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整形外科学の歴史 

古代・中世

図1. 五千年前のエジプトの遺物.大腿骨骨折(→)に樹皮でつくった副木が当てられている[2].

古代遺跡から発掘される遺体の骨には,骨折や骨感染症の痕跡が高頻度で認められ,今も昔も整形外科疾患は日常的なものであったことがうかがわれる.ジャワ原人の骨にも,結核や骨軟骨腫が知られている.エジプトのミイラには骨折が多く残っており,特に左尺骨に多いのは戦いで防御の際に受傷したためと考えられている.骨折や骨疾患による物理的な変形をさまざまな補助具で支持,矯正する治療が試みられたことは当然推測されるが,実際5,000年前のエジプトの遺跡から,骨折に用いられた樹皮の副木が出土している(図1).当時の副木には,竹,木,樹皮,詰め物をした布などが使用された.前1600年頃(第16-17王朝)に書かれたエジプトの エドウィン・スミス・パピルス(Edwin Smith Papyrus)は外科疾患48例の症例集であるが,そのうち33例が骨格系外傷の記載に当てられている[1].

ギリシア時代のヒポクラテス全集でも,3つの章が骨折,脱臼,関節疾患に当てられている.例えば,すでに単純骨折と複雑骨折が区別されており,包帯を蝋,澱粉,卵白などで固めた副子,肩関節脱臼の徒手整復,脊柱の牽引矯正などが詳述されている[1].

中世の医学でも穀物粉,卵白,獣脂などを混ぜた副子による固定が記載されている.近代外科学の父とされる パレ (Ambroise Paré, 1517-1590)は,戦傷による四肢切断術の改革で知られるが,義足,義肢,鉄製コルセットなども発明している.外科と整形外科が分離していないこの時代,整形外科的な治療はすべてパレのような 理髪外科医 の手によって行われていた.

  • 1. David LV. The history of orthopedics. (Butler & Traner Ltd. 1990)
  • 2. Smith GE. The most ancient splints. Brit Med J. March 28:732-4,1908
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整形外科学の芽生え

図2. アンドリ(Nicholas Andry, 1658-1742).整形外科という言葉を初めて使った.

図3. (左) タイトルに Orthopédie の文字が見える.(右) 整形外科学のシンボルとされる挿図.

整形外科 (英: orthopedics) という言葉は,1741年,パリ大学教授,内科医のアンドリ(Nicholas Andry, 1658-1742)(図2)*の著書 L'Orthopédie が初出である.この本は,小児の筋骨格変形の予防,矯正法を書いたもので,そのタイトルはギリシア語のorthos (ὀρθός,英: straight),paidion (παιδίον, 英:child)に由来する.すなわち,小児矯正術といった意味であった[1].

L'Orthopédieは最晩年,死の前年に出版されたもので,正式な名称は "L'orthopédie ou l'art de prévenir et corriger dans les enfants les difformités du corps" (整形外科学-小児の体の変形の予防法と矯正法)であるが,これは医師向けの医学専門書ではなく,親と子供のための指導書であった.当時はくる病や骨結核による脊柱変形が多かった.上下2巻,全4章からなり,その内容は小児の脊柱,四肢の変形のみならず,現在では整形外科学の範疇外である頭部,顔面の変形,脱毛,口唇裂,チック,吃音などにまで及んでいる.一貫して装具や運動による保存的な治療法を奨めているが,脱臼では外科医の介入を支持している[1].

アンドリは内科医で,当時の理髪外科医を真っ向から批判する急先鋒のひとりで,その治療法は保存的治療が原則であった.この本の挿絵のひとつ,曲がった木を棒で支えた図は現在にいたるまで整形外科のシンボルマークとして各所に引用されている(図3).これは,脛骨変形の治療法について「若木の曲がった幹を真っ直ぐにする時のように,弯曲した下肢を鉄板に固定して」徐々に矯正すると述べた部分である.保存的治療を唱え,外科医を排斥したアンドリの挿図が,整形外科学のシンボルとされるのは皮肉である.

* アンドリは寄生虫学の祖ともされ,その処女作「人体内における寄生虫の発生について―種々の病型,予防,治療について」で,寄生虫は腸内で自然発生するのではなく卵が体外から侵入するためであるとしている.精細な図版が添えられており,特に条虫の体節構造を記載するなどしているが,全体として誤りが多い.顕微鏡で精子を観察し,これも寄生虫と同列に論じるなど,また非合理的な記述も多いことから,その後の寄生虫学への寄与は限定的とされる.[2]

  • 1. Ellis H. The Cambridge illustrated history of surgery. (Cambridge University Press, 2009)
  • 2. Kohler R. Nicolas Andry de Bois-Regard (Lyon 1658–Paris 1742): the inventor of the word ‘‘orthopaedics’’ and the father of parasitology. J Child Orthop 4:349-355,2010
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骨折と接骨医

図4. トーマス (Hugh Owen Thomas, 1834-91).近代整形外科学の祖とされる.

骨折は時代を問わず存在する病態であり,いつの時代にもその治療が求められた.その基本は固定であり,可能なら整復が行われた.治療の担い手は,中世ヨーロッパではキリスト教会の僧侶であったり,理髪外科医であったりしたが,骨折専門の接骨医(bone setter)が活躍した.接骨医は医師の資格を持たないが,特にイギリスでは代々世襲でその技術を秘伝として受け継ぐ幾つかの有名な家系が存在した.中でもトーマス一族は有名である.初代Evan Thomas(1745-1814)の孫Evan Thomas 2世(1804-84)の時代,1853年に医師法(Medical Act)が施行され,無資格の接骨医はしばしば医師に批判され,その軋轢に悩んだEvan Thomas 2世は6人の息子をいずれもエディンバラ大学に学ばせ医師とした.中でも長男のHugh Owen Thomas(1834-91)(図4)は有名で,1857年に大学を卒業し,初めは父の仕事を手伝っていたがその後自らの診療所を開き,単に骨折以外の疾患も手がけ,その評判は広く知れ渡り多くの患者が訪れた[1-3].

