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乳腺外科学の歴史 

古代・中世の乳腺外科

表在にあって容易に視認できる乳腺疾患は古代から知られており,エジプトの 医学パピルス にも乳癌と思われる8例について焼灼術を行なったという記載がある.紀元前5世紀にヘロドトスは,ペルシア戦争を描いた「歴史」で,ペルシアに捕われたギリシアの医師デモセデス(Democedes)が,ペルシア国王ダリウスの妻アトッサ(Atossa)の乳腺の潰瘍病変の治療に成功し,褒美として帰国を許されたと記しているが,これは乳腺炎であった可能性もある.ヒポクラテスも乳癌の症例を記載しているが,その中で周囲に浸潤する病変の性状をカニに例えてkarkinos (καρκινος)と表現した*1.ヒポクラテスは,黒胆汁の過剰が乳癌の原因とし,また乳頭から血性分泌物を観察し,月経の停止に伴って血液の循環が滞って代償性に乳腺に病変ができると考えた.しかし,ヒポクラテス全集には外科処置の記述も多いが,乳癌の手術については記載がない.

図1. ローマ時代の手術に遣われた焼灼こて. [1]

図2. ヒルデンが使用した手術器械.圧迫器(下)の把手を持って右側のまるい部分を乳房に押し当てて固定し,その基部をナイフ(上)で切断する [1]

図3. スクルテタス外科書の乳癌手術法.乳房を紐でしばって把持して切断し(左),創面を焼灼している(右) [1]

ローマの ケルススは,乳癌に腋窩リンパ節腫大を伴うことを初めて記載し,早期の病変については切除を推奨した.ガレノス もヒポクラテスに従って癌の原因は黒胆汁にあるとし,初期には瀉血による黒胆汁の排出により治療したが,進行癌についてはメスによる切除,焼灼による止血法を推奨した.また亜鉛,鉛,オリーブ油など様々な薬品による湿布薬を使用した.ガレノスに続くアレクサンドリアの医師レオニダス(Leonidas, 2世紀頃)については詳細不明で,アエティウス(Aëtius,6世紀)の引用を通じて知られるのみであるが,乳頭陥凹が乳癌の症状であることを初めて記載した.また焼灼により止血しながら癌をふくめて広い範囲を切除し,術後は切断面を再び焼灼して,創面を薬草,蜂蜜,牛乳などを混ぜた布で覆って痂皮形成を待つという手術を行なった.この方法はその後も長く引き継がれた[1].

中世になると,ヴェサリウス,パレも乳房切除を行なっているが,止血には焼灼ではなく結紮や硫酸を奨めている.肺循環の発見 で知られるスペインのセルヴェトゥス(Michael Servetus)は,乳癌を治癒させるためには大胸筋と腋窩リンパ節を切除する必要があることを初めて指摘しており,現代のハルステッド手術に400年先行する先見の明であった.

16世紀には,様々な乳房切除用の器械が登場する.たとえば,ドイツの外科学の父とも言われるヒルデン(Wilhelm Fabricus von Hilden)は,乳房を圧迫固定する金属リングを発明した(図2).同じくドイツのスクルテタス(Johannes Scultetus)は様々な外科器械を掲載した外科学書*2を著したが,その中には太い紐で乳房を把持して焼灼する方法が記載されている(図3) [2,3]

*1 ケルススはこれに相当するラテン語 cancer とし,ガレノスは悪性腫瘍をkarkinos ,腫瘍全般を腫脹を意味する oncos ( ονκος) と記した.腫瘍を表わす語尾に -oma を用いたのもガレノスとされる.

*2 Scultetus. Armamentarium chirurgicum (1656).江戸時代に蘭学者楢林鎮山が著した西洋医学書「紅夷外科宗伝」(1706)に,パレの外科学書の図とともに,本書の図が多く転載されている.

