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化学療法

サルバルサン 

19世紀末,パスツール,コッホにより,それまで原因不明とされていた多くの疾患が細菌感染症であることが明らかとなった.19世紀最後の約20年の間に,ブドウ球菌,連鎖球菌をはじめ,結核,コレラ,破傷風,チフス,ジフテリアなど,現在知られている細菌の多くが続々と発見されたが,有効な治療法はなかった.

細菌感染症の治療に先鞭をつけたのは,ドイツの化学者エールリッヒ(Paul Ehrlich,1854-1915)である(図1).エールリッヒは,血球や細菌を顕微鏡で観察のための染色法を研究していた.化学で世界をリードするドイツではさまざまな新しい化学物質が開発され,染料はその得意分野の一つであった*.エールリッヒは,ある種の染料によって特定の細胞が選択的に染色されることから,細胞の表面には化学物質が結合するための特定の構造があると考え,これを側鎖と名付けた.これは現在で言う「受容体」に相当するものである.特定の物質で特定の細胞を染色するという考え方は,特定の微生物だけに作用する治療薬の開発に直結する.このため,初期の抗菌薬,抗寄生虫薬の多くは色素系物質であった.

* 18世紀初頭まで,染料はもっぱら植物,鉱物など天然物質から得られていた.1826年,ドイツの化学者ウンフェルドルベン(Otto Paul Unverdorben)はインジゴ(藍)から,その色素成分であるアニリンを抽出した.19世紀末,ガス灯が普及したが,石炭を熱してガスを得た後に大量のコールタールが発生する.コールタールは建築資材などに使われたが,ベンゼン,ナフタレンなどの芳香族物質を豊富に含む.1834年やはりドイツの化学者ルンゲ(Friedlieb Ferdinand Runge)がコールタールを蒸溜してアニリンを抽出し,工業生産への道がひらかれた.さらにアニリンをジアゾ化して合成される様々なアゾ色素による染料工業がまずイギリスで,その後ドイツで興り,従来の天然染料とは異なる美しい発色が人気を博して急速に発展した.ドイツでは特にライン川沿いに染料工業が集中し,現在に至る化学系企業のほとんどはこれに端を発している.バイエル社,ヘキスト社の創業時の社名は,Farbenfabrik Friedrich Bayer(フリードリッヒ・バイエル染料工業),Farbwerke Hoechst AG(ヘキスト染料株式会社)であり,AGFA(Aktiengesellschaft für Anillinfabrikation,アニリン製造株式会社), BASF(Badische Anilin- und Soda-Fabrik,バーデン・アニリン・ソーダ工業)の社名にも染料工業の由来が残る.

図1.エールリッヒ(Paul Ehrlich)と秦佐八郎 [PD]

図2 サルバルサンの構造式.中心にヒ素を含む.

エールリッヒは,まずメチレンブルーがマラリア原虫を選択的に染色することから,これによるマラリアの治療を思いつき,ついで1903年にトリパノソーマ治療薬トリパンロート(Trypanrod)を開発してマウスの治療に成功し*1,これは動物の感染症に対する対する薬物治療成功例であるが,副作用が強くヒトへの臨床応用は難しかった*2.この頃,アニリン色素に構造が類似するアトキシル(atoxyl)というヒ素を含む物質がトリパノソーマに有効とであることがわかったため,エールリッヒはアニリンの窒素をヒ素に置き換えて様々な物質を検討した.1905年,シャウディン(Fritz Schaudinn)とホフマン(Erich Hoffmann)が梅毒の病源体,梅毒スピロヘータ(Treponema pallidum)を発見した.当時欧米諸国の梅毒有病率は10%,精神疾患の原因の1/3は梅毒とされ,結核とならぶ大きな脅威であった.ホフマンは梅毒スピロヘータとトリパノソーマ原虫の類似性から,エールリッヒに梅毒治療薬への応用を示唆した*3

