- 精神医学の歴史
- 古代・中世の精神医学
- 精神病院
- 関連事項
- 日本の精神医療
- 近代精神医学の幕開け
- 二大精神疾患の確立
- 治療法の進歩
- 関連事項
- 進行麻痺
- 精神分析学
精神医学の歴史
古代・中世の精神医学
古代医学では,精神の変調はさまざまに捉えられていた.ギリシアのヒポクラテスは四体液説を唱え,そのバランスのくずれが疾患の原因と考えた.とくに精神の変調は黒色胆汁の異常により起こると考え,これをメランコリア(melanos〈黒〉+cholos〈 胆汁〉)と呼んだ.メランコリー(melancholy) は現在ではうつ状態を指すが,当時は精神疾患全般を指すことばであった.またギリシアでは横隔膜(phrenos)に精神の主座を求める考え方があり,譫妄のような急性精神症状をその炎症と考える phrenitis(脳炎)といった表現は19世紀まで使用された.ヒステリーは子宮(hysteron)の異常,充血によって起こるとされた.中世には,月の満ち欠けや月の光が精神異常の原因と考えられ,狂気を意味する英語 lunatic (luna = 月)はこれに由来する.
中世ヨーロッパのキリスト教世界では,魔女信仰に基づく魔女狩り,魔女裁判が盛んに行なわれた.魔女は古くから悪魔と盟約を結んで魔力を賦与され,魔術により人々の生活を邪魔したり,天変地異,疫病をもたらすとされ,都合の悪いことは魔女のせいにされた.特に15世紀になると魔女はキリスト教の異端とされて異端審問で裁かれるようになった.1484年に教皇イノケンティウス8世が魔術禁圧の勅書を発布し,1487年にはドイツの修道士シュプレンガーが「魔女への鉄槌」(Malleus maleficarum)を出版した.これは魔女の見分け方,異端審問の方法を詳述したマニュアルのような書物で,当時印刷術の発達と相俟って広く読まれ,これを機にヨーロッパ全土で魔女狩りが行なわれた.このような中で,精神病患者は悪魔憑き,魔女とされ,魔女狩りの対象となり,その後長らく迫害,虐待の対象となった.ひとたび魔女とされれば,火刑が原則であった(図1).
ルネサンス期に入ると,精神疾患を医学的,科学的に理解しようとする態度も現れた.しかし初めて精神疾患の分類を試みたプラーター(Felix Plater, 1536-1614)の分類は,「精神薄弱,せん妄,メランコリー,悪魔憑き」とされていた.錬金術を医学に持ち込んだパラケルスス(1493-1541)は,世界も人間も硫黄,水銀,塩の3元素からなると考え,天体の配置によって体内の硫黄が異常燃焼を起こし,これが脳室に充満することによって意識障害を起こすと考えた.それでもパラケルススの精神疾患の分類には悪魔憑きが残されている.
精神疾患と悪魔,魔女の関係を初めて明確に否定したのは,ドイツの医師ヴァイヤー(Johann Weyer, 1515-1588)(図2)で,その著書「悪魔,呪文,魔術の幻惑について」(De praestigiis daemonum et incanataionibus ac venificiis, 1563)で,精神疾患も身体疾患と同じもので,悪魔,魔女とされる人の多くは,悪魔憑きではなく精神的な病気であると主張し,魔女狩りを批判した.イギリスのウェブスター (John Webster, 1610-1682) もその著書「いわゆる魔女の真実」(The displaying of supposed witchcarft) で魔女と精神病の関係を否定した.
精神病院
中世のヨーロッパでは,精神病患者の収容施設には2種類あった.一つはキリスト教による慈善施設で,修道会や,特に十字軍以降は騎士団がその担い手であった.十字軍の遠征路には,「神の館」(Hôtel Dieu) と呼ばれる傷病者のための宿泊施設が設けられた.中でもパリの施設は大規模であった.イギリスでは,ロンドンのベツレヘム修道院(New Order of our Lady of Bethlehem)に,14世紀に病院が併設され精神病者を収容した(図3)*.
