることはなかった[1].
ヘイルズの圧力計は,水柱圧を測定するものなので血圧を測定するには3mもの長い管が必要であったが,流体力学の法則に名前を残すフランスの医師でもあった物理学者ポアズイユ(Jean-Léonard Poiseuille, 1816-1895)は水銀を使って机上でも使える血圧計を考案した.これはポアズイユの博士論文となり,学会の金メダル受賞論文となった.この実験でポアズイユは動物の動脈に細いカニューラを挿入し,動脈圧が静脈圧に依存しないことなどを明らかにしている.1847年,ドイツのCarl Ludwigは,このポアズイユの血圧計を応用して血圧を連続的に記録する kymograph を発明し,血圧の呼吸変動を発見した.
初めて非観血的な血圧測定に成功したのは,ドイツの生理学者フィアオルト(Karl von Vierordt, 1818-84) で,橈骨動脈を圧迫して拍動が消える圧を血圧とする方法を考案し,1860年にはフランスの生理学者マレー(Etienne Jules Marey, 1830-1904)*はこれを改良して臨床にも利用できる装置を開発したが,構造が複雑かつ不正確であった(図14).
* マレーは,1882年に写真銃(photographic gun)を発明して毎秒12枚の連続写真撮影(chronophotography)に成功し,これによって鳥の飛翔,動物や人の運動を解析したことでも知られる.この技術はその後の映画の基礎となるものであった.
その後も様々な装置が考案されたが,現在のような上腕に腕帯を巻きつけるカフ法を発明したのは,イタリアの医師リヴァ・ロッチ(Scipione Riva-Rocci, 1863-1939)である.1896年,ロッチは革製の外筒の中にゴム袋を入れたカフを上腕に巻き,ゴム袋に送気することによりカフを膨らませ,末梢の脈拍が触れなくなった時点の血圧を収縮期圧とした.現在と全く同じ方法である(図15).
拡張期の測定には振動法(oscillatory method)が用いられた.すなわち収縮期圧からカフ圧を下げてゆくと脈圧に応じて水銀柱が上下に振動するが,ある時点で振動幅が急に小さくなる.この時の圧を拡張期とするものである.この目的のために,たとえばイギリスのHill and Barnardが血圧の振動を読み取りやすいように水銀柱ではなく針式の血圧計を製作し広く用いられた(1897年).現在のような聴診法を発明したのは,ロシアの血管外科医コロトコフ(Nikolai Sergeyevich Korotkov,1874-1920)である(図17).コロトコフは軍医として日露戦争にも参加した血管外科医であったが,動脈を圧迫する圧力を変化させながら,その末梢に聴診器*1を当てると音が変化することに気づいた.1905年に著したそのわずか200余語の論文「聴診法による血圧測定法」に,「水銀柱がある所まで下がると短い音がする...さらに下がると雑音が聞こえ...最後に全ての音が消える.この時の圧が最低血圧である」と述べており,これはまさに現在の聴診法である.この方法はその後広く普及して,現在にいたっている[1-2]*2.
*1コロトコフが最初に使用した聴診器は,ラエネック型の筒型聴診器であったが,聴診しながらカフを操作するには不便で,その後双耳型聴診器を使用した.聴診法の普及は,間接的に双耳型聴診器の普及を後押しすることになった.
*2 現在広く利用される自動血圧計は,初期には聴診法が試みられたが,より確実な振動法が採用されている.その意味では,再びコロトコフ以前の方法に戻っているともいえるが,単に振動の大小を判定するだけでなく,正確な収縮期圧,拡張期圧を求めるコンピュータアルゴリズムが内蔵されている[3].
- 1. Booth J. A short history of blood pressure measurement. Proc Roy Soc Med. 70:794-9,1977
- 2. O'Brien E, Fitzgerald D. The history of indirect blood pressure measurement. (In: O'Brien E, O'Malley K, ed. Handbook of Hypertention. Vol. 14. Blood Pressure Measurement. 1-54, 1991)
- 3.久保田博南. 血圧測定の歴史. 医機学 80:615-21,2010
脈拍測定
脈拍を初めて数えたのは、おそらくギリシアの医学者ヘロフィロス(Herophilos)である.ヘロフィロスは、クレプシドラ(clepsidora)という水時計を使って,脈拍を測った.クレプシドラは,もともと演説の時間を計るための道具で,水瓶の底に小さな穴をあけ,そこから少しずつ水が流れ出して瓶の水がなくなるまでの時間が演説の持ち時間,といった使い方であった.ヘロフィロスはこれを使って脈拍を数え,年齢によって脈拍が異なること,速さ,大きさ,強さ,リズムの四つを区別しており,これは現代の診断学に通ずる卓見である.