 

図5. トーマス副子.坐骨周囲をリングで固定し,下肢全長を固定する.

大学卒業後,1年間パリで医療器械についても勉強したトーマスはさまざな装具を考案したが,中でも下肢骨折用のトーマス副子(Thomas splint)は有名である(図5).これは上部を坐骨周囲のリングで固定し,下肢全長を牽引,固定するものである.トーマスの存命中はそれほどではなかったが,その死後に広く普及した.それまで腿骨の複雑骨折は致命的とされていたが,第一次世界大戦では各国で広く使用され,トーマス副子の導入により死亡率が80%から8%まで低下した.その名前が残るトーマス試験(Thomas test)*1は,現在もなお股関節の屈曲拘縮の有無を診断するための重要な診断法である.

図6. (左)ジョーンズ(Robert Jones, 1857-1933), (右) ハント(Agnes Hunt, 1866-1948).

トーマスの妻の甥にあたるジョーンズ(Robert Jones, 1857-1933)(図6)はトーマスの技術の後継者である.当時リヴァプールで大規模な運河工事が行われておりで負傷者が少なくなかったが,この治療を一定に引き受け,外傷学を大きく進歩させた.1895年にレントゲンがX線を発見すると,真っ先にX線装置を取り寄せ,骨折の診断治療にX線を導入したのもジョーンズであった*2.また,当時肢体不自由児の保護施設Baschurch Homeを個人的に運営していた看護婦のハント(Agnes Hunt, 1866-1948)(図6)と協力して,1903年から施設の専属医となり,1921年にはイギリス初の肢体不自由児治療施設 シュロプシャー整形外科病院(Shropshire Orthopedic Hospital)を開設,1933年にロバート・ジョーンズ/アグネス・ハント整形外科病院(Robert Jones and Agnes Hunt Orthopedic Hospital)と改名され,世界有数の整形外科病院となっている.

接骨医に始まる骨関節外傷の治療を,世界に先駆けて整形外科学の一分野として確立したトーマスとジョーンズは,整形外科学,骨折学の祖父,父とされる.

*1 トーマス試験.骨盤の前傾により隠れている股関節の屈曲拘縮を調べる検査.仰臥位で健側股関節を屈曲,膝関節を伸展して骨盤前傾をなくすと,屈曲拘縮がある場合は患側股関節が屈曲する(陽性).

*2 第5中足骨基部の骨折は,ジョーンズ骨折(Jones fracture)と言われるが,これはジョーンズ自らがダンス中に受傷し,臨床的には骨折と確診できなかったがX線撮影を行ってはじめて骨折と診断できた.

  • 1. Santy J. Knight C. Bone setters and barber surgeons. J Orthoped Nurs 11:110-2,2007
  • 2. 天児民和, 岩淵亮. 骨折治療の歴史. 骨折 7:106-27,1980
  • 3. 天児民和. 骨折治療の近代史(1-4).臨床整形外科 4:40-5, 4:951-5, 1969. 5:36-41,5;131-4, 1970
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骨折の外科治療

図7. レーンが使用した金属内副子[2].

図8. ランボットが開発した創外金属副子[3].

図9. スミス=ピーターセンが開発した三翼釘(上).大腿骨頸部の固定(下) [6,7]

図10. キュンチャーが開発した髄内釘[PD]

副子やギプス(→関連事項:ギプスの歴史 )による外固定は,骨折の治療に有効であったが,リスターによる無菌手術法 の導入後,さらに積極的に手術による観血的治療も試みられるようになった.

それ以前から金属釘や内副子による骨折治療の試みはあり,たとえば1878年,ビルロート やコッヘルらの師でもあったドイツの外科医ランゲンベック(Bernhard von Langenbeck, 1810-1887)が,銀メッキした金属釘で大腿骨頸部骨折を固定したが,感染症で死亡した.1883年,リスター自身も膝蓋骨骨折に鉄の針金を使用したが失敗に終わった.

金属内副子による固定法に初めて成功,これを確立したのはイギリスの整形外科医レーン (William Arbuthnot Lane, 1856-1938)である[1,2].当時の保存的骨折治療では,偽関節や遷延治癒が少なくなく,観血的に確実な整復,固定の必要性を唱え,1882年から全例に金属プレートとスクリューによる固定を行った(図7).リスターの無菌手術法を徹底し,ゴム製の下着の上に石炭酸を浸した術衣をはおり,創内には手指をいれずにピンセットで操作することを徹底し,これを no toch tecniqueと称した.しかし,石炭酸による金属の銹(さび)による瘻孔が発生して感染する例が少なくなかった.

ほぼ同時期,ベルギーのランボット(Albin Lambotte, 1866-1955)も金属プレート,ボルトによる固定を数多く手がけたが,やはり銹による瘻孔形成に悩まされ,1902年に創外副子(fixateur externe)を考案した(図8).これは骨折部の近位と遠位にそれぞれ2本の長い金属釘を打って,これを創外で横方向に固定するものであったが,やはり釘の刺入部の感染が問題となった[3].

