薬物の歴史
生薬
古代から現在に至るまで,医学の歴史を通じて治療の主役は薬物であった.エジプトの医学パピルスの中で最も大部のエーベルスパピルスには既に326の薬品,876の処方が載っているという[1].ギリシアのヒポクラテスは300種類以上の薬物を使用した.その中には例えば,茴香,肉桂,丁子,大蒜など現在も使われている薬草も多く見られる.このほか,硫黄,鉛など鉱物も利用している.帝政ローマ時代,ネロ帝に使えた医師ディオスコリデス(Pedanius Dioscorides, 40-90)が著した「薬物誌」(De Materia Medica)全5巻は,当時知られていた薬物が広く網羅されている.約600種類の薬草をふくめ,動物由来,鉱物由来の生薬約1000種が収められ,その後17世紀まで広く使われた.原書に挿図はなかったが,後世の写本にはカラー図版が加えられ,このディオスコリデスの著作は薬草学のみならず現代の植物学の源流とされている(図1).
ガレノス(Galenos,129?〜200?)は,当時知られていたこれらの処方を「単純薬剤の性質と効果」(De Simplicium medicamentorum temperamentis et facultatibus)にまとめ,アルファベット順に解説しているが,ここには約1,400項目が挙げられている.10世紀に誕生したサレルノ医学校で編まれた「ニコラウス解毒薬」(Antidotarium nicolai)は,それ以前の薬物を集大成したものであった.これらの著作は,アラビア語に訳され,これがラテン語に再翻訳されて中世を通じて広く読みつがれた.
さらに時代が下って16世紀になると北ヨーロッパでも新たな本草書が登場した.例えばドイツ植物学の父とされる3人の植物学者,ブルンフェンス(Otto Brunfels, 1488-1534)の「薬草写生図譜」(Herbarium Vivae Eicone)(図2),フックス(Leonhard Fuchs, 1501-66)の「植物誌」(De Historia Stirpium),ボック(Hieronymus Bock, 1498-1554)の「植物書」(Kreutterbuch)などが知られ,それまでの地中海を中心とする薬草とはまた別の種類の植物が収められている.
中世においては,これらの薬草は野生のものを採集したり,あるいは主たる医療の担い手であった修道院の庭で栽培されていたが,16世紀になるとヨーロッパ各地の大学で,大規模な薬草園が作られるようになった.最古とされるのはイタリアのピサ大学1543年で,その後ドイツ,フランス,オランダなどに新設された.この背景には,ルネサンス期になって古代ローマの庭園再現が流行したことに加え,薬草の研究者がディオスコリデスのテキストにない新たな薬草を求めて世界各地で薬草を収集し,その薬効を確認するための栽培の場所が必要となったことが挙げられる.現在も各地にある植物園の多くが,この時期の薬草園に由来している.
- 1. Metwaly AM, Ghoneim MM, Eissa IH, et al. Traditional ancient Egyptian medicine: A review. Saudi J Biol Sci 28:5823–32,2021
合成医薬品
このように18世紀までの薬物治療は,主に植物よる生薬であったが(→関連事項:植物由来の医薬品),19世紀になると生薬の有効成分を抽出する試みが多く行なわれ,本格的な薬物治療の端緒となった[1,2].これに初めて成功したのは,1803年,ドイツの薬剤師ゼルテュルナー(Friedrich Sertürner, 1783-1841)(図4) によるアヘンからのモルヒネ抽出,精製であった.ケシの花に囲まれて眠るギリシア神話の夢の神モルフェウス(morpheus)にちなんでモルヒネ(morphine)と命名したのもゼルテュルナーである.以後多くの医薬品が,生薬の有効成分を抽出して作られた.例えばマチンの種からストリキニーネが,キナ樹皮からキニーネが抽出された.このほかにも,アトロピン,ニコチン,カフェインなど,多くの重要な薬物が植物から抽出された.
さらに一歩進んで,自然界に存在しない,新たな薬物が化学的に合成されるようになった.初の合成医薬品は,1832年にドイツの化学者リービッヒ (Justus Freiherr von Liebig, 1803-73)が合成した睡眠薬抱水クロラールであった.その後も様々な薬物の合成が報告されたが,特に1880年代以降,多くの合成医薬品が開発されるようになった[1].例えば1883年にドイツの化学者クノール(Ludwig Knorr,1859-1921)が特許を取得したアンチピリン(antipyrin)は,初の合成解熱鎮痛薬で,その後後述のフェナセチンやアスピリンが登場するまで広く用いられれた.このような19世紀後半の,特にドイツの科学力を背景とする有機化学,薬学の発展が,20世紀の化学療法の目覚ましい発展につながった.1910年のエールリッヒによるサルバルサンの合成もこの延長上にある業績である.
