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ミクリッツ  Jan Mikulicz-Radecki

経歴と業績

ミクリッツ (Jan Mikulicz-Radecki, 1850-1905)

オーストリアのブコヴィナ(現ウクライナ)に,ポーランド系貴族の家に生れた.プラハの音楽学校でピアノを学んだ.1869年に卒業と同時に,ウィーン大学医学部に進んだが,法律家になることを求めた父は学費を出してくれず,当初はピアノ教師として生活費を稼ぐ必要があったが,その後奨学金を得て医学に専念することができた.この頃は,いわゆるウィーン学派の絶頂期で,ミクリッツはビルロート,スコダを初めとする錚々たる医学者の薫陶を得ることができた.1875年に医学部を卒業,外科を志してビルロートのウィーン総合病院外科部門の無給助手となった.助手の仕事は,手術患者の術前診察,検査,術後の病理組織検査などであった.早くも1年目にしてミクリッツは,ビルロートが手術した鼻硬化症(rhinoslcerosis)の病理検査を行ない,鼻硬化症が従来考えられていた腫瘍性病変ではなく炎症性疾患であることを明らかとした*1.ビルロートはミクリッツの才能を高く評価するとともに,音楽愛好家で同じくピアノの名手であったビルロートは,音楽を通じても交流を深めた.

1877年,ミクリッツはウィーン総合病院内に有給の職を得たが,この時期は内反膝,外反膝の治療を研究している.1879年,ミクリッツはヨーロッパ各地の病院を訪れ,イギリスでリスター(Joseph Lister)の無菌法を学ぶ器械を得て以後これを実践した. 1881年には,膀胱鏡 の開発者でもある技術者のライター(Joseph Leiter)とともに食道胃内視鏡を開発した.1883年には世界初の胃癌の内視鏡所見を報告した*2

1882年,ビルロートの下を離れてクラクフ大学外科学教授となった.ここでの業績には,内視鏡の研究,ヨードホルムによる消毒法の開発,胃の手術法の開発がある.1885年には世界初の穿通胃潰瘍の縫合術を行ない,1887年に初めて行なった幽門狭窄に対する幽門形成術(Heneke-Mikulicz法)は,現在もCrohn病などにおける腸管狭窄に対する基本的な手術法のひとつとなっている.

1887年,ケーニヒスベルクのアルベルトゥス大学(Albertus-Universität)に移り,胃潰瘍,胃癌の手術法を発展させた.また1892年に報告した両側耳下腺,顎下腺,涙腺の無痛性腫脹を認めた症例は,その後ミクリッツ症侯群*3として知られるようになった.

1890年にはブレスラウ大学(Breslau-Universität)の外科教授となり,1897年に当時ヨーロッパで最大規模の近代的な無菌手術室を作った.当時の大学病院では多くの見学者が周囲をとりまく大講堂で供覧手術を行なうことが一般的であったが,ミクリッツはこれを廃して無菌的な手術操作が可能な手術室とした.また,消毒した綿製手袋,その後ゴム手袋を導入し,また術前にはアルコールによる手指消毒を徹底した*4.この時期ミクリッツは,胃癌の進展様式 を研究し,局所進展,リンパ行性,血行性,腹膜播種の4つの経路があるとし,その後の胃癌手術の考え方に大きな影響を与えた.ミクリッツは,この他にも大腸癌手術(Paul-Mikulicz法),甲状腺楔状切除術,前立腺切除術,弟子のザウアーブルフ(Ernst Ferdinand Sauerbruch)が開発した陰圧装置を用いた開胸手術など,多くの分野に足跡を残した.1899年に開業したが,貧しい患者からは治療費をとらず,患者の厚い信頼を得た.ミクリッツとそのブレスラウの外科学教室の高名は国外にも広く知られ,アメリカのメイヨー兄弟,クッシング,マーフィーらもらここを訪れている.日本からも後に九州大学教授となった三宅速(はやり)*5がミクリッツの下に学んだ.

1904年,自らの胃癌を診断し,友人の外科医が試験開腹したところ,肝転移を伴う胃癌が確認され,翌年死亡した[1,2].

*1 鼻硬化症は,現在ではKlebisiella pneumoniae の亜型 K. rhinoscleromatisの感染による慢性肉芽腫性病変と考えられている.大多数で鼻腔に発生するが,上咽頭,喉頭,気管に及ぶこともある.アフリカ,南アジア,中南米に多い.大きな空胞を伴う細菌を貪食した組織球(Mikulicz細胞)が認められる.1870年にドイツの皮膚科医ヘブラ ( Hans von Hebra, 1847-1902)が報告し,1876年ミクリッツが特徴的な組織所見を明らかとし,1882年にフリッシュ(Anton von Frisch)が細菌感染であることを証明した.

*2 技術者のライターは,1877年にニッツェ(Nitze)とともに膀胱鏡の開発に成功し,その後食道胃内視鏡も取り組んだが,優先権を巡ってニッツェと決裂したためミクリッツと食道胃内視鏡を開発した.ミクリッツの内視鏡は,臨床応用された初の食道胃内視鏡として内視鏡であったが,硬い金属製(長さ65cm,直径14mm)の硬性内視鏡で実用性には乏しかった.広く臨床応用されるようになったのは,1932年,シントラー(Schindler)による軟性胃鏡の開発以後である.

*3 ミクリッツ症侯群は,その後1933年にスウェーデンの眼科医シェーグレン(Henrik Samuel Sjögren)が再検討し,類似の所見を呈するシェーグレン症侯群の類縁疾患とされ,その疾患単位は不明確なままであったが,2000年代なって全身臓器を侵すIgG4関連疾患の概念が確立し,ミクリッツ症侯群はその一部であることが明らかとなった[3].

*4 ミクリッツは,リスターの防腐法を積極的に導入し,さらにこれを滅菌法にまで進めた.スクラビングによる厳格な手洗い法,手袋着用を推奨した.手術用ゴム手袋は,同時期の1890年にアメリカのハルステッドも(当初は肌荒れ防止を目的として)導入しているが,ミクリッツは滅菌した絹製手袋を使用した.また術中のマスク着用も義務付けた(ハルステッドはまだマスクは使用していなかった).このような現在の手術室では常識的な無菌操作の原理が,このミクリッツの手術室で確立された.

*5 三宅速の留学からの帰国時,日本に向かう船にアインシュタインが乗り合わせており,腹痛を訴えたアインシュタインを診察したことから交遊が続いた.三宅は1945年に空襲で死亡したが,その墓碑にはアインシュタインから送られた言葉が刻まれている.

出典