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野口英世 

生い立ち

野口英世 (1876-1928).

野口英世(幼名 清作*1)(1876-1928)は,福島県猪苗代町の貧しい農家に生まれた.1歳の時,いろりに落ちて火傷を負い,左手が不自由になったハンディキャップを乗り越えて高等小学校を卒業.16歳の時,隣町の開業医,会陽医院の渡部鼎に火傷で癒着した指を切り離す手術を受けた縁で,医家書生となった.渡部鼎は,カリフォルニア大学医学部に留学,サンフランシスコで開業した経歴があり,ドイツ医学優勢の当時としては珍しく英語の医学蔵書が豊富であった.野口はこれを読破し,1896年に 医術開業試験 の前期試験に合格,上京して私立医学校済生学舎に学び,翌年には後期試験にも合格して医師免許を手にした.しかし左手がまだ不自由*2であることもあり,臨床よりも基礎医学の道を選び,北里柴三郎の伝染病研究所に入所した.

*1 1898年,本名「清作」を「英世」 と改名.当時の流行小説,坪内逍遥の「当世書生気質」に登場する借金を抱えながら放蕩生活を送る医学生 野々口精作と名前が似ており,借金癖があり無鉄砲な生活を送る自分がモデルであるように思われるのを懸念してのことと言われる.英世は「世に優れる」の意味で,高等小学校の恩師小林栄による.

*2 1884年(9歳),1897年(16歳)に,癒合した手指を分離する手術を受けていたがまだ不充分で,医術開業試験の受験にあたって打診などの手技に支障をきたすことから,1897年に東京帝国大学外科の 近藤次繁 が手背からの有茎皮弁を用いた形成手術を行った.試験には無事合格したが,やはり変形は残っていた.野口は写真撮影にあたっては常に左手を隠しており,左手が見えている写真はほとんどない.

アメリカへ

1899年,米国ペンシルベニア大学の病理学者フレクスナー(Simon Flexner, 1863-1946)が北里研究所を訪問した際,英語力を買われて通訳を務めた縁を頼りに,野口はその翌年フレクスナーのもとに事前の断りもなく押しかけるように留学した.当初与えられた研究テーマは,危険なため誰もやりたがらなかった蛇毒の研究であったが,野口は成果をあげて高く評価された.1904年にはフレクスナーとともにロックフェラー研究所に移り,1913年,進行麻痺,脊髄癆患者の脳,脊髄の病理組織標本に,梅毒病原体のスピロヘータを確認し,脳梅毒がスピロヘータ感染症であることを初めて証明した (→原著論文).

原著論文

《1913 進行麻痺の原因が梅毒であることを証明》
進行麻痺症例の脳における梅毒トレポネーマの証明
A demonstration of treponema pallidum in the brain in cases of general paralysis
Noguchi H, Moore JW. J Experiment Med. 17:232-8,1913

図1. 脳組織中の梅毒スピロヘータ(→) 

進行麻痺(あるいは麻痺性痴呆, general paresis of the insane)は,梅毒の脳感染症であるが,若年者に痴呆症状を初めとする進行性の精神症状を見ることから,早発性痴呆(現在の統合失調症)との鑑別を要する疾患で,当時その本態は不明であった.1857年,梅毒との関係を初めて指摘したのは,ドイツの外科医エスマルクであったが確証はなかった.本稿では冒頭でこのような経過を紹介し,クレペリンが両者の関係を強く主張しているが,それでもなお反対意見が少ないことと述べている. 野口は,保管されている進行麻痺患者の脳標本70例の組織検査を行い,12例に梅毒トレポネーマ*を発見した.詳しい手順については記されていないが,70個脳標本からおそらく何十枚もの連続切片を作製してそれを片っ端から鏡検する作業は膨大な時間と忍耐を要するものであったであろう.トレポネーマが検出された12例の病歴が記されている.

*Treponema: 病原細菌のうち,細長いらせん状の細長い細菌として,Spirochaeta綱に分類されるSpirochaeta目/Spirochaeta科/Treponema属,Spirochaeta目/Borrelia科/Borrelia属,およびLeptospira目/Leptospira科/Leptospira属などがあり,それぞれ梅毒の病原体 Treponema pallidum,ライム病の病原体 Borrelia burgdorferi,ワイル病の病原体 Leptospira interrogans が代表的である.