- 1. Alan Wayne Jones, AW. Early drug discovery and the rise of pharmaceutical chemistry. Drug Test Analysis 3:337–344,2011,
- 2. Arny HV. The evolution of synthetic medicinal chemicals. Indust Engineer Chem 18:949-52,1926
薬理学の誕生
19世紀になり様々な薬物を生薬から抽出したり,化学的に合成できるようになったが,これは基本的に過去の経験から薬効が予想される物質を抽出,合成し,その作用,副作用を動物実験や臨床例で確認する研究であった.こうして得られた薬物が,生体にどのように作用し,なぜ奏効するかという研究,すなわち薬理学を創始したのは,ドイツの薬学者シュミーデベルク(Oswald Schmiedeberg, 1838-1921)(図5)である[1].シュミーデベルクは,ライプツィヒ大学,その後ストラスブール大学教授として多くの研究を残したが,例えば1869年にはムスカリンが心臓に対して迷走神経と同じ作用をもつことを発見した.ジギタリスの薬効成分ジギトキシンを分離,グルクロン酸抱合を発見し,薬物動態(pharmacokinetics)の概念を創始したのもシュミーデベルクである.その門下に学んだ20ヶ国,120人ものぼる薬理学者が世界各地で薬理学を開拓し,シュミーデベルクは薬理学の父と称される.
- 1. Oswald Schmiedberg (1838-1921). Experimental pharmacologist. J Am Med Assoc 204:924-5,1968
関連事項
植物由来の医薬品
近代以前の薬物療法は原則として生薬である.生薬とは,天然に存在するものを,精製,抽出などの処理を加えることなく,そのまま(あるいは乾燥など簡単な処理のみで)薬物として使用する.植物が多いが,動物の臓器や鉱物なども利用される.生薬は様々な化学物質の混合物であり,その中における薬効成分の含有率は一般に低いので,あまり大きな効果は期待できず,また原材料の状態によっても効果が左右されるなど不安定であるという欠点もある.しかし中には強力な薬効を示すものがある.
《モルヒネ》
モルヒネの原料アヘン(阿片)はケシの実から採取される生薬で,ケシの実に傷をつけると出てくる白い粘液を乾燥させて使われる(図6).古代エジプトで既にその存在が知られ,ギリシア,ローマを経て,イスラーム圏,インド,中国にも伝えられ,鎮痛薬,睡眠薬,止瀉薬などとして使われた.17世紀のイギリスの医師シデナムは,アヘンをエタノールに溶かしたアヘンチンキを広め,以後20世紀初頭まで,鎮痛剤,鎮咳剤,止瀉薬など万能薬として広く使われた.
薬用に限定されていたアヘンが遊興的商品として広まりその依存性が問題となったのは,18世紀後半にイギリスの東インド会社が植民地でアヘン専売制を敷き,中国に輸出したことに始まる.この結果中国ではアヘン喫煙が大流行してアヘン戦争の一因ともなったが,中国のみならずヨーロッパでもアヘンチンキの依存症が問題となった.
アヘンはモルヒネ,コデイン,パパベリンなど40種類以上のアルカロイド物質を含むが,その主成分モルヒネは,1803年にドイツの薬剤師ゼルテュルナー(Friedrich Sertürner, 1783-1841) が初めて単離した.これは天然物質の薬効成分の分離として史上初の事例である.1898年にバイエル社は,モルヒネに替わる依存性のない鎮咳薬として,モルヒネの構造を一部改変したヘロイン(3,6-diacetyl morphine)を作り*,処方箋不要の売薬として販売して広く使われたが,実際にはモルヒネを遙かに上回る高依存性の薬物であり,多くの依存患者を生み出した.各国で法的規制が行なわれたのは1910年代になってからであった.
* ヘロインを合成したのは,アスピリンの合成にも成功したバイエル社のホフマンで,アスピリン合成のわずか11日後のことであった.もともとはアヘンの成分のひとつでモルヒネより依存性の低いコデインを作る目的で,モルヒネをアセチル化する過程で偶然産生された.