*その後ベドラム (Bedlam)* と呼ばれるようになったが,この精神病患者収容施設をさす言葉となり,現在では「大騒ぎ」 「気違い沙汰」 を意味する一般名詞となっている.
もう一つは都市に付属する拘禁施設で,城壁やその外に設けられた監禁塔などの施設である.中でも大規模なものが1656年にパリに設立された一般施療院(Hôpital général)で,ビセトール施療院,サルペトリエール施療院があり,それぞれ男性,女性が収容されていた.施療院といっても医療行為が行われるわけではなく,また精神障害者だけでなく浮浪者,売春婦,反社会的分子,一般の犯罪人などもまとめて監禁されていた.フーコーはその著書「狂気の歴史」で施療院を「君主制的,ブルジョワ的権力機構」と呼んでいるが,まさしく社会の支配層にとって不都合な人々を隔離しておく施設であった.17世紀末,パリの人口の1%,6,000人が一般施療院に監禁されていたという.ドイツでも1781年に,神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世により,ウィーンに愚者の塔(Narrenturm) が作られた(図4).
このような施設は精神病院の原形であるが,有効な治療手段がなかった当時,患者は単に監禁されているだけで,患者はしばしば鎖につながれ.非人道的な扱いを受けるのが常であった.見物料をとって患者を見世物にする施設もあった.
関連事項
日本の精神医療
日本でも,精神疾患は犬神憑き,狐憑きなど,動物の霊が取り憑いているとして,加持祈祷が行なわれた.奈良時代,初の律令制に基づく法律として知られる大宝律令では,障害を程度によって残疾,癈疾,篤疾の3段階に分け,中等度の癈疾,最重症の篤疾では労役が免除されたり,刑罰が減じられたりした.「医心方」「 頓医抄」などの古医書にも,精神疾患を表わす風癲,風狂などの病名が見える.治療法は身体の疾患と同じく鍼灸,薬草などのほか,精神疾患に特徴的なものとして滝打ち(灌水療法)が効果的とされた.日本では中世ヨーロッパの魔女狩りのような組織的な迫害はなく,精神障害者には比較的寛容な社会であったといえる.
公的な監禁施設もなかったが,これに代わるものとしていわゆる「座敷牢」 ,すなわち私宅監置があった(図5).これは,家族が自宅内に監禁する場所を設けて精神病患者を隔離するもので,江戸時代になると医師の見立てと町奉行の許可証があれば設置が認められた.この制度は明治時代になっても続き,1900年に制定された「精神病者監護法」でも一定の手続を踏めば私宅監置が許可された.1918年,東京大学の呉秀三はその論文の中で,国内の精神病患者15万人に対して,精神科の病床は5,000床しかなくその多くが私宅監置下にあるとして,「我が国の精神疾患患者はその病の不幸に加えて,この国に生まれたという不幸を二重に負っている」と述べ,精神医療政策の必要性を強調した.これを受けて1919年に「精神病院法」が設けられ,公立精神病院の設置が認められたが,実際にはほとんど設置されず,私宅監置も認められていた.1950年の「精神衛生法」で,ようやく私宅監置が禁止され,公立精神病院の設置が義務付けられるなど,近代的な精神科医療に向けての第一歩を踏み出すことになった.
- 1. 呉秀三, 樫田五郎. 精神病者私宅監置ノ実況及ビ其統計的観察.東京医学会雑誌 32(10-13),1918
近代精神医学の幕開け
16~17世紀,医学,科学の発展とともに次第に精神疾患の理解が進み,ヴァイヤーにより宗教や悪魔の関係が断たれて魔女狩りも行なわれなくなったものの,精神病院に収容され,鎖につながれた患者が悲惨な状態であることには変わりなかった.このような精神医学の暗黒面に改善の兆しが表れたのは18世紀末のことで,その背景には特に1789年に始まるフランス革命など市民革命によるヒューマニズムの興隆があった
1793年,ビセトール施療院の院長に就任したフランスのピネル(Philippe Pinel, 1745-1826)は,同院の患者を鎖から解放し,つづいてサルペトリエール施療院でもこれを解放した(図6).さらにピネルは,解放された患者に規則正しい生活を送らせ,作業をさせるなどして,人間性の回復を図るような治療を実践した.まだ有効な治療手段はないにせよ,単なる監禁状態から医師の指導のもとに患者を保護する段階に進んだという点で,精神医学史上,特筆すべき出来事であった.ドイツでも,1805年に精神科医ランガーマンが,キリスト教的な厳格な生活,社会教育を行う近代的な精神病院「精神疾患者のための治療院」を設けた.
