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心臓外科学の歴史 

心臓外科学の芽生え

図1. レーン(Ludwig Rehn, 1849-1930).初めて心臓縫合術)に成功した[PD]

図2. カレルが発明した血管縫合法[2]. 心臓血管手術への道を拓いた.

19世紀に入り,全身麻酔,消毒法の登場とともに外科手術は格段に進歩したが,心臓は最後まで手つかずの領域であった.心臓に手を加えることは絶対禁忌とされ,1896年,腹部外科手術の先駆者でビルロート(Billroth)は,「心臓の縫合手術を行う医師は同僚の信頼を失う」 と述べている.この既成概念を打ち破り心臓手術への道を拓いたのは,ドイツの外科医レーン(Ludwig Rehn, 1849-1930)(図1)である.1897年,レーンは,刺創による心臓外傷の症例に対して心臓縫合に成功した.第5肋骨を切除して開胸し,裂傷を3針縫合して,患者は順調に回復した[→原著論文].この報告は,心臓の手術も恐るるに足らずとの認識を生み,心臓手術開拓の糸口となった[1].

心臓,大血管の手術には,血管の縫合,吻合技術が必須であるが,これを開発したのが,フランスの外科医,カレル(Alexis Carrel, 1833-1944)である.1894年,フランス大統領カルノー(Marie François Sadi Carnot, 1837-94)が無政府主義者に刺され門脈損傷のため死亡する事件がおこったが,当時血管を縫合する技術はなかった.この時医師団の一人として手術に立ち会ったカレルは,1902年に血管縫合の技術を発表した.この三角縫合法(triangular method)(図2)は,現在も血管方法の基本的な手技である.その後渡米し,ニューヨークのロックフェラー研究所で,血管縫合,吻合の技術をさらに改良するとともに,血管グラフト手術,バイパス手術,臓器保存,臓器移植など様々な動物実験を行ない,その後の心臓血管外科,そして血管吻合が必須となる移植外科の基礎を築いた[2].

  • 1. Tesler UF. The bases, the beginning and the evolution of cardiac surgery. In: Tesler UF. A history of cardiac surgery. (Cambridge Scholars Publishing, 2020)
  • 2. Carrel A. La technique opératoire des anastomoses vasculaires et la transplantation des viscères. Lyon Méd 98:859-64,1902
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原著論文

《1897 初の心臓手術》
穿通性心臓外傷と心臓縫合について
Ueber penetrirende Herzwunden und Herznaht
Rehn L. Arch Klin Chir 55:315-29,1897

【要旨・解説】世界初の心臓手術の報告である.それまで,心臓に手を加えることは禁忌とされていたが,著者は心臓外傷に対して心臓縫合術を行いこれに成功した.前半では,心臓外傷について総論的に述べられており,経験的に心臓外傷は穿通創が多いこと,小さな傷では自然治癒することがある一方で,針を刺しただけでも心停止に陥る例があるとしている.外傷による心機能障害の重要な要因が心嚢腔内への出血,心タンポナーデであるとして,その病態と治療について述べている.それまで提唱されていた治療法としては,絶対安静,瀉血,胸壁からの心嚢穿刺などがある.心嚢切開の記載もあるが,実際には行われておらず,外科医は心臓を露出することを避けてきた.心臓縫合については,動物実験では少数例の報告があるのみで臨床例の報告はない.

 図3.   左開胸による心臓縫合手術.10年後に心臓縫合124例をまとめて報告した論文の挿図[1]

症例は,胸を刺された22歳男性で,路上で倒れているところを発見されて搬送された.いったん持ち直したものの,旅行から戻った著者が2日後に診察した時点では,鼻翼呼吸,脈拍は微弱で,心濁音界が肺尖部まで拡張していた.急激に増悪した血胸と診断したが,出血源としては心臓,大血管,肋間動脈,内胸動脈などが考えられた.ゾンデによる診察では,創は心臓に向かっていた.著者はただちに手術を行い,左第4肋間を切開,第5肋骨を切断して観察したところ,大量の血液が流出し,心嚢から血液が拍出していることを確認した(図3).心タンポナーデの状態であった.縫合を決断し拡張期を狙って心嚢に3針をかけて縫合した.針を刺入する度に瞬間的に心臓が停止したが,完全に止血することができた.術後ただちに呼吸数が正常にもどり状態は良好であったが,翌日から発熱し,その後膿胸とわかって10日にドレナージを行い,その後は順調に回復した.報告の時点では,まだ心臓の易興奮性があるが日常生活に復帰している.

心臓縫合が可能であることに疑念の余地はなく,これまで失われてきた多くの命がこれにより救われることを願うと結んでいる.実際,この報告が契機となって,心臓手を加えることが可能という認識が外科医の中に生まれ,その後の心臓外科発展の端緒となった.著者自身,1907年に心臓縫合124例,死亡率60%を報告しており,これは従前の死亡率90%に比して大きな前進であった[1].

原文 和訳

  • 1. Rehn L. Zur Chirurgie des Herzens und des Herzbeutels. Arch Klin Chir 83:723-78,1907
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非開心手術

動脈管開存症

最も多い先天性心疾患のひとつである動脈管開存症(patent ductus arteriosus)は,胎生期に存在する肺動脈と大動脈弓を連結する細い血管が,生後も閉鎖せず開存しているために左右シャントをきたす病態である.心疾患といっても病変は心臓外にあり,開心が不要で心臓外の操作のみで手術できることから,心臓病手術としては比較的早期から行われたものの一つである.1938年,当時ボストン小児病院のチーフレジデントであったグロス(Robert Gross, 1905-89)は,7歳女児に左開胸,結紮術を行い,聴診器をあててシャントが消失したことを確認した.患者は順調に回復した.グロスはその後20年間で1,500例以上の動脈管開存症を治療した[1,2].

図4.(左)ブラロック(Alfred Blalock, 1899-1964), (右)タウシッグ(Helen Taussig, 1898-1986)[PD]

ファロー四徴症

ファロー四徴症(Tetralogy of Fallot, TOF)は,1884年にフランスの内科医ファロー(Etienne-Louis Arthur Fallot, 1850-1911)が初めて記載した疾患で,生直後よりチアノーゼを呈するいわゆる blue babyの原因として最多の複雑心奇形である.その本態は肺動脈狭窄と右左シャントにあるが,ジョンス・ホプキンス大学の小児科医タウシッグ(Helen Taussig, 1898-1986)(図4)は,動脈管開存症を合併するTOFは予後が良いことに気づいた.そこで,体循環系ー肺動脈間シャント造設により症状が改善できると考え,動脈管開存症の手術を手がけるグロスに提案したが賛同を得られなかった.そこで,同僚の外科医ブラロック(Alfred Blalock, 1899-1964)(図4)の協力を仰ぎ,ブラロックは2年間で200回以上の動物実験で,鎖骨下動脈-肺動脈シャント有効性を証明した.1945年,ブラロックが行った第1例の15ヵ月の男児は,状態は改善したものの数ヶ月後に死亡した.しかしその後施行した6歳,11歳の患者にいずれも腕頭動脈-肺動脈吻合術に成功し,以後1952年までに1000例の手術を行い,死亡率15%と報告した[1,3].以来この術式はBlalock-Taussig手術(BT手術)と呼ばれ,ファロー四徴症の初期手術としてのみならず,多くの右左シャント疾患に行われている.現在では人工血管が利用されている.

