- 腹部外科学の歴史
- 胃癌
- 直腸癌
- 関連事項: 器械縫合の歴史
- 虫垂炎
- 胆石
- 原著論文: 1882 初の胆嚢摘出術
- 膀胱結石
- 関連事項: 膀胱鏡の歴史
腹部外科学の歴史
胃癌
初めて胃癌手術の記録は,1879年にペアン鉗子に名前が残るペアン(Jules Péan, 1830-98)による幽門癌切除術であるが,手術時間2時間30分,術後5日目に死亡した.翌1880年にはポーランドのライディンガー(Ludwig Rydingier, 1850-1920)が幽門部癌を報告しているが,手術時間4時間,12時間後に死亡した[1].
初めて胃癌手術に成功したのは,ウィーン総合病院の外科医 ビルロート(Theodor Billroth, 1829-94)である(図1).ビルロートはペアンの症例を承知しており,入念に動物実験を繰り返し,安全に切除できることを確認して手術に臨んだ.1881年1月29日,43歳女性の末期幽門部癌をクロロホルム麻酔下に手術し,胃遠位1/3を切除した(図2).手術時間は1.5時間であった.患者は術後第22病日に退院し,その後日常成果疑いを送るまでに回復,4ヵ月後の5月24日に肝,大網転移で死亡したが,史上初の胃癌手術成功例である.ビルロートはその後1890年までに41例の胃癌を手術し19例に成功した.これに刺激され,欧米の各施設で胃癌手術が試みられるようになったが,成績は芳しくなく,1881~95年のヨーロッパでの胃癌の直接死亡率は54.6%という報告もある[2].
しかし,ビルロートの後継者は術式の改良を重ね,とくにその一番弟子で1881年の初の胃癌手術では助手もつとめたミクリッツ(Jan Mikulicz-Radecki, 1850-1905)は,1892~95年の手術成績について,直接死亡率16.2%と報告している.その後ミクリッツは胃癌の進展様式を研究し,局所進展,リンパ行性,血行性,腹膜播種の4つの経路があると考えた.これは現在と同じ考え方であるが,局所進展については肉眼形態に関する研究が行なわれ,ミクリッツの弟子のボールマン(Borrmann)はミクリッツの手術標本をもとに,1901年に有名なボールマン分類を発表した*.リンパ行性進展については,リンパ節廓清が必要となるが,この範囲をいかに設定するかはその後の大きな課題となった.1903年,ミクリッツはアメリカに招かれて講演を行ない,これはアメリカの胃癌治療の端緒となって,その後ジョンスホプキンス大学のマーフィー(John Benjamin Murphy, 1857-1916),セントメアリー病院のメイヨー兄弟(William J. Mayo 1861-1939, Charles H. Mayo 1865-1939)らが先進的な胃癌手術を多く手がけて発展させた[1-3].
日本では,1897年に東京大学外科の近藤次繁(つぎしげ)により初の胃切除が行なわれ,1899年に6例を報告している.1898~1900年,ミクリッツのもとで学んだ九州大学の三宅速(はやり)が,胃癌の進展様式やリンパ節廓清の考え方を広め,1928年に出版した「胃癌」には1,670例の手術症例がまとめられ,その後の胃癌治療に大きな影響を与えた.ボールマン分類やミクリッツ分類を広めたのもこの教科書であった.
欧米,とくにアメリカと日本では,胃癌手術の考え方に大きな隔たりがあった.アメリカでは切除範囲を拡大することにより局所再発を減らすことに主眼がおかれ,幽門部限局胃癌でも胃全摘を行ない,あるいは脾,膵尾部,大網など他臓器合併切除も行なわれた.この考え方は乳癌において,ハルステッドが想定した古典的な腫瘍拡大様式であるが,アメリカでは1960年以降,フィッシャーの研究 を発端としてこの考え方が根本から覆され,乳癌は初期から全身疾患であるという考えのもとに,局所リンパ節を制御をしても予後改善につながらないこととして縮小手術に向かった.そして,胃癌にもこの考え方が適用された.この結果,リンパ節廓清に重点がおかれなかった.
これに対して日本では,リンパ節廓清に主眼をおいた研究が進められ,胃全摘や他臓器合併切除は避ける方向にあった.日本の胃癌手術の考え方の基本は,系統的なリンパ節廓清による根治で,原発巣から所属リンパ節に転移し,また次のリンパ節へと転移してゆく癌細胞を拡大を手術により阻止しようとするものである.日本では,リンパ節廓清範囲が予後と密接に結びつくという考えから,進行胃癌に対しては腹腔動脈,肝動脈,脾動脈周囲のリンパ節(8~12)を含めるD2廓清が標準となった[2-4].またこれと並行して,千葉大学の白壁らによる独自の胃二重造影法の発達や,これを利用した集団検診の普及により,早期胃癌が数多く発見されるようになり,このような癌に対しては,幽門保存胃切除術など縮小手術も積極的に開発された.
* 初報は1901年であるがこれが広く知られるようになったのは1926年に出版されたHenke-Lubarschの教科書によるものであった[5,6].ミクリッツも,胃癌を限局型(1型),中間型(2型),びまん型(3型)に分類している(ミクリッツ分類).