エールリッヒは当時留学していた日本の細菌学者秦佐八郎(1873-1938)(図1)の協力を得て,それまでに合成した試薬の梅毒スピロヘータに対する有効性をあらためて検証した.試薬には1番から順番に通し番号が振られていたが,秦は606番目の化合物が最も有効であることを発見した.さらに人間でその効果を確認したエールリッヒが,1910年の内科学会でこれを発表すると,満場の拍手が鳴り止まず,彼が行くところはどこも賞賛の人波を押しとどめるために警官が配備されたという.この「606号」は,砒素を含むアルスフェナミン(arsphenamine)という物質で,ヘキスト社からサルバルサン(Salvarsan)の商品名で発売され,不治の病とされた梅毒の治療に目覚ましい効果をあげた.1914年には,より副作用が少ない薬剤として914番目の試薬がNeosalvarsan (neoarsphenamin)として,さらに1930年にはその酸化型物質 Mapharsen(oxophenarsine)が開発され,ペニシリンが誕生するまで梅毒治療薬として広く使用された.

エールリッヒはこのような化学物質による治療を化学療法(chemotherapy) と名付けた.また,このように特定の病原体を狙い撃ちできる薬物を「魔法の弾丸」 と呼んだ.

*1 この時,100種類以上の染料から有効な物質を選択する動物実験を担当したのが,1901年からエールリッヒの下に留学していた志賀 潔であった.

*2 その後トリパンブラウ(Trypanblau)が開発され,さらに1916年にバイエル社が開発したその誘導体スラミン(suramin)は,現在に至るまでトリパノソーマの一次治療薬となっている.バイエル社は,スラミンの商品名をドイツの栄誉を示す意味でゲルマニン(Germanin)としている.

*3 梅毒スピロヘータは細菌であるが,比較的大きく細長い形状であることから,シャウディンらは当初これをトリパノソーマに類似した原虫と誤認していた.このためエールリッヒは梅毒治療薬開発に向かったとされる[2].

サルファ剤 

図3. ドーマク (Gerhard Domagk, 1895-1964).プロントジルを発明した.

サルバルサンの成功により,どんな感染症も薬物で治療できる時代が到来した,と大いに期待され,多くの染料化学会社が医薬品開発に乗り出した.しかし予想に反して次なる魔法の弾丸はなかなか見つからかった.サルバルサンの発見から20余年を経た1932年,I・G・ファルベン社*の研究者ドーマク(Gerhard Domagk, 1895-1964)(図3) らは,硫黄原子を含む赤い色素プロントジル(Prontosil)が連鎖球菌に有効であることを発見した[1].ちょうどその時,ドーマクの6歳の愛娘ヒルデガルトが,クリスマスの飾り付けをしている時に誤って針を手にさしたことがもとで,前腕に及ぶ重篤な蜂窩織炎を発症,切開排膿も奏効せず上肢切断を迫られる状態となった.まだ動物実験の段階であったが,ドーマクは培養結果が連鎖球菌であることを確認した上で,外科医にプロントジルの使用を依頼し,その結果蜂窩織炎は見事に治癒した[2,3].

I・G・ファルベン (Interessengemeinschaft Farbenindustrie Aktiengesellschaft,染料産業共同利益会社) 1925年,第一次世界大戦の敗戦後のドイツ国内の化学工業振興の一環として,バイエル,アグファ,ヘキスト,BASFなど国内の化学関連会社6社が合併して成立し,当時世界最大の化学企業トラストであった.第二次世界大戦中は積極的に軍事協力し,毒ガスなどを製造,戦後の裁判で多くの役員が戦争犯罪に問われた.1952年に12社に分割されたが間もなくバイエル,ヘキスト,BASFの3社に再編された.

図4.プロントジル.左上は注射液,下は内服薬.いずれも強い赤色.[4]

図5. プロントジルの構造式.アゾ基(-N=N-)をもつ.これ自体はプロドラッグで,体内で代謝されてアゾ基が失われて生じるスルフォンアミド(赤枠)が薬効成分となることがその後判明した.