金属の体内使用では,銹による破損,固定力の低下,肉芽形成,膿瘍形成が常に問題となり,一時期アメリカでは象牙,日本では牛骨なども試みられたがいずれも強度が不足であった.イギリスでは,英国海軍の要請により海水でも銹びない兵器の開発が求められ,1913年に製鉄所の研究者であったブリアリー(Harry Brearley)がステンレス鋼(stainless steel)を発明した.これはCrを13%含む鉄合金(13 stainless)であった.その後さらにドイツでCr 18%,Ni 8%を含む18-8-Stainless,Moを加えた18-8-SMoが開発された.1929年にはアメリカでコバルトを主成分とするバイタリウム(Vitalium, Co 65%,Cr 30%,Mo 5%)が開発された.これらの不銹金属材料の発展により,安全確実な手術治療が可能となった*1

特に大腿骨頸部骨折は,整復固定が難しく,難治性骨折の代表とされ,例えば1891年のホッファ(Algert Hoffa)の教科書でも,治癒は例外的であり原則として偽関節となると書かれているほどである.アメリカのホイットマン(Royal Whitman, 1857-1946)は独自の整復法とギプス固定でこれを大きく改善したが,それでも治癒率は70%にとどまった.1931年,スミス=ピーターセン(Smith-Petersen, 1886-1953)は不銹鋼による三翼釘(trifin nail)を開発した.これは回旋を防止するために翼状の三角形の断面をもち,骨折部に打ち込んで頸部を固定することにより,確実な骨癒合が得られるようになった[4,6].

1940年,ドイツのキュンチャー(Gerhard Küntscher, 1902-72)は,長管骨の骨幹部骨折に対して長い金属釘を骨髄内に打ち込む髄内釘(Marknagel),いわゆるキュンチャー釘を開発した(図10).これも不銹鋼なくしては不可能であった.折しも第二次世界大戦が勃発し*2,これがドイツ国外に広く知られるようになったのは戦後のことであったが,この方法は現在も基本的な治療法のひとつとなっている[1,4,5].

*1 現在では,ステンレス鋼,Co-Cr-Mo合金,チタン合金のほか,セラミック材料も利用されている.

*2 キュンチャーは,第二次世界大戦中にナチを支持したことから,終戦後に戦犯として投獄されたが,戦争中に敵味方の区別なくの治療に当たったことから,かつてドイツ軍捕虜であった連合軍兵士が釈放運動をおこし,早期に釈放された.

関連事項

骨折の診断

図13. X線発見以前,骨折の診断は視診や触診が重要であった[2].Monteggia 骨折の例.

1895年のレントゲンによるX線発見 以前,骨折の診断は臨床所見に頼らざるを得ず必ずしも容易なものではなかった.そのような中で,1888年刊ドイツの整形外科医ホッファ*の著書「医師と医学生のための骨折と脱臼の教科書」は,各部位の骨折と肉眼的変形を治療法とともに精細に図示しており,X線以前の骨折診断の集大成であった[2](図13).

X線発見後,骨折は異物診断とともに最も早期からその応用が試みられた病態である.レントゲンの論文発表のわずか3週間後には,世界初の骨折のX線写真が報告され,その後も続々と全身の骨折が診断された.Colles骨折のように従来から臨床的に良く知られていた骨折の所見がX線像で確認されると同時に,それまで知られていなかった新たなタイプの骨折も診断できるようになった.例えばJones骨折(第5中足骨基部骨折)は,前述のジョーンズ(Robert Jones, 1857-1933)が自らがダンス中に受傷し,臨床的には骨折と確診できなかったが,X線撮影を行って骨折と診断できた例である(図14).X線写真でしか診断できない "X-ray fracture" の存在も知られるようになった.X線以前には「捻挫はしばしば骨折よりも重症」という認識があったが,これは単に骨折が誤って捻挫と診断されていたためであることもわかった[1].

図14. 第5中足骨基部骨折(Jones骨折).X線発見後に初めて診断できるようになった[5].

X線検査によって,治療の結果も一目瞭然にでわかるようになったことから,より一層精密な整復が求められるようになった.X線の骨折所見が医療訴訟にも持ち出されるようになり,1912年,英国外科学会は,骨折の診断にはX線撮影が必須として,少なくとも2方向の撮影を行うことを求めている[3].

* ホッファ(Albert Hoffa, 1859-1907)は,マッサージを医学に初めて導入したことでも知られる.effleurage(強く圧迫する),pétrissage(筋肉をつまんで揉む),friction(指先で揉む), tapotement (指先で叩く),vibration(振動を与える)の5つ操作を組み合わせて治療する理論(Hoffa system)を組み立てた[4].Hoffa's fat pad (膝蓋窩脂肪織),Hoffa's disease (膝蓋窩脂肪織の炎症), Hoffa's fracture (大腿骨下部冠状断骨折)に名前が残る.

  • 1. Wilbert, M. I. A comparative study of fractures of the extremities. Trans Am Roent Ray Soc. 4:195-204,1904
  • 2. Hoffa A. Lehrbuch der Frakturen und Luxationen für Ärzte und Studierende. (Cruck ;& Verlag der Stahel'schen Universitäts-Buch- ;& Kunsthandlung. 1888)
  • 3. Peltier LF. The impact of Roentgen's discovery upon the treatment of fractures. Surgery 33:579-86,1953
  • 4. Churchill AQ. Massage, its physiological effects. Am J Nurs 15:635-40,1915
  • 5. Jones R. Fracture of the base of the fifth metatarsal bone by indirect violence. Ann Surg 1902 35(6):697-700
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ギプスの歴史

図11. 中東のアラブ人が行っていた固定法.その後の石膏ギプスのもととなった.(上)下肢を油布で覆い,液状の石膏を流し込み,(下)固まったところで布をとり,包帯で躯幹に固定する[4]

骨折の固定法には様々な方法があり,歴史的にはさまざまな副子が使用された.副子は主に木製,紙製で,これに粘土や蝋などをまぜたものであったが,必ずしも体型に適合せず,より確実な固定法が求められた.その結果生まれたのが,四肢の周囲を石膏で固めるいわゆるギプス包帯で,これが登場したのは18世紀末のことであった.