ここで問題となるのは「脳梅毒」(cerebral syphilis)との異同である.梅毒が脳脊髄に感染して髄膜炎・血管炎(meningovasculitis)を呈することは既に知られていた.ここでいう脳梅毒とはこの梅毒性髄膜炎をさすものである.両者の鑑別については,臨床経過,症状が異なること,病理学的に髄膜・血管炎が軽度であることから異なるものと考えられた.トレポネーマは,大脳皮質全層にわたって認められたが,髄膜には検出されなかった.トレポネーマの数と臨床的重症度の間には関連が認められなかった. 本稿は,進行麻痺と梅毒感染の因果関係を証明した点で大きな意義をもつ.野口の医学論文は,その後誤報であることが明らかとなったものが多いが,その中にあって数少ない,本当の意味での医学的新発見であった.

原文 和訳

 

黄熱

1918年,当時南米で猛威をふるっていた黄熱(yellow fever)の研究のためエクアドルを訪れた野口は,到着後わずか9日目にして,黄熱の病原体を発見したと発表,世界の医学界に衝撃を与えた.そしてこの病原体をLeptospira icteroides (黄熱レプトスピラ)と名付けた(→原著論文).しかし,このとき野口は重大な過ちを犯したことに気づいていなかった.現地で黄熱と診断されていた患者の多くが,実はよく似た症状を呈するワイル病であった.現地の医師も黄熱とワイル病を混同しており,野口が発見したのはワイル病の病原体であった.これをもとに「野口ワクチン」が製造され,一時期有効とされたが,黄熱が自然収束に向かっていたためと思われる.実際その後,世界中の研究者から野口の報告に疑問が投げかけられ,さらにアフリカのガーナで黄熱が流行し,ワクチンが無効であるとの報告が相次いだ.1927年11月,野口はこれを解明すべくガーナに渡ったが,半年後の1928年5月,自ら黄熱の犠牲となって世を去った*

黄熱の原因が濾過性病原体である可能性は,以前から指摘されており,野口自身もその論文中でこれに言及している.1898年の米西戦争に際して,キューバで多くの兵士が黄熱の犠牲になったことから,アメリカ陸軍は リード (Walter Reed)を長とする調査団を派遣した.リードは黄熱の原因が濾過液病原体であると考え,蚊によって媒介されることを証明した(それまで黄熱は寝具,衣類などを介して感染すると考えられていた).このことは,1903年に開始されたパナマ運河建設に際して黄熱感染予防に大きく貢献した.黄熱ウイルスを初めて分離したのはイギリスの細菌学者ストークス(Adrian Stokes, 1887-1927)で,野口がガーナに旅立った1927年のことである.1937年,ロックフェラー研究所のウィルス学者タイラー(Max Theiler, 1899-1972)が,黄熱病ワクチンの開発に成功した(1951年ノーベル生理学医学賞受賞).

* 野口英世は,その晩年に黄熱の研究を行い,自らもその犠牲となったことから,日本では黄熱研究者としての側面がしばしば強調される.しかし実際にその病因論,治療法開発の面における医学的貢献は乏しく,残念ながら一般的な欧米の黄熱研究史にその名前はほとんど登場しない[3].

相次ぐ誤報

野口は,この他にも梅毒スピロヘータの純粋培養(1911年),ポリオ(1913年),狂犬病(1913年),黄熱(1918年),トラコーマ(1927年)の病原体発見なども報告しているが,いずれも誤報であった.ポリオ,狂犬病,黄熱については,ウイルス感染症であり,光学顕微鏡しかなかった当時,そもそも発見は不可能であった.なぜこれほど誤報が多かったのか,理由はいくつか挙げられている.初期の段階で,脳脊髄組織中の梅毒病原体の発見に成功したことから,光学顕微鏡による病原体発見という方法論に固執したことに加え,野口が著した200編以上の論文の半数以上が,自ら所属するロックフェラー研究所が発行するJournal of Experimental Medicineに投稿されており,研究内容の査読が不充分であったことも一因とされる.

その医学的業績については評価の分れるところであるが,努力の人であったことは確かで,私生活面では若い頃から借金をしては豪遊する放蕩癖があったものの,その反優等生的な側面と合わせて広く愛される「偉人」であり続けるであろうことは間違いない[1,2].

原著論文

《1919 黄熱病源体の研究》
黄熱の病因 - Ⅱ. 黄熱の感染実験
Etiology of yellow fever - VI. Transmission experiments on yellow fever
Noguchi H . J Experiment Med. 29:565-84,1919

原文 和訳


黄熱の病因 - VI. Leptospira icteroides の培養,形態,毒性,および生物学的特性
Etiology of yellow fever - VI. Cultivation, morphology, virulence, and biological
properties of Leptospira icteroides
Noguchi H . J Experiment Med. 30:13-29,1919

原文 和訳

図2. 野口が黄熱の病原体と考えたレプトスピラ. 

