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エールリッヒ  Paul Ehrlich 

経歴と業績

エールリッヒ (Paul Ehrlich, 1854-1915) [PD]

プロイセン(現ポーランド)のシュトレーレン(Strehlen)に生まれた*1.ギムナジウム(中等学校)時代に,いとこでワイゲルト染色に名前が残るワイゲルト(Karl Weigert, 1845-1904)が,当時最新の機器であった顕微鏡用の組織切片を作成するミクロトームを所有していたことから組織染色に興味をもった.ワイゲルトはまた,初めて細菌をアニリン色素で染色したことでも知られる.エールリッヒはその後ブレスラウ大学をはじめ幾つかの大学で医学を学んだが,この細胞染色のテーマを温め続け,1877年に大学を卒業,翌年「組織染色の理論と実際について」という論文で学位を取得した.この中で,エールリッヒはとくに血液細胞の染色性を研究し,現在に至る血球分類の基礎を築いた.例えば,現在でも使われている白血球分類,好中球,好酸球,好塩基球を確立したのはエールリッヒである.1878年からベルリン大学シャリテ病院で臨床,研究にあたり,組織染色の研究を発展させた.1882年3月24日,コッホ(Robert Koch)が結核菌の発見を学会で初報した際,これを聴講したエールリッヒは,翌日から結核菌染色の研究に取り組み,数日のうちに現在の抗酸菌染色法とほぼ同じものを開発して,5月1日に発表した(現在使われている結核菌染色法Ziel-Neelsen法は,これをZielとNeelsenが多少改良したものである*2).コッホはこれを高く評価し,その後自らのコッホ研究所に招聘した.

このような組織染色の研究を通じて得られた,特定の物質が特定の細胞や組織に結合するという考え方は,その後のエールリッヒの免疫学,化学療法の研究の基盤となった.1890年から95年までコッホ研究所でベーリング(Emil Behring)と共同でジフテリア毒素の研究を行った.1890年,ベーリングは動物でジフテリアの血清療法に成功したが,臨床応用には至らずエールリッヒに協力を求めた.エールリッヒは血清力価の定量法を開発し,高品質の抗血清を大量に提供して,血清療法の臨床応用への道を開いた.またこの過程で毒素と抗毒素の関係を説明する側鎖説を提唱したが,これはその後現在にいたる免疫学,特に液性免疫の基礎となる概念で,1908年に「免疫学への貢献」に対して,細胞性免疫の提唱者メチニコフとともにノーベル生理学医学賞を受賞した*3

1899年にフランクフルトにエーリッヒのために国立実験治療研究所(Könichliches Institut für experimentelle Therapie)が新設され所長となり,ここで化学療法の開発に傾注した.1906年には,ユダヤ人銀行家ゲオルク・シュパイヤー(Georg Speyer)の未亡人フランツィスカ(Franziska Speyer)の支援で設立されたゲオルク・シュパイヤ研究所(Georg-Speyer-Haus)の所長を兼任した.エールリッヒは既に1891年にマラリア原虫がメチレンブルーで染色されることからこれが治療薬となると考え,2名の患者に投与して改善を認めていた.このような色素による感染症の治療を追求し,1903年には留学中の 志賀潔 とともにトリパノソーマ治療薬トリパンロート (Trypanrot)を開発,さらに1910年には秦佐八郎とともに梅毒治療薬 サルバルサン を開発した.

サルバルサンは特効薬として大きな反響を呼んだが,エールリッヒがユダヤ人であったこともあり,嫉妬も加わってあらぬ批判,中傷を受け,死亡例をめぐっては裁判沙汰にまでなった.裁判には勝訴したが,世俗の雑事に精神的に疲弊して鬱々とした日々を過ごし,まもまく61歳の生涯を閉じた.1933年,ナチが政権につくとエールリッヒに関する資料が焼却され,教科書から名前が消えるなどしたが,戦後あらためてその業績が顕彰され,1947年,国立実験治療研究所はパウル・エールリッヒ研究所と改名された.

エールリッヒは,医学研究については並外れた集中力と閃きを備えていたが,専門外のことには無知を隠すことなく,文学や芸術にも関心を示さなかったという.一方で,当時のドイツの科学者にありがちな尊大な態度は全くみせなかった[1].研究助手をつとめた日本人留学生,志賀潔,秦佐八郎についても,その講演や論文で,対等の立場で彼らの業績を明らかにし,最大限の謝辞を捧げていることにもその一面が現れている.

*1 エールリッヒの誕生日は1854年3月14日,一時期共同研究者でもあったベーリングは同年3月15日で,奇しくもわずか1日違いである.

*2 現在行われてる組織や細菌の染色法のほとんどが,エールリッヒの研究をもとにしたものであるが,エールリッヒの名前を冠した染色法はない.医学用語としてはエールリッヒ試薬に唯一その名前が残る.これは p-dimethylaminobenzaldehydeのジアゾ反応による呈色反応で,現在も尿中ウロビリノーゲンの検出などに用いられる.

*3 エールリッヒの業績はきわめて広範,多彩であるが,主な研究対象は年代順に,1880年代の染色法,1890年代の免疫理論,1900年以降の化学療法の研究に大別できる.1908年のノーベル賞は免疫学の業績に対して授与されているが,これに勝るとも劣らない1910年のサルバルサンを頂点とする化学療法の開発は,少なくとも臨床的にはより大きなインパクトを持つもので,受賞者がその生涯最高の業績を産み出す前に受賞した稀な例とされる.サルバルサン発明の5年後,1915年に病没したが,もう少し長生きしていれば化学療法の業績に対して,2度目の受賞もあり得たかも知れない.

出典