石膏ギプスは,半水石膏に水を加えると硬化する水和反応を利用したものである.中東(特にイラン)は現在でも石膏の主要産地のひとつであるが,中東のアラブ人が骨折肢を石膏水溶液を入れた容器に浸して固定している様子をバスラ(現イラク)の英国駐トルコ領事イートン(William Eton)が目にし,これを友人に知らせた.これがイギリスの医学雑誌 Medical Commentaries の出版者/編集者のダンカン(Andrew Duncan)の手にわたり,1795年の同誌に掲載され(図11),翌年にはドイツの Chirurgische Bibliothek誌にも独訳が載ってヨーロッパの外科医の知る所となった.1816年にロシアのフェベンタール(Huebenthal) が前腕骨折にこれを試みたが,硬化反応に際して発生する高熱に悩まされたようでその後あまり普及しなかった.ドイツの軍医シュトロマイヤ(Stromeyer)は,「外科に左官屋が入った」と批判した.

やや遅れて1835年に,ベルギーの軍医で当時の国王レオポルド1世の侍医でもあったスータン(Louis Joseph Seutin, 1793-1862)は,澱粉に浸した厚紙で患肢を包帯し,乾燥,硬化させる方法を発明し,ロシアの陸軍,海軍はこれを採用した.石膏ギプスと異なり,四肢末梢以外にも適用でき,軽量であったが,硬化するまでに時間を要し,乾燥と同時に収縮して血行障害を来すことがある難点があった.

ロシアでは,ロシア軍人外科の父とされ,下肢切断術ピロゴフ法に名前が残るピロゴフ(Nikolai Iwanowitch Pirogoff)が,布製包帯を巻いた上に石膏を塗り,これをさらに何重にも重ねる方法を考案した.ピロゴフはこれを1855年,クリミア戦争のセヴァストポリ包囲戦で戦傷兵に応用して良い成績をあげた.

図12. マタイセン(Antonius Mathijsen, 1805-78).近代的な石膏ギプスの生みの親とされる.

近代的な石膏ギプス*の生みの親は,オランダの軍医マタイセン(Antonius Mathijsen, 1805-78) である(図12).1851年,マタイセンは泥状に溶かした石膏に浸した布で包帯する方法を考案し,翌年にはオランダ軍が公式に採用した.1852年,マタイセンは赴任先のフェンロー(Venlo)の開業医ファンデロー(Johan van de Loo, 1812-83)はマタイセンからこの技術を教わったが,これを各地で実演供覧したり解説書を通じてその普及に大きく貢献し,クリミア戦争(1853-56),普仏戦争(1870-71)でも広く使われた.当初石膏を批判していたドイツのシュトロマイヤもその優秀性を認めて強く推奨してドイツにおける普及に貢献した.1876年,マタイセンはアメリカに招かれ,フィラデルフィアにおける建国百周年記念博覧会でこの技術を供覧し,アメリカにも普及した.イギリスでは,トーマス(Hugh Owen Thomas, 1834-91)のトーマス副子が広く普及していたため導入が遅れたが,トーマスの死後,甥のジョーンズ(Robert Jones, 1858-1933)により普及した[1-4].

現在使われているギプスはガラス繊維に水で硬化する樹脂を混ぜたプラスチックギプスが主体で,石膏にくらべると取り扱いが容易,軽量かつX線透過性が良好であるなど多くの利点があるが,細かい成型が難しいことから,必要に応じて石膏ギプスも使用される.

* 石膏ギプス:石膏は硫酸カルシウムの水和物で,二水石膏(=軟石膏 CaSO4・2H20),半水石膏(=焼石膏 CaSO4・1/2H20),無水石膏(=硬石膏 CaSO4)がある.石膏ギプスは,半水石膏に水を加えると速やかに二水石膏となって硬化する水和反応(CaSO4・1/2H20 + 3/2H20 → CaSO4・2H20 + 熱)を利用する.Gipsは石膏を意味するドイツ語(オランダ語)で,英語ではgypsum.石膏はヨーロッパ各地で採掘され,特にモンマルトルの丘を含むパリのセーヌ河左岸で良質のものが多く採れたため plaster of Paris (パリ石膏) は石膏の代名詞となっているが,英語の plaster には,石膏(gypsum plaster),漆喰(lime plaster)の両義がある.漆喰は水酸化カルシウム(=消石灰, Ca(OH)2)と炭酸カルシウム(CaCO3)の混合物である.

