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クッシング   Harvey Cushing

経歴と業績

クッシング(Harvey Cushing,1869-1939) 

米国オハイオ州クリーブランドに,10人兄弟の末子として誕生した.曾祖父,祖父,父,兄も医師であった.1895年,ハーバード大学医学部を卒業した.医学生の時代,自分がエーテル麻酔を行なった患者が術中死したことを機に,麻酔中のバイタルサインをチャートに記録することを考案した.現在では常識であるこの麻酔記録は当時「エーテルチャート」(ether dhart)と呼ばれ,以後世界中で使われるようになった.ちょうど,レントゲンがX線を発見した直後で,クッシングは自らX線装置を購入して撮影し,1897年に頸椎銃創の症例のX線撮影に成功した.

1896年からジョンス・ホプキンス病院で,外科医 ハルステッド(William Steward Halsted, 1852-1922) の下で外科を学んだ.内科には高名なオスラー(William Osler, 1849-1919)がおり,その臨床医としての姿勢に大きな影響を受けた*.1900年から1年間ヨーロッパに留学し,スイスで研究生活を送り,ここで頭蓋内圧が上昇すると血圧が上昇するといういわゆるクッシング現象を発見した.イタリアでは,リバ・ロッチのカフ式血圧計 を知り,真っ先にアメリカに導入した.帰国後,ジョンスホプキンス病院に脳神経外科部門を新設した[1,2].

後年,1926年,クッシングはオスラーの伝記 "The life of Sir William Osler"を著し,ピューリッツァー賞を受賞している. クッシングとオスラーの自宅は隣どうしだった[3].

1912年にブリガム病院(Peter Bent Brigham Hospital)の外科部長になり,その生涯に2,000件以上の脳外科手術を行なった.当時,脳外科手術は必要に応じて一般外科医が,片手間に開頭手術を行っていたが,その死亡率は90%以上,すなわちほとんどの患者が死亡していた.脳外科手術失敗の最大の理由は,術中の出血であった.一般臓器と異なり柔らかく脆弱な脳組織は圧迫止血が難しく,いったん出血すると制御できなかった.クッシングは,血クリップ,電気メス,吸引器など,現在では必須の器具を次々と考案,導入した.この結果手術死亡率は8%まで低下した[2].グリオーマの組織分類,三叉神経痛に対する三叉神経節離断術,筋皮弁による止血術などもクッシングが創始したもので,脳腫瘍に胃潰瘍が合併しやすいこと(クッシング潰瘍)も発見した.特に1908年から1912年には,特に下垂体の研究を集中的に行ない,内分泌腺としての下垂体の機能,巨人症やいわゆるクッシング病とホルモンの関係を詳述した*[3].

1939年,心筋梗塞で70歳の生涯を閉じたが,剖検で第3脳室にコロイド嚢腫が発見された[2].

* 1910年,クッシングが診察した末端肥大症の患者ジョン・ターナー(John Turner)が36歳で死亡した際,クッシングは剖検を求めた家族がこれを拒否した.クッシングは葬儀屋に50ドルの賄賂を渡し,2名の医師を派遣し,深夜,葬儀が営まれている間に,棺に入ったままの状態で家族に知られないように解剖し,脳,下垂体,その他の臓器を摘出したという[4].現代の倫理には反するが,学問のためには手段を選ばないという点で,18世紀に 外科医のハンター (John Hunter)が,巨人症の患者の遺体を葬儀屋に賄賂を払って奪取して骨格標本にしたエピソードに相通ずるところがある.

出典