大動脈縮窄症

大動脈弓部の動脈管付着部に狭窄をみる大動脈縮窄症の治療に初めて成功したのは,スウェーデン,カロリンスカ大学のクラフォード(Clarence Crafoord, 1899-1984)である.1944年に12歳,27歳の2例で,病変の上下をクランプし,直接吻合,再建に成功した.その翌年,アメリカのグロスも,全く独立に同様の手術に成功している[4].

収縮性心膜炎

結核に伴い心膜に石灰化をきたす収縮性心膜炎の病態は,既に1669年,世界初の輸血で知られるイギリスの ロワー(Richard Lower, 1631-91)が剖検例を記載している.これを初めて治療したのは,初の心臓縫合を行った前述のレーン(Ludwig Rehn 1849-1930)で,1913年に心膜の一部を切除して心機能を改善する心膜切除術を行い,1920年にこれを含む4例を報告した.これを知ったドイツのシュミーデン(Viktor Schmieden, 1874-1945)も,その翌年に同様の手術を行い,1937年に22例を報告している(治癒6例,改善8例,死亡8例)[1].

僧帽弁手術

最初期に試みられた開心手術は,僧帽弁狭窄症に対する弁輪拡張術である.上気道感染後に関節痛を来すリウマチ熱の存在は17世紀から知られていたが,18世紀までは急性関節痛を来して自然消退する比較的予後良好な疾患であった.19世紀にはいると病像が変化し,心内膜,特に弁膜の病変を来して重症化する例が増加し,さらに20世紀になると感染後10年以上を経て弁膜症が顕在化する慢性進行例が目立つようになった.リウマチ熱と心疾患の関連は19世紀初頭には既に知られており,とくに1835年にフランスのブイヨー(Jean Baptiste Boullaud)が,僧帽弁狭窄症の原因となることを明らかにした.

1923年,リウマチ性僧帽弁狭窄に対する手術を初めて試みたのは,アメリカのハーバード大学の外科医カトラー(Eliott Cutler)と循環器内科医のレヴァイン(Levine)である.患者は重症僧帽弁狭窄のため呼吸困難,喀血を繰り返す11歳の少女で,カトラーは整形外科の腱切離術(tenotomy)用のメスを改良した独自のメス(valvulotome)を開発し,これを左心室壁から挿入して盲目的に僧帽弁尖の組織の一部を切除した.手術そのものは成功したが,患者の症状は改善せず,4年後に肺水腫で死亡した.カトラーはその後5年間で12例の弁膜手術を行ない,この成績を1929年に報告しているが,僧帽弁狭窄症10例中生存例は2例のみであった.1925年,ロンドンの外科医ソター(Henry Souttar)は,重症僧帽弁狭窄症の19歳女性の手術に成功した.ソターは,左心耳を切開して指を挿入し,僧帽弁を触知して癒着を剥離した.患者の症状は改善し,その後5年間生存したが,脳梗塞の発作で死亡した.ソターはその後症例に恵まれず,この試みは単発におわった.

図5. (左)ベイリー(Charles Bailey, 1910-93),(中)ハーケン(Dwight Harken, 1910-93),(右)ブロック(Russel Claude Brock,1903-80).ほぼ同時期,それぞれ独立に僧帽弁手術に成功した.

その後長らく僧帽弁手術の試みは途絶え,再開されたのは第二次世界大戦後のことである.初めて僧帽弁狭窄症の手術に成功したのは,フィラデルフィアのハーネマン病院(Hahnemann Hospital)の外科医ベイリー(Charles Bailey, 1910-93)(図5)である.ベイリーは1945年に2例の手術を試みたが,いずれも患者は術中死し,「ハーネマン病院の屠殺人」(The butcher of Hahnemann Hospital)とあだ名され,病院から手術を禁じられた.1948年,他の病院で3例目,4例目を手術したがいずれも失敗に終わった.1948年6月10日,フィラデルフィア総合病院で4例目の患者が術中死した同じ日の午後,ベイリーは近郊のエピスコパル病院(Episcopal Hospital)に車を走らせ,まさに背水の陣で5例目の手術に臨んだ.患者は24歳女性のウォード(Claire Ward)で,1児の母であったが,7歳の時にリウマチ熱を患い2年前に僧帽弁狭窄と診断され,心不全症状が急速に進行していた.ベイリーは左心耳を切開し,指で僧帽弁の癒着を剥離する閉鎖式僧帽弁交連切開術(closed mitral commissurotomy)*1をおこなった.手術は成功し,患者は間もなく退院,その後さらに2児をもうけ,1985年に62歳で死亡するまで健康であった*2.ベイリーはこの後も症例を重ねてこの術式を確立した.

図6.ハーケンが行った僧帽弁手術.左心房壁を切開し,指とナイフ(valvulotome)を挿入して僧帽弁を切開,拡張する.[NEJM ;253:669,1955]

1948年6月16日,ベイリーの手術のわずか6日後,ハーバード大学のハーケン(Dwight Harken, 1910-93)(図6)も,僧帽弁狭窄症の手術に成功した*3.ハーケンは第二次世界大戦中,軍医として多くの胸部外傷,心臓外傷の経験が豊富であった.患者は27歳男性で,ハーケンの術式はカトラーの方法に準じてメスで弁輪の一部を切除する方法で,自身はこれをvalvuloplastyと呼んだ.その3ヵ月後,イギリスの外科医ブロック(Russel Claude Brock,1903-80)(図8)も,ハーケンと同様の方法で22歳女性の治療に成功した.

ベイリー,ハーケン,ブロックは,ほぼ同時に,独立して僧帽弁狭窄の治療に成功したことになる.それぞれの術式は少しずつ異なるが,これにより僧帽弁狭窄症手術の基礎が築かれ,特にアメリカ国内の多くの施設で行われるようになり,数年のうちに日常的な手術となった.1952年,ベイリーは400例(死亡率10%,改善率78%),1955年にハーケンは500例(死亡率は当初14%,その後2.7%)を報告している.その後ベイリーは,僧帽弁閉鎖不全症,大動脈弁膜症の手術の開発にも大きく貢献した*4[1,2].

*1 交連切開術(commissurotomy)という用語を初めて用いたのは,ベイリーの同僚の循環器内科医デュラント(Thomas M. Durant)で,もともと小口症(microstomia)の手術法の名称であった[3].