  • 1. David LV. The history of orthopedics. (Butler ;& Traner Ltd. 1990)
  • 2. Ellis H. The Cambridge illustrated history of surgery. (Cambridge University Press, 2009)
  • 3. 天児民和. 骨折治療の近代史(1-4).臨床整形外科 4:40-5, 4:951-5, 1969. 5:36-41,5;131-4, 1970
  • 4. Majno G, Joris I. On the history of the plaster cast and its roots in Arabic medicine. Gesnerus. 43:14-31,1986
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関連文献

《1795 アラブのギプス技術のヨーロッパへの紹介》
骨折肢のアラビア式治療方法について
Account of the Arabian Mode of Curing Fractured Limbs
Eaton M. Medical Commentaries 10:167-171,1795

【要旨・解説】アメリカの軍人イートン(William Eton, 1764-1811)が,中東に赴任中に目撃した現地での骨折治療に際して,アラブ人が骨折肢を石膏で固めて治療している様子を目撃し,これを友人の医師ガスリー(Matthew Guthrie)に報告した手紙を,ガスリーがアメリカの雑誌に紹介したもので,ギプス包帯普及の原点となった.

イートンの部下のアラブ人兵士が,荷台から転落した大砲で下肢を骨折した.下腿から脚の重症な複雑粉砕骨折で,ヨーロッパ人医師はただちに膝関節上での切断を奨めたが,現地の医師はこれを拒み,独自の治療を行った.大腿から足関節までを油布で覆って,石膏を流し込んでこれを固める方法であった.同時に中空の葦を埋め込むことによって,内部の滲出液を排泄するための小孔を残し,また必要に応じて内部を確認できるように,上半部を切断して取り外すことができる溝が掘られていた.上部に液体を注入する溝があり,ここから薬効があると考えられている酒を注入して内部を湿潤にしていた.4ヵ月に変形は残っていたものの,患者は歩き回っていた.

当時のヨーロッパの外科医が行っていた外固定は,副子や包帯によるものであった.ここで紹介している方法は,まさにその後のギプス包帯そのものであり,この紹介記事を契機として,ヨーロッパでギプス包帯が普及し,改良が重ねられた.ドレナージ経路が確保されていたり,ギプス上部の開口部から酒を流し込むという点は興味深いが,感染症防止の意味があったものと推測される.

原文 和訳

内反足

図15. 内反足の徒手矯正[3]

図16. 皮下切腱術に使用するメス.皮膚の上から腱の下に湾曲部を挿入して切断する[3]

図17. リトル(William John Little, 1810-94).自らの内反足に対してシュトロマイヤーの治療を受けた後,切腱術を研究,普及させた.

リスターの消毒法登場以前の整形外科学は,四肢,躯幹の変形を徒手的に矯正,固定する保存的治療が主体であったが,この時代にも大きな開創をせずに手術法を工夫することにより,外科的な治療が試みられた.その代表が切腱術(tenotomy),切筋術(myotomy)による変形の治療である.主な対象疾患は,先天性内反足,ポリオ後遺症の内反足,痙性斜頸などであった(図15).

初めて内反足の外科的治療を試みたのは,フランスのデルペシュ (Jackques-Mathieu Delpech, 1777-1832)である.当時の内反足の治療は,徒手矯正であったが,アキレス腱の緊張のため難しかった.そこでアキレス腱を切断することを考えたが,創の化膿をできるだけ防ぐために,開創せず皮下で小さく切断する方法を考案した.1816年,内反足の9歳男児にアキレス腱の皮下切腱術(subcutaneous tenotomy)を行って内反を戻し,腱の癒合が得られてから装具で固定,矯正したところ,良好な結果が得られた.デルペシュはこのような外科的な矯正術を orthomorphie と称したが,周囲から皮切の感染リスクへの批判が強かったため,その後は行わなかった.同じくフランスのドピュイトレン(Guillaume Dupuytren, 1777-1835)は,1822年に斜頸の12歳女児の胸鎖乳突筋に切筋術(subcutaneous myotomy)で治療した[1,2].

1831年,ドイツのシュトロマイヤー(Georg Friedrich Louis Stromyer, 1804-76)は,これらの報告を読んで皮下切腱術に興味を持ったが,やはり最大の懸念は創感染であった.そこで,先端が曲がった小さな切開刀を作り(図16),できるだけ小さな皮切で腱を切断する方法を考案して,アキレス腱切腱術による内反足の治療を多数成功させた.

イギリスのリトル(William John Little, 1810-94)(図17)は,自身が4歳の時,ポリオに罹患して内反尖足となり装具を必要とする体であったがロンドンで外科医となった.フランスの新聞でシュトロマイヤーのことを知り,1836年に彼のもとを訪れて切腱術による治療に成功し*,その後数ヶ月とどまって手技を伝授された.またこの間に内反足に関する学位論文を書いて,ベルリン大学から学位を授与された.イギリスに帰国後は自ら切腱術の症例を積み重ね広く知られるようになった.1840年,イギリス初の整形外科専門病院 Royal Orthopedic Hospitalを設立し,これはその後Royal National Orthopedic Hospitalとなり,整形外科のメッカとなった.リトルはその後神経疾患に伴う四肢拘縮,特に分娩障害に伴う脳性麻痺の研究を行い,脳性麻痺に伴う痙性四肢麻痺はリトル病(Little's disease)と呼ばれる[1,2].

このような皮下切腱術,切筋断術はこの時期,欧米で広く行われた*.フランスでもパリのゲラン(Jules Guérin, 1801-86),リヨンのボネ(Amédée B. Bonnet, 1802-58)がこれを広めたが,特にボネは内反足のみならず,斜頸,膝変形,斜視,近視,吃音などにもこれを試みた.アメリカではやはりシュトロマイヤーに学んだ後にニューヨークに移住したデトモルト(William Ludwig Detmold, 1808-1904)が,1837年にアメリカ初の内反足の手術を行い,その後2年間で167例を手術して好成績を挙げた.当時アメリカでも外科医の地位は内科医に比較して低いものであったが,この業績は整形外科の存在が広く認められるきっかけとなり,デトモルドはアメリカ整形外科学の父とされる[2].