  • 1. Retief FP, Cilliers L. Breast cancer in antiquity. South Am Med J 101:513-5,2011
  • 2. Bland KI, Copeland EM, Klimberg VS, et al. The history of the therapy for breast cancer. In: Bland and Copeland's the breast, 2019
  • 3. AE Konstantinos A, Xanthos T, German V, et al. Breast cancer: From the earliest times through to the end of the 20th century. Eur J Obst Gyn Reprod Biol 145:3-8,2009

関連事項

聖アガサの殉教

図5. アガサの乳房の焼きごてによる切断が描かれている [PD]

キリスト教では,聖アガサ (St. Agatha) は乳癌患者の守護聖人とされる.これは次のような伝説による.3世紀のローマ時代,キリスト教徒を迫害するデキウス帝の治世下,イタリアのシチリア島カタリナでのできごと.貴族の娘アガサは敬虔なキリスト教信者で,早くから自らの生涯をキリスト教に捧げると決心していたが,その美貌がシチリア総統クインタヌス(Quintanus)の目にとまり閨房に入ることを求められた.しかし,神への愛を貫くアガサはこれを拒否した.激怒したクインタヌスは,異教信仰を理由にアガサを捉え,売春宿に送り込んだがそれでも同意しないため,乳房を切り落とさせた.しかし神は聖ペテロを遣わし,乳房の傷は癒えた.これに怒ったクインタヌスはアガサを火刑に処そうとしたが,その時大地震が襲った.カタリナの町の人々は,神の怒りを恐れて火刑の中止を求め,アガサは牢獄に送られて死亡した.1年後,エトナ火山が爆発し,溶岩が町に迫った.人々はアガサの墓所に避難し,アガサがまとっていたベールを槍の先にかざして町を歩くと,溶岩流がそこで2つに裂けて町は救われた.

中世には多くの画家がこの伝説を絵画に残しているが,乳房切断には焼きごてを使用しているものと,大きなナイフあるいはハサミを使用しているものがあり,当時の乳癌手術の知識が反映されている(図5)[1,2].

  • 1. Lewison EF. Saint Agatha. The patron saint of diseases of the breast in legend and art. Bull Hist Med 24:409-20,1950
  • 2. Holleb AI. St. Agatha and inadequate simple mastectomy. Am J Roentgenol. 99:962-4,19
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18世紀の乳腺外科

18世紀,フランスの外科医ドラン(Henri Le Dran, 1685-1770)は,腫瘍は段階的に進むことを示し,乳癌についても初期は限局性の病変であるが,やがてリンパ節に進展するという重要な所見を初めて述べている.初の胆嚢切開術を行なったことでも知られるプティ(Jean-Louis Petit, 1674-1750)は,乳房切除の基本は腫瘍を広範に切除すると同時に,腋窩リンパ節を切除することにあるとしている.1784年,イギリスのベル(Benjamin Bel, 1749-1806)もその教科書に,病変は小さくとも全乳房を切除し,腋窩リンパ節も切除すると記載している.Cooper靱帯に名前が残るイギリスのクーパー(Astley Cooper, 1768-1841)も,全乳房,腋窩リンパ節の切除を推奨した.

しかし,それでも乳癌手術の予後は不良であった.Paget病で知られるイギリスの パジェット(James Paget ,1814-99)はその1853年の論文で,8年間に手術した74例中再発しなかったのは1例のみであり,また139例の乳癌を9年間観察した結果,手術しない方が長命であったとして,手術治療に消極的な意見を述べている.イギリスで乳癌の手術を積極的に行なったのはムーア(Charles H. Moore, 1821-70)で,1867年に乳房と腋窩リンパ節の一塊切除を提唱し,消毒法で知られるリスター(Joseph Lister, 1829-1912)もこの方法を踏襲して,胸筋を一時的に切開してリンパ節切除を容易にする方法を提案している.ドイツでは,1875年にフォルクマン(Richard von Volkmann, 1830-89)が,腋窩リンパ節に加えて大胸筋膜の合併切除を提唱し,これはVolkmann法として普及した.アメリカでは,1844年にパンコースト(Joseph Pancoast, 1805-82)がムーアと同じく腋窩リンパ節の一塊切除を提唱し,その後グロス(Samuel W. Gross)がVolkmann法とおなじく大胸筋膜切除を提唱した[1-3].

