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カレル  Alexis Carrel  

経歴と業績

カレル (Alexis Carrel, 1833-1944) [PD]

フランスのリヨンに,裕福な商人の家に生まれた.1893年にリヨン大学医学部を卒業後,リヨン大学病院外科の助手となった.1894年6月24日,フランス大統領カルノー(Marie François Sadi Carnot, 1837-94)*1が,無政府主義者に刺殺されるという事件が起こった.カルノーは直ちに病院に搬送され外科医が治療にあたったが,門脈裂傷からの出血があったが,当時血管を縫合する技術はなく,3時間後に死亡した.この時医師団の一人として手術に立ち会ったカレルは,血管さえ縫合できれば患者の命を救うことが可能であったことをみてとり,血管縫合の研究を開始し,1902年に一連の血管手術に関する論文を著した.このときカレルは,リヨンの著名な刺繍家ルルディエ夫人(Marie-Anne Leroudier)のもとで刺繍の技術を学び,細い針と糸で縫合する技術を習得したという*2.カレルが発明した三角吻合法(triangulation method) は,現在も血管縫合の基本である.1903年,カレルはルルドを訪れた際に奇跡を見たと語ったことが原因で*3,当時の反教権主義の医学界から事実上追放され,1904年にカナダに移住,その後シカゴ大学,1906年にニューヨークのロックフェラー研究所に招かれ,この間一貫して血管吻合,臓器移植などの動物実験を行った.カレルはここで,血管吻合の技術をさらに発展させて,血管グラフト手術,バイパス手術,臓器保存,自己臓器移植,個体間臓器移植など様々な実験を行ったが,その成果はその後40年以上を経て,血管グラフト手術,腎移植などに発展した.1912年,カレルは「血管縫合および臓器移植に関する研究」に対してノーベル生理学医学賞を受賞した[1].

1914年,第一次世界大戦が勃発すると,フランス国籍のカレルはフランス軍の外科医軍医として軍務にあたったが,前線の野戦病院に細菌検査室を設けるなど戦傷治療施設の改良を積極的にすすめた.特にイギリスの化学者ダーキン(Dakin)と共に開発した0.5%次亜塩素酸ソーダを成分とする消毒液は治療成績の向上に大きく 貢献したが,このカレル-ダーキン液(Carrel-Dakin solution)は現在もなお使用されている.

第一次世界大戦後はアメリカに戻り,主に組織培養の研究を行い,骨,軟骨,皮膚,腎など様々な組織の試験管内での培養法を開発した.1912年に採取したニワトリのヒナの心筋組織は,成長するとこれを半分にして培養を続けることにより,カレル死後の1946年までロックフェラー研究所で継代されたという.カレルは組織培養の研究を更に発展させて,臓器全体を体外で保存,生存させる研究を進めた.臓器の生存には血管の灌流が必要であるが,これにはリンドバーグ(Charles Lindbergh)の協力を得て臓器灌流のためのポンプを開発した.1935年に完成したCarrel-Lindbergh pumpは,その後多くの動物実験で成果を挙げ注目を浴び,後の人工心肺の先駆とも考えられるが,臨床に供されるにはいたらなかった[2,3]*4

1933年に出版した著書「人間-この未知なるもの」(L'homme, cest inconnu)は,組織培養,臓器移植などの研究成果を踏まえて人類の未来への期待を論じるものであったが,細胞の自然淘汰現象の延長として社会的弱者の排除による社会改良を謳う優生学の思想を主張する内容が含まれていた.ベストセラーとなったが,アメリカ国内でも強い批判に曝され,ロックフェラー研究所の研究室も閉鎖されて,1939年にフランスに帰国した.その直後に第二次世界大戦が勃発し,ドイツの占領下,ヴィシー傀儡政権下のフランスで,カレルは政権の協力を得て人間問題研究財団(La Fondation Française pour l'Étude des Problèmes Humains)を組織したが,その背景にある優生思想とともに対独協力者としての批判を浴び,心筋梗塞の発作に見舞われ失意のうちに没した[1].

*1 熱力学のカルノーサイクルを創案した物理学者Nicolas Léonard Sadi Carnot (1796-1832)は叔父,カルノー石(ウラン鉱石)を発見した鉱物学者Marie Adolphe Carnot(1839-1920)は従兄弟にあたる.

*2 リヨンは古くから養蚕,絹織物の町として栄え,現在もLyon silkとして知られるが,これを背景として縫製,刺繍技術が発達した.カレルが学んだルルディエ夫人は,当時一流の刺繍家として知られ,宮廷貴族,教皇の衣装などの刺繍も多くてがけた.

*3 1903年,かつて聖母マリアが顕現し,不治病を癒す「ルルドの泉」で知られるルルドを訪れたカレルは,「奇跡」 とされる症例の数々を検討して医学的根拠に欠けるとしたが,Marie Baillyという18歳の結核性腹膜炎末期と思われる重症患者が,腹部に泉水を注がれてその日のうちに急速に回復した例を目撃し,この一例は医学的に説明できないと報告した[4].これが広く一般に報道されたことから医学界からその非科学性を強く非難され,その後フランス国内で外科医としての職位を得ることが困難となった.失意のうちに牧場経営をするためにカナダにわたったが,現地でその名前を知る外科医の招きによりモントリオールの学会で講演したことが縁となって,シカゴ大学に地位を得た.さらに1905年,ジョンス・ホプキンス大学の脳神経外科医クッシングに招かれて講演を行った際,これに感銘を受けたロックフェラー研究所長の病理学者フレクスナー(Simon Flexner, 1863-1946)が実験外科学の責任者として招き,以後1939年の引退までここで研究を続けた.

*4 カレルは臓器培養のための循環装置を求めていた.一方,1927年に大西洋横断飛行で一躍有名となったリンドバーグ (Charles Lindbergh, 1902-74)  は,リウマチ性弁膜症に悩む義姉のために人工心臓の開発を志し,1930年に知人の紹介でカレルのもとを訪れた.カレルはロックフェラー研究所内にリンドバーグ用の研究室を用意し,両者の協力関係はカレルがフランスに帰国するまで続いた.この カレル・リンドバーグポンプ  (Carrel-Lindbergh perfusion pump) は1935年に完成し,摘出甲状腺を18日間,摘出心臓を12時間維持することに成功した.すべてガラス製で可動部分はなく,重力で滴下する血液を酸素化するものであった[3].1938年にはこれらの成果を共著「臓器の培養」(The Culture of Organs)に著し,同年Time誌が報じるに至って広く世間の知るところとなり,未来の医療への期待が膨らんだ.1935年から39年までに898回の動物実験が行われたが,カレルの帰国とともに研究室は閉鎖された.凝固,感染の問題を克服することができず,臨床に供されることはなかったが,その後の人工心肺,人工心臓の研究の礎石となった[2].

出典