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リード  Walter Reed

経歴と業績

リード (Walter Reedi, 1851-1902)

米国バージニア州に,牧師の子供として生まれた.1869年,バージニア大学医学部を18歳で卒業したが,これは同医学部で最も若い卒業生であった.ニューヨーク大学ベルビュー病院で研修後,ニューヨークの病院で診療に当たったが,1875年,経済的安定を求めて米国陸軍医療隊(U.S. Army Medical Corps)の軍医となった.その後十数年,国内各地の駐屯地に勤務したが,西部ではアパッチ族など先住民族の診療にもあたり,その生活状態,衛生状態に関心をもつようになった.

1893年,ジョージワシントン大学医学部のスタッフとして新設された陸軍医学校の細菌学教授となった.1898年,米西戦争 が勃発したが,キューバの米軍兵士の間に病気が蔓延し,約3,000人の犠牲者の90%が病死であった.原因はチフス,マラリアとされたが,当時確実な診断法がなく両者が混同されていた.リードは血液の鏡検,血清学的検査によってこれを正確に診断し,大部分がチフスであること,駐屯地の飲料水や糧食の糞便汚染が原因であることをつきとめた.衛生状態の改善によりチフスは激減したが,なお黄熱は猛威を奮っていた.

1900年,細菌学者であった軍医総監スタンバーグ(Miller Sternberg)の命で,リードを長とする米国陸軍黄熱研究調査団(US Army Yellow Fever Commission)がハバナを再訪し,黄熱の調査を開始した.従来,黄熱は寝具などを媒介して伝染するとされていた.キューバの細菌学者フィンレイ(Carlos Finlay, 1833-1915)は,既に1881年に蚊(ネッタイシマカ Aedes aegypti)が媒介するという説を唱えていたが,証明することができず放置されていた.リードは現地調査により黄熱が伝染病ではないと考え,フィンレイの説を証明すべく,現地の住民や兵士からボランティアを募って人体実験を実行した.このとき,参加者には実験の危険性に関する説明して同意書を得たが,これは当時としては画期的で,現在でいうインフォームドコンセントの世界初の例とされる[3].ボランティアは100ドルの報酬が約束され,発症した場合はさらに100ドルが与えられた.この実験により,黄熱は蚊が媒介すること*,患者の衣類や寝具からは感染しないことが明らかとなった.これを受けて,委員会は現地の湿地に灯油を撒くなど徹底した蚊駆除を行なった.この結果,過去150年にわたり毎年数千もの黄熱による死者を出していたハバナで,その後1年間,1例の黄熱も発生しなかった[1-2].

リードの最大の業績は,防蚊による黄熱病撲滅であるが,本人はこれはフィンレイに帰すべきものであると繰返し述べている.これを見届けたリードは1901年に帰国したが,翌年虫垂炎による腹膜炎のため死亡した.現地で感染した赤痢アメーバが原因とも言われる.

1907年,メリーランド州ベセスダにその名前を冠し ウォルターリード総合病院(Walter Reed General Hospital )が創設され,その後海軍病院,陸軍病院との合併を経て,現在はWalter Reed National Military Medical Center (ウォルターリード米軍医療センター)となった.米軍医療施設として最大規模の病院で,歴代米国大統領とその家族の健康管理,治療にあたっていることでも知られる.米国熱帯医学衛生学会(American Society of Tropical Medicine and Hygiene)は,熱帯医学における顕著な業績をあげた研究者に,毎年ウォルターリードメダル(Walter Reed Medal)を授与している.受賞者には,黄熱の蚊媒介説を最初に唱えたフィンレイ(1942年,死後受賞),ポリオワクチンを開発したセービン(Albert Sabin, 1962年)の名前がある.

リードは,黄熱の病原体が濾過性であることを確認しているが,この時点で病原体は不明であった.黄熱ウイルスは,1927年にイギリスの細菌学者ストークス(Adrian Stokes, 1887-1927)が分離し(直後に自ら感染して死亡),1937年にロックフェラー研究所のウィルス学者タイラー(Max Theiler, 1899-1972)がワクチン開発に成功した(1951年ノーベル生理学医学賞受賞).リードは数回にわたりノーベル賞候補にあがったが受賞にはいたらなかった.

出典