- 1. Ellis H. The Cambridge illustrated history of surgery. (Cambridge University Press, 2009)
- 2. 佐野武. 胃癌手術の変遷とそのエビデンス. 日臨外会誌 80:1771-8,2019
- 3. 田渕崇文. 胃癌手術-温故知新. 東医大誌 73:221-30,2015
- 4. 杉沢徳彦, 寺島雅典. 胃癌外科手術の変遷. 2014. GI-pedia. https://www.gi-cancer.net/gi/gi-pedia/
- 5. Borrmann R. Das Wachstum und die Verbreitungswege des Magencarcinoms vom anatomischen und klinischen Standpunkt.(Gustav Fischer, 1901)
- 6. Borrmann R. Geschwttlste des Magens und Duodenums. Handbuch der speziellen pathologischen Anatomie und Histologie. (Springer,1926)
- 7. Billroth T. Chirurgische Klinik 1860-1876 (1881)
直腸癌
最初期の直腸癌手術は会陰式手術(perineal approch)で,1826年,フランスのリスフラン(Jackques Lisfranc, 1790-1847)の手術が初例とされ,その後も9例を報告している.これは会陰から肛門,直腸下部を切断するもので,直腸断端は会陰部に開放して完全な失禁状態となる.その後,ロックハート=マメリー(John Percy Lockhart-Mummery, 1875-1957)が開発した方法は,開腹して結腸ストーマを造設し,次いで会陰から直腸を切除する方法で,短時間で手術可能で,1930年代まで欧米で標準的な手技となった[1-4].
ドイツのツェルニー(Czerny)は,下腹部と会陰の双方から直腸を切断する腹会陰式手術を初めて行なった.イギリスでも当初は会陰式が主流で,聖バーソロミュー病院のマイルズ(Ernest Miles, 1869-1947)(図3)も短期的には良い成績をおさめたが,1899年から1906年に手術した57例中95%に早期再発があり,剖検では骨盤内,腸間膜,左総腸骨動脈リンパ節への転移が認められた.この経験から,マイルズはツェルニーの方法に改良を加えた根治的腹会陰式手術(Miles' operation)を提案した.これは直腸,S状結腸,周囲のリンパ節を広範囲に切除し,結腸断端を人工肛門とする方法で,その後様々な改良が加えられて現在も標準術式のひとつである(図4)[2].
1874年,ドイツのコッヘル(Theodor Kocher,1841-1917)は,背部から直腸を切除する後方切除術(posterior approach)を試み,さらに1885年にはクラスケ(Paul Kraske, 1851-1930)がこの方法を完成した.これは臀部傍正中を切開し,尾骨,仙骨下部を切除して背側から直腸腫瘍を切除し,結腸と断端を吻合する方法で,その後広く行なわれ,クラスケは1000例中死亡率11.6%,5年生存率30%と報告している.肛門は温存されるが,創感染など合併症が多く,直腸平滑筋は切断されるため排便機能は不良であった.
これに対して,肛門機能温存手術の可能性が追及されるようになった.1930年,ウェストヒューズ(H. Westhues),デュークス(Cuthbert E. Dukes)がそれぞれ独立に,直腸癌は上方進展が種で下方進展は少ないとする報告を行ない,これが理論的裏付けともなった.1939年にバブコック(William Wayne Babcock),1945年にベーコン(Harry E. Bacon)が貫通法(pull-through法)を提唱し,1948年にスウェンソン(Orvar Swenson)がHirschsprung病に考案した重積法も直腸癌に利用されるようになったが,なお排便機能の維持は不良であった[3].
現在主流の前方切除術(anterior approach)は,1897年にクリップス(Cripps)が最初に行なったが,その後は会陰式が主流となって顧みられなかった.しかしその後の手術手技,化学療法の発達に伴い,1939年にディクソン(Claude Dixon)があらためてこれを導入した.その後,さまざまな改良を重ねて前方切除術が普及した背景には,器械縫合装置の発達がある.狭い骨盤底で可動性に乏しい直腸断端と結腸を吻合することには困難が伴い,縫合不全が多発する原因であった.1970年にソビエト連邦のアンドロソフ(Androsov)がステープラー方式の縫合装置を開発し,安全確実な吻合が可能となりより低位の病変についても前方切除が可能となった[3].
- 1. Ellis H. The Cambridge illustrated history of surgery. (Cambridge University Press, 2009)
- 2. Morgan CN. Carcinoma of the rectum. Ann R Coll Surg Engl 36:73-97,1965
- 3. 安富正幸, 森川英司. 機能温存を指向した直腸癌手術の変遷. 日本大腸肛門病会誌 45:1107-12,1992
- 4. Inoue Y, Kusunoki M. Resection of rectal cancer: A historical review. Surg Today 40:501-6,2010
関連事項
器械縫合の歴史
軟部組織の縫合に初めて金属ステープルを使用したのは,1907年,フランスのJeannelで,非吸収性異物の体内遺残が危険を及ぼさないことを示した.複数のステープルを同時に打ち込んでゆく自動縫合器械(ステープラ-)を初めて開発したのはハンガリーの外科医フルトル(Hümér Hültl)で,技術者のフィッシャー(Victor Fischer)とともに初のステープラを製作した.これは,U型のスチールワイヤで4列のジグザグ縫合を行なうもので,1908年5月9日に初めて胃癌の症例に対して臨床に供された.このHütl-Fischer式ステープラー(図5)は,重量3.5kg,100以上のパーツからなる複雑な構造であった.使用後はメーカーに返送し,2時間かけて再装填する必要があった.また大きいため,創部に適切な角度に保持することも難しかった.しかし,このような数々の欠点にも関わらず,ステープラーはおもにハンガリー,ドイツの外科医に広く受入れられた.