*2 1986年3月,喀血で入院.カテーテル検査にて僧帽弁狭窄および閉鎖不全,肺高血圧症,三尖弁閉鎖不全と診断された.僧帽弁置換術が予定されたが,前胸壁に単純ヘルペスの皮疹が発見され,いったん退院して自宅待機中に症状が悪化,死亡した[2]

*3 ベイリーとハーケンは,以後ライバルとして,学会では常に激しい議論の応酬を繰り広げた.僧帽弁狭窄手術の優先権については,手術を行ったのはベイリーが6日早かったが,論文の発表はハーケンが早く,これも議論の的となった.両者は生年も同じであるが,奇しくもハーケンの死はベイリーの9日後であった.

*4 ベイリーを巡るエピソードは多い.ベイリーは若くして父が病死し,様々な仕事をして一家を支えた.15歳の時,女性のストッキングや下着の戸別訪問セールスの仕事をしたため,ガードルの作りに熟知していた.僧帽弁の研究にあたって,弁尖に何本もの腱索が付着している構造はガードルに良く似ており,術式を考えるのに役立ったと述べている[2,3].

  • 1. Tesler UF. The surgical treatment of mitral stenosis. In: Tesler UF. A history of cardiac surgery. (Cambridge Scholars Publishing, 2020)
  • 2. Dávila JC. The birth of intracardiac surgery: a semicentennial tribute (June 10, 1948–1998). Ann Thorac Surg 65:1809-20,1998
  • 3. Gonzalez-Lavin L. Charles P. Bailey and Dwight E. Harken-The dawn of the modern era of mitral valve surgery. Ann Thorac Surg 53:916-9,1992

人工心肺

心臓外の手術や,拍動している心臓壁を切開して心腔内に盲目的に指やメスを入れて手術する閉鎖式弁膜手術には限界があり,より高度な心疾患を治療するには,心臓の拍動を止めた状態で行う開心手術(open heart sugery)が必要であった.心停止を得る方法としては,低体温法と,人工心肺装置による体外循環法がある.

図7. カレルとリンドバーグが発明した灌流ポンプ.動物実験には成功したが,臨床には使えなかった.[PD]

1950年,カナダの心臓外科医ビゲロー(Wilfred Bigelow, 1913-2005)は,イヌの実験で,体温20℃で15分間の心停止に成功した[1].1952年,これを初めて臨床に応用したのはミネソタ大学のルイス(Floyd John Lewis, 1916-93)とリルハイ(Walton Lillehei, 1918-99)で,5歳女児の心房中隔欠損を,ブランケットによる冷却で体温27℃で手術,修復することに成功し,その後3年間で60例以上の心房中隔欠損に低体温法を応用した.イギリスのブロック(Brock)も,20例以上の心室中隔欠損症の手術に成功した.人工心肺による体外循環法が確立するまで,主にアメリカ,イギリスで灌流冷却法による手術が多く行われた.

心臓のポンプ機能,肺の酸素化機能を,体外の機械で代用する人工心肺の考え方は19世紀からあり,様々な方法が考案され,動物実験が行われていたが臨床応用には到らなかった.1935年にカレル(Alexis Carrel)とリンドバーグ (Charles Lindbergh)が発明したカレル・リンドバーグポンプ (Carrel-Lindberg perfusion pump) (図7)は,様々な臓器を体外で長期間生存させることができ,発表当時は医療を変革する画期的な発明としてセンセーションを巻き起こしたが,臨床に供されることはなかった[2,6].

 

図8. ギボンと,その人工心肺手術で救命された患者ボヴァレック(当時18歳). 1963年撮影.[PD]

図9. ギボンが手術に使用した人工心肺装置.[PD]

図10.カークリン(John Webster Kirklin, 1917-2004.ギボンの装置を改良して,人工心肺装置を完成した[PD]

図11. リルハイが考案した交差循環法による手術.患者(左)の血管と健常ドナー(右)の血管を連結する[Surg Gynecol Obst 101:446,1955]

図12. ドゥウォールとリルハイが開発したバブル式酸素化装置を採用した人工心肺装置.その後広く使用された[PD]

人工心肺の生みの親は,アメリカのマサチューセッツ総合病院の外科医ギボン(John Gibbon, 1903-73)である(図8).1930年,ギボンは胆嚢摘出術後に突然胸痛,呼吸困難を訴えた若い女性患者を受け持った.肺塞栓症であることは明らかで,Trendelenburg手術(肺動脈血栓除去術)が行われたが救命することはできなかった.一晩中患者に付き添い,黒ずんだ血液で四肢の血管が怒張してゆくのを目にしたギボンは,血液を体外で酸素化して動脈に戻す装置があれば救命できると考えて人工心肺の研究を決意したという.しかし,全くのゼロからのスタートで,将来妻となる研究助手のメアリーと2人だけの研究であった.人工心肺は,心臓の機能を果たす循環ポンプ,肺の機能を果たす静脈血の酸素化装置,回路を常に一定に恒温装置など多くの装置から成る.これをすべて手作りする必要があったが,まずはポンプからして適当なものがなく,町のジャンクを回って買い集めた部品で試作機を組み立ててはネコで実験を繰り返した.

そして1934年,わずか数分であったが心臓を切り離して人工心肺だけで生命を維持することに成功した.さらに1939年には最長1年間の生存記録が達成された.1946年,第二次世界大戦で中断された研究を再開したが,臨床応用できる大型装置の開発はもはやギボンひとりの力の及ぶところではなかった.そこで,IBM社の協力を得て臨床装置を完成させた.1953年5月6日,ギボンは心房中隔欠損の18歳女性,大学1年生のバヴォレク(Cecilia Bavolek)*1の手術にこの装置を用い,術中26分間の心停止を経て手術は見事成功した(図8).これは人工心肺を使った体外循環による初の手術成功例で,「5月6日の手術」(May 6 operation)として心臓外科医に永く語り継がれることになる.しかし,これに続く4例の手術は全例失敗に終わり,ギボンは二度と手術に臨むことはなかった.心臓外科学界も大きな失望感に包まれ,人工心肺の開発は頓挫したかに見えた[3].

人工心肺装置の実用化に成功したのは,メイヨークリニックのカークリン(John Webster Kirklin, 1917-2004)(図10)である.カークリンは,1938年,ハーバード大学の医学生時代に,同大学のグロス(Robert Gross)が世界初の動脈管開存症閉鎖手術に成功したことに感銘を受けて心臓外科を志し,第二次世界大戦後にはグロス自身の下で心臓外科を学ぶ機会を得た.1950年にメイヨークリニックに異動したカークリンは,ギボンの人工心肺装置の改良に取り組んだ.1955年3月22日,カークリンはこの人工心肺を使って心室中隔欠損の5歳女児の手術に成功した.その後計8例を手術し,内4例が成功した.