プロントジルは,アゾ基(-N=N-)をもつ色素であるが,1935年にフランスのパスツール研究所のフルノー(Ernest Fourneau)らは,プロントジルはプロドラッグで,体内で代謝されてアゾ基を失って生じるスルフォンアミドが薬効成分であることを発見した(図5).I・G・ファルベン社はプロントジルの特許を取得していたが,1909年発見されたスルフォンアミドは既に特許が失効していたため各社が同様な薬剤を自由に開発することができ,その後スルフォンアミド構造をもつ「サルファ剤」が次々と開発された.スルフォンアミドはアゾ基がないため無色であり,これにより感染症治療薬が色素である時代は終りを告げた.1936年には,溶連菌による重症の副鼻腔炎に罹ったアメリカのローズベルト大統領の息子がスルフォンアミドで一命をとりとめ,その力を世界に示した.1937年,イギリスで合成されたスルファピリジンは肺炎球菌にも有効で,第二次世界大戦の最中,エジプト滞在中の時の英国宰相ウィンストン・チャーチルの命を肺炎から救ったのは,このスルファピラジンであった.1939年,ドーマクはノーベル生理学医学賞を受賞した[1-3].サルファ剤の作用機は長らく不明であったが,1940年になって葉酸合成に必要なPABAとスルフォンアミドの類似構造に基づく競争阻害作用による静菌作用であることがあきらかとなった(哺乳類は体内で葉酸を合成できず,食餌摂取による葉酸に依存することから代謝障害を来たさない).

その後,ペニシリンを初めとする抗生物質の登場によりサルファ剤の出番は減少したが,現在もなおニューモシスチス肺炎の治療薬として,ST(sulfamethoxazole, trimethoprim)合剤が臨床に供されている.

*これに先立つ1935年,ドイツの平和活動家オシエツキー(Carl von Ossietzky)にノーベル平和賞が授与されたためナチ政権は,ドイツ国民のノーベル賞を禁じた.1939年,ドーマクは受賞を受諾したため逮捕され,受賞を拒否する手紙を書かされた.戦後の1947年,ドーマクはようやくメダルを手にしたが賞金は受け取れなかった.[2]

  • 1. Bentley R. Different roads to discovery; Prontosil (hence sulfa drugs) and penicillin (hence b-lactams). J Ind Microbiol Biotechnol 36:775-86,2009
  • 2. Scientific History Institute. Gerhard Domagk. https://www.sciencehistory.org/historical-profile/gerhard-domagk
  • 3. 小林力.サルファ剤の発見とその影響. 薬史学雑誌 54:13-18,2019
  • 4. Hentschel A. Gerhard Domagk und der heilsame Farbstoff. Deutsche Apothker Zeitung. 31:81 (05.08.2010)
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原著論文

《1934 サルファ剤の発明》
細菌感染に対する化学療法の寄与
Ein Beitrag zur Chemotherapie der bakteriellen Infectionen
Domagk G. Deutch Med Wochenschr 61:250-3,1935

【要旨】それまで,アゾ色素トリパンブルーなど原虫に対する化学療法剤は存在したが,細菌に効く物質は知られていなかった.1932年に合成された4’-sulfonamido-2,4- diaminoazobenzene (プロントジル)は,マウスにおける耐容性が良好で,連鎖球菌感染症に有効であった.腹腔内に連鎖球菌を感染させた,無治療の対照群マウス14匹は全例が48時間以内に死亡したが,プロントジルを経口投与したマウス12例は全例生存した.腹膜の塗抹標本の鏡検では,無治療の対照マウスでは多数の球菌が観察されたが,プロントジル治療群では全く認められなかった.プロントジルは,ウサギのブドウ球菌感染症にも,確実性は多少劣るが効果がある.肺炎球菌には無効であった.このように化学療法剤には,菌選択性があることから,今後臨床医はできるだけ早期に菌を同定することが重要となるであろう.