《ジギタリス》
強心薬として現在も使われるジギタリスの薬効を初めて本格的に研究したのは,イギリスの内科医ウィザリング(William Withering, 1741-1799)である.ウィザリングは植物学に詳しく,1776年にリンネの分類法をいち早く導入した植物学の著書「大英帝国に成育するすべての野草の植物学的分類」(The botanical arrangement of all the vegetables naturally growing in Great Britain)を出版している.その後,民間療法で使用されている浮腫に効く生薬*を10年近い歳月をかけて分析し,その有効成分がオオバココ科の植物キツネノテブクロ(foxglove)(図7)に含まれる物質であることをつきとめ,その学名(digitalis purpura)からこれをジギタリスと命名した.1785年にその著書で強力な利尿剤であることを示したが,当時まだ強心作用には気づいていなかった.その90年後の1875年,薬理学の創始者とされるドイツのシュミーデベルクがジギタリスの薬効成分ジギトキシン(digitoxin)を初めて分離し,強心剤,心房細動に対する抗不整脈薬としての研究が始まった.
* ウィザリングは,地元シュロプシャー(Shropshire)で民間療法を行なういわゆる wise women のハットン(Mother Hutton)からこの秘薬を教わったという伝説があるが,これは後年1928年に,Parke-Davis社(後のPfizer社)がジギタリスを商品として発売する際に宣伝用のイラスト入りポスターとともに利用した作り話であることがわかっている [1].
《キニーネ》
マラリア の治療薬,キニーネは,南米の自生するキナの樹皮から得られた(図8).南米で古くから原住民が解熱剤として使っていたキナ樹皮を, 17世紀にイエズス会宣教師がヨーロッパに持ち込み*1,これがマラリアに特効性をもつことが発見された.マラリアは古くから地中海沿岸に蔓延しており,17世紀にはヨーロッパ北部にも拡大していた.キナ樹皮のマラリアに対する即効性,特効性は驚異的で,その特異性はヒポクラテス以来の体液説では説明できず,またガレノスの治療をはるかに凌ぐその薬効は,ガレノス医学の権威を揺るがし,その凋落をいっそう促す結果ともなった.このため,ガレノス医学を信奉する多くの医師はキナを排斥したが,イギリスの名医 シデナム (1624-89)はこれを積極的に推奨した[1].イエズス会修道士は,アジア,アフリカでの布教にあたってキナ樹皮を積極的に利用し,例えばスペインのルーゴ(Juan de Lugo, 1583-1660)はその普及に大きく貢献したことで知られる.1650年にはイギリスにも紹介され,英国海軍の遠洋航海に活用された.しかしそれでも蔓延地での罹患率,死亡率は高く,19世紀のアフリカ探検時代,多くの犠牲者を生んだ*2.
1820年,フランスの化学者ペルティエ(Pierre-Joseph Pelletier, 1788-1842),カヴァント(Joseph Bienaimé Caventou, 1795-1877)*3が解熱剤としての有効成分を抽出し,キニーネ(quinine) と命名した.この時代,英軍,仏軍が植民地戦争で優位に立った理由の一つとして,キニーネの効用があげられる.マラリア原虫が発見されたのは60年後の1880年であるが,まもなくキニーネは虫体に致死的効果を及ぼすことがあきらかとなった.マラリア治療薬としてはキナ樹皮から抽出したキニーネが長く使われたが,1934年にドイツでこの構造を模した合成薬クロロキン(chloroquine)が作られた.当初は毒性の強さから利用されなかったが,1947年にその効能が再発見され,アメリカで治療薬として市販され広く用いられた*4.しかしほどなく耐性マラリアが出現し,現在はメフロキン(mefloquine),スルファドキシン/ピリメタミン合剤などが第1選択薬となっている.キニーネの用途は縮小したが,現在もクロロキン耐性マラリアの治療の他,その強力な苦みから,苦味剤や味覚検査における苦味試薬として利用されている.
キニーネを初めて人工的に合成したのは1944年,アメリカの化学者ウッドワード(Rober Burns Woodward)で,2001年にはストーク(Gilbert Stork)が完全な不斉合成に成功しているが,いずれも工程が複雑であることから,現在も工業的にはキナ樹皮から抽出されている.