一方,カークリンに先立って,ミネアポリスのリルハイ(Walton Lillehei, 1918-99)は,人工心肺を使用しない交差循環法(cross circulation)による開心手術の研究を進めていた.これは,患者の血管と健常者(ドナー)の血管を連結することにより,心停止中にドナーの心肺機能を利用する方法で(図11),動物実験でその有効性,安全性は確立されていた*2.初の臨床例は,心室中隔欠損の13ヵ月の男児で,1954年3月26日に父親をドナーとして行われた手術は,12分間の体外循環の下に行われた.手術は成功したが,11日後に肺炎の合併症で患者は死亡した.リルハイはその後1年間で,心室中隔欠損,Fallot四徴症など心臓奇形45例を手術し,28例が成功したが,1例のドナーに空気塞栓による脳梗塞を来したこともあり,医学面,倫理面での強い批判がわき起こった.

このため,リルハイもその後は人工心肺の開発に転向し,ドゥウォール(Richard DeWall, 1926-2016)とともに,ギボン式人工心肺で使われたスクリーン式酸素化装置(screen oxygenator)よりも軽量,単純なバブル式酸素化装置(bubble oxygenator)*3を開発した.このDeWall-Lillehei式人工心肺(図12)は,その後広く利用された.カークリン,リルハイ以降,人工心肺には様々な技術改良が加えられ,1960年代以降,人工心肺装置を利用した開心手術は世界中に普及することになった.

*1 バヴォレクの術後経過は順調で,通常の社会生活に復帰し,ハーネマン病院の秘書などを経て,医用工学技士となった.手術当時はマスコミの取材などを拒絶していたが,1963年にメディアの求めに応じて初めてギボンと並んで人工肺装置を前に写真におさまった(図82).

*2 リルハイはこの方法を胎児循環から着想したというが,これを実際に追求した背景には,1952年にイギリスの研究者アンドレアセンらが報告した奇静脈の血行動態に関する論文があった[4].これはイヌの実験で,静脈還流の主経路である上大静脈,下大静脈を閉塞しても,奇静脈からの還流により30分以上の生存が可能であること(azygos vein principle)を示したもので,短時間であれば血流の一部のみの補助で生命を維持できることが証明されたことは,交差循環法の可能性を示唆するものであった.またこれによってドナーの脳機能が障害される可能性を否定するために,リルハイは訓練された猟犬をドナーとして実験を行い,術後に飼い主の命令に従う能力や猟の能力に変化がないことを確認した[2].

*3 血液の酸素化(oxygenation)は,血液と酸素(あるいは空気)が接触する面積をできるだけ大きくすることにより行われ,歴史的にいくつかの方式が開発された.フィルム式:最も初期に試みられた方法で,回転する円筒あるいは円板の表面に血液を流すと遠心力でフィルム状に薄くひろがることを利用する.スクリーン式:薄い網目構造の上に血液を流すことにより薄層とする.Gibonの装置ではステンレス製メッシュが使用された.バブル式:血液の中に酸素を吹き込むときに発生する気泡の大きな表面積を利用する.DeWall-Lilleheiの装置で実用化された.膜式:シリコン,ポリプロピレンなどの薄膜による細径の中空糸に血液を通す.現在はこれが主流で,重症呼吸不全やショックの治療に使用する体外循環治療装置(ECMO)もこの方式である[5].

関連事項

人工弁の歴史

《ボール弁》

僧帽弁閉鎖不全,大動脈弁閉鎖不全の治療には,当初は自然弁を模した人工弁をダクロン,テフロンなどで作製して置換する試みが行われたが,耐久性に欠け,血栓形成が高率であることから失敗に終わった.

図13. ハフナーゲルが胸部下行大動脈に挿入したボール弁 [1]

図14. スター・エドワーズ弁.ボール弁の基本形となった[11]

臨床的に功をおさめた初の人工弁は,ケージ型ボール弁(caged ball valve)で,その原型は1940年代に心臓外科医のハフナーゲル(Charles Hufnagel)が考案したもので,大動脈弁はそのままにしてこれを胸部下行大動脈に挿入した(図13)*1.1952年以降大動脈弁閉鎖不全の患者約200例にこの手術を行った.死亡率10%であったが,心機能は充分な改善が見られた.

コロンビア大学の心臓外科医のスター(Albert Starr)は,ジョンスホプキン大学でブラロックの指導を受けていたが,1957年,オレゴン大学に招かれて心臓外科部門の創設に尽力していた.その直後の1958年,スターのもとをエドワーズ(Miles Lowell Edwards, 1898-1982)*2という老技術者が訪れ,人工心臓の研究をもちかけた.スターは人工心臓は時期尚早であるとして,かわりに人工弁の研究を提案した.スターとエドワーズは協力して人工弁の開発に乗り出した.当初は自然弁を模した形状を試みたがやはり血栓形成が障害となり,結局ハフナーゲルの人工弁を参考にしてボール・ケージ型の弁を開発した.1960年8月に施行した第1例の僧帽弁置換術は,空気塞栓のため患者が死亡したが,この反省をもとに翌月に臨んだ第2例は,見事に成功した.1961年,スターは8例の手術成績を報告し[3],大きな反響を呼んだ.当初は僧帽弁置換であったが,その後大動脈弁,複数弁置換でも良い成績が得られた.このスター・エドワーズ弁(Starr-Edwards valve)(図14)とその改良型のボール弁は,1970年頃まで広く使われた[1,2].

*1 ハフナーゲルは,ハーバード大学在任中にこの人工弁手術を25頭のイヌに施して経過観察していたが,その間にワシントンのジョージタウン大学に異動することになった.イヌをすべてトレーラーに載せてワシントンに向かう途中に立ち寄ったガソリンスタンドで,サービスマンが誤って扉を開けたため1頭を除いてイヌはすべて逃げてしまった.ハフナーゲルは,地元の野犬捕獲人を集めてそれぞれに聴診器を配り,残った1匹の胸に聴診器をあてて人工弁の特徴的なクリック音を教えこんで捕獲に当たらせた.この結果,逃げたイヌはすべて回収され,ハフナーゲルはジョージタウン大学で研究を継続することができた.

*2 エドワーズは,オレゴン大学で電気工学を学び,GE社のニューヨークのスキネクタディ研究所を経て,いくつかの企業で工業用ポンプの開発にあたり,数々の発明を重ね60以上もの特許を取得した発明家であった.第二次世界大戦時のボーイング社が開発したB17爆撃機は,高高度を飛行するため従来の燃料ポンプが使用できず,新しいポンプを必要としていたが,エドワーズが発明した遠心ポンプ(centrifugal pump)がこの目的に適い,その後米軍機のほとんどにこれが採用された.エドワーズは,1947年に引退したが,幼少期にリウマチ熱を煩って以来心臓病への関心をもち続け,専門分野であるポンプ技術を応用して人工心臓の開発を志し,スターのもとを訪れたことがその後の人工弁の開発につながった.エドワーズが創始したエドワーズ研究所(Edwards Laboratories)は現在もEdwards Life Science社として,人工弁,カテーテルなど心臓病関連医療機器を提供している.