様々な改良が加えられたが,中でも大きく貢献したのがハンガリーの外科医でフルトルの指導も受けたペッツ(Aladar Petz)である.1921年にペッツが発表した装置(図6)は,重さ1.5kg,10個のパーツから成り,1mmのニッケル銀合金のステープルで2列の縫合が得られた*1.これはドイツのJetter & Scheere社から「Aesculap」の商品名で製造販売されてハンガリー,ドイツで広く使用された.
ペッツのステープラーは,いったん使用すると再装填してあらためて消毒する必要があり,術中に1回しか使用できなかった.1934年,ドイツのフリードリヒ(H. Friedrich)は,ステープルを事前に装填したカートリッジを術中に交換できる装置を発明し,普及に大きな役割を果たした.ペッツ式ステープラーは1960年代なかばまで広く使用された.
一方,ソビエト連邦では,第二次世界大戦に際して激増する戦傷による血管損傷に対応べく血管縫合器械の研究が進められ,1945年に技術者のグドフ(Vasiliy Gudov)が初の血管用ステープラーを開発し,1951年にはグドフを長とする実験的外科器械研究所が創設された.それまで,血管損傷の治療には血管結紮が行なわれていたが,アンドロソフ(Pavel Androsov)らは,血管縫合ステープラーを血管外傷,動脈瘤などの血管疾患に広く応用した.血管縫合だけでなく,気管支,消化管など他の領域の器械縫合も発展した.1957年,アンドロソフはその成果を米国ニュージャージ州で開かれた国際血管学会で発表し注目を浴びた.
1958年,アメリカの外科医が血液銀行制度の視察を目的にソ連を訪れた.団長はジョンズホプキンス大学のラヴィッチ(Mark M. Ravitch)は,ロシア移民の家系でロシア語に堪能であった.結局,血液銀行の見学は許されなかったが,最初に訪れたキエフで外科医のアモソフ(Amosov)が胸部外科手術を供覧した際,胸部術創の金属ステープルを初めて目にした.ラヴィッチはステープラーの購入を希望したが拒否された.モスクワを経てレニングラードに移動した一行はここでアンドロソフに出会い,やはり購入を断わられたが,ラヴィッチはなんとかこれを入手した*2.
1959年,ラヴィッチはこのソ連製ステープラーを使用した気管支縫合の経験を発表し,1963年までに136例の症例を積み重ねた.ラヴィッチは米国内での製造,普及をめざして実業家ヒルシュ(Leon Hirsch)の協力を仰いだ.ヒルシュは1964年にUnited States Surgical Corporation (USSC)*3を設立し,ソ連のステープラーをもとに新たな製品を開発した.これはステープラー本体と,ステープルを装填したカートリッジの2つからなるシンプルな構造で,様々なサイズのステープルを使用できた.これはAuto Sutureの商品名で販売され,TA (Thoracoabdominal)モデル,GIA (Gastrointestinal anastomosis)モデルは広く普及した(図8).USSC社は,外科医に使用法を実際にデモして説明できるセールスマンを数多く教育して納入先の病院に派遣し,その普及に努めた.この結果,器械縫合は米国内のみならずヨーロッパにも急速に普及した.とくに1990年代に入り,腹腔鏡下手術の拡大に伴って器械縫合は必須の技術となった.
*1 ペッツが1921年の第8回ハンガリー外科学会で発表したとき,フルトルは自分の革製眼鏡ケースでこれを試し,「こっちの方が良い!」と行ってかつての弟子の発明を賞賛したという[4].
*2 なぜ入手できたかは定かでない.たまたまカフェでであって意気投合した若い医師が,ステープラーを販売している医療器械店を紹介してくれたというエピソードが伝えられているが,当時の社会状況から真偽のほどは不明である.
*3 USSC社は,ステープラーの製造販売により莫大な利益を上げた.1980年代には一時期,強引,違法な販売方法が問題となったが,その後も様々な手術器械の開発を続け躍進した.しかし1990年代になると他社との競合などから経営が傾き,1998年にTyco社(現Covidien社)に買収され,Hirschも退任した.
- 1. Gaidry AD, Remblay L, Nakayama D. The history of surgical staplers: a combination of Hungarian, Russian, and American innovation. Am Surgeon 85:563-6,2019
- 2. Akopov A, Artioukh DY. Surgical staplers: the history of conception and adoption. Ann Thorac Surg 112:1716-21,2021
- 3. Vijgen GHEJ. Surgical stapler. Br J Surg 110:1125-7,2023
- 4. Robicsek F. The birth of the surgical stapler. Surg Gynecol Obstet 150:579-83,1980
虫垂炎
虫垂炎は古代からあり,エジプトのミイラにもその痕跡がある.ローマのガレノスは,大腸の疝痛は右下腹部に多く,しばしば繰り返すと記載している.虫垂を初めて記載したのは,1522年,イタリアのボローニャ大学の外科教授であったダ・カル ピ(Berengario Da Carpi)とされる.解剖学の父 ヴェサリウス (Andreas Vesalius)の解剖学書には虫垂の図があるが,ヴェサリウスはこれを盲腸(coecum)としている(図9).その理由は,本来の盲腸は3方向に交通があるが,虫垂は真の盲端であるからとしているが,この記載はその後の命名に関する混乱の一因となった[1].
1755年,虫垂炎を初めて医学的に記載したのは,イギリスの外科医ハイスター(Lorenz Heister)の報告で,剖検にて黒変,腫大した虫垂が腹膜に癒着,内部から膿の排出を認め,虫垂膿瘍と診断した.1830年,ドイツのゴルトベック(Goldbeck)はその学位論文「右腸骨窩の炎症」で,虫垂炎の症状を詳細に記載しているが,病変の主座は盲腸であると考え,これをperityphlitis, epityphlitis, endotyphlitisに分類した(τυϕλόν=typhlon,ギリシア語で盲腸の意).
