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石原 忍 

経歴と業績

石原 忍 (1879-1963) [CC BY 4.0]

1879年,東京に生まれた.父は陸軍士官であった.1901年に東京帝国大学の入学,在学中はボート部で活躍した.1905年,卒業と同時に見習い医官として軍医の道に進んだ.これは父の影響であった.最初は外科を専攻したが,当時輸入されてまもない,映画の生みの親ともされるリュミエール兄弟の発明になるオートクローム乾板によるカラー写真の実験に取り組む機会があり,この時学んだ色彩や混色の知識が後に色覚検査法の研究に役立った.石原の勉強熱心は有名で,1907年,自分の結婚式の当日,式場に現れない花婿を仲間が探し回ったところ研究室で読書に没頭していたという逸話が残っている[1].

当時,陸軍には眼科専門医がおらず,その養成が急務であった.陸軍は石原に眼科を専攻することを条件に大学院進学を認め,石原はこれを受け入れ眼科の道を選んだ.2年間の在学中に6篇の論文を著しているが,そのひとつはたまたま経験した非常に稀な全色盲の症例報告で,これが後に色覚異常の研究に進むきっかけとなった.このほか,新しい視力検査表の開発,重桿菌性結膜炎の研究を行った.1912年から2年間ドイツに留学して最新の眼科学を学んで帰国,1916年,博士論文「特発性夜盲症あるいは結膜乾燥症の原因について」で学位を授与された.

この頃,陸軍から徴兵検査に使用する 色覚検査表 の作成を依頼された.当時既に,ヨーロッパのホルムグレンの毛糸法,スチルリング表,日本で開発された小口表,伊賀表などがあったが,いずれも満足なものではなかった.石原はスチリング表をもとに,これを改良した.スチルリンク表は,色斑で描かれた文字を正常者は判読できるが,色覚異常者は判読できない,というものであったが,石原は異常者のみが判読できる表や,正常者と異常者で異なる文字として判読される表を工夫した.同僚の軍医に色覚異常者があり,その協力を得たという.こうして完成した「大正五年式色神検査表」は優れた成績をおさめ,その後様々な改良が加えられて海外にも輸出され,国際的な標準色覚検査表として採用されるようになった [1,2].

1922年,東京帝国大学眼科学教授に就任したが,東京衛戌病院(陸軍病院)の教官も引き続き兼任した.教授在任中は眼科全領域の研究を展開したが,とくに当時国民病でもあったトラコーマの撲滅に力を注いだ.1937年医学部長に就任,1940年定年退官,その後東京逓信病院朝,前橋医学専門学校長を歴任した.しかし1945年に終戦を迎えると,軍医の経歴のため公職追放の対象となった.

このため1946年,伊豆河津(静岡県河津町)の別荘,一新荘に移住し,これを改装して河津眼科医院を開業した.この一新荘は,1933年に眼科学教室の弟子たちがつくった同窓会一新会*が石原に寄贈したものであった.石原は貧しい患者には治療費を請求せず,まさに「医は仁術」を実践する石原の診療はたちまちにして「伊豆河津に仁医あり」との評判をよび,全国の患者が集まって,文字通り門前市をなす状態となった.豪雨のため宿に足止めになっている患者がいれば,石原は長靴にゴム合羽のいでたちで,自ら患者のところに出向いた.石原の実母の葬儀当日,出棺直前に葬儀のことを知らずに患者が訪れた時も,石原は嫌な顔一つせずに喪服の上に白衣を羽織って診察したという.同じく眼科医となった次女の喜美子とともに診療に励むかたわら,色覚検査表のさらなる改訂にも取り組んだ.1941年日本学士院賞,1956年紫綬褒章を受賞,1957年には日本学士院会員に選出されたが,開業医の会員選出は異例のことであった.1961年文化功労者.1963年に享年83歳で病没したが,その河津町葬には弔問の列が河津駅まで延々と続いた[1].

* その後一新会は,1961年に石原が全財産を寄付して公益財団法人一新会となり,色覚異常をはじめとする眼科学の研究を支援するこ公益財団法人として活動を続け,現在に至っている.ロングセラーとなった石原表の印税を石原は個人的に得ることは一切なく,財団設立後は一新会が版権を所有している.

出典