*1 スペインのチンチョン(Chinchón)伯爵夫人がペルー赴任中にマラリアにかかり,キナ樹皮で快癒したため,1632年に母国に持ち帰って紹介し,以後ヨーロッパに普及したとする逸話があり,リンネによるはキナの学名(属名)cinchonaもこれに基づく.しかし最近の研究でこれは流説であることが明らかとなっている.また南米で布教活動に当たったイエズス会の宣教師が持ち帰ったという説についても詳細は不明である[2].
*2 例えば,1805年,ニジェール川奥地を探検,トンブクトゥを発見したマンゴ・パーク(Mungo Park)の探検行では,45人中40名が病死している.1816~1841年に行われた6回のアフリカ探検の隊員死亡率は49%で,その多くがマラリア,黄熱とされる[3].
*3 ペルティエとカヴァントは,エメチン,ストリキニーネ,カフェイン,コルヒチンなども単離している.葉緑素クロロフィルを発見したのも彼らである.
*4 第二次世界大戦期,欧米で合成抗マラリア薬開発が促進された理由のひとつとして,キナ樹皮の主要産地である産地のジャワ地方を日本軍が占領したことが挙げられる[3].
- 1. Barbeller D. The fable of digitalis and dropsy. Australian Pharmacist 38:90,2019
- 2. 泉彪之助. キナ樹皮渡来の伝説を巡って. チンチョン伯爵夫人説とイエズス会説. 日本医史学雑誌 43:169-185,1997
- 3. Schlagenhauf P. Malaria: from prehistory to present. Inf Dis Clin North Am 18:189-205,2004
マラリアの歴史
マラリア(malaria)は,マラリア原虫(Plasmodium)の感染症で,ヒトに感染するものは5種が知られている.三千万年前の地層中に発見されており,アフリカ,特にエチオピア地方が発祥とする説が有力で,太古の昔から人類と共存してきたと考えられる.数日毎に高熱が出る特徴的な症状(間欠熱)*1 は古代エジプト,ギリシアの文献にも多く記録されている.ヒポクラテスは既に,現在の三日熱マラリア,四日熱マラリアに相当する病型をtritaios pyretos, tetartaios pyretosと区分していた.古代ローマ帝国では「ローマ熱」と呼ばれ,しばしば流行を繰り返した.当時,マラリアのような伝染病の原因は湿地や水溜まりから湧き起こる目に見えない妖気, ミアズマ(miasma)と考えられ,ローマでは排水設備を整備した結果,罹患率が一時減少したが,帝国崩壊とともに再び蔓延した.とくにアフリカ,アジア,南欧に広く分布し,新大陸には16世紀移行,アフリカからの奴隷貿易とともに上陸したと考えられている.日本でも,瘧(「おこり」 あるいは「わらわやみ」)として間欠的に高熱,悪寒をきたす病気が記載されており,マラリアと思われる.源氏物語にも登場し,光源氏はこれに罹っている.各地で様々な名前,例えばague, marsh fever, swamp feverなどと呼ばれたが,マラリア(malaria)*2は,イタリア語の mala aria (悪い空気,英:bad air)に由来し,18世紀にイタリアの医師トルティ(Francisco Torti, 1658-1741)が使用したのが初出とされている[1,2].