初めての治療成功例は1848年,イギリスのハンコック(Henry Hancock)によるもので,症例は30歳女性,妊娠8ヵ月で右下腹部痛を訴え流産したが,開腹すると膿と気泡が噴出し,数週後に糞石が排泄された.その後の経過は順調であった.当時腹膜炎は致命的と考えられていたが,ハンコックはこの症例をもって,腹膜炎でも治療できる可能性があるとした.しかし,その後も積極的な治療が行なわれることはなかった.
1886年,アメリカの病理学者フィッツ(Reginald Heber Fitz, 1843-1919)(図10)は,穿孔性虫垂炎257例を報告し,右下腹部の膿瘍が盲腸ではなく虫垂に由来するものであるとして,虫垂炎(appendicitis)の名称を提唱し,早期診断,外科治療の必要性を強調した.これを受けて翌1887年には,フィラデルフィアのモートン(Thomas Morton)が初めて虫垂炎を術前診断し,膿瘍ドレナージ,虫垂切除術に成功した.その後アメリカでは虫垂炎への関心が広まり,1889年,ニューヨークのマクバーニー(Charles McBurney, 1845-1913)(図11)はMcBurney圧痛点(前腸骨棘と臍を結ぶ線上1.5ないし2インチ)を記載し,筋間手術法(muscle-splitting approach)を考案した.マーフィー(John Benjamin Murphy)は,臍周囲痛に始まって,嘔吐,右下腹部痛に進む特徴的な臨床経過(Murphy's sequence)を報告した[1,2].
イギリスでもほぼ同時期,外科医のトレヴィス(Frederick Treves)が1887年に虫垂炎の手術を報告している[1-3].この症例は34歳男性で,虫垂炎症状を繰り返しており,トレヴィスは当初虫垂切除を予定していたが,虫垂が腸間膜に軽度癒着していたため,これを剥離して屈曲した虫垂をまっすぐにして閉腹した.術後は経過は順調で症状は消失した.トレィヴィスは1901年までに1,000例の虫垂切除を行なった.1902年6月24日,国王エドワード7世が戴冠式の2日前に虫垂炎を発症し,トレヴィスが手術して,7週間後に無事戴冠式に臨むことができた*.これを機に虫垂炎の手術が一般にも広く知られるようになった.
* この時国王は,いったんは手術を拒否して戴冠式が行なわれるウェストミンスター寺院に行くと言い張ったが,トレヴィスが「屍体になって行くことになりますよ」と言って手術させたという.トレヴィスは,「エレファントマン」のモデルとなったジョセフ・メリック(Joseph Carey Merrick, 1862-90)がロンドンの見世物小屋で晒し者になっているのを見つけて保護し,その晩年を手厚く援助したことでも知られる[3].
- 1. Collins D. Historic phases of appendicitis. Ann Surg94:179-196,1931
- 2. Streck CJ, Maxwell PJ. A brief history of appendicitis: familiar names and interesting patients. Am Surg 80:105-8,2014
- 3. Ramachandran M, Aronson JK. Frederick Treve’s first surgical operation for appendicitis. J R Soc Med104:191-197, 2011
胆石
胆石は古代エジプトのミイラにも発見されているが(図13),18世紀の病理解剖学の父とされる モルガーニ (Giovanni Battista Morgagni)は20例の剖検例を報告している.1743年,フランスのプティ(Jean-Louis Petit, 1674-1750)は,腹壁膿瘍と診断診断して切開,ドレナージを行なったところ,腫大した胆嚢であることが判明した3症例を報告した.2例は死亡,1例は存命し,数ヶ月後に瘻孔の深部から鳩卵大の結石を摘出した.
1859年,イギリスの内科医トゥディカム(John Thudicum, 1829-1901)は,胆石の化学成分に関する論文を著し,その中で外科手術を推奨し,腹壁に小切開を加えて胆嚢を腹壁に縫合固定し,癒着してからこれを開いて結石を摘出する方法(胆嚢外瘻術 cholecystostomy) を提案しているが,自身は内科医なので実践はしなかった.
8年後の1867年,イギリスの外科医のボブス(Stough Bobbs , 1809-70)(図14)はトゥディカムの論文を知らなかったが,結果的にこの手術を実行した.患者は大きな腹部腫瘤のある30歳女性で,卵巣嚢腫と思われたが,開くと透明な液体が噴出し,40-50個の銃弾程度の大きさの物体が排出された.これはその後の検討でビリルビン結石と判明した.現在の知識では胆嚢の粘液嚢腫(mucocele) であったものと思われる.患者は回復して天寿を全うした.
1882年に胆嚢摘出術(cholecystectomy)を初めて行なったのはドイツの外科医ランゲンブーフ (Carl Johann Langenbuch, 1846-1901)(図14)である(→原著論文).ランゲンブーフは1877年に初の腎摘術にも成功している.彼はゾウやウマには胆嚢がないことから*,摘出しても問題がないと考え,まず屍体で入念な実験を行ない,肝下縁と腹直筋縁に沿ってT字型切開を加え,胆嚢管を結紮して胆嚢を摘出する方法を考案した.初の臨床例は43歳男性で,長年にわたって疝痛発作と黄疸を繰返し,モルヒネが必要な状態であったが,この手術によって症状は消失した. ランゲンブーフは胆嚢摘出術を胆石,胆嚢炎の術式として推奨しているが,批判が相次ぎ,その価値が認められて標準術式となったのは1920年代以降であった.
