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ナイセル  Albert Neisser 

経歴と業績

ナイセル(Albert Neisser, 1855-1955) [PD]

プロイセンのシレジア地方シュヴァイドニツ(現ポーランド, Świdnica)に生まれた.父は,温泉医学の研究で知られる内科医であった.ブレスラウ,エルランゲンの大学で医学を学んだが,ブレスラウでは エールリヒ(Paul Ehrlich)と同級生で生涯にわたり交流した.1877年に包虫症の研究で学位を得た語,ブレスラウのドイツ初の皮膚科専門病院で,皮膚科医のシモン(Oskar Simon, 1845-92)の下で臨床,研究を開始した.そのわずか2年後の1879年,24歳にしてナイセルは淋菌を発見し,7月にこれを報告した[1].同年夏,癩病の研究のためノルウェーのハンセン(Armauer Hansen, 1841-1912)の下を訪れた.ハンセンは1873年に癩病の原因菌と思われるものを観察していたが,確証が得られていなかった.ナイセルは,ハンセンから癩病患者の組織標本を譲り受け,新たな染色法によっていずれの組織にも多数の桿菌が感染していることを発見し,10月の学会でこれを癩菌の発見として報告し[2],さらに1881年には詳報を発表している[3].これを知ったハンセンは,1880年に優先権を主張する論文を著し[4],両者の間には優先権をめぐる確執が残った.淋菌の学名 Neisseria gonorrhoeaeにその名前が残るが,ナイセル自身は癩菌発見の方が重要な業績であると考えており,ハンセンとの対立には心を悩ませていたという[5,6].

1882年,27歳で師Simonの後任として皮膚科特命教授となり,1907年にはブレスラウ大学皮膚科教授に昇任した.1882年にドイツ皮膚科学会(Deutsche dermatologische Gesselschaft)を創設した.また性病の治療には公衆衛生学的な考察,予防が重要であることを早くから主張し,1902年にドイツ性病撲滅学会(Deutsche Gesselschaft zur Bekämpfung der Geschlechtskrankheiten)を創設して,長くその会長として熱心な啓蒙活動を行った[6,7].

ナイセルは 梅毒の研究 にも多くの業績を残している.1898年,梅毒患者の血清療法を試み,患者血清を健常者に注射したところ梅毒に感染したことから科料を課された.1905年には梅毒の起源を求めてジャワ島にわたり,サルからヒトへの感染の可能性を探った.1906年にはワッセルマン(August von Wassermann)とともに,梅毒の血清診断法ワッセルマン反応(Wassermann-Nesser-Bruck反応)を開発し,1911年の著書「梅毒の病理と治療」(Beiträge zur Pahologie und Therapie der Syphilis)にその成果を集大成した.旧友エールリヒが梅毒治療薬 サルバルサン を開発した際には,その治験に協力したが,従来の水銀治療との併用を推奨した[6,7].百歳の長命であったが,晩年は糖尿病,尿路結石を患い,膀胱結石の術後敗血症で死亡した.

出典