【解説】 初のサルファ剤,プロントジル(Prontosil)の動物実験の成果の報告である.1910年のサルバルサンの発明後,多くの化学予想に反して新たな「魔法の弾丸」は登場せず,新薬開発に乗り出した染料化学会社は次々と撤退したが,バイエル社は開発を継続した.1925年にヘキストなど4社からなるI・G・ファルベンが設立されたが,1927年に入社したクラーレル(Joseph Klarer)と本稿の著者ドーマク(Gerhard Dormagk)はアクリジン色素,金製剤など様々な化合物を試験したがいずれも問題があり,最終的にアゾ色素に注目した.開発は難航したが,1932年に硫黄原子を加えると有効であることを発見した.1932年12月に特許が申請されたこの新薬は,特に連鎖球菌に著効したことからストレプトゾン(Streptozon)と命名され,その後ブドウ球菌にも奏効し,作用が迅速であるとのことからプロントジル(Prontosil)と改名された.この論文は1934年に発表されたものであるが,これは特許認可を待って発表されたためである.臨床成績の報告は翌1935年に初報がある[1].しかし,本文中に述べた通り,この翌年フランスのフルノー(Ernest Fourneau)らがプロントジルの薬効はアゾ構造ではなく,そのスルフォンアミド部分にあることを明らかにし[2],特許範囲外のスルフォンアミド派生物質として多彩なサルファ剤が登場するきっかけとなった.アメリカでは,サルファ剤の認知,普及は遅れ,1937年に初めて論文が登場した[3,4].

  • 1. Klee P, Romer H. Prontosil bei Streptokokkenerkrankungen, Deutsch Med Wochenschr 61:253-5,1935
  • 2. Tréfouël J, Tréfouël J, Nitti F, et al. Activité du p-aminophényl-sulfamide sur les infections streptococciquesexpérimentales de la souris et du lapin. Comp Rend Soc Biol 120:756-60 1935
  • 3. Forbes GB, Forbes GM. An historical note on chemotherapy of bacterial infections. Am J Dis Child 119:6-8,1970
  • 4. 小林力. サルファ剤の発見とその影響. 薬史学雑誌 54:13-8,2019

原文 和訳

ペニシリン

図6. フレミング(Alexander Fleming, 1881-1955).リゾチーム,ペニシリンを発見した.

サルファ剤は,主として化学者によって開発が進められたが,新たな感染症治療薬を求めて細菌学者も別の方向からアプローチを試みていた.それはある種の微生物が別の微生物の増殖を抑制する現象,すなわち抗生現象(antibiosis)の研究である.

1921年,ロンドンのセントメアリー病院の細菌学者フレミング(Alexander Fleming, 1881-1955)(図6)はペトリ皿の培地に細菌を培養して研究していたが,ちょうど風邪をひいておりクシャミをしたために鼻汁がペトリ皿の細菌培地にかかってしまった.数日後,その培地を観察すると,鼻汁が付着した部分だけ細菌が繁殖していないことに気づいた.このことからフレミングは,鼻汁,涙液,唾液などに細胞壁を破壊する物質が含まれていることをつきとめ,これをリゾチーム(lysozyme)と命名した.リゾチームはある種の細菌(グラム陽性菌)に対して殺菌作用をもつが,一般的な病源菌には効果がなく,ただちに医薬品に応用することはできなかった.しかし,自然界に存在する物質に殺菌作用があることを示したことで,次なる抗生物質の開発の重要な布石となった.

 

図7.ブドウ球菌を培養したしたシャーレにペニシリウム菌(アオカビ)が生え,その周囲だけブドウ球菌が増生していない[3]

図8.(左)フロリー(Howard Florey,1898-1968),(右)チェイン(Ernst Chain,1906-1979).ペニシリンを再発見した.[3]

1929年,フレミングは,実験に使ったブドウ球菌の培地を消毒液につけて休暇旅行に出かけたが,旅行から戻ってみると消毒液からはみだしたシャーレにカビが生えてしまっていた.しかしフレミングは,カビの周囲だけブドウ球菌が増殖していないことに気づいた(図7).先のリゾチームの経験からこれがやはりカビによる抗菌作用であると考えたフレミングは,これが青カビの一種ペニシリウム(penicillium)菌であることを突き止め,その産生物質が細菌の増殖を抑制することを発見した.フレミングはこの物質をペニシリン(penicillin)と名付けたが,これを抽出することはできず,研究はそのまま放置されていた(→原著論文). 

