シーボルト Philipp Franz von Siebold
経歴と業績

シーボルト (Philipp Franz von Siebold, 1796-1866)
1796年,神聖ローマ帝国時代のドイツ,ヴュルツブルクに生まれた.祖父,父ともに医学者の家系で,ヴュルツブルク大で医学を学んだが,当時の教授の多くが植物学に深い関心をもって研究していたことから,自らも在学中に植物学を深く学んだ.卒業後一時期開業医となったが,1822年に東洋研究を希望してオランダにわたり,蘭領東インド陸軍の軍医となり,1823年に長崎出島のオランダ商館医として着任した.1824年に長崎郊外に鳴滝塾を開き,日本の医師に西洋医学を講義すると同時に,動植物など自然と文物の収集,記録に力を注いだ.1826年にオランダ商館長の江戸参府に随行した際も,その道中に植物,自然,地理の調査を行なった.1827年に芸妓の楠本滝との間にもうけた娘,楠本イネは,その後シーボルト門下の医師やポンペ,その後任のボードウィンらから医学,特に産科学を学び,日本初の女性医師となった.


図1. その著書で日本の風俗,風物を広く紹介した.(上) 若い日本人男女,(下) 和船の構造 [3]
1828年,帰国に際して,江戸参府の折りに幕府天文方であった高橋景保から,世界地図と交換に入手した伊能忠敬の日本地図を持ち出そうとしたことが発覚し,出国禁止,その後国外追放となった(シーボルト事件*).オランダ帰国後は,滞日中の膨大な動植物の標本,民族的資料を研究し,「日本」「日本植物誌」「日本動物誌」などを著した(図1).1859年,貿易会社顧問として再来日し,1861年には幕府の渉外顧問となったが,この間も精力的に日本の文化,風物の研究を続けた.1862年に再び膨大な資料を携えて帰国し,オランダ,ドイツでコレクションの展示を行なった.再々来日を計画していたが叶わず,1866年にミュンヘンで病没した [1,2].
門下の医師がその後の日本の西洋医学発展に大きく貢献したことにに加え,日本を西欧に紹介したことはシーボルトの大きな功績であるが,オランダから日本の情報を収集する諜報部員としての命を受けていたとされる.
* 従来,シーボルト帰国時に船が難破し,海岸に漂着した積み荷から禁制品が発見されたことで露見したとされていたが,最近の研究ではこれは事実と異なるという説がある.
出典
- 1. Thiede A, Wierlemann A, Klein-langner W, et al. The life and times of Philipp Franz von Siebold. Surg Today 39:275–280,2009
- 2. 中村昭. シーボルトの臨床医学.日本医史学会雑誌 41:75-111,1995
- 3. Siebold P. Nippon (1897)