* ゾウ,ウマのほか,ラクダ,シカ,サイ,リス,一部の鳥類(ハト,インコ,ダチョウ)なども胆嚢がない.ラットも胆嚢を欠くがマウスにはある.このような種差がある理由は不明とされる.
- 1. Ellis H. The Cambridge illustrated history of surgery. (Cambridge University Press, 2009)
- 2. Ellis H. The early days of gall bladder surgery. J Perioper Prac 20:151-2, 2010
- 3. Cesarani F. Scenes from the past: multidetector CT study of gallbladder stones in a wrapped Egyptian mummy. Radiographics. 29:1191-94,2009
- 4. Glenn F, Grafe WR. Historical events in biliary tract surgery. Arch Surg 93:848-52,1966
原著論文
【要旨・解説】世界初の胆嚢摘出術(cholecystectomy)を行った記録である.当時,胆石症,胆嚢炎など胆道系疾患は基本的に,食餌療法やモルヒネ投与など内科による保存的治療が基本であり,手術を行うとしても,胆嚢を切開して腹壁に縫合してドレナージを行う胆嚢外瘻術(cholecystostomy),あるいは胆嚢を切開して結石を摘出して再び縫合する胆嚢切開術(cholecystomy),結石除去術(cholelithectomy)が基本であった.胆嚢摘出は侵襲が大きく危険であり,また胆嚢は総胆管が閉塞した場合の安全弁的な役割を果たすと考えられ,胆嚢摘出術は行われていなかった.
著者は,ベルリンのラザルス病院の外科医であるが,自分の病院の幹部が有石慢性胆嚢炎によりモルヒネ依存となり落命したことを機会に,より根治的な治療法を模索した.ゾウ,ウマなどある種の動物には胆嚢がないこと,ヒトでも先天的胆嚢欠損の例があることから,胆嚢の存在は不可欠ではないと考え,実験でその妥当性を検証した.術式は,右上腹部の肝縁,腹直筋外側縁に沿って,それぞれ15cmのT字型の切開を加えて胆嚢を露出し,胆嚢管を結紮して胆嚢を切除することが最適と考えられた.
初の症例は43歳男性で,十数年前から胆石の疝痛発作を繰り返し,次第に黄疸が出現,モルヒネ依存状態であった.予後不良と考え,この新しい術式を患者に提案し,患者はこれに同意した.1882年7月15日,予定通りの胆嚢摘出術を行い,翌日から症状は消失,7月27日に離床,9月初旬に退院した.
著者は,胆嚢摘出術は開腹手術の中では最も低侵襲なものであり,他の胆嚢疾患にも考慮すべきであると結論している.
しかしこの論文が発表されると,ヨーロッパ,アメリカいずれに置いても批判的な意見が相次いだ.この時代,無菌手術法の確立とともに手術症例数は格段に増えたが,胆嚢手術の主流は依然として胆嚢外瘻術であり続けた[1-3].しかし徐々に胆嚢摘出術の有用性が認められるようになり,論文発表から35年を経た1917年,初期には胆嚢摘出術を強く批判していたアメリカのメイヨー(William Mayo)もその利点を全面的に認める論文を著した[4].1924年に初の 胆嚢造影 が報告され,胆嚢のX線検査の進歩とともに無症候性胆石の存在も明らかとなり,1930年以降,胆嚢摘出術は胆石症,胆嚢炎の基本的な手技として確立して現在に至っている.
- 1. Ammon HV, Horman AF. The Langenbuch Paper. I. An historical perspective and comments of the translators. Am Gastroenterology 85:1426-30,1983
- 2. Glenn F, Grafe WR. Historical events in biliary tract surgery. Arch Surg 93:848-52,1966
- 3. Halpert B. Fiftieth anniversary of the removal of the gallbladder. Carl Langenbuch - "Master surgeon of the biliary system" 1846-1901. Arch Surg 25:178-82,1932
- 4. Mayo CH. The relative merits of cholecystostomy and cholecystectomy. Surg Gynecol Obstet 24:281-4,1917
膀胱結石
膀胱結石は古代から存在し,最古の結石とされるのは紀元前4,800年,エジプトの共同墓地に埋葬されていた推定16歳の少年の遺体から発見された,約6.5cmの結石である.ヒポクラテス全集*やガレノスの著作にもその症状が記載されている.
結石の外科的治療は,会陰切開法(perineal approach),恥骨上切開法(suprapubic approach),経尿道法(transurethral approach)に大別される[2-4]
* ヒポクラテス全集は,膀胱結石の診断,症状についてかなり詳述しているが,「誓詞」(ヒポクラテスの誓い) には「砕石術は行なわない.これを専門家の手に委ねる」と書かれている.この意味については諸説あるが,その背景には手術をすれば病状が悪化する可能性が大きく,「害のあることは行なわない」 姿勢の表われと解釈できる.また当時既に,砕石術を専門に行なう職種が存在したことが示唆され,膀胱結石が一般的な疾患であったこともうかがえる[1].