その数年後,オックスフォード大学の病理学者フロリー(Howard Florey,1898-1968)(図8)は,過去の論文を調べるうちに,フレミングのペニシリンの研究に行き当たった.フロリーはこれに注目し,生化学者チェイン(Ernst Chain,1906-1979)(図8)とともに研究を進め,1939年に有効成分の抽出に成功,動物実験,臨床実験で,ペニシリンがグラム陽性球菌感染症に劇的な効果を発揮することを確認した.世界初の抗生物質医薬品の誕生であった.ペニシリンは当初あまり注目されていなかった.しかし1942年,フレミングの兄の友人が重篤な溶連菌髄膜炎にかかり,フレミングがフロリーにペニシリンの供与を依頼してこれを髄注したところ劇的に治癒した.この件がイギリスのThe Times紙に報じられるとフレミングは一躍国民的英雄としてもてはやされた*1

しかしながら,折しも第二次世界大戦のさなか,軍事的な観点からもペニシリン量産は喫緊の課題であった.しかしロンドンが連日空爆されている状態でイギリスでの製剤化,大量生産は難しかった.そこで1941年6月,フロリーはアメリカにわたりアメリカ政府の協力を求めた.政府はペニシリンの軍事的意義をみとめて原爆開発に次ぐ国家的最優先事項とみなし,メルク社,ファイザー社,スクイブ社などの大企業が協力してペニシリン量産化に取り組んだ.この結果,1943年からアメリカで大量生産されたペニシリン*2は,多くの連合軍兵士の生命を救うことになった[1-3].

フロリーは,忘れ去られていたフレミングの研究に新たな生命を吹き込んでペニシリンを実用化に導いたが,これは医学史上ではペニシリンの再発見と呼ばれる.1945年,フレミング,フロリー,チェインの3名に,ノーベル生理学・医学賞が授与された.

*1 一方で,フロリ-,チェインの貢献はほとんど注目されず,両者の関係は一時険悪になったが,その背景にはフロリーらがマスコミの取材を拒絶したこともあったようである[1].ノーベル賞は当初フレミングの単独受賞とされたが,フロリー,チェインを推す意見が出され,共同受賞となった.1945年,ノーベル賞受賞講演でフレミングは,ペニシリン発見における自らの位置について「ペニシリンは偶然の観察の産物であった.私の功績はといえば,観察したことを無視せずに細菌学者としてこれを追求したことにある.1929年の私の論文が,他の研究者によって,特に化学の分野におけるペニシリン開発の研究の出発点となった」と明言している[3].

*2 イギリスでは,天然物は特許の対象外であった.また製造法に対する特許も,当時のイギリスでは医薬品に特許を求めることは非倫理的と考えられていた.しかしチェインはナチの迫害を逃れて渡英したユダヤ系ドイツ人で,ドイツでは医薬品特許は一般的なことであったため,ペニシリンにも特許取得を主張した.これが一因となってフロリーと袂を分かち,1948年イタリアのローマにわたり,高等衛生研究所に新設された抗生物質研究部門でビーチャム社との共同研究を進めるなかで,後述のように6-APAの酵素による単離法の開発に貢献した.一方,ペニシリン量産に成功したアメリカでは特許が取得され,この結果ペニシリンを発明したイギリスがアメリカに特許料を支払うという状況が生まれ,これを機にイギリスは医薬品に対する特許法を改訂した.