図15. ビヨルク・シャイリー弁.広く使われた傾斜弁であったが,破損事故のため使用されなくなった [1]

《傾斜弁》

1960年代後半に,ボール弁よりも血行動態に優れる傾斜弁(tilting valve)が登場した.これは1枚の円板が直径を軸として傾斜することにより開閉するもので,代表的なものは,スウェーデンのカロリンスカ病院の外科医ビヨルク(Viking Björk)とアメリカの技術者シャイリー(Donald Shiley)が開発したビヨルク・シャイリー弁(図15)で非常に多く使用された.しかしその後機械的破損による死亡事故が報告され,集団訴訟が起こるにいたり,傾斜弁は使用されなくなった[2].

《二葉弁》

1960年代,ジョンスホプキンス大学の外科医ゴット(Vincent Gott)とポリマー技術者のダゲット(Ronald Daggett)は,と2枚の半円形の弁尖を蝶番で連結した二葉弁(bileaflet valve)を開発し,1964年に約500例の僧帽弁置換術,大動脈弁置換術に使用した.二葉弁は従来のボール弁にくらべて小型,軽量であったが,蝶番部の血流うっ滞による血栓形成が懸念されたため,1966年に製造中止となった*.1968年,ミネソタ大学のリルハイとインド人留学生のカルケ(Bhagavant R. Kalke)は,やはり二葉弁を試作したが,第1例の患者が術後48時間で死亡し,研究は中止された.

図16. セントジュード弁.二葉弁の基本形で,現在最も広く使用されている機械弁 [1]

人工弁の材質の抗血栓性は常に重要な研究テーマであった.ゴットとダゲットは,二葉弁の開発にあたってヘパリン化カーボンコーティング(heparinized carbon coating)を使用していた.1965年,原子力関連企業ゼネラルアトミックス社(General Atomics)の研究者ボクロス(Jack Bokros)は,核燃料の被覆剤として耐熱性に優れたパイロライトカーボン(pyrolytic carbon,熱分解炭素)を開発した.ボクロスは,ゴットらの論文に興味を抱き,パイロライトカーボンのヘパリン化の共同研究をもちかけた.その結果,パイロライトカーボンはヘパリン化できなかったが,パイロライトカーボン自体が非常に優れた抗血栓性を有することが判明した.以後現在に至るまで,ほとんどの人工弁がパイロライトカーボンで作られている(弁膜部はパイロライトカーボン,リングはチタン製が多い).

1976年,ミネアポリスの外科医ニコロフ(Demetre Nicoloff)と技術者のポシス(Xinon Posis)は新たな二葉弁を開発し,ペースメーカー製造会社CPI社のヴィジャファーニャ(Manny Villafaña)に供覧した.ヴィジャファーニャは,これを改良し,さらにボクロスを招いてハイドライトカーボン製とし,新たに設立したセントジュード社(St. Jude Medical)から,1977年にセントジュード弁(St. Jude valve)(図16)を発売した.これによりゴットの研究以来長らく日の目を見なかった二葉弁が復活し,その後様々な改良が施され,現在も二葉弁は標準的な人工弁として使用されている[1,2].

* その後の調査で,長期使用例でも血栓形成はなく,杞憂であったことが確認された.

図17.ブタ生体弁.

《生体弁》

このような器械弁の研究に平行して,生体弁の研究も進んだ.生体弁はヒト屍体弁,すなわち同種生体弁(homologous valve)に始まり,1955年,カナダのマレイ(Gordon Murray)は,下行大動脈に屍体大動脈弁を挿入する手術に成功した.その後,イギリスのブロック(Russel Brock)とロス(Donald Ross)は,凍結乾燥した屍体大動脈組織を手術室で使用直前に成型することにより良い成績をあげたが*1,ドナー組織の供給に制約があることから,筋膜など血管以外の組織の利用も試みられた.パリ大学の外科医カルパンティエ(Allain Carpentier)は,異種動物組織の利用を研究し,大学で化学を学びなおして基礎理論を身につけ,グルタルアルデヒド処理 が最も適していることを発見した.これにより異種生体弁(heterologous valve)の研究が急速に進歩し,ブタやウシの組織を利用した様々な生体弁が開発された(図17).機械弁は術後生涯にわたってワーファリン服用が必要となるが,生体弁は術直後を除いてその必要がなく,血行動態的にも優れている利点がある一方,経年的に変性が進み,耐久性にはなお問題が残されている*2[4,5].

*1 1962年6月,ロスは石灰化した大動脈弁の脱灰を試みていたところ,弁が完全に崩壊して修復不能となった.当時ボール弁はまだ発売されたばかりでイギリスにはなかった.ロスは急拠,保存してあった研究用の凍結乾燥ヒト大動脈弁を使い,後日アメリカからボール弁を至急取り寄せて再手術する予定であった.しかし,予想に反して患者の術後経過は良好で元気に退院した.ロスはボール弁の発注をキャンセルし,その後同種生体弁の研究を進めた.

*2 異種生体弁の劣化は若年者ほど速く進む傾向があり,その場合は機械弁に交換する必要がある.テキサス大学心臓外科のクーリー(Denton Cooley)は次のようなエピソードを語っている.12歳の子供の生体弁が術後6ヵ月で劣化してしまい,ビヨルク(Björk)弁に交換する必要があると患者に説明したところ,母親が心配そうに質問した.「前回はブタの弁でしたが,そのビヨルクというのはどんな動物なんですか?」[2]

《TAVI》

2000年代に登場した経皮的大動脈弁置換術 (TAVI, transcatheteric aortic valve implantation)は,経カテーテル的に生体弁を大動脈弁口に挿入する方法で,開胸が不要であるという点で画期的な低侵襲治療である.適応はまだ限られるが,特に高齢者の大動脈弁膜症に広く行われるようになった[4,5].

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冠動脈病変

19世紀以前

虚血性心疾患の症状は古くから知られており,既にエジプトの医学パピルスのひとつエーベルスパピルス(前1550年頃)にも「胸部に痛みがあり,痛みが肩から胃に及ぶ患者の死は近い」という記載がある.ヒポクラテスも「鎖骨と背部に放散する鋭い痛みは致命的である」としている.血液循環を発見した ハーヴェイ は,冠動脈の存在を記載しており,病理解剖学の父とされる モルガーニ は冠動脈硬化症を記載しているが,これらの知識はまだ臨床所見とは結びつかなかった.

図18. ヘバーデン(William Heberden, 1710-1801).狭心症の病名を初めて記載した.

図19. パリー(Caleb Hillier Parry, 1755-1822).狭心症の病態を理論的に説明した.

外科学の父とされるハンターは,自ら狭心症を患っており,運動によって症状が悪化することを記載している.死因も病院の医学生の受け入れ問題を巡る議論で激昂したことによる心臓発作であった.狭心症(angina pectoris)の病名を初めて記載してその病態を明らかにしたのは,手指のヘバーデン結節に名前が残るイギリスの内科医ヘバーデン(William Heberden, 1710-1801)(図18)で,1768年のその著書「疾患の経過と治療法の解説」(Commentarii de morborum historia et curatione)で,その症状を記載し,運動や過食で誘発されること,男性,特に50歳以上に多いことを指摘し,冠動脈の痙攣によるものと考えた.狭心症の病態を初めて理論的に説明したのは,イギリスの内科医パリー(Caleb Hillier Parry, 1755-1822)(図19)である*.1799年,パリーはその著書「いわゆる狭心症の症状と原因について」(An inquiry into the symptoms and causes of the syncope anginosa, commonly called angina pectoris)において,冠動脈閉塞と狭心症の関係を論じ,冠動脈からの血液量が需要に追いつかなくなると症状をきたし,平時は無症状でも運動により発症することを明らかにした[1,2].