会陰切開法 (perineal approach)
古くから最も広く行なわれた方法で,ギリシア,ローマ,アラビア,インドなどの古代医学にも記載がある.1世紀頃,ローマの ケルスス (Celsus, 紀元前25~紀元50)の記載では,9~14歳の小児が対象で*1,事前に歩行,跳躍により結石を膀胱頸部に落とした上で,大人が膝の上に抱きかかえて股を開いた状態で手術する(図15).術者は左手の指2本を肛門から挿入し,右手で下腹部を圧迫し,左の指で結石を触れてこれを会陰におしつけて隆起させる.ここで肛門の腹側に切開を加えて膀胱頸部に達し,直腸内の指で結石を押しだし,鉤を使って摘出する.傷口は油を浸した布で塞ぐ.出血が続く場合は,塩を混ぜた強い酢の中に患部を浸した.肛門を損傷することも多く,術後の尿失禁,便失禁も多かった.このケルスス法 (Methodus celsiana)は,必要な器具がメスと鉤だけで簡便であることから minor operation とも呼ばれ,その後も16世紀半ばまで広く行なわれた.
中世ヨーロッパでは,医学校,大学で学問としての医学を学んだ医師は専ら内科医であり,外科処置を行なうのは職人階級の 理髪外科医(barber-surgeon)であった.理髪外科医が行なう手技は,簡単な外傷の手当,皮膚腫瘍の切除,瀉血などであったが,中には高度の手術を専門にする理髪外科医も登場した.特に,膀胱結石の手術は難易度の高い手技であり,これを専門に扱う理髪外科医が登場した.1520年,イタリアの理髪外科医ロマニス(Franciscus de Romanis of Cremona)が行なった膀胱結石の治療法は,これを弟子のマリアヌス(Marianus Sanctus)が記載したためマリアヌス法(Marian operation)と呼ばれる.これはまず尿道に有溝ゾンデを挿入し,会陰正中を切開して尿道を開く.ゾンデの溝をガイドとして拡張器を挿入して創を拡げ,前立腺から膀胱頸部に達し,2~4枚のブレードがある結石鉗子を使って結石を取り出す.結石が大きいときは大きな鉗子で砕石してから取り出す.この方法はケルスス法と異なり様々な器具を使用することから major operation とも呼ばれた.死亡率は高く,無事生き永らえても,失禁,化膿,性機能障害が多発した.清教徒革命後の王政復古期の英国に活躍し英国海軍の父とも呼ばれる政治家ピープス(Samuel Pepys, 1633-1703)は,この手術を受けて無事回復した幸運な例とされる*2.この方法は17世紀末まで好んで行なわれた.
17世紀フランスの有名な理髪外科医,フレール・ジャック(Frère Jacques, "修道士" ジャック,本名 Jacques Beaulieu, 1651-1719)(図16)は,聖職者ではなかったが修道士の装束をまとった巡回外科医で,結石治療の名医とされた.その手術法は側方会陰切開法(lateral perineal approach)で,正中を避けて坐骨結節の2横指内側を切開し,尿道から挿入した無溝ゾンデをガイドとして肛門に沿って創を拡張,指で結石を触れ,鉗子を膀胱内に入れて摘出するものであった(図17).当時の国法ルイ14世の勅許も得て,パリでの施術は評判を呼び多くの観衆を集めるほどであったが,患者は相次いで死亡し,パリを去らざるを得なかった.その後も各地で施術を行ない浮沈の激しい人生であったが,その生涯に4,500人の膀胱結石,2,000人のヘルニアを手術したという.イギリスの チェゼルデン(William Cheselden, 1688-1752)は,さらに研究を重ねてこの方法を完成させた.チェセルデンの手術はきわめて迅速で,切開から結石除去まで1分以下,最短は54秒,死亡率6%という好成績をあげ,名医として名を馳せた.
当時の手術はもちろん無麻酔で消毒法もなかったことから,激痛に耐える必要があり,出血や感染による死亡率も高かった.それでも手術を希望する患者が多かったことから,いかに膀胱結石の症状が辛いものであったかを窺い知ることができる.手術時は患者を抑えつける屈強な助手が4人必要で,2人が両上肢を,あとの2人が一方の手で膝,もう一方の手で足を抑えて手術した*3.
*1 対象を小児に限ったのは,長ずるにつれて前立腺が大きくなり手術が難しくなるためである.19世紀まで,膀胱結石は特に小児に多い疾患であったが,現在は稀である.その理由は不明であるが,食餌の内容によるものと推測されている.成人の膀胱結石も非常に多かったが,これも食餌や酒の品質に加え,入浴や清拭の習慣もない当時は外陰部の不衛生から尿路感染症が多かったためと思われる.
*2 ピープスは,子供の頃から結石に悩んでいたが,疼痛がひどくなり,1658年3月26日,外科医ホリア(Thomas Hollier)が会陰式マリアヌス手術によりテニスボール大の結石を摘出した.術後は順調に回復し,喜んだピープスは結石を保管する高価なケースを特注し,毎年3月26日には祝いの席を設けたという.ピープスは詳細な日記を残しており,当時の政治社会状況を知る貴重な資料とされるが,この中に病状も詳しく書かれている[4].
*3 オランダの医師テュルプ(Nicolaes Tulp, 1593-1674)の著書「医学観察記」(Observationes Medicae, 1641)には,アムステルダムの鍛冶屋ヤン・デ・ドート(Jan de Doot)が自らの膀胱結石を,会陰切開により摘出したエピソードを紹介している.ヤン・デ・ドートは長年膀胱結石に悩まされ,既に2回手術を受けていたが再発し,,30歳のとき,余りの辛さから見よう見まねで自ら手術することを決断した.徒弟一人を助手として陰嚢を挙上させ,自らの会陰部をナイフで切開し,指を入れて4オンス(約100g),鶏卵大の結石の除去にに成功したという.その後,傷口は外科医に縫合させたが,その後何年も排膿があった.1655年,画家のサヴォイエン(Carel van Savoyen)は,結石を手にするヤン・デ・ドートの肖像画を描いている(図18)
恥骨上切開法 (suprapubic approach)
高位手術 high operationとも呼ばれ,膀胱を拡張させた状態で,下腹部に正中切開を加えて膀胱壁を露出,切開する方法で(図19),これを初めて行なったのはフランスのフランコ(Pierre Franco, 1500?-1561)とされる.新教徒のフランコはフランスを逃れ,スイスのローザンヌで3歳男児の結石を会陰法で摘出しようとした際,巨大であったため摘出できず,止むを得ず恥骨上切開で摘出に成功した.現在では基本的な術式であるが,ヒポクラテスは,膀胱に直接手を加えると尿が腹腔に流出して致命的としており,以来誰も試みなかった方法で,フランコ自身もこれを推奨しなかった.