ハルステッド法

図6. ハルステッド法による乳房切除術.乳房,腋窩リンパ節,大胸筋を一塊として切除する. [PD]

1894年,アメリカのJohns Hopkins大学の外科医ハルステッド(William Stewart Halsted, 1852-1922)は,現在Halsted法として知られる乳腺,腋窩リンパ節,大胸筋を切除する乳癌根治術を初めて発表した(図6).局所再発率は,従来法では60%であったのに対し,この方法を行なった50例では6%であった.この論文が発表されたわずか10日後,マイヤー(Willy Meyer , 1854-1932)が,まったく独立に大胸筋に加えて小胸筋も切除する方法を発表した*.両者の違いは,小胸筋を切除することに加え,ハルステッドが乳房,大胸筋切除を先行するのに対して,マイヤーはリンパ流を考慮して腋窩リンパ節廓清を先行する点にあった.その後,ハルステッドも小胸筋切除を加えたので,基本的な差異はリンパ節廓清の順序のみとなった.その後,両者それぞれに1910年頃まで臨床成績を公表しているが,いずれも同程度(5年生存率約30%)であった.

ハルステッド/マイヤーの定型乳房切除術(radical mastectomy)よりもさらに広範囲を切除する方法は,拡大乳房切除術(extended radical matectomy)と総称され,ハルステッド自身もさらに切除範囲を拡大して鎖骨上窩リンパ節の廓清も試みたが,これはあまり成績が良くなかったため中断している.またさらに傍胸骨リンパ節まで切除する方法も提唱されたが,これも明らかな優位性は証明できなかった.コロンビア大学のハーゲンセン(Cushman D. Haagensen)は,広範な皮膚切除,胸背動静脈,神経まで一塊に切除した.

*MeyerはHalstedの研究のことを知らずに独自にこの方法を開発したが,学会発表の10日前にHalstedの論文を掲載した雑誌を手にしてこれを知ったという[]

このような拡大術式の背景にあるのは,乳腺内の腫瘍は輸入リンパ管を介して隣接するリンパ節に到達して転移巣を作り,そこから次のリンパ節に転移するため,転移がない最も遠いリンパ節をふくめて切除する必要があり,廓清を広範囲にすれば予後が改善するという考えである.また,ドイツの外科医ハイデンハイン(Lothar Heidenhain, 1860-1940)は,詳細な組織所見の観察により乳癌の大多数で大胸筋膜のリンパ管内に転移巣があることを示し,これが大胸筋実質に浸潤することが再発の原因と考えた[1-3].

縮小手術

ハルステッド/マイヤーによる定型乳房切除術の導入以後,術後成績は向上したものの,広範切除に伴う機能障害,遠隔浮腫,整容上の問題は不可避であり,また画像診断技術の進歩により小さな乳癌が発見されることが多くなると,縮小手術に向けた研究が進んだ.1948年,マクワーター(Robert McWhirter) は,腋窩リンパ節を廓清せず放射線治療を併用する方法(McWhirter法)でハルステッド法に遜色ない成績を示した.この他にも大胸筋を温存する方法,大胸筋,小胸筋ともに温存する方法などが報告された.欧米では,1970年代からこのような非定型乳房切除術(modified radical mastectomy)が急増した.例えば,アメリカでは1981年にはハルステッド法の頻度はわずか3.4%とされている.

図7.フィッシャー(Bernard Fischer, 1918-2019).その新しい理論が乳癌縮小手術への道を開いた.;[PD]