前述のように17世紀に宣教師がペルーから解熱剤として持ち帰ったキナ樹皮から,1820年にマラリアの特効薬 キニーネ (quinine)が抽出された(マラリア治療薬開発の歴史については 前項参照).しかし,この時点ではまだマラリア原虫は発見されておらず,依然として湿地から湧き起こる目に見えない物質によるとするミアズマが原因と考えられていた.寄生虫や微生物によるとする説もあったが,確証はなかった.1848年,ドイツの解剖学者メッケル(Johann Heinrich Meckel, 1821-56)*2 は,マラリアで死亡した患者の血液,脾臓に褐色の色素顆粒を発見し,これは後にヘモゾイン(hemozoin)*3 と呼ばれた.1880年,フランスの医師ラヴラン(Charles Louis Alphonse Laveran, 1845-1922)(図9)は,マラリア患者の赤血球にこの顆粒を観察し,これが微生物であること,キニーネにより除去されることを発見し,これがマラリアの原因であることを提唱した.しかし当時はまだ染色法*4 が不充分で顕微鏡での観察が難しかったことから議論が続いたが,1886年にイタリアのゴルジ(Camille Golgi)が Plasmodium malariae, P. vivax, 1890年に同じくイタリアのマルキアファヴァ(Ettore Marhiafava)が P. falciformeを同定し,マラリア原虫がマラリアの原因であることが確実となった(図9).ラヴランは,マラリアのほか,リーシュマニア,トリパノソーマなどの原虫感染症の研究にも大きな足跡を残し,1907年,ノーベル生理学・医学賞を受賞した[1,2]
マラリア原虫の媒介に,蚊が重要な役割を果たすことを証明したのは,イギリスのロス(Ronald Ross, 1857-1932)(図10)である.この直前,蚊がフィラリアを媒介することを発見したマンソン(Patrick Manson,1844-1922)の助言を得て,ロスは軍医としてインドに駐留中,無数の蚊を解剖した.当初,マラリアを発見することができなかったが,それまで解剖していたイエカ以外にも蚊がいることに気づき,1897年,ついにハマダラカ(Anopheles) (図10)の消化管にマラリアを発見した.現在の知識では,マラリアを媒介するのはハマダラカのみであること,ハマダラカには400種類以上あるが,このうち約70種がマラリアを媒介することが分かっている.雌の蚊は赤血球内のヘモグロビンを分解して得られるアミノ酸を卵の栄養とするために吸血するが,このときマラリア感染者の血中にあるマラリア原虫が,蚊の唾液を介して他の患者に感染する.ロスは1902年,第2回ノーベル生理学・医学賞を受賞した.
マラリアの撲滅には蚊の駆除が重要である.歴史的に最も重要かつ強力な防蚊剤 DDT(dichloro-diphenyl-trichloroethane)(図11)は,1873年にオーストリア,バイエル社の化学者ツァイトラー(Othmar Zeidler)が初めて合成したが長らく顧みられなかった.1939年,スイス,ガイギー社の化学者ミュラー(Paul Hermann Müller, 1899-1965)は,当時スイスの食糧不足による穀物生産性向上要求を背景として殺虫剤の研究を行う中で,これがきわめて強力な殺虫剤であることを発見した.当初は蛾の殺虫剤として使用されたが,広く節足動物に効果があることがわかり,マラリアを媒介するカ,発疹チフスを媒介するシラミの駆除を目的として第二次世界大戦中に使われ,戦後は農薬としても広く使われた.1948年,ミュラーは「節足動物に対するDDTの作用の発見」 に対してノーベル生理学・医学賞を受賞した.DDTの使用によりマラリアは激減したが,1962年に生物学者,環境運動家のカーソン(Rachel Louise Carson, 1907-64)がその著書「沈黙の春」(Silent Spring)で化学物質による環境汚染を糾弾し,これを機に各国がDDTの使用を禁止したため,とくに発展途上国でマラリア感染が再燃,急増した*5 .DDT耐性の蚊の出現したことも患者増加の一因であった.しかしDDTに匹敵する強力な駆除薬はなく,DDTの安全性についても再評価が行われ,2006年,WHOは用途をマラリアの防疫に限定して屋内撒布を認めた*6 .
現在,土着マラリア(indigenous malaria)は,アフリカ,東南アジア,中南米の90ヶ国以上に存在し(図12),年間罹患者数2億人,死亡200万人とされる[3].その90%はアフリカに集中し,とくにクロロキン耐性株,多剤耐性株が多い.現在の日本では,1961年以来土着マラリアの発生はないが,海外渡航者からの輸入マラリアの発症が年間100例前後発生している[6].
*1 マラリア原虫の終宿主はハマダラカで,ヒトなど脊椎動物は中間宿主となる.原虫は蚊の唾液腺に多いため,これが吸血とともにヒトの血中にはいり,肝細胞で増殖後,肝細胞を破壊して赤血球に侵入する.ここで一定数に分裂すると赤血球を破壊して血中に放出され,ふたたび赤血球に侵入することを繰り返す.赤血球が破壊される時に高熱が出るが,この期間は虫体によってほぼ一定であるため特徴的な間欠熱となる.なお,鎌状赤血球症,サラセミア,G6P脱水酵素欠損症など溶血を伴う先天性赤血球異常症は,原虫が赤血球内で増殖できないためマラリア抵抗性である.これは遺伝的自然選択の結果と考えられている
*2 当時,マラリアと同じく熱性疾患であるチフス(thypoid fever)は混同されており,しばしば typhomalaria と呼ばれていた.これを臨床所見から明確に区別したのは当時最高の名医とされたオスラー (William Osler, 1849-1919)で,その特徴的な病期(悪寒期,高熱期,発汗期),熱型の違いなどを記載している.マラリアでは白血球数が正常ないしやや増加,チフスでは減少することも指摘している.その内容は現在も通用するものである[7].
