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ポット  Percivall Pott   

経歴と業績

ポット (Percivall Pott, 1714-89)

上流階級の生まれであったが,4歳の時に父が早逝,母は再婚し,遠戚の牧師に預けられて教育を受けた.聖職者になるはずであったが,15歳のとき外科医を志して理髪外科医ノース(Edward Nourse)の下で修行し,22歳で正式な理髪外科医となった.1749年に聖バーソロミュー病院の外科医となり,1787年に手を負傷して引退するまでこの職にあった.自宅では多くの後進を育て,ジョン・ハンター (John Hunter, 1728-93)もそのひとりである.

1736年,ロンドンの凍結路面で転倒した馬から投げ出され,自ら下腿の複雑骨折を受傷した.患部の安静が重要と考えたポットは,人夫に指示して用意させた戸板と長い棒で急ごしらえした担架で自宅に運ばせた.当時複雑骨折の治療は下肢切断が原則で,担当医も手術を奨めたが,かけつけたかつての師でノースが保存的治療を指示し,無事完治した.この長期療養期間中に研究を行い,それまでほとんど論文を書かなかったポットがその後数々の論文や教科書を著すきっかけとなったという.業績はきわめて多岐にわたる.腸管ヘルニアの診断と治療を扱った著書「ヘルニア論」(A treatise on Ruptures, 1756)は名著とされ,骨折の教科書「骨折と脱臼」(Some few general remarks on fractures and dislocations, 1769)は骨折治療の基本書となった.この中でポッツは,骨折は速やかな整復が必要であること,骨片転位は周囲の筋肉の牽引によりおこり,筋肉が弛緩する肢位で固定することが重要であることを強調している.この他,硬膜外血腫,白内障などの論文もあり,またロンドンの煙突掃除夫の陰嚢癌と煤煙の関係を指摘したことも良く知られる.ポット骨折(Pott's fracture, 足関節両果骨折.Depuytren骨折と同義),ポット腫瘍(Pott's puffy tumor, 前頭洞炎に伴う前額皮下膿瘍),ポット病(Pott's disease, 結核性脊椎炎),ポット麻痺(Pott's palsy, 結核性脊椎炎による下肢麻痺)などに名前が残る.

晩年の最も重要な業績は,結核性脊椎炎 に関するものである.当時まだ結核菌の存在が知られておらず,その成因は不明であったが,亀背に対麻痺を合併する病態は広く知られており,対麻痺の原因は,弯曲した脊椎による脊髄の圧迫,あるいは破壊された骨による圧迫などと考えられていた.ポットは,これが傍脊柱膿瘍による椎体の破壊,脊柱管内進展によるものであることを明らかにし,膿瘍のドレナージにより治療しうることを示した.

ポットは,当代随一の名医とされ,誰からも好かれる親切な人柄で,患者の信頼も厚かった.1788年の冬,寒い中を遠方に住む患者を往診して肺炎にかかって死亡した.死の床にあって,「私の灯はもう消えかかっている.誰かのために燃えたのだろうか」 (My lamp is almost extinguished, I hope it has burned for the benefit of others)と呟いたと伝えられている.

出典