*フロベールの小説「ボヴァリー夫人」(1857)に,ボヴァリー夫人の夫で医師のシャルルが内反足の少年イポリートのアキレス腱皮下切腱術を行う場面が登場する.「シャルルは皮膚にメスをさしこんだ.鋭いプツンという音が聞こえた.腱は切断され,手術は終了した.イポリートは驚きを隠せなかった.彼はボヴァリーの手をとって何度も接吻した」

  • 1. David LV. The history of orthopedics. (Butler & Traner Ltd. 1990)
  • 2. Ellis H. The Cambridge illustrated history of surgery. (Cambridge University Press, 2009)
  • 3. Ridlon J, Jones R. Lectures on orthopedic surgery. (Edward Stern & Co. Inc, 1899)
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脊椎結核

図18. ヒポクラテスによる脊柱矯正法. 患者を板に固定し,上下からロープで牽引して,亀背部分を角材で圧迫している[7]

結核性脊椎炎による特徴的な脊椎変形(亀背)については,ヒポクラテス,ガレノスが既に記載しており,例えば,ヒポクラテスはその治療法について具体的な方法について述べており,瘤状の部分を手のひらで押して圧迫する,瘤の上に腰掛けたり,足を置いて体重をかける,さらに最も強力な方法として,患者を板に固定して牽引して瘤を圧迫するなどの矯正法が挙げられている(図18).実際にこれがどの程度行われたのかは不明であるが,18世紀にはいると様々な牽引法,矯正法が考案されるようになった.

この病態を初めて詳細に記述したのは,イギリスの外科医 ポット (Percival Pott, 1713-88)である.1779年に発表した「しばしば脊椎の弯曲に伴って認められる.下肢麻痺について」[1],およびその続編である1782年の「脊髄の弯曲による下肢の廃絶について」[2]で,特徴的な亀背(gibbus)に合併して対麻痺(Pott's palsy)が起こること,これは外傷や先天性ではないことを述べ,脊椎の破壊があると麻痺が多いとしている(図19).しかし当時はまだ,結核という病名もなく,もちろん結核菌も発見されておらず,その病態は不明であったが,呼吸器症状,頸部リンパ節腫脹を合併し,やがて衰弱死する全身疾患に合併することは知られていた.

図19. 結核性脊椎炎による椎体の破壊,後彎変形.[1]

図20.ビスマス軟膏による腸腰筋膿瘍の造影.ベック軟膏はこれを治療に応用したものであった [3]

図21.脛骨骨片の自家移植による後方固定手術[4].

骨関節結核は,数ヶ月から1年の関節腫脹期を経て,1~3年で骨破壊,関節脱臼が進行し,冷膿瘍を形成する.膿瘍はしばしば破裂して瘻管,瘻孔を形成し,さらに二次感染を来して全身状態は悪化する.この時期を生き延びると,発症から数年で骨関節は次第に硬化して強直状態(ankylosis)となり,しばしば強い変形を残す.特に脊椎では椎体が破壊されて強い後彎変形(亀背)となることが多い.化学療法による根本的な治療がなかった時期は,できるだけ安静を保って骨の硬化による「治癒」を待つことが治療の基本で,コルセットや装具による固定が行われたが,再発も多かった.

膿瘍(冷膿瘍)の破裂,二次感染は病勢の悪化を招くことから,その治療は重要で,ドレナージや軟膏の注入療法が行われた.ベック軟膏(Beck's paste)は,アメリカの外科医ベック(Carl Beck, 1864-1952)が発明したもので,当初は瘻孔のX線造影を目的としてビスマスとワセリンの混合物を注入したところ,撮影後に造影剤を吸引することができずはからずも洞内に残存してしまったが,これがやがて乾燥して瘻孔が治癒したことからその治療効果が見いだされ,結核性あるいは細菌性膿瘍,瘻孔の治療に広く用いられた(図20)[3].その後ヨードフォルムやパラフィンを加えた製剤も使われた.

しかし骨関節結核の保存的治療には限界があり,様々な外科手術が試みられた.しかし病変局所に対する手術は難しいことから,遠隔手術(distant operation),すなわち脊椎固定手術が行われた.アメリカの整形外科医アルビー(Fred Albee, 1876-1945)は,脛骨骨片を棘突起間に自家移植して後方固定した(図21).同じくアメリカのヒッブスの方法は,棘突起と椎弓から自家骨を採取して椎間関節を固定した.後方固定の目的は,可動性を抑制することにより病変の硬化,治癒をを床上安静,ギプス固定の期間を短縮し,病変の硬化治癒を促進することにあったが,疼痛緩和の効果はあったものの,硬化組織内に残存する活動性病変の再燃も多かった[4-6].

1947年,ワックスマンがストレプトマイシンを発見し,その後1949年にPAS,1952年にINHも登場して抗結核治療が可能となったが,1960年代までは,抗結核薬の骨関節病変に対する効果は疑問視され,前方からの(anterolateral approach)病変切除,前方固定が多く行われた.しかし抗結核薬でも,充分な治療効果が得られることが次第に明らかとなり,脊椎結核の治療は保存的治療が原則となった[4-6].