1717年,Douglas窩に名前が残るイギリスの外科医ダグラス(James Douglas)は,骨盤底の解剖を研究したが,さらに弟のJohn Douglasは,膀胱が拡張していれば腹膜外で膀胱を開放できることを確認し,1719年に手術に成功,翌1720年に著書を出版した.この方法は従来法にくらべて失禁,瘻孔,性機能障害が少なく優れた方法とされた.チェセルデンも一時期この方法を推奨したが,腹膜,腸管損傷などの合併症を経験した後にこれを放棄し,会陰式に回帰した.この方法が再び行なわれるようになったのは,麻酔,無菌手術が確立した19世紀末であった.
経尿道法 (transurethral approach)
経尿道的砕石術は,古代エジプトでも親指大の木管を挿入,直腸内の指で管におしつけ吸い出したとの記載があるが,一般的なものではなかった.その後も,自ら尿道に釘をいれて,ハンマーで叩いて砕いたという記述があり,英東インド会社の将軍として活躍したマーティン(Claude Martin, 1735-1800)は,1782年に自ら尿道に弯曲した金属棒を挿入し,9ヵ月かけて砕石したという.
初めて本格的にこの方法を本格的に研究したのは,フランスの外科医シヴィアール(Jean Civiale, 1792-1867)である.シヴィアールは医学生の頃から砕石法を研究し,1824年に自ら発明した器械を用いて手術に成功した.これはTrilabeと呼ばれる器具で,金属製の外筒,内筒からなり,内筒の先に3本の鉗子がついており,これで結石を捉え,外筒に引き戻して固定した状態で,内筒から先端の鋭い棒を挿入して結石に小孔を穿ち粉砕する.ウルトゥルー(Charles Heurteloup, 1793-1864)も同様な器具 Perce-Pierreを考案したが,これは結石内をくり抜く方式で,1829年に渡英してこの方法を紹介した(図20).
イギリスの外科医トンプソン(Henry Thompson, 1820-97)は,フランスのシヴィアールの下で経尿道法を学び,独自の装置を開発した.1862年,ベルギー国王レオポルド1世が姪にあたるヴィクトリア女王の下を訪れた際に膀胱結石の発作に見舞われた.診察した侍医長ブロディー(Benjamin Brodie)の助言により,ただちに帰国してフランスのシヴィアールを招聘したが治療できず,ついでベルリンのランゲンブーフも呼ばれたがやはり砕石できなかった.ラーゲンブーフはトンプソンを推薦し,トンプソンは万全の消毒のもとに新品の器具を用い,見事治療に成功し,1867年にナイトに叙せられた.さらに1872年,トンプソンは,普仏戦争に敗北後イギリスに亡命していたナポレオン3世の病床に呼ばれた.ナポレオン3世以前から膀胱結石があり,激痛,膿尿に苦しんでいた.トンプソンは2回手術したがまだ遺残結石があり,3回目の手術の前に患者は死亡した*.剖検では,膿腎症が認められ,膀胱全体がほとんど結石状であった.トンプソンはその生涯に数千個の結石を摘出したという[3].
その後様々な器具が工夫され,現在のような2本のクランプで結石を保持してスクリューで砕石する方式が確立した.
* この他にも,膀胱結石に悩んだ歴史上の人物として,ベーコン,ニュートン,ルイ14世(仏),ジョージ4世(英),ピョートル大帝(露),ナポレオン,医師としてはハーヴェイ,シデナム,スカルパなどが知られる.ナポレオンは3時間しか眠らなかったと言われるが,これは膀胱結石による頻尿のためであったとされ,剖検で確認されている.
- 1. Poulakou-Rebelakou E, Rempelakos A, Tsiamis C, et al. “I will not cut, even for the stone”: origins of urology in the hippocratic collection. Int Braz J Urol. 41:26-9, 2015
- 2. Ellis H. The Cambridge illustrated history of surgery. (Cambridge University Press, 2009)
- 3. Ellis H. A history of bladder stone. J R Soc Med 72:248-51,1979
- 4. Riches E. The history of lithotomy and lithotrity. Ann R Coll Surg Eng. 43:185-199,1968
- 5. Riches E. Samuel Pepys and his stones. Ann Roy Coll Surg Eng 59:11-6,1977
- 6. Helmuth T. Suprapubic lithotomy. (Boericke & Tafel,1882)
関連事項
膀胱鏡の歴史
内視鏡の歴史は,ドイツのボッツィーニ(Philipp Bozzini, 1773-1809)が1806年に発明した Lichtleiter(リヒトライター,導光器の意)である(図21).縦に長い本体の内部は隔壁で左右に仕切られており,左側にロウソクがあってこれを鏡で反射させて光源とする.前方に突出した細長い部分を体腔に挿入し,後部のまるい穴から覗いて,隔壁の右側から観察する.挿入する部分は,目的に応じて異なる大きさ,形を選べる.上部はロウソクの煙を逃すための煙突である.ボッツィーニはこれで,膣,女性の尿道/膀胱,直腸,上気道などを観察したらしいが,実際にどの程度見えたのかは不明である[1-4].婦人科医,耳鼻科医は関心を寄せたが,同僚医師からは「おもちゃ」として相手にされなかった.この直後にボッツィーニはチフスで死亡し,実用されることはなかった.