さらに1809年,イギリスの内科医バーンズ (Allan Burns, 1781-1813)は初の心臓病学の教科書「最も頻度が高く重要な心疾患について」(Observations on some of the most frequent and important diseases of the heart)を著し,その中でパリーの記述をさらに推し進めて,冠動脈の石灰化を背景として運動や興奮による血流の受給の不均衡が狭心症の原因であることを明記した.

こうして狭心症の原因が次第に明らかになり,治療法が模索された.1867年,イギリスのブラントン(Thomas Lauder Brunton)は,亜硝酸アミルが狭心症の疼痛に有効であることを初めて記載した.狭心症に対する初の外科的治療は,交感神経節切除術であった.これは1899年,フランスのフランソワ=フランク(Charles Emile Françoid-Franck)が提唱したものであるが,1916年にルーマニアの外科医ヨネスコ(Thomas Jonnesco)が実際に交感神経節切除による胸痛の消失を報告した.その後も様々な術式が試みられたが,確実な効果は証明されなかった.[1,2]

心筋の負荷を減らすことにより心筋虚血を抑制する目的で,甲状腺切除術が行われたこともあった.1930年代に,初めて放射性同位元素を用いて循環時間を測定してことで知られるハーバード大学のブラムガート(Herrmann Blumgart)と僧帽弁狭窄症の手術で知られるカトラー(Eliott Cutler)が報告し,約半数で症状の改善が得られたが,甲状腺機能低下症による合併症は不可避で,実際的な治療法とはなりえなかった[1,2].

* パリーは,ハンター(John Hunter)の直弟子で種痘で知られるジェンナー(Edward Jenner)の親友であった.ジェンナーは,狭心症の既往がある患者の剖検を行い,冠動脈の石灰化があることを発見しその因果関係を推測したが,狭心症を患っている師ハンターをおもんばかって明言しなかった.しかし親友のパリーに宛てて,「メスが非常に硬いものに当たった.古くて脆くなった天井から石膏のかけらが落下したのかと思い見上げたおぼえがある.しかしさらに調べると本当の原因が判明した.冠動脈が骨の管のようになっていたのだ」という手紙を書き送った.パリーはこれをヒントに狭心症と冠動脈の関係を研究した[1]

間接血行再建術

図20. ベックによるCaridiopexy.大胸筋皮弁で心筋を覆う[Ann Surg 102:801,1935]

外科的に心筋の血流を増加させる手段として最初に考えられたことは,他の組織と心筋の癒合であった.心筋梗塞例の剖検で心筋瘢痕と心外膜にしばしば癒着が見られることから,周囲組織から虚血心筋への側副血行路の存在が推定され,1932年に米国クリーブランドのハドソン(Charles L. Hudson)は,胸筋,縦隔など心臓外の血管と冠動脈の間に生理的な吻合があることを血管内に炭素微粒子を注入する実験によって証明した[3].この理論を初めて臨床に応用したのは,ハーバード大学のベック(Claude Schaeffer Beck, 1894-1971)*1で,心膜を部分切除し,大胸筋を有茎皮弁として左心室,右心室の表面を覆う手術(cardiopexy)*2を行った(図20).1935年の第1例は,重症狭心症の48歳男性であったが,半年後には庭師の仕事に戻れるまでに回復した[4].その後,これに加えて冠状静脈洞を部分的に結紮して心筋の酸素利用を促進する方法(Beck I法)を考案し,1960年までに500例以上の手術を行い,その多くが良好な結果を得た.さらに大動脈と冠状静脈洞を静脈グラフトで連結するBeck Ⅱ法も開発したが,死亡率が高いため中止された.

1936年,イギリスの外科医オショネシー(Lawrence O'Shaugnessy, 1900-40)は,腹腔から大網を引き上げて心臓を覆う方法を考え,良い成績をあげた.このように他の組織と心臓を密着させて組織間から血流で心筋を栄養する手術は cardiopexy (心臓癒着術)*2と総称され,筋肉,大網,肺などが利用された.

図21. ヴァインバーグの手術.内胸動脈を心筋に埋め込む [Can Med Assoc J 70:367,1954]

カナダのヴァインバーグ(Arthur Vineberg, 1903-88)は,動物実験により,動脈を切断してその断端を心筋内に包埋すると,通常の組織のように血腫を作らず,出血が心筋に吸収されて心筋を栄養することを発見した.これをもとに1950年に内胸動脈の断端を心筋に植え込む手術に成功し,以後広く行われた.これによって実際に心筋の血流が維持されているか否かについては疑問視する声もあった.しかし1958年,クリーブランドクリニックの循環器内科医 ソーンズ (Mason Sones)が,それまで禁忌と考えられていた選択的冠動脈造影に成功し,冠動脈疾患の診断学が急速に発展した.そして,ヴァインバーグの内胸動脈植え込み手術後に血流が保たれていることが証明された.1964年には大網固定術との併用も行われた.このような方法は,組織間の吻合が確立して血流が増加するまでに日数を要するという欠点があったが,バイパスグラフト手術が開発されるまで広く行われた[5].

*1 ベックは,心室細動の治療に使用する除細動器の発明者として知られ,1947年にこれを使った除細動に初めて成功した.心タンポナーデの臨床徴候ベックの三徴(血圧低下,経静脈怒張,心音微弱)にその名前が残る.

*2 cardiopexy: 心筋と他臓器を密着させて,両者の癒着による心筋の血行再建をはかる方法.-pexy は一般に固定術で,この場合は心筋癒着術とされることもあるが,定訳はない.筋肉(cardio-myopexy),大網(cardio-omentopexy),肺(cardio-pneumopexy)などがある.

バイパスグラフト手術(CABG)

このような冠動脈そのものには手を加えずにその血流を増加させる間接手術の試みに続いて,冠動脈に操作を加える直接手術が模索された.その先鞭となったのは,僧帽弁手術の歴史に登場するベイリー(Charles Bailey)が1956年10月29日に行った冠動脈内膜剥離術(endarterectomy)である.まだ選択的冠動脈造影が行えなかったこの時代,Baileyは拍動心を触診して冠動脈の硬化病変をさぐり,血管壁を切開して血栓や石灰化プラークを切除し,血管壁を縫合した.これを受けて,アメリカ国内では多くの施設で内膜剥離術が行われた*1

世界初の冠動脈バイパスグラフト手術(Coronary artery bypass graft, CABG)は,1964年2月25日,ソ連のコレソフ(Vasilii I. Kolesov)が行った内胸動脈と冠動脈の吻合術とされる.これはその後欧米で広く行われるようになる術式と基本的に同じもので,1967年には一連の成績がアメリカの雑誌にも報告されたが,国内外ともにその評価は低いものであまり普及しなかった.