  • 1. Pott P. Remarks on that kind of palsy of the lower limbs, which is frequently found to accompany a curvature of the spine and is supposed to be caused by it: together with its method of cure. (J. Johnson,1779)
  • 2. Farther remarks on the useless state of the lower limbs, in consequence of a curvature of the spine: being a supplement to a former Treatise on that subject. (J. Johnson,1782)
  • 3. Beck EG. Bismuth paste in chronic suppurations. (C. V. Mosby Company, 1914)
  • 4. Kostunik JP. The history of spinal deformity. Spine Deformity 3:417-25,2015
  • 5. Tuli SM. Tuberculosis of the spine. A historical review. Clin Orthopaed Relat Res 480:29-38,2007
  • 6. David LV. The history of orthopedics. (Butler & Traner Ltd. 1990)
  • 7. Peltier LF. Orthopedics: a history and iconography. (Norman Pub. 1993)
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関連事項

日本の整形外科学

図22. (左)各務文献. 整骨新書(1810) より.腹部,大腿部の包帯法の解説.(右)木製の骨格標本「身幹儀」[4]

随,唐の律令制を手本とする日本最古の法律である大宝律令(701年)の中で,医療関係の法律である「医疾令」(いしつりょう)には,医療職として「医師」などと並んで「按摩博士」「按摩師」「按摩生」の職名が登場する.現存する最古の医書「医心方」(982年,全30巻)は当時の中国医学書の集大成であったが,その第18巻「外傷篇」には骨折,脱臼の治療法が述べられている.14世紀半ば南北朝時代となり戦乱が続くと,戦傷治療を専門とする金創医が出現した.各大名に専属する幾つかの流派がそれぞれに秘伝としてその技術を伝えたが,戦乱が収まり活躍の場を失った金創医の一部は止血の技術を生かして助産に転向し,中には堕胎を専門に扱う一派も出現した.

中国医学では,骨関節疾患を扱う科は正骨科と称されたが,これをもとにした日本初の正骨専門書は1746年に漢学者の高志鳳翼が編纂した「骨継療治療重宝記」とされる.広島の正骨医の各務文献(本名 星野良悦1755-1819)は,自ら死刑囚を解剖して研究し,1793年に職人の手を借りて実物大の木製全身骨格標本「身幹儀(星野木骨)」を製作し,江戸の医学館に献呈した(図22).1810年には「整骨新書」を著したが,その内容は脱臼,骨折にとどまらず,関節炎,腫瘍,くる病などにも及び,西洋外科学導入以前の整形外科書として最高水準とされる(図22).

一方,長崎を窓口として蘭方医学が輸入され,外科学の一部として整形外科的な知識も断片的に輸入されるようになったが,ヨーロッパでも整形外科学がまだ独立していないこの時期,その内容にはあまりみるべきものはなかった.そのような中にあって,伝統医学と蘭方医学の長所を巧みに組み合わせる漢蘭折衷派として,全身麻酔薬「通仙散」を発明して乳癌の手術を成功させた 華岡青洲は,自身も四肢の手術も手がけたが,その高弟,本間玄調(1804-72),鎌田玄台(1794-1854)は,四肢切断術のほか,骨髄炎,内反足,骨腫瘍などの手術の図譜を多く残している.

図23. 日本の整形外科学の祖,田代義徳(1864-1938)[3].

1857年,オランダのポンペ (Johannes Pompe van Meerdervoort)が来日し,長崎の医学伝習所で本格的な西洋医学教育が始まり,外科学の一環として整形外科学的な知見も教授されるようになった.ギプス包帯の技術を伝えたのもポンペとその後任ボードウィン(Anthonius Franciscus Bauduin)であった*1.1871年にドイツの外科医ミューラー(Leopold Müller),1881年にはスクリバ(Julius Karl Scriba)が帝国大学医学部に赴任して教鞭をとったが,特にスクリバは整形外科にも造詣が深かった.スクリバの下に学んだ田代義徳(1864-1938)(図23)は,1900年から3年間ドイツに留学し,帰室後の1906年,日本初の整形外科学講座の教授となった.ドイツ語のOrthopädieを「整形外科学」 と訳したのも田代である*2.同年,京都大学にも同じくスクリバ門下生でドイツから帰国した松岡道治助教授(翌年から教授)により整形外科教室が創設された.1926年,日本整形外科学会が設立され(第1回会長 田代義徳)*3,日本の整形外科学発展の素地が整った[1,2].

*1 ポンペとその師ボードウィンは,いずれもオランドのユトレヒト軍医学校出身で,同校ではドイツのシュトロマイヤ(Stromeyer)の外科書の蘭訳書が講じれられていた.ポンペ門下で順天堂医院の創始者佐藤尚中は,シュトロマイヤの外科書の和訳「外科医法」(全24巻)を著した.このため,この時期の日本の整形外科学はシュトロマイヤ外科学に基づくものであった.

*2 東京大学,京都大学に講座が新設されてその科名を決定するにあたり,当時Orthopädie,Orthopädische Chirurgie は「外科的矯正術」と言われていたことから「矯正外科」とする案もあった.田代は,友人の漢籍に詳しい内科学教授の入沢達吉らと相談した.そして中国の漢字字典「説文解字」によれば 整=束(たばねる)+攴(うつ)+正 (ただす)であり,「整」の一字に矯正の意が集約されていることから,さらにフランスのデルペシュが提唱した Orthomorphie から「形」(morphie)を取り入れて「整形外科学」とし,法律上もこれが採用された.[3]

*3 1926年の整形外科学会創立時,整形外科学講座をもつ大学は東大(田代義徳),九大(神中正一),新潟医大(本島一郎),慶應義塾大(前田友助),慈恵医大(片山国幸),東京女子医専(金子魁一),名古屋医大(名倉重雄)の6校であったが,このうち近藤次繁門下であった慶應義塾大の前田以外はすべて田代の薫陶を得ており,田代はまさに日本の整形外科学の父であった[3]. またこれに先立つ1913年,その前年にウィーン留学から帰国した順天堂医院放射線科長(後に慶應義塾大学教授)の藤浪剛一と共に,レントゲン研究會を開始し,1923年に日本レントゲン学會を創立,第1回会長をつとめ,初期の放射線医学の発展にも貢献した.