20年後の1826年,フランスのセガラ(Pierre Salomon Ségalas, 1792-1875)が作った装置 speculum urethro-cystique (尿道膀胱鏡)はボッツィーニのアイデアをもとにしたものであったが,より小型である(図22).金属製の円錐部分は内面が磨かれており,その手前の円板状の部分は凹面鏡で,術者が左手にもつ2本のロウソクの光が円錐内面を照らし,凹面鏡で反射して尿道に挿入した金属管の内部を照明する.接眼部の内面は黒く塗られている.セガラはこれで尿道の病変を観察したり,膀胱結石を確認して砕石したとしているが,詳細は不明である[1-3].
本格的な内視鏡の嚆矢は,30年後の1853年,フランスのデゾモー(Antonin Desormeaux, 1815-94)が作った内視鏡で,デゾモーはこれを Endoscope と命名している(図23) .光源はアルコールとテレピン油を燃料とするランプで,上部の屋根は煙突である.当時既に電池,電球は存在したが,まだ電池が大型で実用的ではなかった.体腔に挿入する部分は,さまざまな大きさの金属筒を取付けられ,膀胱,直腸~S状結腸を観察できた.デゾモーが1865年に著した De l'endoscopie (内視鏡について)により内視鏡への関心が高まり,アメリカでは医療器械メーカーも内視鏡を製造販売するようになった.
1854年,ドイツの外科医ミデルドルフ(Albrecht Middeldorpf, 1824-68)は白金線に通電して高温とし,これで組織を焼灼することにより切開,止血する電気焼却法(galvanocautery)を発明した.1867年,ドイツの歯科医のブルック(Julius Bruck, 1804-1902)は,通電した白金線が白熱することから,これを光源として口腔内の観察に利用する方法を考案した(図24).高温の白金線から口腔粘膜を保護するために,これを二重構造のガラス容器に納め,周囲を水で灌流することにより冷却する装置をつくり,これをstomatoscope (口腔鏡)と呼んだ.ブルックはさらにこれを膀胱鏡にも応用することを考えたが,冷却容器を含めた光源は大型のため尿道に挿入することはできなかった.そこでブルックは,これを直腸あるいは膣に挿入し,直腸壁,膀胱壁を介して間接的に膀胱内を照明する diaphanoscopy (透照法)を考案した[5].
1875年,ドレスデンの婦人科医シュラム=フォーゲルザンク(Justus Schramm-Vogelsang)は,このブルックの透照法を利用して,腹壁から婦人科臓器の輪郭を観察する方法を試みて,子宮筋腫と卵巣腫瘍の鑑別に有用であるとしたが,この時助手をつとめた若い医師のニッツェ(Maximillian Nitze, 1848-1906)は,ブルックが創案した体腔内光源を膀胱鏡に応用する着想を得た.またある時,汚れた顕微鏡のレンズを拭いて窓にかざしてみたところ,遠くの景色がレンズの中に倒像として見えることに気づいた.
そこで光学技術者の協力を得て,金属カテーテルの先端に白金線光源を埋込み,レンズで観察する内視鏡を製作した.1877年に「レンズと光源を内蔵した尿道鏡」の特許を得て,さらに医療器械商ライター(Joseph Leiter)と共同で Nitze-Leiter式膀胱鏡を完成し(図25),さらに食道胃鏡も開発した(その後ニッツェとライターは発明の優先権を巡って決裂し,ニッツェと絶縁したライターは,消化器外科医のミクリッツ と食道胃鏡の開発に向かった).しかしこの膀胱鏡は,高価でもありあまり普及しなかった.1878年,アメリカのエジソン(Thomas Edison)が白熱電球を発明し,光源の冷却装置が不要となり,照度も向上してようやく膀胱鏡は実用的なものとなった.ニッツェはその後も膀胱鏡の研究を続け,切除鉗子をそなえて150例の腫瘍を治療した.1889年にはその集大成,"Textbook of cystoscopy"を著した[1-3].
その後さまざまな工夫が加えられ,膀胱鏡は泌尿器疾患の診断,治療に必須の装置となったが,1957年にアメリカのハーショウィツ(Basil Hirschowitz, 1925-2013)が上部消化管ファイバースコープを発明し,その後泌尿器科領域にも応用され,光源もハロゲンランプ,キセノンランプを体外光源として利用できるようになり,内視鏡は日常診療の一部となった.
- 1. Berci G, Forde KA. History of endoscopy. Surg Endoscop 14:5-15,2000
- 2. Sircus W. Frisk E, Craigs B. Milestones in the evolution of endoscopy: a short history. J R Col.ll physicians Ddinb 33:124-34,2003
- 3. 三木誠,相沢卓. 泌尿器科内視鏡の歴史. Jpn J Endourol ESWL. 22:127-39,2009
- 4. Ferrin JW. History of cystoscopy. Url Cuatan Rev 51:218-20,1947
- 5. Zajaczkowski T, Zamann AP. Julius Bruck (1840–1902) and his influence on the endoscopy of today. World J Urol 22:293-303,2004