1845年,ドイツで最初の精神医学の教科書『精神病の病理と治療』を著したグリージンガー(Wilhelm Griesinger, 1817-86)は,精神疾患は脳の病気であると明言し,他の身体の病気と同列に考えて,患者の処遇改善を求めた.特にそれまで田園地帯にあった精神病院を都市に移す「都市部精神疾患院」を提案し,拘禁具の廃止,入院期間の短縮,医学生の受け入れを進めてその後のドイツ精神医学発展の基礎を築いた.グリージンガーの精神疾患脳病論を機に,ドイツでは大脳病理と精神疾患の研究が進み,ウェルニッケ(Carl Wernicke,1833-92),ピック(Arnold Pick,1851-1924),アルツハイマー(Alois Alzheimer,1864-1915)[図147],クロイツフェルト(Hans Creutzfeldt,1885-1964),ヤコブ(Alfons Jacob,1884-1931)ら,現在も神経疾患の病名に名前を残す医学者が多く輩出した.
二大精神疾患の確立
ピネルは,精神疾患の疾患概念の基礎として「単一精神疾患論」を唱えた.すなわち,すべての精神疾患は本質的に一つで,それぞれ症状が違って見えるのはその経過を見ているためであるという考え方である.躁鬱状態は疾患の初期段階,妄想幻覚,痴呆などの症状は晩期症状であるとした.ドイツのグリージンガーも基本的にこれを踏襲した.しかしドイツの20世紀最大の精神医学者と言われるクレペリン(Emil Kraepelin, 1856-1926)(図7)は,精神疾患を早発性痴呆(現在の統合失調症),躁うつ病の2つに分類した.これが「二大精神疾患論」である.また,この2つを遺伝的背景が濃厚な内因性精神疾患とし,このほか脳腫瘍,感染症などによる外因性精神疾患,ヒステリーなどの心因性精神疾患を区別した.これは現在に至るまで精神疾患分類の基本となっている.
クレペリンの言う早発性痴呆(dementia precox)は,若年時に発症,進行性に荒廃して痴呆*に至るという意味であるが,必ずしも若年発症ではなく,また荒廃しない例もあることから,ブロイラー(Paul Eugen Bleuler,1857-1939)はその特徴的な症状である連合障害(思考のまとまりのなさ)を重視して,1908年に精神分裂病*(schizophrenia)と命名した.またブロイラーは,精神分裂病は単一の疾患ではなく一連の「症状群」 とした.その後,シュナイダー(Kurt Schneider, 1887-1967)が提唱した精神分裂病の一級症状,二級症状は,現在の診断基準にも取り入れられている.
*現在の日本では,痴呆(dementia),精神分裂病(schizophrenia)という用語は患者,家族に不利益を招くという理由で,それぞれ認知症,統合失調症とされている.
治療法の進歩
中世の精神病院は,事実上は拘禁施設,監禁施設であったが,それでもいろいろな治療が試みられ,瀉血,冷水を浴びせる灌水療法(図8),椅子にくくりつけてぐるぐる回す回転療法などが記録されている.19世紀以降,精神疾患への理解は進歩したものの,治療法についてはめぼしい進歩がなく,例えばグリージンガーの教科書に挙げられている治療法も,このような中世の治療法と大差なかった.
しかし20世紀に入ると,新しい治療法が登場する.1917年,ヤウレッグ(Wagner von Jauregg, 1857-1940)は,梅毒の中枢神経感染症である進行麻痺に対するマラリア発熱療法で好成績を収めた.1933年に開発されたインスリン療法は,インスリンを注射して低血糖発作によるショックを与えるもので,1937年には電気ショック療法が開され,統合失調症や重度のうつ病に用いられた.1935年,モニス*(Egas Monz, 1874-1955)は,前頭葉の神経線維を切断するロボトミー手術(白質線維切断術)(図9)を開発して有効性を示した(1949年ノーベル賞受賞).20世紀初頭には,神経症,ヒステリーに対する精神分析療法が登場したが,いずれも本質的な治療法にはなりえなかった.