*3 メッケル憩室,メッケル軟骨に名前が残る解剖学者 Johann Friedrich Meckel (1781-1833)の甥にあたる.
*4 ヘモゾイン(hemozoin).マラリア原虫は,吸血したヘモグロビンを代謝して栄養とする際に,遊離ヘムを排泄するが,これは原虫に対する毒性をもつためこれを重合化,結晶化することにより無毒化する.この結晶がヘモゾインで,マラリア色素(malaria pigment)とも呼ばれる.マラリア治療薬のキニーネ,クロロキンなどは,この重合化反応を阻害することでマラリア原虫を死滅させる.
*5 1876年にドイツの化学者カロ(Heinrich Caro)が合成したメチレンブルーは,現在も組織染色液の成分として広く用いられているが,1891年,エールリッヒはこれがマラリア虫体を染色するだけでなく殺虫効果があることを発見した.メチレンブルーの殺虫効果は弱く,治療薬としては結局不成功に終わったが,特異的に結合する化学物質により微生物を駆除するという考え方は,その後の化学療法の基本となり,トリパンロートやサルバルサンの開発に結びついた.現在,マラリア原虫の染色法であると同時に血液塗抹標本の最も基本的な染色法であるギムザ染色は,ドイツの医学者ギムザ(Gustav von Giemsa, 1867-1948)が1904年にマラリア原虫の染色を目的として開発したものである.ギムザ染色液は,メチレンブルー,エオシンなどの混合物である.
*6 例えばセイロン(スリランカ)の年間マラリア罹患者数は,1946年に280万人,DDT撒布により1963年にわずか17人となったが,1964年の撒布禁止後,1968年に250万人となった.[4]
*7 WHOは,マラリア防疫用の蚊駆除剤として,12種類の化学物質を指定している.これにはDDT(有機塩素系)のほか,有機燐系3種,ピレスロイド系6種,カルバメート系2種が含まれている[5].
- 1. Talapko J, Skrlec I, Alebic T, et al. Malaria: The past and the present. Microorganisms 7:179-95,2019
- 2. Schlagenhauf P. Malaria: from prehistory to present. Infect Dis Clin North Am. 18:189-205, 2004-06
- 3. World Malaria Report 2011. WHO
- 4. Insecticides in health, agriculture and the environment. Naturwissenschaften 61:6-16,1974
- 5. Global Malaria Programme. Indoor residual spraying. WHO, 2006
- 6. 大友弘士. 輸入マラリアの現状と問題点. 順天堂医学 40:280-90,1994
- 7. Cunha CB, Cunha BA. Brief history of the clinical diagnosis of malaria: from Hippocrates to Osler. J Vector Borne Dis 45:194-199,2008
解熱鎮痛薬の歴史
現在広く使われている非ステロイド解熱鎮痛薬の歴史は,ドイツの製薬会社バイエル社の歴史に重なる.バイエル社は,1863年にFriedrich Bayerが創立した化学染料製造会社であった.当時の染料は,石炭を乾溜して得られるコールタールに含まれるベンゼン,ナフタレンなどの芳香族化合物から製造するタール染料であったが,ナフタレンは消化管の殺菌剤,とくに寄生虫疾患の治療薬としても用いられていた.ある時,寄生虫感染症に発熱を合併している患者にナフタレンを投与したところ,寄生虫には効果がなかったが解熱が見られた.良く調べてみると,薬剤師がナフタレンと間違えて,別のコールタール物質アセトアニリドを処方していたことが判明した.これは1886年にアンチフェブリン(Antifebrin)の名称で商品化された(図13.当時,これに先だって1883年にクノールが合成したアンチピリン(antipyrine)が,初の合成解熱鎮痛薬としてヘキスト社から発売され,広く利用されていた.