図22. ファヴァロロによるCABG手術.(上)冠動脈と大伏在静脈の血管吻合.(下)術後冠動脈造影.吻合された静脈(→)とその末梢の冠動脈が良好に造影されている [ horac Cardiovasc Surg 58:178,1969]

CABGの生みの親は,ファヴァロロ(René Geronimo Favaloro, 1923-2000)*2である.ファヴァロロはアルゼンチンのラプラタ大学病院の外科医であったが,1960年に渡米し,クリーブランドクリニックの胸部外科部長のエフラー(Donald Effler)の下で研究を開始した.当時,クリーブランドクリニックでは,ヴァインバーグの内胸動脈植え込み術が行われていたが,術後血栓症が問題となっていた.一方腹部外科では,腎の血流再建に静脈グラフトが行われていた.ファヴァロロは,これを応用して冠動脈を下肢の大伏在静脈による置換を創案し,1967年,右冠動脈の狭窄部を切除し,その近位端,遠位端に静脈を吻合した(図22).1週間後,ソーンズが冠動脈造影を行い,血流が完全に回復していることを確認した.その後は,静脈の近位側を上行大動脈に直接吻合する方法にかえ,良い成績をあげた.

以後,冠動脈のバイパスグラフト手術は世界中に急速に普及し,充分な長さを確保できる大伏在静脈グラフトが最も多く使用された.しかし長期フォロー例で血栓症による再狭窄が明らかとなり,1968年にニューヨーク大学のグリーン(George E. Green),ハーネマン病院のベイリー(Charles Bailey)が内胸動脈グラフトを導入した.当初,動脈の吻合には顕微鏡手術が必要とされこれが普及の障壁となったが,1973年にクリーブランドクリニックのループ(Floyd Loop),ファヴァロロらが簡単な拡大鏡で可能な方法を開発し,以後急速に普及した.その後行われた10年後のフォローアップの成績で,動脈グラフトの優位性が確認された.

初期の冠動脈グラフト手術は,心拍下に行われたが,人工心肺装置の発展とともに体外循環,心停止下に行われるようになった.しかし1990年代になると心臓の動きを圧迫して抑制するスタビライザーを用いることにより人工心肺を不要とする方法が開発された.以後,人工心肺を使わないオフポンプ手術(off-pump operation),人工心肺を使うオンポンプ手術(on-pump operation)の優劣については多くの議論が行われ,いずれも手技に慣熟した施設,外科医が行う限り大きな差はないとされている

*1 1958年,カリフォルニア大学のロングマイア(William Longmire)は右冠動脈の内膜剥離術中に不慮の血管裂傷を来たし,止むを得ず内胸動脈を右冠動脈に吻合したところ,予想外に患者の予後は良好であった.これは計らずも史上初の冠動脈グラフト手術となった[5].

*2 ファヴァロロは,1971年に米国内で惜しまれながらも母国アルゼンチンの医療に貢献したいと熱望して帰国,1975年,ブエノスアイレスにファヴァロロ心臓血管外科研究財団病院(Favaloro Foundation Institute of Cardiology and Cardiovascular surgery)を創設して,数多くの患者の命を救うとともに後進を育成に大きく貢献した.しかし1990年代に政府の支援が打ち切られて財政難に陥り,2000年,先行きを悲観して拳銃自殺を遂げた[5].

経カテーテル冠動脈形成術(PTCA)

図23. グリュンツィヒによるPTCA.a. 術前,左前下行枝の狭窄,b. バルーンカテーテルによる拡張中,c. 術直後, d. 1ヵ月後.狭窄が消失している(→). [New Eng J Med 301:61,1979]

1965年,アメリカのオレゴン大学の放射線科医 ドッター (Charles Dotter, 1920-85)は,閉塞性動脈硬化症による大腿動脈閉塞を,鼠径部から経皮的に挿入したカテーテルにより再疎通することに成功した[6].これは世界初のカテーテルによる血管拡張術,すなわち経皮経管的血管形成術(percutaneous transluminal angioplasty, PTA)であった.閉塞性動脈硬化症による重症下肢阻血の唯一の治療法が下肢切断術であった当時,カテーテル1本でこれを治療できるPTAの登場は画期的であったが,米国内ではほとんど顧みられなかった.しかしこれに注目したのが,ドイツの放射線科医グリュンツィヒ(Andreas Roland Grüntzig, 1935-85)である.1970年,スイスのチューリッヒ病院に異動したグリュンツィヒはドッターの方法に改良を加えバルーンカテーテルを開発した.1974年,下肢動脈の狭窄の治療に成功し,その後腎動脈狭窄,冠動脈狭窄にもこれを応用した.経皮経肝的冠動脈形成術(percutaneous transluminal coronary angioplasty, PTCA)の第1例は1977年に施行され,37歳男性の前下行枝狭窄を拡張し,1ヵ月後の冠動脈造影で開存が確認された(図23)[7].

グリュンツィヒはその後スイスで169例のPTCAを施行し,1980年に米国アトランタ州のエモリ大学に異動後はさらに精力的に研究を続け,2,500例以上の治療を行うと同時に,多くの講演やトレーニングコースの開催を通じてその普及に尽力し,PTCAは急速に広まった.PTCAは良い成績をおさめたが,長期フォロー例における術後再狭窄が問題となった.1980年代に,血管内に挿入してその形状を保持する血管ステントの開発が長足の進歩を遂げ,PTCA後にステントを挿入する方法が一般的となり,現在に至っている.

現在,狭心症の外科的治療としては,主に一枝病変にはPTCA,二枝,三枝病変にはCABGが選択されている.

関連事項

心臓ペースメーカーの歴史

図24. ハイマンのペースメーカー [1]

図25. ゾルの体外刺激ペースメーカー.胸壁の電極を貼ったが,刺激の度に激痛が走った  [1]

1926年,オーストラリアの麻酔科医リドウィル(Mark C. Lidwill)は,心停止に陥った新生児の心臓に針電極を挿入して蘇生に成功した.これは世界初の心臓ペースメーカーであるが,装置の詳細は不明である.1933年,アメリカの循環器内科医ハイマン(Albert S. Hyman, 1893-1972)は,心臓刺激装置を発明し,artificial pacemakerという名称で特許を申請した.これはペースメーカーという用語の初出であることから,ペースメーカーの祖はハイマンとされるが,ハイマンもその特許の中でリドウィルの先行研究に触れている.ハイマンの装置も残っておらず,少数の写真があるだけであるが,手でハンドルを回してゼンマイを巻き,これを動力として数分間パルス状の出力を発生して,心房に刺した針電極で刺激するものであった(図24).動物実験の記録はあるが,臨床応用については少数例で成功したという本人の言が残されているだけで,詳細は不明である[4].リドウィル,ハイマンの装置の目的は,いずれも不整脈の治療というよりも不慮の心停止の蘇生であった.