  • 1. Bentley R. Different roads to discovery; Prontosil (hence sulfa drugs) and penicillin (hence b-lactams). J Ind Microbiol Biotechnol 36:775-86,2009
  • 2. Ligon BL. Sir Alexander Fleming: Scottish researcher who discovered penicillin. Semin Pediat Infect Dis 15:58-64,2004
  • 3. Fleming A. Penicillin - Nobel Lecture, December 11, 1945
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原著論文

《1929 ペニシリンの発見》
培養ペニシリウム菌の抗細菌作用, 特にインフルエンザ菌の分離における有用性について
On the antibacterial action of cultures of a penicillium, with special reference to their use
in the isolation of B. influenzae
Fleming A. Br J Exp Pathol. 10:226–36,1929

図9. ブドウ球菌とインフルエンザ菌の混合培養.下半分にはペニシリンが滴下され,ブドウ球菌の増殖が抑制され,インフルエンザ菌のコロニーだけが分離培養されている.

【要旨・解説】フレミングによるペニシリン発見の初報論文である.冒頭に述べられているように,たまたま真菌で汚染した平板培地で,真菌の周囲だけブドウ球菌の増殖が抑制されていることに気づいたことがきっかけであった.

真菌は,実験室にはしばしば認められるペニシリウム菌の一種であること,この液体培養液の濾液にブドウ球菌の増殖を抑制する活性成分が含まれていることを示し,これを便宜的に「ペニシリン」(penicillin)と呼ぶとしている.様々な細菌のペニシリン感受性を調べ,連鎖球菌,ブドウ球菌が特に高感受性で,大腸菌,赤痢菌,インフルエンザ菌などグラム陰性桿菌,グラム陰性球菌は非感受性であることを見いだした.またペニシリンは比較的熱に強く,80℃1時間で失活しないこと,毒性が低いことを述べている.

ペニシリンの有用性については,論文のタイトルにあるように,培地にペニシリンを少量滴下することにより,ブドウ球菌,連鎖球菌の増殖が抑制され,共存するペニシリン非感受性細菌,特にインフルエンザ菌を効率良く分離培養できることが強調されているが(図9),ひとことだけ防腐剤としての用途に言及し,ペニシリンを創部に塗布したり,包帯にペニシリンをしみ込ませて使用することにより,石炭酸よりも強力かつ毒性の少ない防腐剤として使えると示唆している.論文の最後に,化膿性感染症の治療における価値について実験を進めているとの記載があるが,これが発表された形跡はなく,1939年のフロリー,チェインらによる「ペニシリンの再発見」までその意義は忘れられていた.

原文 和訳

関連事項

合成ペニシリン

図10.ペニシリンGの構造式.4員環のβラクタム環と5員環をもつ6-APA(赤枠)が基本骨格で,これに様々なアシル基を結合することにより,多様なペニシリンを合成できる.

第二次世界大戦中に確立されたペニシリンの量産法は,大量のPenicillium菌を大型のタンクで培養する発酵法といわれる方法で,非常に手間がかかりまた不安定であった.そこで戦後,化学合成を目指して多くの研究が行なわれたが成功せず,ペニシリンの合成は不可能とまで言われていた.天然ペニシリンは実際には複数のペニシリンの混合物(ペニシリンF, G, K, N, V, X)であることがわかり,1945年にホジキン(Dorothy Crowfoot Hodgkin, 1910-94)がX線回折法によって特徴的な四員環のβラクタム構造を明らかとした[1](図10).しかしその合成法の開発は難航を極め,1957年にようやく,マサチューセッツ工科大学のシーハン(John Clark Sheehan, 1915-92)がペ初めてぺニシリンVの合成に成功するとともに,各種天然ペニシリンの共通構造である 6-APA (aminopenicillanic acid,アミノペニシラン酸)も合成した.1959年には,イギリスのビーチャム社(現グラクソ・スミスクライン社)が, 6-APAを酵素により単離する方法を開発し,6-APAの大量生産が可能となった.これにより6-APAに異なるアシル基を結合して様々なペニシリンを合成できるようになった.こうして1960年にビーチャム社で最初に開発されたのが,βラクタマーゼ耐性菌にも有効なメチシリン(methicillin) で,その後グラム陰性菌にもスペクトルをもつ広域ペニシリンが続々と開発された.