脈拍を初めて本格的に測定したのは,初めて体温測定の項にも登場したイタリアのサントリオ(Santorio Santorio, 1561-1636)である.サントリオは,プルシギウム(pulsigium)という振り子装置を考案した.原理は簡単で,振り子の長さを調節して,振り子の周期と脈拍を一致させ,その時の振り子の長さを目盛りで読み取るものであった(図18).当時,サントリオはパドア大学の教授であったが,学生の中には振り子の等時性を発見したガリレイがいたことも無関係ではないかもしれない.
イギリスの医師ジョン・フロイヤー(Sir John Floyer, 1649-1734)は,気管支喘息の病態を初めて解明したことでも知られる内科医であるが,サントリオの研究に大きな関心を寄せ,同じように体温測定や体重測定も自ら試みている.しかし最も大きな功績は,脈拍計測用の時計(Physician’s pulse watch)を開発したことである.それまでの砂時計や振り子時計は短い時間を計るには不正確で,取扱いも不便であった.そこでフロイヤーは有名な時計技師ワトソン(Samuel Watson)の協力を得て,往診にも携帯可能で正確な時計を作り出した.この時計には,それまでにない2つの特長があった.すなわち,一つは秒針がついていること,もう一つはこれを止めるボタンがついていることである*(図19).要するに現在のストップウォッチであるが,これによって正確,簡便に脈拍を知ることができるようになった[1,2].
* 秒針や針を止めるストップメカニズムはこれ以前にもあったが,この両者を小さな時計に組込んだのは初めてのことであった[2].
- 1. Gibbs DD. The physician's pulse watch. Med Hist. 15:187-90,2012
- 2. Gibbs DD. The almshouses of Lichfield: cradles of pulse-timing. J Med Biograph 2:89-93,1994
関連事項
心電図の歴史
1887年,心臓の電気活動を初めて記録したのはイギリスの生理学者ウォーラー (Augustus Desiré Waller, 1856-1922)である.心臓が発生する微小な電流を検出する手段としてウォーラーは,1873年にフランスの物理学者リップマン(Gabriel Lippmann)が発明した毛細管電位計(capillary electrometer)を利用した.毛細管電位計は,ガラスで作った毛細管の中に水銀と硫酸を封入し,その両端に電線をつないだものである.毛細管を垂直に立てると,水銀と硫酸が液面を形成するが,ここで電線に電圧をかけると電離作用のために液面が僅かに変位し,その変位量から電位を知ることができる.ウォーラーは,液面の変位を顕微鏡を通して光学的にスクリーンに投影して記録して,心臓の電位波形を記録した.ウォーラーは,ジミー(jimmie)という愛犬のブルドッグをつれて,各地を講演して回り,ジミーの心電図を実演して供覧していた(図20).
1887年,オランダのライデン大学教授で生理学者のアイントホーフェン(Willem Einthoven, 1860-1927 )(図21)は,ロンドンで開かれた国際生理学会でウォーラーの実演を目にして,これに興味をもった.毛細管電位計は,重い水銀の慣性のために素早い電位変化には追従することが難しく,また電気的ノイズも大きいために,ごく大雑把な波形しか得られなかった.アイントホーフェンはさまざまな方法を工夫して,数学的にこれを補正し,1895年には現在我々が目にする波形とほぼ同等のものを発表している*1.心電図(Elektrokardiographie)という言葉も,このときEinthovenが初めて使っている.
しかし波形の補正作業は非常に煩雑であった.アイントホーフェンは,さらに鋭敏な測定法を模索した.当時,非常に鋭敏な検電計として弦線検電計(string galvanometer)が知られていた.これは強い磁極間に張った細い電線に電流を流すと,電磁気力によって電線が移動することを利用するものである.当時最も細い弦線は0.2mmであったが,アイントホーフェンは2.1μmという非常に細い石英の糸に銀を蒸着し,さらにこれを真空中に置くことによりきわめて高感度の検電計を作ることに成功した*2.弦線の動きは,光学的に検出し,顕微鏡で拡大して写真乾板に記録された.10-11Aの電流を1mmの変位として捉えることができ,慣性は無視しうるほど小さかった.しかし,1901年に完成したこの装置は,強力な電磁石(20,000ガウス)の遮蔽,冷却装置,電源,光学装置などを含めた巨大な装置で,2部屋を占拠し,重量300kg,操作には5人が必要で,臨床応用は難しかった[1-3].
1905年,アイントホーフェンは,電話会社の協力を得てライデン大学病院と1.5km離れたアイントホーフェンの研究室の間を電話回線で結び,病院の患者の四肢の電極から得られた電気信号を研究室の測定装置に伝送することにより,心電図を記録するシステムを構築した.これは,現在の遠隔医療(telemedicine)の嚆矢とされ,アイントホーフェンはこれを Le Telecardiogamme と呼んだ.これは医療に Tele- が使用された初めての例で,アイントホーフェンは遠隔医療の祖ともされる.