1949年,カナダのビゲロウ(Wilfred Bigelow)とキャラハン(John Callaghan)は,低体温法による心停止下手術 を行っていたが,体温を戻しても心拍再開が困難な例があり,そのような場合に心臓を物理的に刺激すると心拍が再開することにヒントを得て電気刺激装置を製作した[2].

1952年,ハーバード大学の循環器内科医ゾル(Paul M. Zoll, 1911-99)は,胸壁上の電極による体外ペーシング装置を製作して完全房室ブロックの治療に成功した(図25).しかしこれは50~150Vの交流を使うもので,電気刺激のたびに胸筋が収縮し,皮膚に激痛が走り,火傷をきたすことから,長期には使用できなかった[5].

図26. (左)初の携帯型ペースメーカーを発明したバッケン(Earl Bakken).後にメドトロニク社を創業.(右) 首にペースメーカーをかけた患者を診察するリルハイ((Walton Lillehei). [1]

ミネソタ大学のリルハイ(Walton Lillehei)(図26)は,先天性心疾患の開心手術を多く手がけたが,術後に一過性の房室ブロックが高率に発生してときに致命的であった.この問題を解決すべく技術者のバッケン(Earl Bakken, 1924-2018)*1(図26)にペースメーカー装置の製作を依頼した.1957年1月,リルハイはFallot四徴症術後に房室ブロックをきたした3歳女児にこれを用い,患者はその後洞調律を取り戻して無事退院した.リルハイはこの装置に細い心筋電極をつなぎ,これを心筋に直接穿刺したが,その後は全例手術時に電極を挿入して,必要に応じてペースメーカーが使えるようにした.また術後症例以外のStokes-Adam症侯群でも体表から電極を穿刺する方法を工夫した.ペースメーカーは,壁面の商用交流コンセントから電源を供給する大型の装置でベッドサイドに固定する必要があった.1957年10月,大規模な停電が発生してペースメーカーを使用できず患児が死亡するという事故が発生した.リルハイは直ちにバッケンに装置の改良を依頼し,バッケンはトランジスタを使用したバッテリー駆動装置を製作した.これは小型,軽量で,患者の肩にかけて持ち運べる初のウェアラブルペースメーカーであった[1-3].

図27. (左) セニング (Åke Senning).初の埋め込み式ペースメーカーを発明した.(右) 靴墨の缶を利用して作ったペースメーカー[1]

現在のような埋め込み型のペースメーカーを初めて作ったのは,スウェーデンの心臓外科医,セニング (Åke Senning, 1915-2000)(図27)と,その同僚で医師でもある技術者エルムクヴィスト(Rune Elmqvist, 1906-96)である.エルムクヴィストはトランジスタを使った小型の装置を開発し,靴墨の缶に樹脂を流し込んで包埋した(図27).初の患者は,ウィルス性肝炎後心筋炎による房室ブロックのため,失神発作を繰り返すラルソン(Arne Larsson)という43歳男性であった.1958年,セニングはこのペースメーカーを患者の前腹壁に埋め込み,電極を心筋に縫合した.装置は順調に作動したが,8時間後に停止してしまった.翌日,予備の装置に交換した.これも1週間後に出力が低下してしまったが,無症状であった[6].この患者は,その後生涯にわたって23個のペースメーカーを使用し,86歳の天寿を全うした.

図28. (左)グレートバッチ(Wilson Greatbatch).初の実用的埋め込みペースメーカーを発明した.(右)ペースメーカー術後.腹壁の皮下に本体が埋め込まれている [J Thorac Cardiovasc Surg 42:815,1961]

これとほぼ同時期,アメリカではバッファロー大学の電気工学者グレートバッチ(Wilson Greatbatch, 1919-2011)が埋め込み式ペースメーカーを発明した(図28).グレートバッチは,心拍記録装置の回路を試作中,部品の抵抗のカラーコードを読み間違えて10kWを使うべきところに1MWの抵抗を入れてしまった.すると,回路は予想外に1秒毎のパルスを発生したが,グレートバッチはこれが心臓刺激に使えると直感した.周囲の外科医に話を持ちかけてもなかなか賛意を得られなかったが,バッファロー病院の外科医チャーダック(William Chardack, 1915-2006)はその価値を見抜いて,もうひとりの外科医ゲージ(Andrew Gage)とともに動物実験でその有効性を確認した.そして,1958年に房室ブロックの72歳男性にこれを植え込むことに成功した.このGreatbatch-Chardack型ペースメーカーは,その後バッケンらのメドトロニク社が製造,販売するようになった.

当時は電池寿命が大きな問題であったが,元メドトロニク社の技術者であったヴィジャファーニャ(Manny Villafaña)が設立したCPI社(Cardiac Pacemakers Inc.)が,従来のNi-Cd電池にくらべて寿命が10倍以上のリチウム電池を使用したペースメーカーを開発した*2.現在もペースメーカーの電源には,リチウム電池が使用されている.

それまで,ペースメーカーの電極は,開胸手術によって心臓の表面から心筋内に挿入,固定する必要があった.しかし1958年,ニューヨークの心臓外科医フルマン(Seymore Furman)は,電極を経皮経静脈的に右心室内に挿入し,心腔内から刺激する画期的な方法を考案し,これによって開胸手術が不要となり,ペースメーカーは急速に普及した[8].

*1 バッケン:バッケンはミネソタ大学で電気工学を学んだあと,病院の医療機器のメンテナンス,修理,スタッフ教育などを担当する仕事に従事し,1949年に義兄のハーマンズリー(Palmer Hermundslie)とともに,ミネアポリスでメドトロニク社(Medtronic)を創設した.社屋はハーマンズリーの自宅の小さなガレージであった.1957年にバッケンが初めて作ったバッテリー駆動のペースメーカーは,一般向け雑誌Popular Science誌に掲載されていた電子メトロノームの回路に手を加えたものであったという.メドトロニク社は,このペースメーカーを手始めに躍進し,現在は世界最大の医用電子機器メーカーとなっている.

*2 セニングが発明した世界初のペースメーカーは,ニッケル-カドミウム電池が使用されていた.バッケンらの装置は,亜鉛ー水銀電池であった.メドトロニク社のヴィジャファーニャは,当時開発されたばかりのリチウム電池の使用を提唱したが,その安定性に疑問を抱いたバッケンの反対にあい,独立してCPI社を創立してリチウム電池を使用したペースメーカーを発売した.両社の間には係争が巻き起こったが和解し,その後メドトロニク社をはじめ各社がリチウム電池を採用した.このリチウム電池は,陽極にリチウム,陰極にヨウ素を使用したものであったが,その後陰極に異なる物質を使用する様々なリチウム電池が開発された.ヴィジャファーニャは,PCI社を製薬企業イーライリリー社(Eli Lilly)に売却し,その後人工弁を作るセントジュードメディカル社(St. Jude Medical,現Abbott)を創立した[7].

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