1903年,米国スタンダード石油の創業者ロックフェラー(John Davidson Rockefeller)は,その私財を投じてロックフェラー医学研究所(The Rockefeller Institute for Medical Research)を創設した.その初代所長は病理学者のフレクナー(Simon Flexner, 1863-1946)で,野口英世はペンシルベニア大学からフレクスナーとともに最初期のスタッフとしてここに異動した.1913年には人類の福祉増進を謳うロックフェラー財団を創設したが,その最初の事業が当時中南米で猛威を奮っていた黄熱撲滅計画であった.計画は第一次世界大戦で一時中断したが,1918年にエクアドルの流行地グアヤキル(Guayaquil)に調査団が派遣され,野口はその一員として約半年間,調査研究に携わり,帰国後の1919~21年,「黄熱の病因」 (Etiology of yellow fever)と題してI~Ⅻまで12編の論文を著している.

Ⅰ. グアヤキルに流行する黄熱の症候と病理所見
Ⅱ. 黄熱の感染実験
Ⅲ. 実験的感染動物の症候と病理所見
Ⅳ. 黄熱患者血液接種後のモルモットのレプトスピラに対する後天性免疫
Ⅴ. Leptospira icteroidesとの関連における黄熱患者血清の特性
Ⅵ. Leptospira icteroides の培養,形態,毒性,および生物学的特性
Ⅶ. 黄熱患者および実験的感染動物の血液,組織,尿中Leptospira icteroidesの証明
Ⅷ. グアヤキルの野生動物におけるレプトスピラの存在とL.  icterohaemorrhagiae, L. icteroidesの関係
Ⅸ. 蚊と黄熱の関係
Ⅹ. Leptospira icteroides と Leptospira icterohaemorrhagiaeの比較免疫学的研究
Ⅺ. Leptospira icteroides 感染動物の血清療法
Ⅻ. Leptospira icteroides 実験的感染における化学療法と血清療法

ここに紹介するのはⅡ,Ⅵで,第2報は黄熱の病原体発見を報ずるものである.まず入手できる様々な哺乳類,鳥類で感染実験を行い,モルモットが最も感受性が強いことがわかった.そこで27症例の黄熱患者の血液を,74匹のモルモットの腹腔内に注射し,6症例から接種した8匹に,黄熱の症状が出現し,モルモットの血液,肝,腎にレプトスピラが発見された.うち3症例の血液や剖検組織からもレプトスピラが検出されている.この6症例,および血液の腹腔内接種により発症したモルモットの臨床経過,病理所見が詳細に記載されている.このレプトスピラは,既に日本の稻田,井戸が,感染性黄疸(ワイル病)の病原体として報告しているレプトスピラ Leptospira icterohaemorrhaegica に形態学的に類似したもので,これを仮に Leptospira icteroides と命名している.他の21例については,モルモットへの確実な感染が得られなかったが,軽症あるいは不全型であった可能性があるとしている.検出されたレプトスピラが,黄熱の原因であると断定はしていないが,これに新たな名称を与えていることから,両者の関係を強く意識したものであることは明らかである.

第6報は,第2報で報告した Leptospira icteroides の生物学的性質を詳述したもので,患者あるいは感染モルモットの血液や臓器から,レプトスピラの純粋培養に成功し,これを用いてその性質や毒性を検討している.発見したレプトスピラと黄熱の関係についてはなお慎重であるが,本稿の冒頭で「黄熱の病原体の特性は未知である」としており,この時点でとりあえずはこれが病原体であることを前提としている.細菌学的には,通常のアニリン染色は難しく,暗視野鏡検下で活発に運動する非常に細い糸状の菌体が認められる(図2).酸素要求性で,培養には血清の存在が不可欠である.熱,乾燥により容易に死滅する.モルモットに対する毒性は固体差があるものの,感受性がある固体では非常に微量でも致死的でその毒性はかなり強いと考えられる.

この論文で注目すべきは,後半部分で簡単ではあるがこの病原体が濾過性であることを明記していることである.黄熱の真の原因は当時まだその存在が未知であったウイルスであり,野口のこの一連の報告は結局のところ誤報であったが,後視的にはこの結果の矛盾を追求すればそれに気づくことは可能であったかも知れない.しかし顕微鏡で見えない病原体の存在を想定することが困難であった当時としては止むを得ない結論であったと言えよう.

 

出典