1908年,初の商用機が*3が完成したが,その大きさのため納入先はおもに生理学研究室であった.その後,次第に改良が加えられ小型化が進み,1911年には,Table-modelが発売された(図23).まだまだ大きな装置であったが,一般病院でも利用できるようになり,1918年までに35の病院に納入された.その後真空管による増幅回路が進歩し,1928年にはFrank Sanborn社(後のHewlett Packard社)が,6ボルトの自動車用蓄電池で駆動する重さ12kgの装置を発売した.現在のような形の電子式,熱ペン直記式の心電計は,1948年に同じくSanborn社が発表したポータブル心電計が最初で(図24),以後心電計は世界中に普及した.
応用面でも,1906年には早くも左室肥大,右室肥大,心房粗動,房室ブロックなどの波形が,1910年には狭心症におけるT波逆転が記載されている.1912年にはいわゆるアイントホーフェンの三角に関する理論が発表され,1913年の論文で現在標準となっている四肢誘導I, II, IIが定まった.1918年,アメリカの生理学者 James Herrickが心筋梗塞の心電図波形を発表するに至り,心電図は心臓病の診断に欠くことのできない検査としての地位を確立した.1938年に米国心臓病学会が胸部誘導(V1-V6)を導入し,1954年に現在の標準12誘導が標準法となった[1-3].1924年,アイントホーフェンはノーベル生理学医学賞を受賞した.
*1 心電図波形のピークはPQRSTとされるが,これはアイントホーフェンの初報で既に登場する命名である[5].ウォーラーは毛細管電位計で認められる2つの上下のピークが心室(ventricle)由来であると考えV1, V2としていた.アイントホーフェンはこれをA, Bとした.その後測定精度が向上して心房(atrium)由来の小さなピークが検出され,ウォーラーはこれにAをあて (A, V1, V2),アイントホーフェンはPとした(P, A, B).なぜPを使ったかは記載がないが,これはABC...の次にPQR...を使う数学の慣用に従ったと考えるのが自然である (アルファベット26文字の後半,14文字目はNから始まるが,Nは個数,次のOは原点を表わすので,次のPから始めるのが一般的である).アイントホーフェンの1895年の論文では,補正前のピークをABCD,補正後をPQRSTとしており(図22),以来現在にいたるまでこの命名が使用されている.その後アイントホーフェンは,弦線心電計で新たに検出したUを追加した[6,7].
*2 検電計(galvanometer)はもともとオシログラフの構成部品として発明された.オシログラフは1893年,フランスの電気工学者ブロンデル(Eugene Blondel, 1863-1938)が交流の記録装置として考案し,その後イギリスのCambridge Scientific Instrument Companyのデュデル(William DuBois Duddell)が製品化した際,当初はコイル状の電線が使われていたが,1897年にHalle大学のアダー(Clement Ader)は1本のまっすぐな電線を使用することにより高感度な弦線検電計(string galvanometer)を発明した.アイントホーフェンは,さらにこれを改良して心電計に応用した[1].この開発には電気工学者であったアイントホーフェンの長子Willem Frederik Einthoven Jr. も大きく貢献したが,父の没後はインドネシアに電話会社の技術者として赴任,太平洋戦争中の1944年に日本軍の捕虜となり東京で病没した.聖路加国際病院で池田泰雄医師の診察を受けたが,その診察室の壁には留学中に面識を得た父アイントホーフェンの署名つきの写真があり,池田医師はその署名の下に子アイントホーフェンの署名を書き加えてもらったという[8].
*3 製造販売したのはCambridge Scientific Instrument Companyで,1881年にHorace Darwin (進化論のCharles Darwinの末子)がGeorge Dew-Smithと共同で創立し(その後Darwinの単独経営),ケンブリッジ大学Trinity Collegeと密接に連携して,研究者が考案した科学機器の製作,販売を採算度外視で行なった.1924にCambridge Instrument Companyとなった.
- 1. Acierno LJ. The history of cardiology. (Parthenon Pub. Group, 1994)
- 2. Vincent R. From a laboratory to the wearables: a review on history and evolution of electrogram. Iberoam J Med 4:24-55,2022
- 3. Zywietz C. A brief history of electrocardiography. Progress through technology (Biosigna Institute for Biosignal Processing and Systems Research, 2003)
- 4. Vladzymyrskyy A, Jordanova M, Lievens F. Telecardiology. In: A century of telemedicine.(Sofia, Bulgaria, 2016)
- 5. Einthoven W. Über die Form des menschlichen Electrocardiogramms. Arch Gesamt Physiol 60:101-23,1895
- 6. Hurst JW. Naming of the waves in the ECG, with a brief account of their genesis. Circulation 98:1937-42,1998
- 7. Henson JR. Descartes and the ECG lettering series. J Hist Med 26:181-6,1971
- 8. 望月吉彦.心電計の発明者アイントホーフェン医師の共同研究者だった同医師の子息が太平洋戦争下の東京で亡くなっていたことに関する考察. 心電図 41:30-9,2021
- 9. historischesarchiv.dgk.org