  • 1. Bentley R. The molecular structure of penicillin. J Chem Educ 81:1462-70,2004
  • 2. Bentley R. Different roads to discovery; Prontosil (hence sulfa drugs) and penicillin (hence b-lactams). J Ind Microbiol Biotechnol 36:775-86,2009

セファロスポリン

図11.セファロスポリンCの構造式.4員環のβラクタム構造と6員環をもつ7-ACA(赤枠)が基本骨格.

イギリスにおけるペニシリン開発にやや遅れて,イタリア,サルディニア島カリアリの衛生研究所の細菌学者,ブロツ(Giuseppe Brotzu, 1895-1976)は,当時流行していた腸チフスに有効な物質を模索するうち,排水が自然浄化されるのは水中の微生物の働きによるものと推測して,排水溝に増殖しているカビCephalosporium属の真菌の抽出液が,グラム陽性菌のみならずグラム陰性菌にも有効であることを発見した.これを腸チフスの患者に投与して有効性を確認したブロツは,これをイギリスのフロリーのところに試料を送った.

その後,この有効成分の同定と構造決定には紆余曲折があり長期間を要したが,1961年にようやく新しい抗生物質セファロスポリンCの構造が決定された.これはペニシリンと同じくβラクタム構造をもつが,五員環の6-APAではなく六員環の7-ACA (7-aminocephalosporanic acid)を持つものであった(図11).セファロスポリンCはβラクタマーゼ耐性であったが,ほぼ同時期にメチシリンが開発されていたため,これ自体はあまり注目を浴びなかった.しかしその後,1962年にアメリカのイーライ・リリー社が高純度の7-ACAの合成法,ペニシリン骨格からセファロスポリン骨格への化学的変換法などを発明するに至って新しいセファロスポリン系抗生物質開発の道がひらかれた.ペニシリンの場合と同じように,セファロスポリンでは7-ACAの側鎖を修飾することにより新しい物質が得られるが,7-ACAは2ヵ所の側鎖を独立に変えられるため,ペニシリン以上に多くの薬剤が次々と生み出された[1].

セファロスポリンに加え,その後Streptomyces属から発見されたセファマイシンともにセフェム系と総称される一連の薬剤は,いずれも細胞壁合成阻害を作用機序とするため,細胞壁をもたないヒト細胞には作用せず副作用が少ないという共通の特長があり,現在も最も広く利用される抗生物質とである.

  • 1. Abraham EP. Cephalosporins 1945-1986. Drugs 34(Suppl 2),1-14,1987
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国産ペニシリン「碧素」

ペニシリンの再発見は第二次世界大戦中のことであったが,1943年12月,日本はドイツからペニシリンに関する総説論文を入手し*,稲垣克彦軍医少佐がこれを目にした.おりしも,1944年1月にイギリスのチャーチル首相の肺炎がペニシリンで奇跡的に治癒したと朝日新聞が報道した.実はこれは誤報で,実際にはサルファ剤によるものであったが,これを受けて陸軍はペニシリン開発に乗り出した.

図12.唯一現存する「碧素」のアンプル [1] .

翌2月,「ペニシリン委員会」 が組織され,細菌学,薬学,生化学,農学など各分野の専門家が召集された.各研究施設で各種の青カビが収集され,10月には実験室レベルでペニシリン産生が確認された.工場生産にあたっては,海外の一般誌に掲載されたペニシリン工場の写真に牛乳瓶のような培養器材が写っていたことから,牛乳製造工場をもつ森永食糧工業株式会社(現 森永製菓)の協力を要請し,11月から三島市の工場で量産が開始された.やや遅れて,萬有製薬株式会社(現 MSD)でも工場生産が開始された.和名は,Penicillium菌の色にちなんで「碧素」(へきそ)とされた.