これを機にバイエル社は医薬品開発に乗りだし,1887年にアセトアニリドの派生物質フェナセチンを開発した(図14).これ以前,1877年にジョンスホプキンス大学のモース(Harmon Northrop Morse)が類似構造のアセトアミノフェン(図14)を開発していたが,ドイツのメリンク(Joseph von Mering)がアセトアミノフェンはフェナセチンに比較してメトヘモグロビン血症の副作用が多いと報告した.このためフェナセチンの売上が急増し,バイエル社は躍進した.その後フェナセチンはほとんど使われなかったが,1949年にアメリカのブロディー(Bernard Brodie)とアクセルロッド(Julius Axelrod)がアセトアミノフェンとフェナセチンの副作用に差がないことを示し,以後アセトアミノフェンが広く使われるようになった(アセトアミノフェンの再発見と言われることがある)[1].
最も有名な解熱鎮痛薬アスピリン(アセチルサリチル酸)も,1897年にバイエル社が発売したものである.ヤナギの樹皮に解熱鎮痛効果があることは,シュメール時代から既に知られており,ヨーロッパのみならず世界各地の民間療法にも広く利用され,噛むと歯痛に効くとされていた*.1763年,イギリスの牧師ストーン(Edward Stone, 1702-68)は,セイヨウシロヤナギ (white willow, salix alba)の樹皮が発熱,疼痛に効くという民間伝承を確認すべく実験行ない,その効能を初めて科学的に証明した[1].その後1826年にフランスのルロー(Henri Leroux)が有効成分を抽出し,2年後にブフナー(Johann Buchner)が柳を意味するラテン語salixからサリシン(salicin) と命名し,ルローの方法を改良して25gを抽出した.1838年に,フランスのピリア(Raffaele Piria)はサリシンからサリチル酸を,1853年にジェラール(Charles Frederic Gerhardt)がアセチルサリチル酸を作った(これは後のアスピリンの成分であるが,この時点では不安定であったためそれ以上の研究は行なわれなかった).
* 爪楊枝(ツマヨウジ)は,もともとは文字通り楊柳(ヤナギ)の枝を材料としており,日本でも歯痛のとき噛むと良いと言われていた.現在は主にシラカバ製.
1859年,ドイツのコルベ(Hermann Kolbe)は,コールタールに含まれるフェノールからサリチル酸を合成する方法を発明し,植物に頼らずサリチル酸を大量生産することが可能となった.1876年に,スコットランドの内科医マクレーガン(Thomas Maclagan)はサリシンがリウマチに有効であることを報告した.サリシンやサリチル酸は,消化管症状が強く使い難かったが,1899年,バイエル社のホフマン(Felix Hoffmann)(図16)はサリチル酸の酸性度を緩和する目的でアセトキシ基を導入することにより,副作用の少ないアセチルサリチル酸の合成に成功し,サリチル酸の別名Spirsäureからアスピリン(aspirin)(図17)の名称で発売された*.
アスピリンは急速に普及し,特に1918年に始まったスペイン風邪のパンデミックでは,他に有効な治療法がない中で,解熱剤として広く用いられ,解熱鎮痛のみならずうつ,不眠など精神症状にも使われて万能薬のようにもてはやされた.しかし同時に消化性潰瘍の副作用も問題となった.第二次世界大戦後は,前述のようにフェナセチンが再発見され,イブプロフェンなど副作用が少ない新たな解熱鎮痛薬が次々と登場するに至ってアスピリン人気は低下した.しかし1970年代にその抗血小板作用が知られるようになり,血栓症予防薬として復活を遂げて現在に至っている[2].
*アセチルサリチル酸は,1853年にフランスのジェラールが既に報告していたためドイツでは新規物質と認められず特許を取得できなかった.しかし,アメリカでは特許が得られたため,バイエル社はバイエルアメリカを創設し,アメリカの工場でアスピリンを製造した.しかし第一次世界大戦でアメリカがドイツに宣戦布告すると同時に,バイエルアメリカはアメリカ政府の管理下に置かれ,その後スターリング・プロダクツ社の所有となった.ドイツ敗戦に伴いアスピリンの商標は連合国のものとなり独占権が失われたため,世界各国の製薬会社がアスピリン製剤の製造販売に乗り出したが,スターリング社は「バイエルアスピリン」の商品名で販売を継続した.ドイツのバイエル社がアメリカから「バイエルアスピリン」 の商標使用権をふくめ,奪われた権利をすべて回復したのは1994年のことであった[3].
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