このような方向転換の背景には,フィッシャー(Bernard Fischer,1918-2019)*(図7)による乳癌の進展に関する新しい理論があった.ハルステッドは,乳癌が隣接リンパ節を解剖学的な順序に従って拡大するとして,その範囲を一塊に切除すれば治るとした.こに対してフィッシャーは,リンパ節転移は順におこるものではなく,リンパ節転移があっても必ずしも次の転移の原因とはならないので局所リンパ節の広範廓清の意義は乏しく,遠隔転移は術前にある微小転移によるものであり,乳癌を全身疾患ととらえて治療することが重要であるとし,これは乳腺外科史上画期的なパラダイムシフトであった.フィッシャーは,National Cancer Institute(米国立がん研究所)の下で一貫して乳癌と大腸癌の治療法の研究開発と臨床試験を主導してきた大規模比較試験 NSABP (National Surgical Adjuvant Breast and Bowel Project)を率いてこの研究を行なった.中でも最も重要な初期の研究は1971年開始されたB-04研究で,根治的乳房切除術,単純乳房切除術,単純乳房切除術+術後照射を比較して,生存率に有意差がないことを示し,縮小手術の有効性を初めて証明した.1976年のB-06研究は,単純乳房切除術,腫瘍切除術,腫瘍切除術+術後照射を比較し,生存率に有意差がないこと,放射線治療は生存率には影響しないが再発を有意に低減することを証明した.加えて,マンモグラフィーを初めとする画像診断の進歩,乳癌スクリーニングの普及があり,早期乳癌が数多く診断されるようになり,現在に至る乳房温存手術への道が拓かれた[1-3]..

* フィッシャーは,1943年にピッツバーグ大学を卒業,外科医となった.研究テーマは肝再生,移植医学で,血管外科,腎移植も手がけた.1957年,かつての上司でNIHの化学療法部門の責任者となっていたIsidor Schwaner Ravdinに,乳癌の化学療法に関する委員会のメンバーになるよう求められた.肝再生,肝移植の研究に打ち込んでいたフィッシャーは,乳癌には全く興味がなく乗り気ではなかったが止むなく引き受けた.しかし乳癌を研究するうちに転移のメカニズムに強く惹かれ,転向して乳癌,腫瘍転移の研究にその生涯を捧げることになった.フィッシャーの研究は,現在の乳癌縮小手術の発展の契機となり,これを完成の域にもたらしたという点で画期的であった.

  • 1. Bland KI, Copeland EM, Klimberg VS, et al. The history of the therapy for breast cancer. In: Bland and Copeland's the breast, 2019
  • 2. AE Konstantinos A, Xanthos T, German V, et al. Breast cancer: From the earliest times through to the end of the 20th century. Eur J Obst Gyn Reprod Biol 145:3-8,2009
  • 3. 田島知郎. 乳癌治療.治療学. 39:91-5,2005

関連文献

《1979, 1981  胸筋温存手術の提案》
特別報告-原発性乳癌の治療
Special Report - Treatment of primary breast cancer
NIH Consensus Development Panel. New Eng J Med 301:340,1979

原文 和訳


乳がんの治療 - 根治的乳房切除術の代替法
Breast-cancer management. Alternative to radical mastectomy
Fisher B. New Eng J Med 301:326-8,1979

原文 和訳


原発性乳癌における外科医の役割について
A commentary on the role of the surgeon in primary breast cancer
Fisher B. Breast Canc Res Treat 1:17-26,1981

原文 和訳

【要旨・解説】冒頭の「特別報告」 は,1979年にNIHが,NSABP B-04試験の結果をもとに開催したコンセンサス形成会議の結論を報告したものである.その結論は,Ⅰ期,Ⅱ期について,ハルステッド法根治的乳房全切除術と,胸筋温存手術(乳房全切除術+腋窩廓清術)の成績は同等であり,後者を標準治療とすべきであるというものである.これは,80年間にわたって標準治療とされてきた大胸筋切除を含むハルステッド法に引導を渡し,その後現在にいたる非定型的乳房切除術,縮小手術への道を拓いた画期的な報告である.放射線治療と部分切除術の位置付けについては,なお臨床研究が進行中であるとしている.

この報告には,この結論にいたった経緯の記載がない.2番目の文献は,「特別報告」が掲載されたNew England Journal of Medicineの同じ号に掲載されたもので,この会議のメンバーの1人,フィッシャー(Bernard Fisher)が結論に至る背景,理由を解説したものである.Fisherはその生涯を縮小乳腺外科の普及,啓蒙に捧げた外科医である.

図4. ハルステッド法と胸筋温存手術の比較.ハルステッド法(●),乳房全切除術+放射線治療(×),乳房全切除術(〇)の間に,遠隔治療費成功率(上段),生存率(下段)に差がないことを示すNSABP B-04試験の結果の一部.

