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ビルロート  Theodor Billroth

経歴と業績

ビルロート (Theodor Billroth, 1829-94)

ドイツ北部のベルゲンに生まれた.牧師であった父は5歳の時に結核で死亡した.子供の頃からピアノを習い,音楽家を志していたが母の希望をいれてGreifswald大学医学部に入学した.しかし,音楽にかまけて勉強に身が入らなかったビルロートを気にかけてくれた外科のバウム教授(Wilhelm Baum)*1についてゲッティンゲン大学に移りここを卒業,1852年にベルリン大学で学位を取得,1853年にシャリテ病院の外科助手となった.

1860年,チューリッヒ大学に移った.ここでビルロートは,甲状腺腫瘍の外科治療に取り組んでいる*2.1867年にはウィーン大学外科学教授に就任した.これは1866年の普墺戦争の直後にあたるが,ウィーン大学はあえて敵国,戦勝国であったドイツからビルロートを招聘したことになる.ビルロートは1870~2年の普仏戦争では,戦傷者の治療にも進んで貢献した.ビルロートにはドイツ外科学を築いた「近代外科学の父」として多くの業績があるが,最大の功績は1881年1月29日,世界初の胃癌手術 に成功したことである*3.これはさらに一番弟子のミクリッツ(Jan Mikulicz-Radecki)により大きく発展した.ビルロートのもとには,アメリカのハルステッド,マーフィーらも訪れ,その最先端の外科学はアメリカにも広まった.ビルロートは,新たな外科教育システムを確立し,外科医を目指す医師はまず動物や屍体で手術手技を学んだ後に,助手として基礎研究を行ない,時間をかけて臨床手技を研讃した.ハルステッドがアメリカで導入したレジデント制度もこれに範をとったものであった.ビルロートはこの他,1872年に食道切除術,1873年には喉頭全摘術を世界で初めて行ない,このほか乳癌,膀胱癌などの手術にも大きな足跡を残している[1-3].

幼少期に本格的な音楽教育を受けたビルロートは,ピアノ,ヴァイオリンの名手であり,生涯を通じて音楽に深い関心を持ち続けた.チューリッヒ大学時代の1865年,演奏会で訪れたブラームス (Johannes Brahms, 1833-97)を自宅に招いたことが縁で,以後深い交友を結んだ.ブラームスは作品の批評をビルロートに求め,また弦楽四重奏曲第1番,第2番はビルロートに献呈されている.3回のイタリア旅行にも同伴して,二人は300通以上の書簡を交わしている.また同じくピアノの名手であった弟子のミクリッツとも,音楽を通じて公私にわたって交流し,ビルロートの自宅でブラームスの音楽を研究したり,ピアノを連弾するなどした.しかし1887年にビルロートが重症の肺炎に罹っていったんは危篤状態となって回復した後,二人の間にははなにかとすれ違いが生まれて疎遠となった.1893年,ビルロートは音楽性と心理学,医学との関連を扱った論文の草稿をブラームスにみせたが,ビルロートの死の直前にブラームスの批判的な手紙が届き,夫人の不興を買った*4.療養先の保養地オパティアで肺炎のため死去したが,ブラームスは葬儀には参列せず,遠巻きにこれを眺めてその死を悼んだ.ブラームスは,1897年に没し,ビルロートと同じウィーンの墓地に埋葬された[4-6].

*1 クループ症例に対して,初の気管切開を行なったことで知られる.ビルロートは,終生バウムを師と仰いだ.

*2 海産物に乏しいスイスはヨード不足による甲状腺腫が多く,巨大甲状腺腫による気道圧迫に対する治療として甲状腺切除が行なわれた.ビルロートはチューリッヒ大学在任中に20例の甲状腺切除を行なったが,死亡率は40%にのぼった.甲状腺全摘に伴う合併症は,その後弟子のヴェルフラー(Anton Wölfler),ミクリッツ(Jan Mikulicz-Racecki)らによる手術法の改良,甲状腺の一部を残す亜全摘により激減した.

*3 胃切除後ビルロートの第1例,第2例の再建術式は,胃の大彎側を縫縮して十二指腸を吻合する anasotomosis oralis superior,第3例, 第4例は小彎側を縫縮する同 inferior,いわゆるビルロートⅠ法(残胃十二指腸吻合)の最初の例であった.残胃と空腸を端側吻合するビルロートⅡ法(残胃空腸吻合)は,1885年に初めて行なわれたもので,この症例は高度幽門狭窄のため腫瘍切除は行なわず胃空腸端側吻合を行なったが,術後経過が良好であったため二期的に腫瘍切除が行なわれた.ビルロートⅡ法は,その後多くの外科医により様々な変法が開発された.なお,ビルロートⅠ法,Ⅱ法という命名は,後のチューリッヒ大学のコッヘル(Theodor Kocher)によるものである[1-3].

*4 死後,音楽学者のハンスリック(Eduard Hanslick)によって "Wer ist musikalish?" 「音楽的なる者」として出版された[4].

出典