実際にどの程度量産されたのかは不明であるが,例えば萬有製薬は日産10~200本の製造能力があったという.欧米のものに比較して力価は数分の一以下であったらしいが,開発からわずか1年で曲がりなりにも工場生産に成功したことは特筆すべき成果といえる.量産されたペニシリンは,その所期の目的であった前線での使用には至らなかったものの,1945年3月の東京大空襲で,約10名の民間人に使用された. 5月25日の空襲では,慶應義塾の塾長小泉信三が焼夷弾による重度火傷で慶應大学病院に入院した際,ペニシリン委員会のメンバーのひとりであった工学部の梅澤純夫が碧素を届け,合併症なく治癒した.8月6日の広島原爆に際しても被曝者の治療に供された.

2019年,国内にただ1本残る「碧素」のアンプルが,国立博物館の重要科学技術史資料(未来技術遺産)に登録された(図12)[1].

* 独ソ開戦により,日本とドイツはシベリア鉄道による陸上連絡手段を失ったため,潜水艦により物資輸送を行なう「遣独潜水艦作戦」が実行された.これは日本海軍の伊号潜水艦がインド洋から喜望峰を回って大西洋を経てドイツとの間を往復したもので,1942年から44年まで5回実施されたが,成功したのは1943年の第2回作戦のみであった.ペニシリンに関する論文[2]は,この時にもたらされた.

  • 1. 八木澤守正, 松本邦男, 加藤博之他.“碧素アンプル” の「重要科学技術史資料」への登録.日本化学療法学会雑誌. 68:330-44,2019
  • 2. Kiese M. Chemotherapie mit Antibakteriellen Stoffen aus niederen Pilzen und Bakterien. Klin Wochenschr 22:505-11,1943
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ストレプトマイシン

図13.ワクスマン(Selman Waksman, 1888-1973).ストレプトマイシンを発見した [3]

1882年にコッホが結核菌を発見したものの長らく治療薬は見つからず,結核の治療といえば「大気,栄養,安静」,すなわち空気のよい場所での転地療養であった.特に衛生状態の劣悪な都市部に多発し,欧米での罹患率は17%,死亡率30%.死因の第1位を占める最も恐ろしい病気の一つであった.魔法の弾丸ペニシリンも結核菌には無力であった.しかし,ペニシリンの成功は抗生現象の有望性を示し,世界中の研究者が新しい抗生物質を求めて競っていた.アメリカのラトガース大学農学部の細菌学者ワクスマン(Selman Waksman, 1888-1973)(図13)もその一人であった.ワクスマンが専門とする土壌微生物学は,文字通り土の中の微生物を研究する地味な学問であったが,地中には未知の微生物が数多く生息しており抗生現象研究の宝庫であった.

ワクスマンは,結核菌に有効な抗生物質を求めて,1万種以上の細菌を培養してその効果を研究していた.そして1943年,近隣の農場から持ち込まれた病気のニワトリから分離された菌が,結核菌の増殖を抑えることをついに発見した*.その菌は,ワクスマンが30年以上も前に発見したストレプトマイシン放線菌の一種 Streptomyces griseusであった.メルク社の協力のもと精力的に研究が進められ,その有効成分は(streptomycin)と命名され,早くも2年後には商品化,瞬く間に全世界に普及した.コッホの結核菌発見以来,70余年を経て人類はようやく結核の治療手段を手にしたのであった.抗生現象(antibiosis)という言葉を作ったのもワクスマンである.

* 研究はメルク社の資金を得て,ワクスマンの指導の下,博士課程の学生シャッツ(Albert Schatz), 修士課程の学生ブギー (Elizabeth Bugie)により行なわれ,最初の論文は3名の連名であった.ストレプトマイシンの特許は,ワックスマンとシャッツの連名で,ブギーの名前はない.ワックスマンはメルク社からロイヤルティーを受取るようになったが,シャッツは共同発見者としての認定とロイヤルティーを求めて,ラトガース大学とワックスマンを相手取って訴訟をおこし,共同発見者として認められると同時に,ロイヤルティーの配分は大学80%,ワックスマン10%,シャッツ3%,その他の研究スタッフ7%(ビュルガーは0.2%)として決着した[1,2].ノーベル賞はワックスマンが単独で受賞した.