  • 1. 蒲原宏. 日本整形外科の歴史. 日整外学誌 40:505-25,1966
  • 2. 日本整形外科学会. 日本整形外科学会60年の歩み (第60回日本整形外科学会記念, 1987)
  • 3. 蒲原宏. 日本整形外科学の歴史と田代家. 日本医史学雑誌 52:10-19,2006
  • 4. 広島大学医学部医学史料館
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柔道整復師

日本には,俗に「接骨医」「骨接ぎ」と称される「柔道整復師」という医療類似行為*1を行う業種が存在する.その発祥は,前述の近代イギリスにおける bone setter に相通ずるところがあるが,bone setterがその後近代整形外科学へと発展したのに対して,柔道整復師は民間医療として現在まで存続しているという点で世界的にも珍しい存在で,長い歴史をもつ.

図24. 接骨医名倉家を創始した名倉直賢(1750-1828)

戦国時代以来,日本の武術,柔術には「殺法」と「活法が伝えられてきた.殺法は武術本来の攻撃のための武技であるが,活法は戦いによって発生した外傷の治療法を意味し,骨折,脱臼などの治療,蘇生法などを含む技術であった.この活法の研究から骨折脱臼を治療する技術が発展し,江戸時代には,名倉(江戸),年梅(大阪),吉原(長崎)など接骨整復を生業とする家系がいくつか生まれた.中でも名倉直賢(1750-1828)(図24)を始祖とする江戸千住の名倉家は有名である(現在もこれを名乗る接骨院は多い).江戸末期には,漢方医,蘭方医とならんで,このような接骨医が盛業していた.

明治時代となり,1874年(明治7年)に医療制度の基本を定める  医制 が制定されたが,その根本は西洋医学への一本化であり,漢方など日本古来の医学は認められないこととなった.この結果,新規開業については正規の医学教育を受けることが必要とされたが,従来開業者は産科,眼科,口中科(歯科),整骨科などの単科開業が認められ,接骨医についても「整骨科醫術開業免状」が与えられた.しかし1885年(明治18年),「入歯歯抜口中療治接骨営業者取締法」が施行され,本来の医師(医学部卒業生あるいは医術開業試験合格者)以外は,接骨医をふくめいかなる医業も営めなくなり,接骨医は廃業の憂き目を見ることとなり,さらに1906年には医師法が制定され,違法営業の接骨医は医師法違反で検挙されることになった.

このような危機的状況に置かれた接骨医は,1913年 「柔道接骨術公認期成会」を組織し,政府への請願を繰り返した.この結果紆余曲折はあったが,1920年に,既に1911年以来営業が認められていた鍼灸師,按摩師の管理規則「按摩術営業取締規則」を一部改正して,その付則として「柔道整復術」が認められた*2.その後も柔道整復師による地位向上を求める政治的活動が続き,1947年(昭和22年)「あんま,はり灸柔道整復等営業法」により所定の学校を卒業して資格試験に合格することが要件となった.1970年(昭和45年),単行法として「柔道整復師法」が定められ,1988年(昭和63年)にその大改正によって従来の地方自治体試験,地方自治体免許から国家試験,厚生大臣免許となった.現在,柔道整復師となるには,医療系大学で4年間,あるいは短期大学,専門学校で3年間の所定のカリキュラムを修め,国家試験に合格することが求められている.

*1 医師が行う「医療行為」に足して,医師以外が行う治療行為は「医療類似行為」と総称され,このうち柔道整復師,あん摩マッサージ指圧師,はり師,きゅう師の4つは国家資格である.この他,法的資格制度がないものとして整体,カイロプラクティック,リフレクソロジー,いわゆるエステサロンなどがある.柔道整復師は,多くが接骨院,整骨院といった名称で開業している.柔道整復師法では,柔道整復師は「柔道整復を業とするもの」 とされているが柔道整復に関する明確な規定がない.業務については「外科手術を行ない,又は薬品を投与し,若しくはその指示をする等の行為をしてはならない」「医師の同意を得た場合のほか,脱臼又は骨折の患部に施術をしてはならない.ただし、応急手当をする場合は,この限りでない」とされるが,具体性に欠ける.基本的に外傷(打撲,捻挫,脱臼,骨折)を扱い,内科的疾患,慢性疾患は範囲外であるが,実際には多くの施設でこのような疾患にも施術が行われている.このためその業務範囲は整形外科医と重複する部分があり,整形外科学会とは長年にわたる軋轢がある.

*2 柔道整復術という奇妙な名称は,この付則に「柔道の教授を為す者に於て打撲,捻挫,脱臼及骨折に対して行う柔道整復術に之を準用す」とあるのがその初出である.歴史的な「殺法」 が柔道に,「活法」が整復に相当するものと理解できる.現在も,柔道整復師の教育カリキュラムには,柔道が必須科目とされている.英訳は Judo Therapyとされ,漢方 (Kampo medicine)などと同じく伝統医学のひとつとされる.

  • 1. 川崎一朗, 樽本修和, 瀬田良之 他.柔道整復師の起源と歴史.Health Behavior Sci 2:13-5,2003
  • 2. 海老田大五朗. 柔道整復師はどのようにしてその名を得たか. スポーツ社会学研究 20:51-63,2012