3番目の文献は,2年後に同じくFisherが記した総説で基本的に同じ内容であるが,具体的なデータを示してより詳しく説明している(図4).さらに進行中のB-06試験を紹介している.この時点ではまだ,部分切除術,放射線治療の評価は定まっていないが,部分切除の場合に問題となる同側あるいは対側乳房の多中心性病変の存在について論じ,その可能性は少ないであろうとしている.

ハルステッド法は,腫瘍はリンパ路を一定の秩序だった解剖学的順序で拡大してゆき,局所リンパ節は腫瘍進展の防御障壁となるという仮説に基づくもので,従ってアンブロック切除によりリンパ節を可及的に広く切除することが最善の治療であるとするものであった.その背景には,乳癌は基本的に局所病変であり,局所を制御できれば根治できるとする考えがある.治療これに対して,新しく提案された代替仮説は,腫瘍の進展に一定の順序はなく,局所リンパ節は防御障壁とならない,従ってアンブロック切除に意味は無いというとし,乳癌は発生当初から全身疾患であると考える.この場合,闇雲に広範囲を切除しても結果に差はないということになるが,これが実際にRCTで証明された.

これに加えて,特に3番目の論文では,前向き無作為臨床試験(prospective randomized clinical trial, RCT)の重要性が力説されている.新しい治療法の評価に際してRCTを実施することは現在では常識であるが,当時は経験的なデータに基づいて治療法が選択がされることが普通で,こと乳癌の術式は,3/4世紀にわたって踏襲されてきたハルステッド法という「伝統」 が支配していた.最後に,外科医との質疑応答という形でさらに結果をかみ砕いて説明しており,ハルステッド法を行う根拠は存在しないこと,腋窩廓清の必要性,局所切除,放射線治療はまだ確立した治療法ではないこと,外科医がこのようなRCTの意義を知って積極的に参加するべきであることなどを説いている.

関連事項

日本の乳癌の歴史

1804年に紀伊国の 華岡青洲が,独自の麻酔薬「通仙散」を編みだし,全身麻酔下に乳癌の手術を行なったことは良く知られている.青洲はその生涯に153例の乳癌を手術したとされる.詳しい術式などは不明であるが,付図からみると腫瘍摘出術であったものと思われる.

図8. 日本における術式の変遷.欧米に比べて縮小手術,乳房温存手術への転換がそれぞれ約15年,約10年遅れた. [3]改変

明治期の西洋医学導入後,最初の乳癌手術がいつどのように行なわれたかについては明らかでないが,ドイツのVolkmann方式(大胸筋膜切除)が行なわれたものと思われる.1910年代からはHalsted/Meyer式が行なわれるようになり,標準術式となった.1970年代に欧米で拡大術式が広まると,日本もこれにならって一時期行なわれたが,やはりが成績の改善にはいたらず1990年までには衰退した.欧米では1970年代半ばにHalsted定型根治手術(胸筋合併手術)と縮小根治手術(胸筋温存手術)の比率が逆転したが,日本の1970代前半の集計では定型手術60%,拡大手術30%,縮小手術5%で,これが逆転したのは1980年代後半で欧米に約15年の遅れがあった.乳房温存手術は欧米では1980年代から漸増し,日本でも2003年に欧米に約10年遅れて縮小根治手術との比率が逆転した(図8).

日本における術式変遷の遅れの理由については定まった分析がないが,半世紀にわたる実績を背景に好成績が約束される標準術式への信頼,理論的背景としてのHalsted理論からFisher理論への非常に大きなパラダイムシフトの受容困難による切除範囲縮小への躊躇があり,また欧米に比して外科医と放射線科医,腫瘍内科医との集学的連携が不充分であったことも一因と思われる.

  • 1. 綿谷正弘. 乳癌外科治療の変遷と今後.近畿大医誌. 35:11-21,2010
  • 2. 阿部力哉. 乳房温存手術の歴史的背景. 乳癌の臨床. 7:150-8,1992
  • 3. Sonoo H, Noguchi S. Results of questionnaire survey on breast cancer surgery in Japan 2004–2006. Breast Cancer 2008 15:3-4