* 神経内科医のモニスは,脳血管造影法の開発にも大きな功績をのこしている.
1950年以降,統合失調症に対するクロールプロマジン,三環系抗うつ剤イミプラミン,ベンゾジアゼピン系抗不安薬などの向精神薬が次々と開発され,ようやく患者の生活の質を向上することができる薬物療法が可能となり,精神疾患治療の主役となった.さらに脳内伝達物質などの薬理学的研究が進歩し,精神薬理学という分野が確立して現在に至っている.
- 1. Ebenezer Haskell.The trial of Ebenezer Haskell, in lunacy, and his acquittal before Judge Brewster, in November, 1868 (Philadelphia, 1869) https://catalog.hathitrust.org/Record/001578070
関連事項
進行麻痺
進行麻痺(あるいは麻痺性痴呆, general paresis of the insane)は,梅毒の脳感染症であるが,まだその病態が不明であった時代には,同じく若年者に痴呆症状を発症する早発性痴呆(現在の統合失調症)との鑑別を要する疾患であった.1822年にこれを最初に記載したのは,フランスの医師ベイル(Antoine Laurent Jessé Bayle, 1799-1858)で,剖検で慢性髄膜炎があることを記載した.1857年には,ドイツの外科医エスマルク*が梅毒との関連を示唆したが,1905年に病源体である梅毒スピロヘータが発見され,1913年に 野口英世 が患者脳に病原体を発見して,ようやく脳梅毒であることが証明された.1910年にエールリッヒが,初の化学療法剤である特効薬 サルバルサン を開発した.1917年,ウィーン大学の精神科医ヤウレック(Wagner Ritter von Jauregg, 1857-1940)は,発熱疾患により進行麻痺の進行が遅れることを発見し,マラリア患者の血液を注射することでマラリアに感染させる発熱療法を開発した(1927年ノーベル生理学・医学賞 受賞).このような治療法は,1941年にペニシリンが実用化されるまで利用された.不治の病であった精神疾患にこのような治療法が見いだされたことは,精神病を心因性のものではなく,他の病気と同列な身体的,器質的疾患として理解する生物学的精神医学への第一歩でもあった.
*エスマルク(Friedrich von Esmarch, 1823-1908)は,軍陣外科学の祖で,現在のような駆血帯(Esmarch bandage)による止血を考案したことでも知られる.
精神分析学
19世紀後半,精神疾患の身体医学的な側面からの理解が進むのと並行して,心理学的な側面からこれにアプローチする精神分析学が誕生した.創始者であるドイツの精神科医フロイト(Sigmund Freud, 1856-1939)(図10)は,フランスの神経科医シャルコーの下でヒステリーの催眠療法を学んだが,これをさらに発展させて,ひとつの言葉から次々と思い浮かぶ言葉を分析することにより,本人が気づかない無意識の世界を明らかにする「自由連想法」 (Freie Assoziation) を考案した.,また患者がみる夢には無意識が反映しているとしてこれを分析した.そしてこのような手法を「精神分析」(Psychoanalyse) と呼び,ヒステリーを初めとする心因性精神疾患の治療に応用した.その後スイスの精神科医ユング(Carl Gustav Jung, 1875-1961)も加わり,1908年,1910年にはそれぞれウィーン,ベルリンで精神分析学会が創設された.
第一次世界大戦が始まると戦争神経症の患者が激増し,精神分析はその治療にも応用されたが,フロイトを初め精神分析学者の多くがユダヤ系であったことから,ナチス政権下のドイツでは迫害され,フロイトはイギリスに亡命し,その後の精神分析学は主として英米で盛んとなった.しかし,第二次世界大戦後は自然科学に立脚して病因を器質因に求める生物学的精神医学が発達し,精神医学における地位は低下した.現在の精神医学の教科書では,精神分析についてはその歴史的な意義に触れられるのみである.